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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

出遇う、そして出発

2022-02-14

Facebook 鈴木 君代さん曰く


はなむらまみこ花邑真実子との出遇いです。『いのちの花を咲かせよう』自照同人から  
「あなたに遇えてよかった」
山形の尾花沢に念通寺という私にとって大切な場所があります。松尾芭蕉が何日も滞在し、たくさんの俳句を生み出した土地です。豪雪地帯で、冬には雪が本堂の周りをいっぱいにします。そこには、こんな私を「いらっしゃい」ではなく、「おかえりなさい」といつも迎えてくださるかけがえのない人たちがおられ、待っていてくださいます。
そのお寺の一度もお会いしたことのない住職のご法事を16年間お勤めさせてもらってきました。その方のひとり娘である彼女とは、東本願寺に同期として入りました。しかし、新入職員としてはじめて出会ったとき、お互いの印象は最低でした。彼女は大きな満たされたお寺の一人娘で、両親の愛情をその身いっぱいに受けて、何一つ不自由のないように私には見えました。ブランド品を持ち、身なりもいつもきちんとしていて、その立ち居振舞いからも、お寺の出身でもなく、幼いときに両親の亀裂を見せつけられ、大人の顔色ばかり見てきた私とは、住む世界が全く違うような異邦人に感じました。
「嫌な人と出会った」と、たぶんこちらがそう思ったのと同じように、彼女も間違いなくそう感じたことでしょう。 お寺の人間でない私は、どこかにコンプレックスがあったのです。
  それでも、そんな彼女と新入職員の見習いで、たまたま一緒に研修することになりました。研修当初は戸惑っていたのですが、ある事件がきっかけで、彼女の一つひとつの言葉や行動が、自分と全く違いながらも、同じように親鸞聖人の教えに生きたいと願っている真摯な姿に出遇えたことで、感動し、引き込まれ、純粋に驚かされたのです。
世界が違うと思い込んでいた彼女の内面に接して、私の見方が、如何に一方的で一面的であり、自分勝手な偏見と思い込みだけで生きてきたという視野の狭さを知らされました。生まれた土地も取り巻く環境も、出遇ってきた人も考え方も、何もかもが私と違う人の存在の中に、自分と同じように道を求める心に出遇って、惹かれたのです。
  見習いの研修を終えた彼女と私は、お骨納めに来られる参拝者の方々に接する受付窓口に配属され、「東本願寺に参拝される方の受付案内のエキスパートになろうね。」と約束しました。その二週間後に、住職である彼女の父親が癌の病で倒れ、まもなく亡くなって、一人娘の彼女は仕事を辞めて田舎の寺に帰り、ご門徒のお参りを独りで担うようになったのです。
  やっと出遇うことの出来た「朋」を失った私は、悲しくて泣いてばかりいました。そんな彼女と、もっと深い世界で出遇いたいと願い、それからすぐに、彼女のお寺を通して得度をさせてもらいました。「あなたのお寺を通して得度をしたい。」という私の申し出に、彼女は、何も聴かないで頷いてくれました。私の本意は、山形のお寺という場所で生きる彼女と、親鸞さまの教えをとおして、堅結びでつながっていたいと願ったからでした。
その時に、「私は京都の東本願寺で、あなたは尾花沢の自分が預かっているお寺で、場所は異なっても、同じように人と接していこう。人と出遇っていこう。あの日あなたが教えてくれた自分がひっくり返されるような出遇いを続けていこう。離れていても、ともに生きていこう」と誓ったのです。
自分と違う彼女に出遇えたおかげで、今まで気にも留めなかったこと、見えなかったこと、見てこなかったこと、見ようともしなかった「世界と人」が気になりだしました。自分の殻に閉じこもって、自分を出ることがなかった私自身が、初めて問題になり始めたということです。
それまで私は、子どもの頃から、ずっと淋しさを抱えて生きてきました。「誰にもわかってもらえない」とつぶやきながら、それでも、どこかで誰かにわかってもらいたいと願ってきた心の声に背を向けていたのです。彼女に出遇って、淋しさを誤魔化すため、忙しく動き回る日々をどれだけ続けても、淋しさは消えないことがわかりました。
それは、最愛のお父さんを失い、その悲しみの果てにあっても、山形の雪国の大地で淋しさを抱え、泣くのをこらえて生きている彼女の生活の姿を見たからだと思います。私はいつの間にか、全く自分と違う彼女に支えられ、励まされて、どうしようもない空しさの心の底からの声とはじめて向き合って、淋しさを生きることを教えてもらっていたのです。自分と全く違う人に出遇うことによって、驚かされ、自分がまるごとひっくり返されたのです。どんなに離れていても、出遇うことの出来る世界があるのだと知らされ、「淋しさは消せないし、なくなりはしないよ。淋しさを自分として生きるしかないよ」と自分を見つめる歩みがはじまりました。
