本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

総序之文

2022-01-17

「門」ということ

2022-06-26

Yasuda Rizinさん曰く


1398
だから「門」ということも、
もっと言えばこれが「南無」ではないかね。
南無がほしいのです。
阿弥陀仏ばかりを求めても出てこない。
阿弥陀仏が南無になった。
だから我々は南無において阿弥陀仏に触れると。
南無阿弥陀仏の前に阿弥陀仏南無がある。
こう言うことが出来るでしょう。
南無がよく分からないのです。
それを南無を忘れて阿弥陀仏ばかりを探すのです。
そうするとそれは観想です。
観見ではない。
「道」、人は、道がほしいのです。
1397
二階から梯子が降りて来た。
それが登り得るという確信でしょう。
こちらがかけたものは届いているかどうかわからないでしょう。
浄土に生まれたいということは、
もっと徹底していえば
浄土に生まれるような「道」がほしいということです。
そうでしょう。
求道の道です。
人は、道がほしいのです。

善導様です。

2022-06-16

Facebook 根津美術館さん曰く


【阿弥陀如来:つながる教え】*English below.
浄土教を大成した唐代の僧・善導(613~81)が念仏を唱えたところ、口中から仏が現れたといいます。善導は浄土教で重要視される『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の注釈書である『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』を著し、「南無阿弥陀仏」と口に出して唱える称名念仏を重要視しました。この著作は日本にも大きな影響を与え、源信が著した「往生要集」にもその内容が頻繁に引用されています。浄土宗の開祖である法然は、この「往生要集」を通じて善導の教えに触れ、そして生涯にわたり浄土宗の祖として崇めました。本作は、法然の夢に現われた善導の下半身が金色に輝き、法然の念仏布教を讃えたとする説話に基づいています。(-7/3)
・善導大師像 日本・室町時代 15世紀 当館蔵

浄土の問題は『観経』ではどうかというと、

2022-06-16
光は空気です。

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1389
浄土の問題は『観経』ではどうかというと、
韋提希夫人が初めて願に目覚めた時に
「我いま極楽世界の阿弥陀仏の所〈みもと〉に生まれんと楽〈ねが〉う」
と言った。
釈尊はそれまで沈黙を守っていた。
何も答えなかった。
言葉で韋提希を取り扱わない。
光です。
光は空気です。
沈黙の力
1390
夫人の前で釈尊はただ知らん顔していたのではない。
沈黙しておられたのです。
沈黙の力です。
問いには答えなかった。
けれども、答えなかったということは壁ではないのです。
沈黙ということは、
壁という面もあるけれども、
ただの壁ではないのです。
答えない限り壁ですけれども、
勝手にせよというような壁ではない。
何かそこに「空気」というようなものがあったのでしょう。
闇を照らすというのが沈黙の意味です。
1391
闇を照らすというのが沈黙の意味です。
ただ答えなかったわけではないのです。
それはどういうことかというと、自分が出した愚痴が、自分に返ってくる。
ですから答えないのです。
愚痴を取り上げない。
すると言った自分に返ってくるでしょう。
そのことから韋提希は韋提希自身を内観するようになった。
それまでは外を観ていたのです。
Facebook 宮岳文隆さんのコメント
曽我量深先生は、
例えば『曽我量深選集』第三巻中
「『二河喩』と『観経』」等によれば、
全く違う見方をしておられますね。
すなわち、
イダイケの恨みの言葉によって
胸中に大動乱を感じられたのは
釈尊ご自身であって、
答えなかったのではなく
実は一言も発することができなかったのだと

