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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

柳田邦男さんのことばより

2021-01-02
HP九州教務所 「今月の言葉」16より

相手を思い返す現在の自分の中に、亡き人は生きているのです柳田 邦男

朝日新聞(2020年12月3日)のインタビューより。

 

コロナ感染症の対策のために、医療機関や福祉施設では面会が規制される中、家族と一度もあえないまま死別する例が多くなっている。

 

突然の死別に、あいまいな喪失感を抱き葛藤に苦しむ家族を取材してきたノンフィクション作家の柳田氏は、「その場で手を握り、体をさすり、耳元で声をかける。ぬくもりが言わば『心の血流』となって伝わります」「コロナ患者を受け入れた病院が感染防止だけを考えるなら、患者と会いたい家族は邪魔になる。科学主義を突き詰めればそれが結論です。でもたとえ重症化した人でも、ウイルスと治療の拮抗関係の中にだけ生命があるわけではない。医学的な命とは別に、家族や恋人など人間関係による心の営みが生きる上で不可欠です」と語る。

 

表題の「相手を思い返す現在の自分の中に、亡き人は生きているのです」という言葉は、インタビュー後半で死者との関係性のことを語られたくだりであるが、医学や科学のものさしで語られる「生命」だけでなく、様々な関係性や心の中にある他者のぬくもりによって、割り切れない、そして時代や空間を超えた「いのち」があることを想う。

 

感染対策と、人間同士の営み。そのはざまで揺れた2020年であったのではないだろうか。

(文/溝邊伸)

高光大船先生のことばより

2021-01-02
HP九州教務所 「今月の言葉」より

人は法を求むるに止まって、  法に生きることを忘れている高光大船

ある日、東本願寺の渡り廊下を歩いていると、掲示されているこの言葉に足が止まった。

「私は学習会に行ったりしているが、その場に行ったことに満足してそこから何か変わっただろうか。ただの知識になっているのではないか」

 

前々から思ってはいたけれど、なるべく考えないようにしていた自分の心を言い当てられたような気がして、ぎくっとしたからである。

 

今まで何度も「生活の中で念仏するのではなく、念仏の上に生活がいとなまれる」と和田稠先生の言葉を講義などで、うんうんと頷きつつ聞いてきた。しかし、できていない自分に気づきはしても「あ~できないなぁ」で終わらせている私がいた。

 

見ないふりをしていたのである。

法を求めるふりをして、そういう場に行って学ぶ自分という自己満足を満たすためにいっていたのではないかと、この言葉を見た時に感じた。

 

同時に「はたして私は法を求めているのだろうか、法を求めるとはどういうことなのか。

法に生きるとはどういうことなのか、お念仏の生活が頂けているだろうか」という問題から目をそらすな、如来の、私の声を聞きなさいと言われている言葉のように感じた。

(文/林田 真貴子)

田畑先生の投稿

2020-12-31
善知識:細川巌先生のことば
我々は仏法をいただき南無阿弥陀仏に遇わせていただくが決してエリートではない。
何か出来上がった優れた存在になったと思ってはならない。
    群萌に徹して行くということ。
そこに自己を知るという事がある。
そうして与えられた南無阿弥陀仏が最上無上の法であることを、いよいよ深く知ることが釈尊の本願に順じて行く道である。
    極悪最下の自己と目覚めて最上の法を仰ぐ、このようになるのが仏法の中心点である。
群萌と目覚めて最上の法を生きることができる。
それが私の本当の生き方であると教えられているのである。
                 細川巌 著「教行信証教巻講義3」p.288より

祈りということ Facebook百々海 真さんの投稿より

2020-12-28
『真宗の祈願』 曽我量深著
暁烏敏「真実の祈り」
『真宗の祈願』の一節がふと浮かんできた。
以下『曽我量深選集第10巻』から抜粋。(現代かな等表記を一部改めた)
〇如来の本願を以て浄土真宗の祈願とするのである。
〇世間普通の祈りは我々衆生が仏に向かっている祈りである。今弥陀の本願は仏が衆生の為に祈る所の祈りである。
〇真宗の祈りは本願である。・・真宗とは何ぞや、真実の祈りということであります。偽りの祈りに対して真実の祈りを宗とするのであります。

そんな状況下、曽我師の玉稿に加えて、暁烏師の次の一文が「真実の祈り」の内実を示唆して下さる。味読したい。南無阿弥陀仏
『人生のことにやや真面目になってくると神仏に祈らずにおられなくなります。神仏に祈っていた者がもっと真面目になってくると、祈ってはおられぬようになってまいります。ここに、泣きつつも、悩みつつも自分の道を一人で行かねばならぬようになってまいります』(『暁烏敏全集』第6巻49頁)

蘭遠忌50年

2020-12-24
12月24日、親鸞仏教センターにおいて、宗祖の報恩講、臘扇忌、鸞音忌が兼修にて勤まりました。
特に今年は鸞音忌、無極院釋量深・曽我量深の50回忌に当たります。全国各地で準備されていた鸞音忌が延期を選択せざるを得ない状況の中、親鸞仏教センターも当初に予定していた6月を延期していましたが、今年ギリギリまで引き伸ばし、12月の最後に三法要の兼修として厳修となりました。
ほっと安堵するとともに、この法要を最も大切にされており、今年8月に還浄された中津功氏に思いを至す時となりました。
※脇掛の清沢・曽我両師の法名軸は、松原祐善氏の揮毫
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