彼女が仕事を辞めて、京都を離れるとき、泣きながら空港バスを見送る私に、「お父さんが、君代ちゃんに遇わせてくれたんだよ。」と手紙を渡してくれました。6歳のときから、自分の父親を殺してきた私は、これほど、娘の生き方にも影響を与えている「その人」にも彼女と同じように出遇いたいと思いました。それから、一度も生前にはお会いしたことのない、差別の問題を自分の問題とされ、いのち終えて逝かれた彼女のお父さんの法事をお勤めさせてもらうことをとおして、そのお父さんに学ばれた多くのご門徒の方々とも出遇わせてもらっています。
  それは、彼女から彼女の亡くなったお父さん、その教えに学んだことでお父さんが生きてはたらいておられるご門徒の方々、七年前に亡くなった彼女のお母さん、連れ合いであり彼女とともに悩みながら生きてくださる今の住職、さらには、それらの人びとの生きる背景となっている親鸞聖人に向き合う課題をいただいたということでした。
親鸞聖人の言葉に、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。」(『教行信証』総序)があります。この言葉は、親鸞聖人が南無阿弥陀仏の教えに出遇ったその慶びを、感動をもってあらわされたものであり、今ここにいる誰でもない私は、多生・億劫の背景があるということをおしえてくださっているのでしょう。
いのちの歴史のただ中に、いのちの歩みがあるのだということを思います。それは、具体的な自分の問題、たとえば平和のこと、人権のこと、人を本当に愛するということ、命終えられた先生を求めるのではなく、先生の求められた世界を求めることによって、先生にもう一度出遇うことが求められているのでしょう。
 彼女に出遇ってからは、いろんなことが自分の問題となってきました。私は自分の内に、すでに萌している、出遇いの不思議に驚き、その源泉へと、あきらめることのない、終わることのない歩みをともに続けていきたいと思います。今まで自分が見てこなかった「知らない世界」を知ること、自分の「知らない人」に遇うこと、そういう「世界と人」に出遇っていくことが、私にとっての宗祖としての親鸞聖人に出遇うことだと思うからです。
それは、どんな人も、自分と全く違う人との出遇いによって、「自分が何のために生まれてきたのか」という存在の意義を問い続け、どんな人でも決して見捨てない、どんな人も嫌わない、あきらめないという仏の心をいただくことで、生きる意味に思いをいたすことでもあります。
今から100年前に生まれ、26歳という若さで早逝した金子みすずという童謡詩人がおられます。私が最初に出遇ったのは、「大漁」という詩でした。「朝焼小焼だ  大漁だ  大羽鰯の大漁だ   浜は祭りのようだけど  海のなかでは何万の  鰯のとむらい するだろう」。この短い詩の中に、全く私たちとは全く異なる視点、感性の鋭さを感じずにはおれませんでした。
 それは、人間の物の見方が一面的であり、多面的に見ることが出来ないことを強烈に知らしめる詩だったからです。人間中心の視点の中で生きている私を問う詩でした。驚いた私は、金子みすずの詩集を改めて読み、「わたしと小鳥とすずと」という詩に感動して、今はその詩に曲をつけてライブコンサートで歌っています。
 それは、「わたしが両手をひろげても  お空はちっとも飛べないが  とべる小鳥はわたしのように 地べたをはやくは走れない  わたしがからだをゆすっても  きれいな音はでないけど  あの鳴るすずはわたしのように  たくさんなうたは知らないよ。 すずと小鳥とそれからわたし  みんなちがって みんないい」という詩です。
 この詩は、皆平等である世界において、それぞれの価値観に基づいて差別して生きている私たちの現実を問います。そういう心をもって、「わたし」と「小鳥」と「すず」のそれぞれの存在の差異(ちがい)を認め、だからこそ、「みんなちがってみんないい」と深い感動をもって、うたわれているのです。
 この2009年、現在ただ今の私たちの現実はどうでしょうか。差異(ちがい)を認められない、認めることが出来ない、認めることを許さないことが、どんなに哀しい現実を生み出しているでしょうか。どんなに愚かな戦争を繰り返しているでしょうか。たくさんのかけがえのないいのちを傷つけているでしょうか。
 違ういのちを認められないひとたちは、自分とは合わない、変わったものは、「変なひと」だと排除し、同じでないと安心できなくなっています。「みんなちがってみんないい」は、他人を認めると同時に、自分のいのちをも肯定していく真実です。あらゆるいのちに対して、「生まれてくれてありがとう」と思い切り抱きしめるものです。あなたが本当にあなたになり、私が本当に私になることです。それは「ちがうあなたに遇えたから」だと、最後に私の言葉をつけくわえさせてもらって歌っています。
 私は歌います。「ちがうからいいんだよ    ちがっていいんだよ   ちがうあなたに遇えたから   ちがうわたしにも遇えたんだよ」と、全く違うあなたに遇うことによって、今まで自分が知らなかったあなたと一緒に生きている自分自身にも遇うことのできる。終わることのない歩みをともに生きる存在であることを願いながらです

