本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

宗教「的」

2022-07-02

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1404
「自己に死んで願に生きる」と。
それがはっきりしないから宗教「的」が流行るのでしょう。
流行っているものは宗教ではない、宗教「的」なのです。
本当の死ということが出てこなければならない。
信心が、それを与える。
感激して死んでいけるのです。
葉隠の「死ぬることと見つけたり」です。


人間が人間を否定すること
1405
人間が人間を否定することが、どうして出来るかね。
否定できるような否定は、
くやしいけれども死んで見せるというようなものです。
絶望する絶望は生殺しです。
絶望で死にはしない。
しかたがないから絶望したのです。
死にたくない、というものが残るのです。
死にたくない、というのはいわば「幽霊」でしょう。
1407
だから現代の文化の中で仏教の会を開くということは、
容易ではないのです。
本当に死ぬる道を明らかにするというのが仏教でしょう。
そんなものにはふつう人間はついてこないのです。
死なずに生きる道ばかりを考えているのだからね。
それだから何とか学会とか何々教とかが流行っているでしょう。
ああいうものしか流行らない。
そのくらいの腹がないと宗教は成り立たないのです。

1409


仏教はインドから逃げて中国へ来た。
中国でも善導は理解されなくて、善導は日本に来て理解された。
では日本が今度はどうなったかというと日本でも滅亡しかけている。
逃げてもあとは太平洋しかない(笑)。
そうしたらどうなるかというと、
居るところが無いなら居る必要がないではないかと。
そんな地球なら居る必要が無いではないかね。
そのくらいの腹がないと宗教は成り立たないのです。

田畑正久先生のはなし

2022-06-29
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第419回
(令和4年 4月18日掲載)医療文化と仏教文化(245)
     仏の智慧の言葉で言いあてられた自分の相(すがた)に、「本当にそうだな」、「言われる通りだ」と受け取れることが「本当に聞こえた」ということです。
     「分かりたい」と思って聞いているのは、仏法という圧倒的に大きなものを自分の理解できる範囲の箱の中に取り込もうと努力をしているのでしょうが、理論的に不可能なことなのです。なぜなら、次元や質が高いものを低い次元で把握しようとしているからです。しかし、人間の理知分別の理想主義というのは、今は無理でも将来は自分の努力で理解できるようになると思い込んでいるのです。
     日本語の原則として「大きなものは述語になれない」という哲学者の西田幾多郎先生の言葉と聞いたことがあります。例えば「私は親を大事にしています」ということを言う人がいます。親を大事にしているということは、財力など扶養する能力、体力や親を思う慈愛の深さが十分にある子が言えることです。親に心配をかけたり、経済的な負担をかけて種々の援助を受けているような「親におんぶに抱っこ」の子どもが、言葉だけで「私は親を大事にしています」と言っても、事情をよく知っている人は「何を言っているの」と発言をたしなめることでしょう。これは卑近な例ですが、「私は仏様を大切にしています」という発言にも同じことが言えると思います。
     仏教においては自分を中心に外側を対象化して観察するという視点が迷いの本(もと)です。自分自身の全体像が見えてないから、決定的に全体が見えてないのです。それなのに、私たちは「自分のことは自分が一番よく知っている」という前提を無意識のうちに自明の理としているのです。
     法話や仏書の教えが、普段は思いもしなかった自分のことを、言い当てた時に、驚くことが大切です。それが「私を超えたものに触れる」ということです。仏の光(無量光、智慧)によって私の相が照らし出された瞬間なのです。しかし、人間の思考は自分の経験をいつの間にか私有化して、それを「私は分かっている」と知識化してしまうのです。仏教ではこれを、なんでも取り込もうとする餓鬼根性といいます。これが私の実態なのです。ただの表面的な反省ではなく、自分の心の在り様にまで深く気付き、それに目覚める事はとても難しいのです。

おまかせする

2022-06-29

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1400

おまかせする、ということです。
それで、おまかせするというのは信心をやめておまかせするのではない。
おまかせするということが信です。
信ずることまでまかせるわけにはいかない。
全てをまかせる。
けれども「まかせる」ことだけは、まかせることは出来ない。
それが信心ではないかね。

