ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
犀の角ごとく・・・。
Facebook 速水 馨さん曰く
標題のことばは「サイの頭部にそそり立つ太い一本角のように、独りで自らの歩みを進めなさい」という意味です。インドサイは群れではなく単独で行動することが知られていますので、「犀の(一本)角」という比喩表現は「孤独」を意味します。このように仏教が孤独を勧める背景には「私たちの悩みは人間関係から起こる」との分析があります。つまり、悩みを生み出す原因が「人のつながり」にあるのなら、そこから一時的に離れてみることが心の成長に必要ということです。
現在のようにつながりが強化された社会では、つながりからこぼれ落ちた存在が際立って見えます。人々は他者とのつながりを求め、それが断たれた状態を不安や不快として感受します。ですが、実際のところ私たちが孤独を感じるのは、周りの人に囲まれながらも「誰も私のことを見ていない」「誰も私に関心を持っていない」と実感するときです。一人でいることが孤独感の原因なのではなく、周囲とのつながりを実感できないからこそ孤独を痛みとして感じます。にもかかわらず、私たちは一人になることを怖れ、なるべく他者とつながろうとする結果、毎回同じ痛みを感受することになります。そのような私たちに、標題のことばは、孤独を怖れる必要はないと教えます。
さらに、同じ『スッタニパータ』の58番目の韻文では次のようにうたわれています。
学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
名号
如是我聞
Yasuda Rizinさん曰く
カール・バルトという人
Facebook Yasuda Rizinさん曰く
だからぜんぜん縁の無い所に福音主義というものが現れていると。
これが親鸞だと。
これは奇蹟としか言いようがないとバルトは驚嘆しているのです。
非常に大事な点ではないかね。
外国の人はそういうように親鸞に驚くのです。
けれど仏教徒はそれほど驚かない(笑)
仰せを蒙りて【音声・映像データ編】
【大谷祖廟暁天講座】不死の門(宮下晴輝氏/2022年8月1日)
法話 伊藤元_06
8:58 / 37:09 法話 伊藤元_01
みどう法話 澤田秀丸先生
藤原正寿「濁世を生きる立脚地」(1時間5分)
仰せを蒙りて【アーカイブス 音声・映像データ編】
法蔵菩薩の絶対不二の働き
■「われわれが、どんなに絶望し自暴自棄しても、仏さまはそれを見捨てないで、われわれを信じて下さる。その仏さまの信が、本願というものになっている。ただ衆生が気の毒だというだけではない。やはり、われわれを信ずるということがあるわけである。信ずるのはわれら衆生というが、もとは仏さまがわれわれを信ずるところにあるのである。私というものを無条件に、どんなに自分が自信を失おうとしても、仏さまに信じられている。仏さまは、私を信じて捨てない。そういうことに私どもは目ざまさしてもらい、仏さまを信ぜずにおれない。こういうところに、真実信心というものが初めて成り立つ」
(『曽我量深講話録』一・164頁より)
■金剛とは、元々は「堅くていかなるものにも破られることがない」という意味ですが、「いかなるものにも破られることがないもの」とは、本当は堅いものではなくて、水のように柔らかくてあらゆるものに随順していくものでしょう。仏さまの心は、私どもがどんなに自分に絶望して自分を捨てようとしても、それにさまたげられることなく、水のようにどこまでもわれららに付き従って決してわれらを捨てられない。そのような仏さまの心のことを、金剛の信心というのでしょう。私どもの身の深いところに、誰の中にも平等に流れている法蔵魂こそが、そのような金剛の信心と言えるものではないかと思います。「不二」とは、決して離れずにあたかも一つの存在のように私どもの宿業の身と運命を共にする法蔵菩薩のはたらきのことをいうのでしょう。
■ちょうどこれを書いている時ツィッターを見たら、Yuko Itoさんが次のような投稿をしておられたのでびっくりしました。
「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生のほうがあなたに絶望すること はない」(V・E・フランクル)
いやー、これは、まさに法蔵菩薩の絶対不二の働きをあらわしている言葉ではないか、と思いました。こういうのを「金剛(何ものにもさえられない)の信心」というのでしょう。