法蔵菩薩は昔ばなしではない。

2022-02-12

Facebook 田畑 正久さん曰く


説く心も仏の心であり
聞く心も仏の心であります
助ける仏があなたに宿善を成就し
求道心をおこさせ
やがて合掌して三宝に帰依せしめるのです
そのままが助ける仏の心そのままの廻向です
仏に向かって生きさせようとする仏の心以外に
仏に向かて生きようとする心はありません
信ずる心 念ずる心こそ
仏の心そのままの表れであります 【住岡夜晃法語】
法蔵菩薩は昔ばなしではない。
自分の肉体にひしひしと法蔵菩薩を感覚する。
これが宿業の自覚である。(曽我量深『歎異抄聴記』(東本願寺真宗文庫)p185)

人間になることが大事

2022-02-11

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1270
仏教を学ぶというのは教理じゃない。
もっと大きく、
人間が分かることが大事ではないですか。
この会でも
人間になることが大事であって、
坊主になることが目的ではないのです。
だから
文学というようなものも非常に重要です。
文学とか詩が分からないような頭に
信仰が分かるということはないでしょう。

念仏者というものは落在者だと

2022-01-28

qcebook Yasuda Rizinさん曰く


1258

自分が地獄になる。
つまり地獄を恐れない身になったのです。
それほど強いものはないでしょう。
地獄において浄土を証明すると。
地獄こそ本当の大安楽であると。
こういうようなものが生まれてくる。
それが、念仏者というものは落在者だと。
落第生というようなものです。
落ち切った者は登るよりほかに道がない。
1257

落ち切ったのです。
そうでしょう。
だから落在には自由になったとかそんな小さな誇りがない。
落ち切った。
地獄に。落ち切った者は登るよりほかに道がない。
ふつうの人は落ちはしないかと思って恐れている。
落在とは落ち切ったのだから、
地獄を外に見ていない。
自分が地獄になったのです。
仏法から落第したのです。
1259
清沢満之の落在というのは
仏法から落第したのです。
本願の信心の世界というのは
指導者の弟子になるということではない。
人間が人間を指導するということは出来ない。
わたしも指導された一人だと。
あなたも指導される一人だと。
これだけの話です。
人間が人間を指導することは出来ない。
1260
つまり、人間が人間を指導することは出来ない。
そうでしょう。
だから人間は人間に対して「来い」とは言えないのです。
「行け」と。
これだけです。
もし人間が人間に対して「わしの教えを聞け」と言ったら、
それは秘事法門です。
そういうものを秘事法門というのです。
1261
これは譬えですが、
人間が人間の奴隷になったら、
それこそ本当の奴隷にしてしまう。
しかし「法」の奴隷になってもいいと。
こういうのが脱落者です。
法の奴隷になってもいい。
奴隷になっても後悔しないと。
それを法は、奴隷にしないのです。
かえって法の主人にしてしまう。
えらい違いです。
死して生きる
1262
宗教、「死して生きる」というのは、
「たすからないものがたすかった」と。
こうなのです。
つまり、
たすからないものが、
たすかるようになってから、たすかるのではないのです。
たすからないものがたすかったと。
それで宗教になる。
それが死して生きるということです。
本当に人間に死なないから生きられない。
1263
本当に人間に死なないから生きられない。
死ぬるということが容易でない。
人間では出来ない。
人間が人間に死ぬるということは
出来そうだけれども出来ないのです。
しかし、信心で満足して死ぬることが出来る。
くやしくて死ぬるのではない。
満足、喜んで死ぬることを回向するものが信心です。
こう言えば信心ということがよく分かるのではないかね。

横超と云ふもの

2022-01-28

Facebook 菊池進さん曰く


「如何なる宗教にも、自己否定的努力を要せないものはない。
   一旦真に宗教的意識に目覚めたものは、何人も頭燃を救ふが如くでなければならない。
   但、その努力は如何なる立場に於て、如何なる方向に於てかである。
  神とか仏とか云ふものを対象的に何処までも達することのできない理想地に置いて、
  之によって自己が否定即肯定的に努力すると云ふのでは、典型的な自力である。
  それは宗教と云ふ ものではない。
  そこには全然親鸞聖人の横超と云ふものはない。
  最も非真宗的である。」 西田幾多郎

仰せを蒙りて【音声・映像データ編】

【大谷大学として在る、意味。】~第28代木越康学長×第29代一楽真学長 対談動画

2022-03-18
【お知らせ/学長対談】 4/1から大谷大学第29代学長に就任される一楽理事長と現学長の木越教授との対談動画がアップされています。
Facebook大谷大学同窓会 【お知らせ/学長対談】

大谷大学が掲げるメッセージ「Be Real―寄りそう知性―」。
 大谷大学の人間教育の基盤は、誰もが当たり前だと考えている物事を、今一度見つめ直し、問い直すこと。
 初代学長 清沢満之が開学して以来、120年以上にわたり、かわらず受け継がれている建学の精神、大谷大学としての在り方について、第28代学長木越康と第29代学長一楽真が語る。