恵信尼消息

2022-06-05

Facebook 小栗洋慶さん曰く


親鸞聖人がご往生11/28ー亡くなられて通夜葬儀荼毘収骨を終えた、娘覚信尼さまは12/1母上がいます越後へ手紙を出す。その娘の手紙は12/20に親鸞さまの妻であり、覚信尼の母である恵信尼様のもとに届く。厳冬雪深き越後国ゆえ、その後京への便もなかったろう。年が明けて2/10心待ちにしていた京への便がでるという。どうしても娘に伝えておかねばならぬことがある。82歳の老女は急いで、夫親鸞さまの3つの逸話を書き記す。何度も読み直し、何十年も昔の「にき(日記)」まで調べなおして訂正し正確に事実を伝えようとする。現代の82歳ではない760ン年前の82歳の老女にとっては大仕事だったろう。

【いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせ】

ここしばらくずっと、このお言葉が頭をよぎる。いま確かめておかなければ、きっと忘れ去ってしまうだろう。最近はとみに記憶力が低下してチグハグやテレコに記憶しているか全く忘れているか。それはそれで良いのかも知れないが、少しでもご恩を偲ぶよすがを…との思い南無南無

現代語版聖典」
「この文を書き記してお送りするのは、聖人が生きておられた頃
には、いっても仕方のないことと思っていましたが、今となっては、
このようなお方であったということも、せめてあなたのお心にとど
めていただこうと思って、書き記してお送りします。字の上手な人
にきれいに書かせて、お持ちになってください。
 また、聖人のあの絵像一幅が欲しいと思います。あなたがまだ
幼くて八歳であった歳の四月十四日より、聖人がひどい風邪をお
ひきになった時のことなどを書き記しました。

 わたしは今年で八十二歳になりました。一昨年の十一月から去
年の五月までは、今か今かと死ぬ時を待っていましたが、今日まで
生きています。けれども今年の飢饉では、飢え死にしてしまうかも
しれないと思っています。このようにそちらへ手紙を差しあげるの
に、一緒に何もお送りすることができないのはもどかしくてなりま
せんが、どうすることもできません。
 益方殿にも、この手紙の内容を同じようにお伝えください。もの
を書くのも大変ですので、改めての手紙は差しあげません。
 「弘長三年」
  二月十日

恵信尼消息 2
 この文を書きしるしてまゐらせ候ふも、生きさせたまひて候ひしほどは、申しても要候はねば申さず候ひしかど、いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせとて、しるしてまゐらせ候ふなり。よく書き候はん人によく書かせてもちまゐらせたまふべし。
 またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり。幼く、御身の八つにておはしまし候ひし年の四月十四日より、かぜ大事におはしまし候ひしときのことどもを書きしるして候ふなり

仰せを蒙りて【音声・映像データ編】

真宗本廟報恩講 報恩講法話(2014年11月27日)延塚知道氏

2021-09-17

2014年11月27日の「真宗本廟報恩講 報恩講法話」では、延塚知道氏(嗣講・日豊教区)にお話いただきまし­た。 
【報恩講法話】
 真宗本廟報恩講の改悔批判では、門徒による感話と僧侶による報恩講法話が行われます。
 宗祖親鸞聖人の御真影の前で信を問い、仏法に出遇わせていただくためのものです。

真宗本廟春の法要 親鸞聖人御誕生記念講演(2016年4月1日)

2021-09-17

2016年4月1日の「真宗本廟春の法要 親鸞聖人御誕生会記念講演」では、池田勇諦氏(真宗大谷派講師・同朋大学名誉教授)に「わたしにとって親鸞さまの御誕生は?」の講題でお話いただきまし­た。 
【親鸞聖人御誕生会】
 4月1日から4月3日にかけて真宗本廟(東本願寺)では「春の法要」が勤まります。
1日には、宗祖親鸞聖人の御誕生をお慶びし、私たち一人ひとりの誕生の意義を確かめ合う法要として「親鸞聖人御誕生会(音楽法要)」が勤められます。

真宗本廟春の法要 親鸞聖人御誕生会記念講演(2015年4月1日 延塚知道氏)

