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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

安田理深先生の語録

2020-05-12
http://www.asahi-net.or.jp/~YI9H-URYU/tera/word/h-rizin.htm   検索サイトです。

信頼ということ

2020-04-03
【試聴】「浄土の教学」安田理深/法話CD「本願に生きた念仏者シリーズ」③|東本願寺出版
1980年真宗本廟同朋会館において行われた「同朋会運動の願いに聞く集い」での音声を収録。生涯、聞法の生活一筋で歩まれた安田理深師の熱のこもった講義。

法然上人という人

612
信頼、これは大事なことです。
教育というようなことは皆、そうなるのではないかね。
しゃべっていないと人が教化できないというのではない。
その人が居ることで人が救われてしまうと。
そういう、沈黙していても、会った者がなにかそこに力を得てくると。
こういうのが本当ではないかと思うのです。

 

613
親鸞は法然に会ってはじめて、
これは知識人ではないと。
本当の人だと。
だからそれを逆に言えば、弁解しない人です。それは
「あなたの間違いではないか」と言われて
「いや、そうでない」と言い返さないのです。弁解しない。
「その通りです」と言うのです。
そういう、自己を弁解しない人というのが、
初めて信頼できる人ではないかと思います。
法然上人はそういう人だったのです。
単に噂を聞いているあいだは分からなかったのです。
親鸞は法然上人の噂は聞いていたのでしょう。その噂を通してみるとあまり法然上人の生き方を親鸞は好まなかったのでしょう。
むしろ好むのは源信僧都です。


 

人間が完成する

2020-05-04

646
信心の問題といっても宗教の問題といっても
人間と別にそういうものがあるわけではない。
人間が完成するというところに
宗教というものの問題があるのでしょう。
宗教は人間について「付け足し」の問題ではないのです。
宗教というものがなければ人間は完成しないのです。

647
人間だけで人間が完成するものではないと。
宗教問題と人間問題というものは一つだと。
こういうようなことが
基礎になっているのではないかと思うのです。
「いや人間の問題は人間だけで十分だ」と、
そういう考えも一つの考えだけれども、
そうではないでしょう。
人間というものは、
人間では解決できない問題を自己の問題とする。
それが人間なのだと。
こういうわけです。

648
神というものを立てるときに、
神は不思議だというけれどもそうではない。
人間のほうが不思議であると。
この不思議な存在、それが人間であると。
人間というものは、
人間にわからないような問題を持っているのです。
人間以上の問題を持っている。
それが人間である。

649
人間の問題は人間でやる、
人間以外の力は要らないと。
こういう一つの「人間で人間を決めた」考え方です。
しかし人間の持っている問題は、
人間の能力を超えた問題なのです。
それが却って人間の問題であると。
であるからして
宗教問題と人間の問題が一つになってくる。
だから
宗教問題は
人間にとって贅沢な・要らない問題ではない。
隠居した問題ではない。
隠居になると
これはどうなるかというと、
風習になってしまう。
風習です。
習慣になってしまうのです。

創作ということ

2020-04-26
642
自分の造ったものが自分の中に入るのなら、
その創作品はまだ未完成だと。
自分の造ったものに

分が驚くと。
あぁ…、と作者自身が作者を忘れた。
造ったものによって
作者自身がびっくりすると。
こういうところに
創作というものがあるのです。


644
作るものは因であり、
その因によって作られた結果のほうは、
逆に因の意義をもってくると。
だから
親が子をつくれば親は因であるし
子は結果です。
しかし

子がなければ親ではない。
ただの男女です。
そうすれば
逆に親のほうは果になるわけです。
子どものほうが因になる。
因果が逆倒してくる。
この因果の逆倒ということが
非常に大事なことです。
知とか行ではまだ逆倒が無いけれども、
作るということになると
因果が逆倒してくる。

解を学ぶということ

2020-04-19
知るということ

634
学というものは、
「解ゲ」に関する学と
「行ギョウ」に関する学と
二つ、善導は立てたわけです。
これはやはり
「知る」ということの学だけでは
学は尽くされないのです。
実行するという、
実践の学というところに
やはり人間の構造がある。
人間が人間になるために
学というものが出てくるのでしょう。
人間を完成するという意味が
学ということになるのでしょう。
それについて
いろいろ善導は
非常に大事なことを
言っているわけです。


635
解を学するという場合には、
一切を我々は学することが出来、
また学さなければならないと。
一切です。
どれをこれをではない。
一切を学するということが
要求されるし、また必要であると。
けれども
行の場合はそうはいかないと。
これは
有縁の法に藉(よ)れと。
縁のある法に藉れ
という具合に言うのです。
知るという場合は
自分に反対するものでも
知る必要があると。
自分に合うものではない。
自分に合わないものでも
知るためには必要であると。


636
仏教を学ぶ場合に、
仏教に反対する思想もあるだろうと。
「知る」というならば
それも知
る必要があると。
こういうようにやっていくのが
解学というものでしょう。
けれども
行の場合はそうではない。
「知ったこと」と「知った自分」とが
どうなるかと。
その知ったことで
自分は救われるのか、
救われないのかと。


637
解学のほうは
救われようが救われまいが
関係なしに
知っていかなければならない。
行の学は、
知るということは
私にとって、
自己にとって、
どういう問題かと。
知るのは自己を超えるのです。
けれども
自己ということが
問題になってくるというと、
きみのやった学問は
きみ自身にとっては
どういう意味をもつかと。
そういうような具合になってくる。

638
知られたものによって、
知るもの自身が解決されていく。

もっと広い言葉でいえば、
救われていくと。
「救い」というのは自己に関係する。
「知る」のは救いとは関係ない。
けれども、
自己の存在がそれによって解決されていく、
救われていくというようなことになると、
やはり
そこに「行」という字が出てくるのでしょう。
行学と。

639
行の学、
それは一切ではないのです。
縁の有る法に藉(よ)れ
と言ってあります。
非常に大事な言葉です。
有縁という言葉が出てきます。
人間の構造が
知と行の二つで完成する。
人間の構造に基づいて
人間を完成していくということが、
解・行、
この二つで表わされるのです。

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