東本願寺真宗会館【公式】お坊さんの法話

2022-03-19
お坊さんの法話2021年10月28日「まことのいちねん おこれるそのとき」①

お坊さんの法話2022年2月6日「何しに来た」―『歎異抄』第二条

お坊さんの法話2021年9月28日「親鸞からの風に吹かれて」

お坊さんの法話2021年12月28日「親鸞からの風に吹かれて」


お坊さんの法話2022年5月28日「親鸞からの風に吹かれて」

池田勇諦(36分)「仏法は何を言おうとしているのか?」

2022-03-19
2022/1/9 西恩寺門徒会 新年「総会」法話 池田勇諦(36分)
「〈他力〉は外力にあらず。この世に〈自力〉はあらず。」
 『塵劫記』1627年に吉田光由が執筆した。
 法話中に出ます数の単位が抜けていましたので。 
一 いち 10/ 0 十 じゅう 10 /1乗 千 せん 10/ 3 乗 万 まん 10/ 4 乗(萬) 億 おく 10/8 乗 兆 ちょう 
10 /12乗 京 けい 10 /16乗 「きょう」 とも読む。 
垓 がい 10 /20 乗 杼  じょ 10 /24乗  正しい漢字は、(禾+予)。 
(禾+市) と書いて、「し」 ともいう。
 穣 じょう 10 /28 乗 溝 こう 10 /32 乗 澗 (潤) かん 10 /36 乗 正 せい 10 /40 乗 載 さい 
10 /44 乗 極 ごく10 /48 乗 恒河沙 こうがしゃ(ごうがしゃ)10 /52乗 恒河 ( ガンジス川 )の無数の砂。
 阿僧祇 あそうぎ 10 /56乗 数えられないこと。 
那由他 なゆた 10/ 60乗「那由多」 とも書く。
 不可思議 ふかしぎ 10 /64乗 常識では理解できない不思議なこと。
 無量大数 むりょうたいすう 10 /68乗

2022年新年の法要[修正会]/法話:自己という名の原始林を拓く

2022-03-19
【いま、あなたに届けたい法話】不安と安心(名和達宣氏)

金沢別院テレホン法話【星川 了 氏】2021年12月15日配信

2021-12-15
ともしび~ 星川 了 氏 12月15日~
金沢別院テレホン法話【星川 了 氏】2021年12月15日配信
ともしび~ 星川 了  氏 12月15日~
1月15日配信 金沢別院ではテレホン法話を行っております。
【電話番号】076-261-4001で、約3分間の法話が聞けます。
 御俗姓 
 それ、祖師聖人の俗姓をいえば、藤氏として、後長岡丞相 内麿公 の末孫 皇太后宮大進有範の子なり。また本地をたずぬれば、弥陀如来の化身と号し、あるいは曇鸞大師の再誕ともいえり。しかればすなわち、生年九歳の春の比、慈鎮和尚の門人につらなり、出家得度して、其の名を範宴少納言の公と号す。それよりこのかた、楞厳横川の末流をつたえ、天台宗の碩学となりたまいぬ。其の後二十九歳にして、はじめて源空聖人の禅室にまいり、上足の弟子となり、真宗一流をくみ、専修専念の義をたて、すみやかに凡夫直入の真心をあらわし、在家止住の愚人をおしえて、報土往生をすすめましましけり。  そもそも、今月二十八日は、祖師聖人遷化の御正忌として、毎年をいわず、親疎をきらわず、古今の行者、この御正忌を存知せざる輩あるべからず。茲によりて、当流にその名をかけ、その信心を獲得したらん行者、この御正忌をもって、報謝の志をはこばざらん行者においては、誠にもって、木石にひとしからんものなり。しかるあいだ、かの御恩徳のふかきことは、迷慮八万の頂、蒼瞑三千の底にこえすぎたり。報ぜずはあるべからず、謝せずはあるべからざる者か。此の故に、毎年の例時として、一七か日のあいだ、形のごとく報恩謝徳のために、 無二の勤行をいたすところなり。 此の七か日報恩講の砌にあたりて、門葉のたぐい国郡より来集、いまにおいて其の退転なし。しかりといえども、未安心の行者にいたりては、争でか報恩謝徳の義これあらんや。しかのごときのともがらは、この砌において仏法の信・不信をあいたずね、これを聴聞して、まことの信心を決定すべくんば、真実真実、聖人報謝の懇志に相叶うべき者なり。哀なるかな、それ聖人の御往生は、年忌とおくへだたりて、すでに一百余歳の星霜を送るといえども、御遺訓ますますさかんにして、教行信証の名義、いまに眼前にさえぎり、人口にのこれり。貴とむべし、信ずべし。これについて、当時真宗の行者のなかにおいて、真実信心を獲得せしむる人、これすくなし。ただ、人目・仁義ばかりに、名聞のこころをもって報謝と号せば、いかなる志をいたすというとも、一念帰命の真実の信心を決定せざらん人々は、その所詮あるべからず。誠に、水に入りて垢おちずといえるたぐいなるべきか。これによりて、此の一七か日報恩講中において、他力本願のことわりをねんごろにききひらきて、専修一向の念仏行者にならんにいたりては、まことに、今月聖人の御正日の素意に相叶うべし。これしかしながら、真実真実、報恩謝徳の御仏事となりぬべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 于也、文明九 十一月初比、俄為報恩謝徳染翰記之者也 

