ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
カルビンについて
菩提心
大乗、そして方便
631
真実ばかりあるのは仏教では小乗仏教というのです。
大乗には方便がある。
方便回向ということがある。
大乗仏教の大という字は方便から出てくるのです。
大乗教学というのは方便教学です。
それが非常に大きな特色ではないかね。
小乗は方便がないのです。
小乗は真実しかないから小乗なのです。
632
方便か無いというと真理が痩せ細ってしまうのです。
真実から方便を生み出して、その方便によって真実を成就すると。
そういうときに真実が広がってくるのです。
方便という思想が大乗仏教だと思うのです。
巧方便回向と。
その方便というものを最も純粋な形で示したのが回向です。
巧方便というのは善巧方便回向です。
善巧方便の働きが回向です。
633
『願生偈』のうしろのほうに五念門というものが述べてあるのです。
智慧、慈悲、方便というようなことがあるのです。
智慧と慈悲と方便です。
普通は智慧と慈悲で終わってしまうのでしょう。
あらゆる教学は智慧と慈悲です。
その智慧と慈悲とにもう一つ、方便というものを加えて、智慧、慈悲、方便と。
これが『浄土論』というものの非常に大事な点ではないかと思います。
普通は慈悲と方便とは一つにして智慧と慈悲で二つだと。
こういうのが普通の考え方です。
そうではないのです。
三門に分けてくるのです。
「行く」ということ
652
本願寺の事業としてはいろいろな人が行くわけです。
全国にみな派遣されて、
行って講習会を開くのです。
教団の事業としてはいろいろな人が行くわけです。
そういうことと関係なしに行くのは私と曽我先生だけです。
不思議なことです。
縁がなければ行かないし、
縁があればどこでもどんな遠方でも行くと。
縁がなければどんな近くでも行かない。
こういうように、
縁ということを考えてみなければならないことだと思うのです。
653
考えで行くのではない。
計画で行くのではない。
縁で行くのです。
縁は分別を超えているのです。
本願寺の教団として何か必要があって行くのではない。
そういうような計画を立てて行くのとちがうのです。
考えを超えて行くと。
考えで行くのではない。
まず行くと。
後で考えたらいいのです。
654
はじめから考えて行こうとすると、
行く時は無いのではないかね。
あれもある、これもあると。
あれを整え、これを整え、これを解決して、
それから行くということになると、
それだけでもう済んでしまうのではないかと思うのです。
だから私はいつも言うように、まず行くと。
考えて行くのは心で行くのです。
心で考えて行くのです。
けれども縁があって行くのは体が行くのです。
心はあとでいいのです。
655
だから出かけて行って、
用事があったなと気がついたら、
その時に引き返したらいいのです。
まず行って、
引き返したらいいのです。
初めから引き返さないように考えて行こうとすると、
考えているあいだに済んでしまう。
そうでしょう。
また
考えて考えたとおりになるのなら、
行く必要はない。
そうでしょう。
だから仏法に「分かって行く」ということを考えるけれども、
分かったなら仏教の会に入る必要がない。
そうでしょう。
けっきょく分かるとか分からないとか言うのは心であって、
分かる分からないのではないのが体です。
それで体というところに存在があるわけです。
私が存在すると考える先に、
まず第一に存在している。
だから
そこに身体というような問題がある。
身体を動かすというようなところに
縁があるのではないでしょうか。
業ということ
715
例えば業というようなことも、業で流転しているというのは、無茶苦茶に道理をはずして流転しているのではない。道理がなければ流転もできないのです。流転を支えている道理は業因縁です。流転も宿業因縁の道理に支えられているのです。
716
宿業ということも、だから人間の主観でどうにもならないのを宿業というのでしょう。主観の自由にならないのです。宿業の道理が分からないから宿業を嫌うのです。好き嫌いを入れたら主観でしょう。好き嫌いで人間は自分で悩むのです。