ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
自覚的超越です。
724
ただ有限を捨てて無限に超越すれば、それは奇蹟でしょう。自覚的ではないでしょう。超越ということも意識ということに立つならば、超越ということが自覚なのです。自覚的超越なのです。奇蹟的超越ではない。こういうことをはっきりしなければならないのです。
726
もっと言えば横超ということは本願を語っているというよりも本願成就を語っているのです。本願成就の教えが横超の教えなのです。そこに即得という字がある。「願生彼国 即得往生 住不退転」と、ここに即得という字がある。この即という字が横超なのです。一歩一歩ではないということです。
超越ということ
722
だから超越といってもただ有限を超越して無限になるという意味ではない。主観を破ることを超越というのです。主観の固執を破ることを超越という。超越という言葉も思想が変わればみな変わってくる。有限を超えて無限にいくということは超越とは言わない。有限の固執を破るのです。
723
有限をやめるというのではないのです。有限の固執を破れば、有限のままが無限なのです。有限を捨てて無限に超越するのではないのです。有限の固執を自覚すれば有限のままが無限なのです。固執という妄想を破って道理に目覚めると。ですから超越が自覚的なのです。
法爾自然の道理
719
無為自然というようなことも法爾自然の道理なのです。人間がそれを見出しそれに適うところに独立した人間が成り立つのです。道理を無視するところに人間は流転するのです。道理を無視するなら主観の固執です。
721
罪の自覚です。これはギリシャの哲学でも及ばないような深さで罪を自覚するのです。それがキリスト教では非常に神話的ですけれども、仏教ではやはり主観の固執ということがひとつの罪です。これは大経二十願の自覚です。十九願も罪なのだけれども十九願は罪の自覚がないのです。肯定しているのです。
宿業に随順できるようなものを見出すこと
717
好き嫌いで人間は悩み、ノイローゼになるわけです。なにも宿業の道理で悩みはしないのです。宿業が分かれば随順できるのです。宿業を蹴飛ばすのが宿業の解脱ではない。宿業に随順できるようなものを見出してくるということです。
718
みな宿業、宿業と言ったりしていますけれども、それは「嫌なものだ」という主観的解釈でしょう。それは宿業が分かったのではない。分からないからそういうことを言っているのです。宿業という言葉も容易に使えないでいる。
688
言葉は思惟の結果ではない。
原因なのです。
それによって一人ひとりの思惟が、
言葉というものをとおして初めて、
誰にでも通じるようなものになるのです。
つまり妥当性が出てくる。
独り言は他人には通じないでしょう。
それは独り善がりだからです。
だから何でも座談ということが大事なのです。
ディスカッションということをいうでしょう。
やはり胸の中にためていたのでは話にならないのです。