御文 第二帖 一通  (お浚えの御文)  そもそも、今度一七か日報恩講のあいだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定し給えるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。 さりながら、そのままうちすて候えば、信心もうせ候うべし。 細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせといえる事ありげに候う。  (信心が決定したと思っても、そのまま放置すれば失せてしまう。   再々信心の溝をさらえて、弥陀の法水を流しなさい。) それについて、女人の身は、十方三世の諸仏にもすてられたる身にて候うを、阿弥陀如来なればこそ、かたじけなくもたすけましまし候え。そのゆえは、女人の身は、いかに真実心になりたりというとも、うたがいの心はふかくして、また物なんどのいまわしくおもう心は、さらにうせがたくおぼえ候う。ことに在家の身は、世路につけ、また子孫なんどの事によそえても、ただ今生にのみふけりて、これほどに、はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三塗八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、いたずらにあかしくらすは、これつねの人のならいなり。あさましというもおろかなり。これによりて、一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、ふかくたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する心をすて、また諸神諸仏に追従もうす心をもみなうちすてて、さて弥陀如来と申すは、かかる我らごときのあさましき女人のためにおこし給える本願なれば、まことに仏智の不思議と信じて、我が身はわろきいたずらものなりとおもいつめて、ふかく如来に帰入する心をもつべし。さてこの信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもうべし。かようにこころうるを、すなわち他力の信心をえたる人とはいうなり。またこのくらいを、あるいは正定聚に住すとも、滅度にいたるとも、等正覚にいたるとも、弥勒にひとしとも申すなり。またこれを、一念発起の往生さだまりたる人とも申すなり。かくのごとく心えてのうえの称名念仏は、弥陀如来の我らが往生をやすくさだめ給える、その御うれしさの御恩を、報じたてまつる念仏なりと、こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。  これについて、まず当流のおきてをよくよくまもらせ給うべし。そのいわれは、あいかまえていまのごとく信心のとおりを心え給わば、身中にふかくおさめおきて、他宗他人に対してそのふるまいをみせずして、また信心のようをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。かくのごとく、信心のかたもそのふるまいもよき人をば、聖人も、よく心えたる信心の行者なりとおおせられたり。ただふかくこころをば仏法にとどむべきなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明第五、十二月八日、これをかきて当山の多屋内方へまいらせ候う。このほかなおなお不審の事候わば、かさねてとわせたまうべく候う。 所送寒暑 五十八歳御判 のちの代の しるしのために かきおきし のりのことの葉 かたみともなれ

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仰せを蒙りて【アーカイブス 音声・映像データ編】

帰依三宝

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
「全戦没者追弔法会2021」で焼香される修如上人

報恩ということ

2020-11-15

資料検索のページ 資料室

2022-06-07

★「ともしび」を更新(2022年04月15日)
★「大谷学報」を更新(2022年04月14日)
★「真宗総合研究所紀要」を更新(2022年04月14日)
 「研究所報」を更新(2022年04月14日)
★「大谷大學研究年報」を更新(2022年04月14日)
★「親鸞教学」を更新(2022年04月14日)
★「現代と親鸞」を追加(2022年04月13日)等々

★全ての論文の著作権は著作者と発行団体に所属します。
利用されるときは必ず出典を明記して下さい。

西村見暁師の名著「清澤満之先生」

2022-06-02

Facebook 百々海 真さん曰く


西村見暁師の名著「清澤満之先生」は、師の東大時代の卒論に自ら加筆された珠玉の一冊。東大脇本平也先生が、ご晩年に西方寺臘扇忌に出講された際に「私が気づいたことを西村先生は50年余り前にわかっておられた」と称賛されたお姿は、実に清々しかった。
西谷啓治先生が本書を「毎日出版文化賞」に推挙され内定したが、「名利になりますから、辞退します」といわれた。そのことが西谷先生を生涯突き動かしたのだろう。西村師が独自の思想を打ちだし、宗派や門弟も三下り半を突きつけた後も、お二人は九州で会食され、親交を深めておられる。
また、公刊されなかった「世界統一的国家の原造者」の序文は西谷先生に依頼される予定であった。その「世界統一的ー」は、愛知県水野暁輝法姉が自費出版された。現在、三重県桑名西恩寺様にて池田勇諦先生がテキストとして採用されている。自分の足で歩いた人に、小心者の私は強く惹かれる。見事なご一生に南無阿弥陀仏。

昭和20年失明後の最晩年のお顔

2022-05-22

Facebook 百々海 真さん曰く


暁烏敏師 明治10年〜昭和29年8月27日西帰 
岩瀬暁燈師撮影 児玉暁洋師所蔵 
池田勇諦師講述「私にとって暁烏敏とは」に口絵写真として所収 

昭和20年失明後の最晩年のお顔だが、もはや言葉は要らない 南無阿弥陀仏
「光る世を抱きつつむ ― 伝道の旅人 暁烏 敏 ―」字幕版 - YouTube

教団の歴史

本願寺の軌跡 -創建から東西分派、そして現代へ- 草野顕之著

2021-11-14
『中外日報』の書評

日本仏教史や真宗史の研究で知られる著者が真宗大谷派の月刊誌『同朋』の2020年7月号~21年2月号に計8回連載した「本廟創立と東本願寺の歴史-その時代と教えの伝統」と加筆分を集成した一冊で、本願寺の起源となった大谷廟堂から現在の真宗本廟(東本願寺)に至る歴史を専門的な知見や写真・図を交えて平易に叙述している。