2021-09-17

2015年4月1日の「真宗本廟春の法要 親鸞聖人御誕生会記念講演」では、
延塚知道氏(大谷大学特別任用教授)に「清浄楽を帰命せよ」の講題でお話いただきまし­た。 
【親鸞聖人御誕生会】 
4月1日から4月3日にかけて真宗本廟(東本願寺)では「春の法要」が勤まります。
1日には、宗祖親鸞聖人の御誕生をお慶びし、私たち一人ひとりの誕生の意義を確かめ合う法要として「親鸞聖人御誕生会(音楽法要)」が勤められます。

真宗大谷派日豊教区・四日市別院 親鸞聖人750回御遠忌法要 法話⑥

2021-08-31

2016年4月23日 結願日中法要 法話:延塚知道氏 
大谷大学大学院文学研究科修了。文学博士。
大谷大学助手、講師、助教授を経て、1999年大谷大学文学部教授、2014年より大谷大学特別任用教授。
著書に『教行信証』―その構造と核心―(法蔵館)、『『浄土論註』の思想究明』(文栄堂)などがある。

真宗大谷派日豊教区・四日市別院 親鸞聖人750回御遠忌法要 法話①

2021-08-31

2016年4月19日 第一日中法要・第二日中法要 法話:田畑正久氏 
九州大学医学部在学中に仏教青年会に入り、細川巌師に出遇うことで仏法とのご縁をもつ。仏教と医療の協力関係の文化を創ることを目的に活動されている。

仰せを蒙りて【アーカイブス 音声・映像データ編】

帰依三宝

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
「全戦没者追弔法会2021」で焼香される修如上人

報恩ということ

2020-11-15

資料検索のページ 資料室

2022-06-07

★「ともしび」を更新(2022年04月15日)
★「大谷学報」を更新(2022年04月14日)
★「真宗総合研究所紀要」を更新(2022年04月14日)
 「研究所報」を更新(2022年04月14日)
★「大谷大學研究年報」を更新(2022年04月14日)
★「親鸞教学」を更新(2022年04月14日)
★「現代と親鸞」を追加(2022年04月13日)等々

★全ての論文の著作権は著作者と発行団体に所属します。
利用されるときは必ず出典を明記して下さい。

西村見暁師の名著「清澤満之先生」

2022-06-02

Facebook 百々海 真さん曰く


西村見暁師の名著「清澤満之先生」は、師の東大時代の卒論に自ら加筆された珠玉の一冊。東大脇本平也先生が、ご晩年に西方寺臘扇忌に出講された際に「私が気づいたことを西村先生は50年余り前にわかっておられた」と称賛されたお姿は、実に清々しかった。
西谷啓治先生が本書を「毎日出版文化賞」に推挙され内定したが、「名利になりますから、辞退します」といわれた。そのことが西谷先生を生涯突き動かしたのだろう。西村師が独自の思想を打ちだし、宗派や門弟も三下り半を突きつけた後も、お二人は九州で会食され、親交を深めておられる。
また、公刊されなかった「世界統一的国家の原造者」の序文は西谷先生に依頼される予定であった。その「世界統一的ー」は、愛知県水野暁輝法姉が自費出版された。現在、三重県桑名西恩寺様にて池田勇諦先生がテキストとして採用されている。自分の足で歩いた人に、小心者の私は強く惹かれる。見事なご一生に南無阿弥陀仏。

昭和20年失明後の最晩年のお顔

2022-05-22

Facebook 百々海 真さん曰く


暁烏敏師 明治10年〜昭和29年8月27日西帰 
岩瀬暁燈師撮影 児玉暁洋師所蔵 
池田勇諦師講述「私にとって暁烏敏とは」に口絵写真として所収 

昭和20年失明後の最晩年のお顔だが、もはや言葉は要らない 南無阿弥陀仏
「光る世を抱きつつむ ― 伝道の旅人 暁烏 敏 ―」字幕版 - YouTube

教団の歴史

本願寺の軌跡 -創建から東西分派、そして現代へ- 草野顕之著

2021-11-14
『中外日報』の書評

日本仏教史や真宗史の研究で知られる著者が真宗大谷派の月刊誌『同朋』の2020年7月号~21年2月号に計8回連載した「本廟創立と東本願寺の歴史-その時代と教えの伝統」と加筆分を集成した一冊で、本願寺の起源となった大谷廟堂から現在の真宗本廟(東本願寺)に至る歴史を専門的な知見や写真・図を交えて平易に叙述している。

