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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

摂取不捨の利益

2020-07-27

「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」 

           (『歎異抄』第一章)


 この言葉について、佐野明弘師が、「『念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき』如来が成就し衆生が成就する。如来と私を信心で結ぶのではない」と言われた。
 私は、それまで、やはり私がおって、その私のところに「念仏もうさんとおもいたつこころがおこる」と、そういうふうにイメージしていた。佐野先生のこの言葉にふれて、そうではなかったと知らされた。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」、久遠の昔から迷いに沈み行き場を失ってさ迷い続けてきた自身が、初めて生れ、また、その自身を呼び続けていてくださる如来が、初めて生れるのだった。そのような久遠の時間世界が開かれ、久遠の自己が生れることを、「摂取不捨の利益」と言われていたのだと知らされた。

【住岡夜晃法語】

2020-07-20
洗濯する時に料理はできない
作(な)すことは一事である
しかしその中に動くものは全人格である
念仏一つに生きる
それが全人格の動きである時
我らはそれを救済といい信念とよぶ
 
【住岡夜晃法語】

田畑正久先生のことば

2021-06-03
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第395回
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第395回
(令和3年2月8日掲載) 医療文化と仏教文化(221)
    人間の幸福を考えるとき「人間存在をどう考えるか」ということが大切になります。
    ある生命倫理学者が医療従事者に「人を人として見ていないような視点がある。そのことを自覚する必要があります」と苦言を呈していました。その理由として、人が人を見る場合の4つの次元を提示しています。(1)「生命」、生物学的視点。(2)「生きている身」、身体を持って具体的に生活する存在。(3)「人生」、生まれる・死ぬことや生きることの意味、存在の意味。(4)「いのち」……生きていることの全体、自我意識が生まれる前から身体は存在し、身体が死んでからも周りに影響している。(死んだ人を)憶念する人がいる限り、その存在がはたらきかけている。
    今、私が生きていることにおいて、生物学的「生命」より「いのち」と周りとの関係(関係存在)の方が圧倒的に大きいことは自我意識の強い現代人でも実感できるでしょう。
    人間存在をどの次元で受けとめているかが対人援助の医学・医療では問われます。
    私自身は現在、療養型病棟の入院患者約50人の担当医をしていますが、患者さんの把握には病歴、日々の身体状況、栄養状態、発熱の有無などの情報を考慮しています。しかし、患者さんの人生観や信条、職業歴、価値観、何を大事にして生きてきたということはほとんど把握できていません。これは生命の部分的な情報によって患者さんを把握している(つもり)ということです。時間外に看護師から入院患者の異常の電話相談を受けた時も、回診時の患者の状態と記憶している個人情報で対応しています。外来診療で長いご縁があった患者や知人の場合は、その人の人生を憶念することはあるのですが、接点の短い患者の日常診療では医療的な情報で間に合わせていますが、「人を人として見ていないような視点がある」と指摘されると、「申し分けない」と自省するしかありません。
    国の進める(人生の最後をどう迎えるかを協議する)「人生会議」の席に、患者や家族の意向を述べる関係者や、幅広く人を人と見る視点、医療従事者とは違った視点で発言してくれる宗教者にも参加して欲しいと願っています。

田畑正久先生のことば

2020-11-06
大分合同新聞医療欄
「今を生きる」第385回
(令和2年8月10日掲載)
医療文化と仏教文化(211)
仏教の言葉に「おのれさえ おのれの ものでない」という言葉があります。
自我意識ができる前に身体は生まれてきています。自我意識は成長と共に発達してきます。意識自体は眼、鼻、耳、舌、身の五つの感覚器官で感じたものをまとめて認識する機能を持っています。意識は幼い頃はあるがままの自分を受け止めて生きていたのです。身体の快・不快、痛い、かゆいは身体的表現で知らせるでしょうが、心の不足不満はあまり感じてなかったでしょう、比較することがないのですから。
身体と意識機能はコンピュ-ターのハード(固定した装置)みたいなものです。そのハードをどういうソフト(運用方法など)で使うかは、発育の過程での周囲の環境から学ぶのです。日本に住んでいるならば、日本語を学び、生活習慣を身に付け、遊びなどの人間関係で社会性を学び、学校で基礎文化を教えられます。
 成長と共に自我意識が発達して私という「我」があり、私の「身体」、そして種々の「我が物」があると考えるようになってきます。意識は後に出てきたのに、身体を自分の持ち物のように私有化していきます。そしていつの間にか管理支配するようになっています。しかし、厳密には身体は「縁起の法」によって成り立ち、動いています。
身体は法によって動くために、背の高低、病気になる、走るのが遅い、容姿が親に似ているなど、自我意識の思い通りにならないことが起こります。するとそのことが苦や悩みになります。自我意識は自分が悪いと全く思いませんから、その苦悩の原因を外に考えます。そして自分は被害者であるかのように思い、自分の置かれた状況に愚痴を言い始めるのです。何でこの両親の下に、何でこの家に、何でこの社会状況、時代状況の中に生まれてきたのかと。仏教では私自身の全ては私有化すべきではない、「賜(たまわ)り物です」と教えてくれるのです。

Facebook田畑正久先生より

2021-04-15
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第392回
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第392回
(令和2年12月21日掲載予定)
 医療文化と仏教文化(218)
    二十数年前、母校で医学部新入生に医学入門の一コマを担当していたことがありました。講義の後、教育担当教授が学生に「皆さんは命だけは大事にして下さい」、次いで「一人の医師を育てるのに国民の税金より5千万円かけていますからね」と言われたことが印象に残っています。
    今から60年以上前の米国の名門大学医学部の卒業式で、医学部長が医学生を教育する総コストに対して授業料は「七分の一以下」と概算し、医学生は大きな利益を享受していると指摘して次のように語っています。
    「このような計算は、医師に託したその厚い信義に対して、いつかは諸君が報いてくれるであろうと期待していた人々に、深く頭をたれて感謝の意を表するのもまた当然であることを思わせるに十分であろう」。 そして「いわば諸君は賭けられているのだ」とした上で、「諸君は必ずや自分が受け取ったものを、後に社会へ引き渡す立派な医師であることに多くの人々が賭けているのであるから、どうか諸君、下世話にいう『馬に賭けても人に賭けるな』の実例にならぬように十分に心掛けていただきたいのである」と呼び掛けました。
    医師を養成する大学の卒業式で「馬より劣る人間になるな」と言っているわけです。
    私自身、40歳ごろ新任地に赴任した時、仏教の師からのお手紙の一節に「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずるということは、今までお育て頂いたことへの報恩行です」という言葉があり、自分の利益だけしか考えていなかったと思いました。これを仏教では餓鬼といいます。間柄に支えられた存在、人間になれてなかった。私になされたご苦労を知る心を全く考慮してない、忘恩の存在であることを指摘されて、「参ったな、南無阿弥陀仏」と懺悔したことがありました。
    仏教は(心が)地獄・餓鬼・畜生の状態を脱して人間になり、そして人間として成長・成熟して菩薩・仏(自利利他円満)になる道を教えているのです
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