『同朋』の連載と本書の刊行は今年が大谷廟堂の建立から750年の節目に当たることを踏まえたもので、全9章で構成。親鸞聖人の墓所である大谷廟堂が京都・吉水の北はずれに創建された経緯から覚如上人による寺院化、蓮如上人の中興、戦国期の本願寺教団の権門化、石山合戦と東西分派までを取り上げた『同朋』の連載に加え、第9章「江戸時代から近現代の真宗本廟」を書き下ろした。

近年の研究を踏まえた知見も盛り込まれている。例えば、廟堂の管理者の継職を巡って覚恵と唯善が争った唯善事件について、唯善の「野望」や「策謀」との従来の評価に対し、中世の土地寄進や返還に関する慣習から唯善の主張が「社会的には一定程度の正当性を持って受け入れられました」との側面を解説している点が興味深い。

全編80㌻余りの短めの分量で読みやすい一方、内容の密度も濃い良書だ。

定価1540円、東本願寺出版(電話075・371・9189)刊。

京都 真宗本廟(東本願寺)春の法要・ご参拝・インターネットライブ配信のご案内

2022-02-25
東本願寺第22代。現如上人、1923年、72歳で示寂。本年は百回忌にあたる。

現如上人【1852年〜1923年】

東本願寺第22代。現如上人は、1852年7月に第21代嚴如上人の第5子として出生。1870年、北海道に渡り道内の開拓を行う。1872年には欧州を訪問し海外の政教を視察する。その後1889年10月、東本願寺第22代を継職。蛤御門の変によって焼失した両堂の再建に着手し、1895年に落慶。教団や教学のさらなる近代的発展につとめた。1923年、72歳で示寂。本年は百回忌にあたる。


4月1日から4日、今年も真宗本廟(東本願寺)において、春の法要が勤まります。
聖徳太子・七高僧をはじめ本願念仏のみ教えを伝えられた
師主知識の恩徳を讃える「師徳奉讃法要」、
親鸞聖人のご生誕をよろこぶ「親鸞聖人御誕生会」、
歴史に学び平和の願いを確かめる「全戦没者追弔法会」などの法要を
「春の法要」と称して勤めています。
また今年は、北海道開拓や蛤御門の変で焼失した両堂再建に尽力した
第22代現如上人の100回忌の法要も勤修されます。

英雄たちの選択「信長最大の敵・大坂本願寺~歴史を変えた11年戦争~」

2022-02-02

信長を最も苦しめた大坂本願寺。本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が激突した木津川口の戦いの真相、そして信長・本願寺11年戦争が歴史に残した驚くべき結末に迫る。

戦国の覇者・織田信長を最も苦しめた敵とされる大坂本願寺。顕如率いる各地の門徒たちと信長との戦いは泥沼化し、11年の長期に及んだ。最大の分岐点となったのが、二度にわたる「木津川口の戦い」だ。本願寺を支援し、兵糧を送っていた毛利水軍と織田水軍が激突した海戦である。信長の鉄甲船は実在したのか?新発見の絵図から読み解く両軍の海の戦略とは?そして信長と本願寺の戦いが歴史に残した驚くべき結末とは?

【ゲスト】奈良大学教授(元学長)…千田嘉博,共立女子大学教授…堀新,哲学者・津田塾大学 教授…萱野稔人,【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊

大阪は、商いの街、船場の商人をはじめとして、商業都市として発展していきましたが、同時に古くから真宗伝道の拠点でありました。

大坂の町は、本願寺第8代蓮如上人が、明応5年(1496)、「摂津国東成郡生玉之庄内大坂」、今の大阪城あたりに一宇の坊舎を建立されたことに始まります。天文元年(1532)、畿内天文一揆で山科本願寺が焼失されるに至り、翌年、御真影が大坂御坊に遷座になり、大坂御坊は本山として、その後、寺内、親町六町、枝町四町余りを有す独立した自治的宗教都市の様相を呈して、大いに発展していきました。その後、戦国動乱の世、織田信長との11年にも及ぶ争い(石山合戦)の末、本願寺は紀州鷺森・貝塚・天満に寺基を移しました。そして天正19年(1591)、第11代宗主顕如上人によって、寺基が京都に移されました。 大坂の門徒は、大坂での「お念仏」の灯りをまもるため、天正19年(1591)、天満に近い「楼(ろう)の岸」に念仏の集会所を設けました。その後、慶長2年(1597)の町割改革によって、「円江(つぶらえ)、津村郷」と呼ばれていた現在の地に移転し、「津村御坊」と称するようになります。これが本願寺津村別院(北御堂・御堂さん)の始まりです。 津村別院は、真宗大谷派の難波別院(南御堂)に対して、“北御堂”と呼ばれ、その近くには、篤信な門徒たち(商人など)が集まり、「御堂さんの屋根が見える、御堂さんの鐘が聞こえる場所にのれんを張る」ことを合言葉に、船場の町を形成し、商都大阪の礎を築いていったのです。 また、門前を通る大阪を代表する道は、南北両御堂に因んで、「御堂筋」と命名され、商都大阪の流通の中心的役割を担い、今も人々に親しまれています。 また、権力に決して迎合しない大阪人気質は、大坂本願寺の寺内町形成以来、お念仏に生かされる御同朋御同行の平座の精神が受け継がれ、その精神的基盤が根底にあると言えるのではないでしょうか。
このように、大阪と本願寺・北御堂の関係は、発祥から現在に至るまで、信仰だけにとどまらず、政治・経済・社会・文化、そして生活する人々の背景と根底に、念仏の教えが息づいており、切っても切れない相関関係の上で成立、発展してきました。 しかし、大阪といえば、太閤豊臣秀吉のイメージが強く、本願寺が大きく関わってきた歴史が一般の人々に周知されているとは言い難い現状でもあります。かつては、家庭や地域の中で自然と身についていた真宗の教えも、現在は「人」のつながりが希薄となり、伝わりにくい環境ともなっています。 そこで、歴史的資料の実物や、映像・パネル・レプリカ等を用い、また大坂本願寺寺内町を復元したジオラマ展示などを行い、改めて一般の人々に本願寺、北御堂の事業や歴史等を説明する展示施設を設立し、多くの方々に歴史的な存在を通じて、共有されてきた過去を表現し、その歴史をひも解く中で、大都市「大阪」の中心で、その年代に生きた人びとの心の依りどころとして存在した本願寺(津村別院・北御堂)の歴史を表現したいと考えます。
そして、今までお寺と縁の薄かった方でも気軽に訪れていただき、「浄土真宗」とのつながりを深めていただく機縁となることを願いとしています。