『同朋』の連載と本書の刊行は今年が大谷廟堂の建立から750年の節目に当たることを踏まえたもので、全9章で構成。親鸞聖人の墓所である大谷廟堂が京都・吉水の北はずれに創建された経緯から覚如上人による寺院化、蓮如上人の中興、戦国期の本願寺教団の権門化、石山合戦と東西分派までを取り上げた『同朋』の連載に加え、第9章「江戸時代から近現代の真宗本廟」を書き下ろした。

近年の研究を踏まえた知見も盛り込まれている。例えば、廟堂の管理者の継職を巡って覚恵と唯善が争った唯善事件について、唯善の「野望」や「策謀」との従来の評価に対し、中世の土地寄進や返還に関する慣習から唯善の主張が「社会的には一定程度の正当性を持って受け入れられました」との側面を解説している点が興味深い。

全編80㌻余りの短めの分量で読みやすい一方、内容の密度も濃い良書だ。

定価1540円、東本願寺出版(電話075・371・9189)刊。

京都 真宗本廟(東本願寺)春の法要・ご参拝・インターネットライブ配信のご案内

2022-02-25
東本願寺第22代。現如上人、1923年、72歳で示寂。本年は百回忌にあたる。

現如上人【1852年〜1923年】

東本願寺第22代。現如上人は、1852年7月に第21代嚴如上人の第5子として出生。1870年、北海道に渡り道内の開拓を行う。1872年には欧州を訪問し海外の政教を視察する。その後1889年10月、東本願寺第22代を継職。蛤御門の変によって焼失した両堂の再建に着手し、1895年に落慶。教団や教学のさらなる近代的発展につとめた。1923年、72歳で示寂。本年は百回忌にあたる。


4月1日から4日、今年も真宗本廟(東本願寺)において、春の法要が勤まります。
聖徳太子・七高僧をはじめ本願念仏のみ教えを伝えられた
師主知識の恩徳を讃える「師徳奉讃法要」、
親鸞聖人のご生誕をよろこぶ「親鸞聖人御誕生会」、
歴史に学び平和の願いを確かめる「全戦没者追弔法会」などの法要を
「春の法要」と称して勤めています。
また今年は、北海道開拓や蛤御門の変で焼失した両堂再建に尽力した
第22代現如上人の100回忌の法要も勤修されます。

英雄たちの選択「信長最大の敵・大坂本願寺~歴史を変えた11年戦争~」

2022-02-02

信長を最も苦しめた大坂本願寺。本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が激突した木津川口の戦いの真相、そして信長・本願寺11年戦争が歴史に残した驚くべき結末に迫る。

戦国の覇者・織田信長を最も苦しめた敵とされる大坂本願寺。顕如率いる各地の門徒たちと信長との戦いは泥沼化し、11年の長期に及んだ。最大の分岐点となったのが、二度にわたる「木津川口の戦い」だ。本願寺を支援し、兵糧を送っていた毛利水軍と織田水軍が激突した海戦である。信長の鉄甲船は実在したのか?新発見の絵図から読み解く両軍の海の戦略とは?そして信長と本願寺の戦いが歴史に残した驚くべき結末とは?

