ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
「門」ということ
Yasuda Rizinさん曰く
もっと言えばこれが「南無」ではないかね。
南無がほしいのです。
阿弥陀仏ばかりを求めても出てこない。
阿弥陀仏が南無になった。
だから我々は南無において阿弥陀仏に触れると。
南無阿弥陀仏の前に阿弥陀仏南無がある。
こう言うことが出来るでしょう。
南無がよく分からないのです。
それを南無を忘れて阿弥陀仏ばかりを探すのです。
そうするとそれは観想です。
観見ではない。
それが登り得るという確信でしょう。
こちらがかけたものは届いているかどうかわからないでしょう。
浄土に生まれたいということは、
もっと徹底していえば
浄土に生まれるような「道」がほしいということです。
そうでしょう。
求道の道です。
人は、道がほしいのです。
善導様です。
Facebook 根津美術館さん曰く
浄土の問題は『観経』ではどうかというと、
Facebook Yasuda Rizinさん曰く
韋提希夫人が初めて願に目覚めた時に
「我いま極楽世界の阿弥陀仏の所〈みもと〉に生まれんと楽〈ねが〉う」
と言った。
釈尊はそれまで沈黙を守っていた。
何も答えなかった。
言葉で韋提希を取り扱わない。
光です。
光は空気です。
恵信尼消息
Facebook 小栗洋慶さん曰く
【いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせ】
ここしばらくずっと、このお言葉が頭をよぎる。いま確かめておかなければ、きっと忘れ去ってしまうだろう。最近はとみに記憶力が低下してチグハグやテレコに記憶しているか全く忘れているか。それはそれで良いのかも知れないが、少しでもご恩を偲ぶよすがを…との思い南無南無
現代語版聖典」
「この文を書き記してお送りするのは、聖人が生きておられた頃
には、いっても仕方のないことと思っていましたが、今となっては、
このようなお方であったということも、せめてあなたのお心にとど
めていただこうと思って、書き記してお送りします。字の上手な人
にきれいに書かせて、お持ちになってください。
また、聖人のあの絵像一幅が欲しいと思います。あなたがまだ
幼くて八歳であった歳の四月十四日より、聖人がひどい風邪をお
ひきになった時のことなどを書き記しました。
わたしは今年で八十二歳になりました。一昨年の十一月から去
年の五月までは、今か今かと死ぬ時を待っていましたが、今日まで
生きています。けれども今年の飢饉では、飢え死にしてしまうかも
しれないと思っています。このようにそちらへ手紙を差しあげるの
に、一緒に何もお送りすることができないのはもどかしくてなりま
せんが、どうすることもできません。
益方殿にも、この手紙の内容を同じようにお伝えください。もの
を書くのも大変ですので、改めての手紙は差しあげません。
「弘長三年」
二月十日
恵信尼消息 2
この文を書きしるしてまゐらせ候ふも、生きさせたまひて候ひしほどは、申しても要候はねば申さず候ひしかど、いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせとて、しるしてまゐらせ候ふなり。よく書き候はん人によく書かせてもちまゐらせたまふべし。
またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり。幼く、御身の八つにておはしまし候ひし年の四月十四日より、かぜ大事におはしまし候ひしときのことどもを書きしるして候ふなり
仰せを蒙りて【音声・映像データ編】
【大谷大学として在る、意味。】~第28代木越康学長×第29代一楽真学長 対談動画
東本願寺真宗会館【公式】お坊さんの法話
お坊さんの法話2021年12月28日「親鸞からの風に吹かれて」
お坊さんの法話2022年5月28日「親鸞からの風に吹かれて」
池田勇諦(36分)「仏法は何を言おうとしているのか?」
2022年新年の法要[修正会]/法話:自己という名の原始林を拓く
金沢別院テレホン法話【星川 了 氏】2021年12月15日配信
1月15日配信 金沢別院ではテレホン法話を行っております。
仰せを蒙りて【アーカイブス 音声・映像データ編】
わが師ということ 本多弘之(親鸞仏教センター所長)
今年、2020年は、曽我量深先生の五十回忌に当たる。今から49年前の昭和46年(1971)に、学園紛争という大きな事件があった。機動隊による大学への介入という非常手段によって、やっと各大学の学生による封鎖が解かれた。大谷大学も全国の主流の大学にはいささか遅れたものの、学生による封鎖が解かれて、教員が大学に戻れる状態になったばかりの時点であった。96歳になられた師が、6月20日に命終されたのである。 師の生涯は、明治8年(1875)に新潟県の味方村に生誕し、京都市の東山今熊野のご自宅で命終されるまでの、筆舌に尽くせない難渋な状況の連続する一生であった。日本も明治維新前後から、近代化(西欧列強との角逐)に国を挙げて走り出し、英米等を相手にした世界戦争をくぐり、昭和20年(1945)、敗戦国になるまでの国難の時代だったことも大きな要因だったのであろう。 