谷井健三「木津川沖海戦想像図」1986

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
谷井健三「木津川沖海戦想像図」1986
戦国時代、軍船技術は急速に発達し、近代海軍の戦艦に相当する攻防力に富む軍船安宅船を生んだ。500石から2000石積と大小はあったが、船体上部に堅木の装甲板を張りつめた総矢倉を設け、兵士と漕手を守るとともに多数の狭間から鉄砲や弓で攻撃できるのを特徴とした。上の海戦想像図は天正6年(1578)、石山本願を救援する毛利水軍を木津川沖で壊滅させた信長の大安宅船。鉄板の装甲は天正4年の難波沖海戦の際、毛利水軍の焼夷弾、焙烙で打撃をうけた対策として考えられ、これにより毛利水軍の攻撃は通ぜず、大敗した(石井謙治)。『週刊朝日百科日本の歴史27』より=図も。

本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍が得意とした焙烙火矢に対する装甲としたと伝わる。しかし、これを直接的に示している同時代の史料は『多門院日記』しかなく、その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。第二次木津川口の戦いについて詳細に記載しているオルガンチノの報告書では、「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」とあるだけで装甲の有無には触れておらず、『信長公記』においても装甲の有無については記載がない。このため、鉄張り装甲を持っていたのか、という点が疑問となっている(ウィキペディア)。

「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)
織田信長と摂津国石山本願寺に拠る本願寺第 11世顕如との間で元亀1 (1570) 年から天正8 (80) 年までの 11年間にわたって続けられた合戦。室町時代中期以降,浄土真宗 (一向宗) 教団の伸張は著しく,一向一揆は,領主,守護大名などに対する戦いを広範囲に展開した。本願寺第 10世証如は,第8世蓮如の建立した石山道場を同宗の本寺とし,寺域を広げ,防備を固め,門前に新興商工業者を集め,やがて同寺は一大領主勢力に発展した。浅井,朝倉両氏を討って全国統一を目指す織田信長は元亀1年,本願寺打倒に立上がり,本願寺はその興廃をかけて全国門徒を対信長戦に駆りたてた。以来,天正8年3月,顕如が信長と和して本願寺を信長に渡し,同年4月,紀伊雑賀 (さいが) に退くまで合戦は続けられた。この間,信長は一向宗門徒を近江,長島,雑賀に討ち,浅井,朝倉両氏を滅ぼし,武田氏を長篠に討ち,さらに伊勢に北畠氏を滅ぼし,一方,中国征伐の軍を起すなど,本願寺を孤立させていった。石山本願寺の降伏は,信長の畿内および周辺に対する政権の確立を意味する(百科事典マイペディア「石山合戦」)。

宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃のページ

5月29日(日)で「慶讃法要まであと300日」となりました

2022-05-30
【慶讃トダウン看板」が納品され、内局をはじめ、職員や
法要までのカウントダウンを開始】
5月29日(日)で「慶讃法要まであと300日」となりました
前日の28日に、慶讃法要までの日数をお知らせする「カウントダウン看板」が納品され、内局をはじめ、 
その家族30名ほどが立ち合いました
29日から御影堂門下に設置され、今後慶讃法要まで300日間、毎日カウントダウンし、参拝の方や通行の方に慶讃法要までの日数をお知らせしていきます
ご参拝に来られた際には、ぜひ写真撮影のスポットとしてもご活用ください

旗印です。

2021-12-01

宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要特設サイト

2021-09-26
真宗大谷派(東本願寺) (higashihonganji.or.jp)