【ゲスト】奈良大学教授(元学長)…千田嘉博,共立女子大学教授…堀新,哲学者・津田塾大学 教授…萱野稔人,【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊

大阪は、商いの街、船場の商人をはじめとして、商業都市として発展していきましたが、同時に古くから真宗伝道の拠点でありました。

大坂の町は、本願寺第8代蓮如上人が、明応5年(1496)、「摂津国東成郡生玉之庄内大坂」、今の大阪城あたりに一宇の坊舎を建立されたことに始まります。天文元年(1532)、畿内天文一揆で山科本願寺が焼失されるに至り、翌年、御真影が大坂御坊に遷座になり、大坂御坊は本山として、その後、寺内、親町六町、枝町四町余りを有す独立した自治的宗教都市の様相を呈して、大いに発展していきました。その後、戦国動乱の世、織田信長との11年にも及ぶ争い(石山合戦)の末、本願寺は紀州鷺森・貝塚・天満に寺基を移しました。そして天正19年(1591)、第11代宗主顕如上人によって、寺基が京都に移されました。 大坂の門徒は、大坂での「お念仏」の灯りをまもるため、天正19年(1591)、天満に近い「楼(ろう)の岸」に念仏の集会所を設けました。その後、慶長2年(1597)の町割改革によって、「円江(つぶらえ)、津村郷」と呼ばれていた現在の地に移転し、「津村御坊」と称するようになります。これが本願寺津村別院(北御堂・御堂さん)の始まりです。 津村別院は、真宗大谷派の難波別院(南御堂)に対して、“北御堂”と呼ばれ、その近くには、篤信な門徒たち(商人など)が集まり、「御堂さんの屋根が見える、御堂さんの鐘が聞こえる場所にのれんを張る」ことを合言葉に、船場の町を形成し、商都大阪の礎を築いていったのです。 また、門前を通る大阪を代表する道は、南北両御堂に因んで、「御堂筋」と命名され、商都大阪の流通の中心的役割を担い、今も人々に親しまれています。 また、権力に決して迎合しない大阪人気質は、大坂本願寺の寺内町形成以来、お念仏に生かされる御同朋御同行の平座の精神が受け継がれ、その精神的基盤が根底にあると言えるのではないでしょうか。
このように、大阪と本願寺・北御堂の関係は、発祥から現在に至るまで、信仰だけにとどまらず、政治・経済・社会・文化、そして生活する人々の背景と根底に、念仏の教えが息づいており、切っても切れない相関関係の上で成立、発展してきました。 しかし、大阪といえば、太閤豊臣秀吉のイメージが強く、本願寺が大きく関わってきた歴史が一般の人々に周知されているとは言い難い現状でもあります。かつては、家庭や地域の中で自然と身についていた真宗の教えも、現在は「人」のつながりが希薄となり、伝わりにくい環境ともなっています。 そこで、歴史的資料の実物や、映像・パネル・レプリカ等を用い、また大坂本願寺寺内町を復元したジオラマ展示などを行い、改めて一般の人々に本願寺、北御堂の事業や歴史等を説明する展示施設を設立し、多くの方々に歴史的な存在を通じて、共有されてきた過去を表現し、その歴史をひも解く中で、大都市「大阪」の中心で、その年代に生きた人びとの心の依りどころとして存在した本願寺(津村別院・北御堂)の歴史を表現したいと考えます。
そして、今までお寺と縁の薄かった方でも気軽に訪れていただき、「浄土真宗」とのつながりを深めていただく機縁となることを願いとしています。

谷井健三「木津川沖海戦想像図」1986

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
谷井健三「木津川沖海戦想像図」1986
戦国時代、軍船技術は急速に発達し、近代海軍の戦艦に相当する攻防力に富む軍船安宅船を生んだ。500石から2000石積と大小はあったが、船体上部に堅木の装甲板を張りつめた総矢倉を設け、兵士と漕手を守るとともに多数の狭間から鉄砲や弓で攻撃できるのを特徴とした。上の海戦想像図は天正6年(1578)、石山本願を救援する毛利水軍を木津川沖で壊滅させた信長の大安宅船。鉄板の装甲は天正4年の難波沖海戦の際、毛利水軍の焼夷弾、焙烙で打撃をうけた対策として考えられ、これにより毛利水軍の攻撃は通ぜず、大敗した(石井謙治)。『週刊朝日百科日本の歴史27』より=図も。

