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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

法蔵菩薩

2021-01-07
895

『大無量寿経』だけで法蔵菩薩を見ると
法蔵菩薩というのは文学的表現です。
神話というわけではないけれども神話的な表現になる。
昔話です。
「仏、阿難に告げたまわく、
乃往過去、久遠無量不可思議無央数劫に、錠光如来、世に興出して、
無量の衆生を教化し度脱して、
みな道を得せしめて乃し滅度を取りたまいき」と。
昔々大昔という意味です。
ただこれは如来の昔話だと。
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『観経』の至誠心

2021-03-15
959
「一心専念」ということは、
ただ一所懸命、という意味ではないのです。
そういうのは『観経』の至誠心という。
「一者至誠心」と。
至誠心というのは人の誠です。
忠誠心というようなものです。
ロイヤリティloyaltyというようなものです。
「一心専念」は人間の誠ではないのです。
本願に根拠を持っている誠です。

折伏

2020-09-05
755
教理というものを通すというと、やはり折伏(しゃくぶく)というようなことになるでしょう。そういうことも、ひとつの強みはあるのです。先に言ったように個人主義というものを破るためには、分からないやつは暴力をもちいてもひっくり返すと。
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折伏などはこういうような個人主観を破るという意味はあるけれども、どうもそれは外的な事柄であって、それでは自覚にならない。教学が自覚の教学にならない。だから『歎異抄』でも「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」とあるでしょう。これなのです。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」というのが心光摂護の一心である。
2021-01-04
FacebookYasuda Rizin
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信ずるという字は
これは信用組合の信用という意味もあり、
また信仰するとか、分からないから信ずるのだとか。
信という概念は非常に広い。
ただ、宗教心という場合の信は、
宗教の本質としての信です。
その場合、その信は二種深信でしょう。
これをはずれると
「習慣としての教団」はあるけれども
「宗教としての教団」はなくなるのです。

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二種深信を失ったら、宗教でなくなってしまうのです。
ただ寺門の経営ということになる。
だから事業として葬式をすると。
それから安心信心といってもただ「有り難くなりたい」というだけです。
有り難くなるということは眠ることでしょう。
覚めることではない。
つまり信心が欲しいのではないのです。
有り難いのが欲しいのです。

現世利益が流行るのはね。

2020-09-21

 

786
日本ではだんだん仏教学が要らんようになってきて現世利益の宗教というものがはびこっとるんですが、ああいったものは、いってみれば解脱という問題を忘れるというと、そういう現世利益になるのです。健康とか幸福とかが問題になってくるところに現世利益というものがある。だから本当の意味の、純粋仏道が濁っている結果なんだ、現世利益が流行るのはね。
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