「門」ということ

2022-06-26

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1398
だから「門」ということも、
もっと言えばこれが「南無」ではないかね。
南無がほしいのです。
阿弥陀仏ばかりを求めても出てこない。
阿弥陀仏が南無になった。
だから我々は南無において阿弥陀仏に触れると。
南無阿弥陀仏の前に阿弥陀仏南無がある。
こう言うことが出来るでしょう。
南無がよく分からないのです。
それを南無を忘れて阿弥陀仏ばかりを探すのです。
そうするとそれは観想です。
観見ではない。
「道」、人は、道がほしいのです。
1397
二階から梯子が降りて来た。
それが登り得るという確信でしょう。
こちらがかけたものは届いているかどうかわからないでしょう。
浄土に生まれたいということは、
もっと徹底していえば
浄土に生まれるような「道」がほしいということです。
そうでしょう。
求道の道です。
人は、道がほしいのです。

善導様です。

2022-06-16

Facebook 根津美術館さん曰く


【阿弥陀如来:つながる教え】*English below.
浄土教を大成した唐代の僧・善導(613~81)が念仏を唱えたところ、口中から仏が現れたといいます。善導は浄土教で重要視される『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の注釈書である『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』を著し、「南無阿弥陀仏」と口に出して唱える称名念仏を重要視しました。この著作は日本にも大きな影響を与え、源信が著した「往生要集」にもその内容が頻繁に引用されています。浄土宗の開祖である法然は、この「往生要集」を通じて善導の教えに触れ、そして生涯にわたり浄土宗の祖として崇めました。本作は、法然の夢に現われた善導の下半身が金色に輝き、法然の念仏布教を讃えたとする説話に基づいています。(-7/3)
・善導大師像 日本・室町時代 15世紀 当館蔵

仰せを蒙りて【音声・映像データ編】

【大谷祖廟暁天講座】不死の門(宮下晴輝氏/2022年8月1日)

2022-07-29
2022年8月1日の「大谷祖廟(東大谷)暁天講座」は、宮下晴輝氏(教学研究所長)に「不死の門」を講題にお話しいただきました。
 ◆配布資料はこちら→https://jodo-shinshu.info/wp-content/... 

【大谷祖廟(東大谷) 暁天講座】 
「暁天」とは夜明けの空のこと。夏の暑さを避けた早朝の澄んだ空気の中で、宗祖親鸞聖人があきらかにされた本願念仏の教えを聴聞する場として開かれています。 
大谷祖廟本堂を会場に、毎年、8月1日から8月5日までの5日間、各日毎に講師をお招きして開催しています。 
しんらん交流館HP https://jodo-shinshu.info/ 
真宗大谷派(東本願寺)HP https://www.higashihonganji.or.jp/

法話 伊藤元_06

2022-07-29
2019年12月6日 蓮照寺 報恩講 昼座 1 
吉川英治 宮本武蔵 宍戸梅軒 我れ神仏を尊んで神仏を恃まず 
縁起の理法 
芦野宏
美輪明宏 
四知 天知 地知 我知 人知 『後漢書』
身は苦器 心は悩端 『浄土論註』曇鸞大師 
禍福はあざなえる縄の如し
法話 伊藤元_07
2019年12月6日 蓮照寺 報恩講 昼座 2 
仏教はいのちの尊さを教えている。 
共同感覚 
共感能力 
人間は、いくつになっても役目があります。 周りの人に、慈しみの心を引き出す力がある。 人間のありうるすがたを周りに教えている。 
「称仏六字」というは、南無阿弥陀仏の六字をとなうるとなり。「即嘆仏」というは、すなわち南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるになるとなり。『尊号真像銘文 』 念仏申せたか申せんか 
人間に生まれからには、お念仏申せ 親に会いたいと思ったら、お念仏申せ 
仏教は、決して祈願の教えではない。 自分の深い願いを、教えてもらう教え。 
教えてもらって初めて自分が何を求めていたかに出会うこと。