本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍が得意とした焙烙火矢に対する装甲としたと伝わる。しかし、これを直接的に示している同時代の史料は『多門院日記』しかなく、その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。第二次木津川口の戦いについて詳細に記載しているオルガンチノの報告書では、「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」とあるだけで装甲の有無には触れておらず、『信長公記』においても装甲の有無については記載がない。このため、鉄張り装甲を持っていたのか、という点が疑問となっている(ウィキペディア)。

「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)
織田信長と摂津国石山本願寺に拠る本願寺第 11世顕如との間で元亀1 (1570) 年から天正8 (80) 年までの 11年間にわたって続けられた合戦。室町時代中期以降,浄土真宗 (一向宗) 教団の伸張は著しく,一向一揆は,領主,守護大名などに対する戦いを広範囲に展開した。本願寺第 10世証如は,第8世蓮如の建立した石山道場を同宗の本寺とし,寺域を広げ,防備を固め,門前に新興商工業者を集め,やがて同寺は一大領主勢力に発展した。浅井,朝倉両氏を討って全国統一を目指す織田信長は元亀1年,本願寺打倒に立上がり,本願寺はその興廃をかけて全国門徒を対信長戦に駆りたてた。以来,天正8年3月,顕如が信長と和して本願寺を信長に渡し,同年4月,紀伊雑賀 (さいが) に退くまで合戦は続けられた。この間,信長は一向宗門徒を近江,長島,雑賀に討ち,浅井,朝倉両氏を滅ぼし,武田氏を長篠に討ち,さらに伊勢に北畠氏を滅ぼし,一方,中国征伐の軍を起すなど,本願寺を孤立させていった。石山本願寺の降伏は,信長の畿内および周辺に対する政権の確立を意味する(百科事典マイペディア「石山合戦」)。

宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃のページ

5月29日(日)で「慶讃法要まであと300日」となりました

2022-05-30
【慶讃トダウン看板」が納品され、内局をはじめ、職員や
法要までのカウントダウンを開始】
5月29日(日)で「慶讃法要まであと300日」となりました
前日の28日に、慶讃法要までの日数をお知らせする「カウントダウン看板」が納品され、内局をはじめ、 
その家族30名ほどが立ち合いました
29日から御影堂門下に設置され、今後慶讃法要まで300日間、毎日カウントダウンし、参拝の方や通行の方に慶讃法要までの日数をお知らせしていきます
ご参拝に来られた際には、ぜひ写真撮影のスポットとしてもご活用ください

旗印です。

2021-12-01

宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要特設サイト

2021-09-26
真宗大谷派(東本願寺) (higashihonganji.or.jp)

立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―

2021-04-25

真宗本廟(東本願寺)において、2023年に勤まる宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要を記念して制作した動画です。
 浄土真宗立教開宗の書として、大切に読まれ、現在まで伝えられてきた親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』。
 聖人の筆跡を感じ、思索にふれていただけるよう聖人直筆の『教行信証』(坂東本)を紹介します。

「立教開宗の書『教行信証』展」

2021-04-03
HP東本願寺/写真日記 2021年4月1日 更新
親鸞聖人直筆『教行信証』「坂東本」のパネルを展示しています

参拝接待所ギャラリーでは、「立教開宗の書『教行信証』展」を行っています。こちらの展示内容も、配信でご覧いただけます。

「立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―」についてはこちら

立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―

聖徳太子1400年忌法要のベージ

皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。

2022-04-20
「中外日報」より

皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。

宮内庁が管理する各陵墓では毎年の没日に正辰祭が営まれており、節目の年には式年祭がある。天皇陵の式年祭のような奉幣は皇族墓では行われておらず、儀式内容は例年の正辰祭と変わらない。磯長墓は考古学的には「叡福寺北古墳」と呼ばれ、没年とややずれる7世紀後半の様式を示すが、太子の墓の可能性が高いと考えられている。