立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―

2021-04-25

真宗本廟(東本願寺)において、2023年に勤まる宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要を記念して制作した動画です。
 浄土真宗立教開宗の書として、大切に読まれ、現在まで伝えられてきた親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』。
 聖人の筆跡を感じ、思索にふれていただけるよう聖人直筆の『教行信証』(坂東本)を紹介します。

「立教開宗の書『教行信証』展」

2021-04-03
HP東本願寺/写真日記 2021年4月1日 更新
親鸞聖人直筆『教行信証』「坂東本」のパネルを展示しています

参拝接待所ギャラリーでは、「立教開宗の書『教行信証』展」を行っています。こちらの展示内容も、配信でご覧いただけます。

「立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―」についてはこちら

立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―

聖徳太子1400年忌法要のベージ

皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。

2022-04-20
「中外日報」より

皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。

宮内庁が管理する各陵墓では毎年の没日に正辰祭が営まれており、節目の年には式年祭がある。天皇陵の式年祭のような奉幣は皇族墓では行われておらず、儀式内容は例年の正辰祭と変わらない。磯長墓は考古学的には「叡福寺北古墳」と呼ばれ、没年とややずれる7世紀後半の様式を示すが、太子の墓の可能性が高いと考えられている。

師の慧慈和尚偲ぶ 聖徳太子1400年御聖忌御正當法要 宝前に両像、功績たたえる 

2022-02-25
慧慈和尚(宝前右)をたたえる慶讃文を読む般若寺の福嶋住職
和宗総本山四天王寺
中外日報 2022年2月25日 13時59分
聖徳太子1400年御聖忌慶讃大法会が営まれている和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区)で22日、御正當報恩慶讃法要が厳修された。法要では太子に仏法を教えたとされる慧慈和尚の千四百回忌報恩法要を併せて奉修し、遺徳を偲んだ。(詳細は2022年2月25日号をご覧ください

浄土真宗における聖徳太子―千四百回忌を迎えて―

2022-02-02

◎飛鳥の王権と聖徳太子

2021-05-24
Facebook佐々木信雄さん曰く
6th Century Chronicle 581-600年】
6th Century Chronicle 581-600年】
◎飛鳥の王権と聖徳太子
*585/ 敏達天皇が没し、用明天皇が即位する。
*587/ 用明天皇が没し、崇峻天皇が即位する。
*587/ 蘇我馬子が穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋を滅ぼす。
*592.12.8/ 蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇に代わって、推古天皇が即位する。
*593.4.10/ 聖徳太子(厩戸皇子)が国政に参画する。
 585年、「敏達天皇」崩御を受け「用明天皇」が即位する。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は崇仏派であり仏法を重んじたが、在位2年足らずの587年に、用明天皇は崩御した。後継問題で、大連の物部守屋は「穴穂部皇子」を即位させようとはかるが、蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋をも射ころさせ、物部氏を滅亡に追い込む(丁未の乱)。
 蘇我馬子によって「崇峻天皇」が即位するが、実権を馬子が握られている不満から反発しだすと、馬子は計略で暗殺してしまった。その馬子に請われて、先々代敏達天皇の皇后であった額田部皇女が、592年、史上初の女帝として即位、「推古天皇」(39歳)となる。
 593年、用明天皇の子で甥の厩戸皇子(聖徳太子)を、皇太子として国政を補佐させる。推古天皇は、皇太子厩戸皇子と大臣蘇我馬子の勢力の均衡を保ち、馬子が葛城県の支配権を望んだ時も、毅然とこの要求を拒絶したという。
 推古女帝のもと、聖徳太子は蘇我馬子と協調して、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定し、法令や組織の整備を進めた。また607年には、小野妹子を隋に派遣(遣隋使)し、中国皇帝に日本の独立性を示した。
 594年推古天皇は、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔勅(三宝興隆の詔)を示し、太子や馬子と共に仏法興隆に努め、斑鳩に法隆寺を建立させるなど仏教を奨励した。620年、聖徳太子と馬子は「天皇記」「国記」を編纂して、国の歴史を記した。
 622年に太子が49歳で薨去し、更に4年後の626年、蘇我馬子も亡くなる。そして628年、推古天皇は75歳で崩御した。推古天皇は継嗣を定めていなかったため、馬子の後を受けた蘇我蝦夷は、後継候補の田村皇子と山背大兄王から、田村皇子を擁立して「舒明天皇」とした。
 こうして政治の実権は、蘇我蝦夷・入鹿父子に握られ、入鹿は聖徳太子の子「山背大兄王」を攻めほろぼしてしまう。これを皇統政治の危機と見た中大兄皇子や中臣鎌足は、入鹿を殺し「大化の改新」を開始する。ここに飛鳥のヤマト政権は、大きな転換期をむかえることになる。
(この時期の出来事)
*598/ 蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)を発願して建立をはじめ、593年塔の心礎に仏舎利を納める。
*593/ 難波に四天王寺が建立される。
*594/ 三宝興隆の詔が出され、諸氏が競って寺を建立する。

真宗大谷派善重寺(茨城県水戸市・二十四輩旧蹟)の聖徳太子立像

2022-01-31
Facebook 山口昭彦さん曰く
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