江戸時代の封建体制にあぐらをかいてきた仏教諸宗も、この時代の難関に少なからず動揺したことであった。真宗大谷派もこの近代の宗教や思想文化の著しい変換による難関に宗門を挙げて対面したのだが、なんと言っても清沢満之(1863~1903)という人を措いては、この宗門における近代を語ることはできない。曽我量深師は、若くしてこの清沢師に値遇して浄土真宗を生き抜く眼を開かれた人であった。 日本仏教にとっての近代とは、インドに発して中国を経て伝えられた大乗仏教に対して、ヨーロッパ経由の文献学的な仏伝や古代インドの仏教思想の研究によって、根本的に仏教であることが疑われるところから始まった。この根幹を揺るがされる大問題が存在するにもかかわらず、おおかたの漢文による仏教学に情熱をかたむけてきた宗学の学者たちの眼には、封建時代の閉鎖的な問題関心を超える問いなど見えてこなかったのであろう。これに対して、近代に流入してきた西欧の学問や科学的知識を、若くして学んだ清沢師は、仏教の本質への鋭い観察と親鸞聖人の信念への直入(じきにゅう)によって、世界への発信力をもつ仏教思想の可能性を信じ、その仏教的信念の思想的表現の構築を志していたのである。 この清沢師との値遇は、その直後に清沢師が肺結核により41歳の若さで命終するということになった。しかしその後の生涯を、この清沢師の志願を果たすべく、曽我量深師は尽瘁(じんすい)されたのであった。 昭和36年(1961)4月、親鸞聖人七百回御遠忌の記念講演に三人(金子大榮・曽我量深・鈴木大拙)の老大家の一人として登壇した曽我量深師は、「信に死し願に生きよ」のテーマの下に、親鸞聖人の残された『愚禿鈔』の「本願を信受するは、前念命終なり」という言葉の意味を考察されたのであった。(続く) |
本多弘之「「願に生きる」ということ」
松原祐善先生のことば
一人ひとりの身にかけられた仏の誓願が念仏の道となって、私たちは日々を歩ませていただいている・・・。
氏の熱気と臨場感溢れる講演録。
法蔵菩薩の絶対不二の働き
■「われわれが、どんなに絶望し自暴自棄しても、仏さまはそれを見捨てないで、われわれを信じて下さる。その仏さまの信が、本願というものになっている。ただ衆生が気の毒だというだけではない。やはり、われわれを信ずるということがあるわけである。信ずるのはわれら衆生というが、もとは仏さまがわれわれを信ずるところにあるのである。私というものを無条件に、どんなに自分が自信を失おうとしても、仏さまに信じられている。仏さまは、私を信じて捨てない。そういうことに私どもは目ざまさしてもらい、仏さまを信ぜずにおれない。こういうところに、真実信心というものが初めて成り立つ」
(『曽我量深講話録』一・164頁より)
■金剛とは、元々は「堅くていかなるものにも破られることがない」という意味ですが、「いかなるものにも破られることがないもの」とは、本当は堅いものではなくて、水のように柔らかくてあらゆるものに随順していくものでしょう。仏さまの心は、私どもがどんなに自分に絶望して自分を捨てようとしても、それにさまたげられることなく、水のようにどこまでもわれららに付き従って決してわれらを捨てられない。そのような仏さまの心のことを、金剛の信心というのでしょう。私どもの身の深いところに、誰の中にも平等に流れている法蔵魂こそが、そのような金剛の信心と言えるものではないかと思います。「不二」とは、決して離れずにあたかも一つの存在のように私どもの宿業の身と運命を共にする法蔵菩薩のはたらきのことをいうのでしょう。
■ちょうどこれを書いている時ツィッターを見たら、Yuko Itoさんが次のような投稿をしておられたのでびっくりしました。
「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生のほうがあなたに絶望すること はない」(V・E・フランクル)
いやー、これは、まさに法蔵菩薩の絶対不二の働きをあらわしている言葉ではないか、と思いました。こういうのを「金剛(何ものにもさえられない)の信心」というのでしょう。
曽我量深先生のことば
教団の歴史
本願寺の軌跡 -創建から東西分派、そして現代へ- 草野顕之著
日本仏教史や真宗史の研究で知られる著者が真宗大谷派の月刊誌『同朋』の2020年7月号~21年2月号に計8回連載した「本廟創立と東本願寺の歴史-その時代と教えの伝統」と加筆分を集成した一冊で、本願寺の起源となった大谷廟堂から現在の真宗本廟(東本願寺)に至る歴史を専門的な知見や写真・図を交えて平易に叙述している。
『同朋』の連載と本書の刊行は今年が大谷廟堂の建立から750年の節目に当たることを踏まえたもので、全9章で構成。親鸞聖人の墓所である大谷廟堂が京都・吉水の北はずれに創建された経緯から覚如上人による寺院化、蓮如上人の中興、戦国期の本願寺教団の権門化、石山合戦と東西分派までを取り上げた『同朋』の連載に加え、第9章「江戸時代から近現代の真宗本廟」を書き下ろした。
近年の研究を踏まえた知見も盛り込まれている。例えば、廟堂の管理者の継職を巡って覚恵と唯善が争った唯善事件について、唯善の「野望」や「策謀」との従来の評価に対し、中世の土地寄進や返還に関する慣習から唯善の主張が「社会的には一定程度の正当性を持って受け入れられました」との側面を解説している点が興味深い。
