本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

なるほど仏事

2021-01-25
Hp九州教区「よみもの」より

法蔵菩薩

2021-01-07
895

『大無量寿経』だけで法蔵菩薩を見ると
法蔵菩薩というのは文学的表現です。
神話というわけではないけれども神話的な表現になる。
昔話です。
「仏、阿難に告げたまわく、
乃往過去、久遠無量不可思議無央数劫に、錠光如来、世に興出して、
無量の衆生を教化し度脱して、
みな道を得せしめて乃し滅度を取りたまいき」と。
昔々大昔という意味です。
ただこれは如来の昔話だと。
14



2021-01-04
FacebookYasuda Rizin
892


信ずるという字は
これは信用組合の信用という意味もあり、
また信仰するとか、分からないから信ずるのだとか。
信という概念は非常に広い。
ただ、宗教心という場合の信は、
宗教の本質としての信です。
その場合、その信は二種深信でしょう。
これをはずれると
「習慣としての教団」はあるけれども
「宗教としての教団」はなくなるのです。

893

二種深信を失ったら、宗教でなくなってしまうのです。
ただ寺門の経営ということになる。
だから事業として葬式をすると。
それから安心信心といってもただ「有り難くなりたい」というだけです。
有り難くなるということは眠ることでしょう。
覚めることではない。
つまり信心が欲しいのではないのです。
有り難いのが欲しいのです。

田畑先生から

2021-01-06
聖覚法印のはなし
こういう文章に出会いました。
聖覚法印は法然聖人の43歳まで学仏を次のように書いています。
「ある時聖人、予に語りてのたまわく。法相・三論・天台・華厳・真言・仏心(禅宗)の諸大乗の宗、遍(あまね)く学び、悉(ことごと)く明(あけ)すに、入門は異なると雖(いえど)も、皆仏性の一理を悟り顕(あら)わすことを明(あか)す。所詮は一致なり。
されど、法は深妙なれども、わが機(ちから)すべて及び難し。経典を披覧するに、その智、もっとも愚なり。行法を修習するに、その心ひるがえってくらし。
朝、朝に定めて悪趣に沈まんことを恐怖す。夕、夕に出離の縁の欠けたることを悲歎す。茫(ぼう)々たる恨(うら)みには渡(わた)るに船を失うが如し、朦(もう)々たる憂いには闇に道に迷うが如し。
歎(なげ)きながら如来の教法を習(なら)い、悲しみながら人師の解釈を学ぶ。黒谷の報恩蔵(ぞう)に入りて、一切経を披見することすでに五遍におよびぬ。しかれどもなおいまだ出離の要法を悟り得ず。愁情いよいよ深く、学意ますます盛んなり。
ここに善因たちまち熟し、宿縁とみに顕(あらわ)れ、善導和尚勧化の書を拝見するに、末代造悪の凡夫の出離生死の旨をたやすく定め給えり。ほぼ管見していまだ玄意(げんい)をきわめずといえども、随喜(ずいき)身に余り、身毛(みのけ)もよだって、とりわき見ること八遍。時に観経の散善義の、一心専念弥陀名号……順彼仏願故の文(もん)にいたって、善導の玄意を得たり。
随喜のあまり、あたりに聞く人なかりしかども、予がごときの下機の行法は、阿弥陀仏の法蔵因位の昔、かねて定めおかるるをや、と声高にとなえて、感悦(かんえつ)髄(ずい)にとおり、落涙千行なりき。終(つい)に承安五年の春、齢43歳の時、たちどころに余行をすてて、一向専修念仏門に入りたもう」と、まのあたり眼に見るように描写し出されてあります。
一心専念の文とは「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近を問わず、念じ念じて捨てざれば、これを正定の業と名く。彼の仏願に順ずる故に」とあるので聖人はこれによって「往生の業、念仏為本」と決定の信を獲られたのであります。

田畑正久先生の投稿

2021-01-05
1月1日の円徳寺修正会での住職さんの法話
古き我れ 崩れ去る音 南無阿弥陀仏
新しき吾れ 生まれ出ずる聲 南無阿弥陀仏  

釈秀道(福岡市中央区天神、光園寺故前住職、円日成道)
TOPへ戻る