師の慧慈和尚偲ぶ 聖徳太子1400年御聖忌御正當法要 宝前に両像、功績たたえる 

2022-02-25
慧慈和尚(宝前右)をたたえる慶讃文を読む般若寺の福嶋住職
和宗総本山四天王寺
中外日報 2022年2月25日 13時59分
聖徳太子1400年御聖忌慶讃大法会が営まれている和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区)で22日、御正當報恩慶讃法要が厳修された。法要では太子に仏法を教えたとされる慧慈和尚の千四百回忌報恩法要を併せて奉修し、遺徳を偲んだ。(詳細は2022年2月25日号をご覧ください

浄土真宗における聖徳太子―千四百回忌を迎えて―

2022-02-02

◎飛鳥の王権と聖徳太子

2021-05-24
Facebook佐々木信雄さん曰く
6th Century Chronicle 581-600年】
6th Century Chronicle 581-600年】
◎飛鳥の王権と聖徳太子
*585/ 敏達天皇が没し、用明天皇が即位する。
*587/ 用明天皇が没し、崇峻天皇が即位する。
*587/ 蘇我馬子が穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋を滅ぼす。
*592.12.8/ 蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇に代わって、推古天皇が即位する。
*593.4.10/ 聖徳太子(厩戸皇子)が国政に参画する。
 585年、「敏達天皇」崩御を受け「用明天皇」が即位する。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は崇仏派であり仏法を重んじたが、在位2年足らずの587年に、用明天皇は崩御した。後継問題で、大連の物部守屋は「穴穂部皇子」を即位させようとはかるが、蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋をも射ころさせ、物部氏を滅亡に追い込む(丁未の乱)。
 蘇我馬子によって「崇峻天皇」が即位するが、実権を馬子が握られている不満から反発しだすと、馬子は計略で暗殺してしまった。その馬子に請われて、先々代敏達天皇の皇后であった額田部皇女が、592年、史上初の女帝として即位、「推古天皇」(39歳)となる。
 593年、用明天皇の子で甥の厩戸皇子(聖徳太子)を、皇太子として国政を補佐させる。推古天皇は、皇太子厩戸皇子と大臣蘇我馬子の勢力の均衡を保ち、馬子が葛城県の支配権を望んだ時も、毅然とこの要求を拒絶したという。
 推古女帝のもと、聖徳太子は蘇我馬子と協調して、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定し、法令や組織の整備を進めた。また607年には、小野妹子を隋に派遣(遣隋使)し、中国皇帝に日本の独立性を示した。
 594年推古天皇は、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔勅(三宝興隆の詔)を示し、太子や馬子と共に仏法興隆に努め、斑鳩に法隆寺を建立させるなど仏教を奨励した。620年、聖徳太子と馬子は「天皇記」「国記」を編纂して、国の歴史を記した。
 622年に太子が49歳で薨去し、更に4年後の626年、蘇我馬子も亡くなる。そして628年、推古天皇は75歳で崩御した。推古天皇は継嗣を定めていなかったため、馬子の後を受けた蘇我蝦夷は、後継候補の田村皇子と山背大兄王から、田村皇子を擁立して「舒明天皇」とした。
 こうして政治の実権は、蘇我蝦夷・入鹿父子に握られ、入鹿は聖徳太子の子「山背大兄王」を攻めほろぼしてしまう。これを皇統政治の危機と見た中大兄皇子や中臣鎌足は、入鹿を殺し「大化の改新」を開始する。ここに飛鳥のヤマト政権は、大きな転換期をむかえることになる。
(この時期の出来事)
*598/ 蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)を発願して建立をはじめ、593年塔の心礎に仏舎利を納める。
*593/ 難波に四天王寺が建立される。
*594/ 三宝興隆の詔が出され、諸氏が競って寺を建立する。

真宗大谷派善重寺(茨城県水戸市・二十四輩旧蹟)の聖徳太子立像

2022-01-31
Facebook 山口昭彦さん曰く
TOPへ戻る