全編80㌻余りの短めの分量で読みやすい一方、内容の密度も濃い良書だ。
定価1540円、東本願寺出版(電話075・371・9189)刊。
京都 真宗本廟(東本願寺)春の法要・ご参拝・インターネットライブ配信のご案内
現如上人【1852年〜1923年】
東本願寺第22代。現如上人は、1852年7月に第21代嚴如上人の第5子として出生。1870年、北海道に渡り道内の開拓を行う。1872年には欧州を訪問し海外の政教を視察する。その後1889年10月、東本願寺第22代を継職。蛤御門の変によって焼失した両堂の再建に着手し、1895年に落慶。教団や教学のさらなる近代的発展につとめた。1923年、72歳で示寂。本年は百回忌にあたる。
聖徳太子・七高僧をはじめ本願念仏のみ教えを伝えられた
師主知識の恩徳を讃える「師徳奉讃法要」、
親鸞聖人のご生誕をよろこぶ「親鸞聖人御誕生会」、
歴史に学び平和の願いを確かめる「全戦没者追弔法会」などの法要を
「春の法要」と称して勤めています。
また今年は、北海道開拓や蛤御門の変で焼失した両堂再建に尽力した
第22代現如上人の100回忌の法要も勤修されます。
英雄たちの選択「信長最大の敵・大坂本願寺~歴史を変えた11年戦争~」
信長を最も苦しめた大坂本願寺。本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が激突した木津川口の戦いの真相、そして信長・本願寺11年戦争が歴史に残した驚くべき結末に迫る。
戦国の覇者・織田信長を最も苦しめた敵とされる大坂本願寺。顕如率いる各地の門徒たちと信長との戦いは泥沼化し、11年の長期に及んだ。最大の分岐点となったのが、二度にわたる「木津川口の戦い」だ。本願寺を支援し、兵糧を送っていた毛利水軍と織田水軍が激突した海戦である。信長の鉄甲船は実在したのか?新発見の絵図から読み解く両軍の海の戦略とは?そして信長と本願寺の戦いが歴史に残した驚くべき結末とは?
【ゲスト】奈良大学教授(元学長)…千田嘉博,共立女子大学教授…堀新,哲学者・津田塾大学 教授…萱野稔人,【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊
このように、大阪と本願寺・北御堂の関係は、発祥から現在に至るまで、信仰だけにとどまらず、政治・経済・社会・文化、そして生活する人々の背景と根底に、念仏の教えが息づいており、切っても切れない相関関係の上で成立、発展してきました。 しかし、大阪といえば、太閤豊臣秀吉のイメージが強く、本願寺が大きく関わってきた歴史が一般の人々に周知されているとは言い難い現状でもあります。かつては、家庭や地域の中で自然と身についていた真宗の教えも、現在は「人」のつながりが希薄となり、伝わりにくい環境ともなっています。 そこで、歴史的資料の実物や、映像・パネル・レプリカ等を用い、また大坂本願寺寺内町を復元したジオラマ展示などを行い、改めて一般の人々に本願寺、北御堂の事業や歴史等を説明する展示施設を設立し、多くの方々に歴史的な存在を通じて、共有されてきた過去を表現し、その歴史をひも解く中で、大都市「大阪」の中心で、その年代に生きた人びとの心の依りどころとして存在した本願寺(津村別院・北御堂)の歴史を表現したいと考えます。
そして、今までお寺と縁の薄かった方でも気軽に訪れていただき、「浄土真宗」とのつながりを深めていただく機縁となることを願いとしています。
谷井健三「木津川沖海戦想像図」1986
「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)
宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃のページ
5月29日(日)で「慶讃法要まであと300日」となりました
Facebook 真宗大谷派(東本願寺)さん曰く
宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要特設サイト
立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―
「立教開宗の書『教行信証』展」
参拝接待所ギャラリーでは、「立教開宗の書『教行信証』展」を行っています。こちらの展示内容も、配信でご覧いただけます。
「立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―」についてはこちら
聖徳太子1400年忌法要のベージ
皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。
皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。
宮内庁が管理する各陵墓では毎年の没日に正辰祭が営まれており、節目の年には式年祭がある。天皇陵の式年祭のような奉幣は皇族墓では行われておらず、儀式内容は例年の正辰祭と変わらない。磯長墓は考古学的には「叡福寺北古墳」と呼ばれ、没年とややずれる7世紀後半の様式を示すが、太子の墓の可能性が高いと考えられている。