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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

大谷大学のあゆみ -開創350年 学寮とその時代-開催にあたって

2024-07-28
2015年度春季企画展
2015年度春季企画展
大谷大学のあゆみ -開創350年 学寮とその時代-開催にあたって
大谷大学の前身である東本願寺の「学寮」は、寛文5年(1665)に渉成園(枳殻邸)に創設されました。本年はこの創設から350年にあたります。学寮は、近世における宗学形成の場として、また広く寺院子弟への教学教育の場として隆盛しました。
本展覧会は、「学寮の創設と高倉移転」「高倉学寮講師と近世宗学の形成」「護法場の開設」の3つのテーマによって構成しています。大谷大学の前身を担った先学たちの尊い営みの一端を感じていただければ幸いに存じます。

「大谷大学のあゆみ -大学の前身・学寮の時代-」

2024-07-28
2005年度春季企画展
2005年度春季企画展
「大谷大学のあゆみ -大学の前身・学寮の時代-」
大谷大学の歴史は、1665(寛文五)年の学寮創設に始まります。すなわち大谷派の末寺子弟の教育機関として東本願寺の別邸渉成園(枳殻邸)内に学寮が設けられたのが最初です。その後学寮は順次施設も整備され、敷地も移転して、1715(正徳五)年に初代講師となった光遠院恵空の時期には学問は特に隆盛となります。その後もさかんな研学の要求に応え、更に高倉魚棚の地に移転して学寮の規則や、講師・嗣講・擬講の講者(教員)制度、監寮・上首・寮司などの職員制度を定め、所化(学生)の指導にあたりました。この学寮は高倉学寮と呼ばれ、明示末年まで存続し重要な役割を果たしました。 この学寮は近代に入り漸次学校制度に発展し、貫練場・貫練教校と改称してゆきます。さらに1882(明治15)年には名称も大学寮と改め、機構・制度も改編して東本願寺の宗学に加え、広く一般の学問教育をも行い、やがて真宗大学・真宗大谷大学・大谷大学へと発展してゆく基盤となりました。
 一方、明治の日本近代化に際しては、仏教界にも大きな変革が要求され、排仏毀釈の問題や、キリスト教の問題に対応するため、1868(慶応四・明治元)年には高倉学寮の分場として護法場が設けられ、国学・儒学・天学(天文地理)・洋教(キリスト教)の四科が教授されることとなりました。ここで広い教養に基づき仏教を学ぶという、現代にも通じる基本方針が立てられたとも言えます。しかし、改革を喜ばない守旧派の刺客によって、護法場の総管であった闡彰院空覚が暗殺されるという衝撃的事件により護法場は事実上終焉を迎えることとなりました。
 今回の展示では、これら大谷大学の前身である学寮の時代に焦点をあて、【高倉の学寮】【近世宗学の形成】【維新期の護法場】の三つの視点から関係する資料を展示します。大谷大学の歴史だけではなく、近代的教育の前史を見ることにもなろうと思います。

2023年度春季企画展 大谷大学のあゆみ 大学の前身 学寮の時代

2023-04-06
開催にあたって
大谷大学の前身である東本願寺の学問機関「学寮」は、江戸時代の寛文5年(1665)、東本願寺飛地境内の渉成園(枳殻邸)内に創設されました。宝暦5年(1755)に高倉の地に移転してからは「高倉学寮」と称され、江戸時代の宗学研究・研鑽の場として隆盛し、全国寺院子弟らの教育の場として発展しました。
 
明治維新期には、激動の時代の要請に応える「護法場」が設けられ、国学・儒学・天学(天文地理)・洋教(キリスト教)などを広く研究したうえで、仏教を学ぶ場となりました。
 
本展覧会は「学寮の創設と高倉移転」、「講師と近世宗学」「維新の動乱と護法場」の3つのテーマで構成しています。大谷大学の基礎を築いた先学たちの尊い営みの一端を感じていただければ幸いです。

「固執」が悪いのです。

2022-12-28
facebook Yasuda Rizinさん曰く
1572

だから
分別そのものが悪いという意味ではないのです。
分別そのものは、別に悪いものではないでしょう。
ただその「固執」が悪いのです。
分別が悪い、
無分別のほうがいいと言ったって、
そうはならないのではないかね。

本願が働く場所

2022-12-24
facebook Yasuda Rizinさん曰く
1568
そうして妄想が取れれば、
そこにある現実は
何かというと
宿業の身が残っているだけです。
実は
その宿業の身が
本願が働く場所なのです。
自心は働くのを拒むのです。
そうでしょう。
現実の大地、宿業の身が大地です。
足が地に着いたのです。
これを離れたら全部観念論です。
喜んで死ぬる
1567
たすからない身であると言ったなら、
その時たすかろうとしていた自身が死ぬるのです。
ただ押し込まれて死ぬるのではない。
喜んで死ぬるのです。
自心が妄想であったということが知らされるのです。
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