8:58 / 37:09 法話 伊藤元_01

2022-07-29
2019年12月4日 蓮照寺 報恩講 昼座_1
諸行無常
 浄土真宗が開かれて、仏教が完成する。宗教が完成する。 
聞即信 
 今、現に、与えられている恩恵は失うまで分からない。 失われるまで分からん、ということを分からなければならない。 一度の出会いではだめ、何回も何回も出会い直す。 仏様の教えを聞くということは出会うための準備。 「ひとたび、仏法をたしなみそうろうひとは、大様になれども、おどろきやすきなり。」『蓮如上人御一代記聞書』
法話 伊藤元_02
2019年12月4日蓮照寺 報恩講 昼座_2
 浄土真宗という仏道は、念仏を申して、念仏のいわれを聞いていくことで、救われていく道。 修行をするわけではありません。
浄土真宗にとっては「聞く」ことが修行に相当する。 
この世に もし一人でも自分よりも劣っている人がいると思っているような人には本願念仏の教えは響いてきませんよ。 
「我以外皆我師(われ以外みなわが師なり)」吉川英治 
  世阿弥 『風姿花伝』『花鏡』 
  初心忘るべからず 法然上人「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」
  是非初心不可忘 
  時々初心不可忘 
  老後初心不可忘
法話 伊藤元_03
2019年12月5日蓮照寺報恩講昼座1 
在家 出家 
一心専念弥陀名号 善導大師 
在家といふは、五欲を貪求すること相続してこれ常なり。 
たと(縦)ひ清心を発こせども、なほ水に画くがごとし。 『観経序分義』 
五欲 財欲 色欲 名欲 飲食欲 睡眠欲 
「とうとむ人より、とうとがる人ぞ とうとかりける」『蓮如上人御一代記聞書』
  尊敬できる人間を持ってる人間が光るんです。尊敬される人間は別に光らない。 倉本聰
法話 伊藤元_04
法話 伊藤元_05
2019年12月5日 蓮照寺 報恩講 昼座 2 
エリザベス・キューブラー・ロス 精神科医 
『散善義』 西に向かひて行かんと欲する 
『華厳経』 この身 今生において度せずんば、さらにいずれの生においてか この身を度せん。 
『涅槃経』 「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。善いかな大王、具に慙愧あり、と。乃至 
『論語』に云わく、季路問わく、「鬼神に事えんか」と。子の曰わく、「事うることあたわず。人いずくんぞ能く鬼神に事えんや
法話 伊藤元_05
 2019年12月5日 蓮照寺 報恩講 夜座 
人が救われていく道に二つある。猿の道。猫の道 思いが満たされることと、自分自身が満たされることとは事柄が別。 
ドナルド・キーン アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。 惻隠の情 寛容な心 ウエリントン 宗教なき教育は賢い悪魔を生む 
この世とはどんなところか この世は雑会(ぞうえ)、さまざまなことに出会うところ。何に出会うか選べん。ただし自分の身に起こってきたことを、どう受け取るかはその人に与えられた 自由です。そこに働くのが念仏の教えです。 
人間とはどういう存在か 随縁存在 触れたものによって育てられる存在、 人間は育てられて仏にもなるようなことができる身である、 同時に育てられんやったら、人間に生まれたんだけど、 人間になれんまま畜生として終わることもある。
 迦羅求羅虫
 仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。自爾以来、口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。『御伝鈔』覚如

みどう法話 澤田秀丸先生

2022-07-29
報恩講が各地で縮小実施される中、少しでも報恩講のご法話をお届けしたいと、守口市・清澤寺前住職の澤田秀丸先生にお話しいただきました。 題名は「恩を知る人」です。

藤原正寿「濁世を生きる立脚地」(1時間5分)

2022-07-29
南御堂オンライン法話配信3

仰せを蒙りて【アーカイブス 音声・映像データ編】

同朋会運動について

2020-04-06
Yasuda Rizin

619

ある意味では大ざっぱでいかなければならない場合もあるでしょう。
こせこせせずに、大ざっぱで大きくいかなければならないこともあるのです。
そういう点も大事です。
念仏の共同体というものが他の共同体と区別される一点はどこにあるのかと。
教学という事実が他の共同体から念仏の共同体を区別する唯一の点なのです。
その教学というものの事業は何かというと、同朋活動(同朋会運動)というものだと。


 

620
同朋活動は一時的な運動ではないのです。
同朋の会を無数に作るということが唯一の事業だと。
だから同朋会というのは末端に在るのです。
どこに同朋会があるか、実績はどうかといえば、会が開かれていることしかないのです。
寺に皆を集めて法事をつとめてもそれは同朋会にはなりません。

 

 

621
そういう意味で大きく分ける点も必要なのです。
一番大きく分けた言葉が自利利他ということでしょう。
思想問題、宗教問題は何かというと自利利他円満ということが最も大きく仏教を摑んだ言葉です。
自利利他です。
自らも救われ他も救われるということです。
自利利他ということのほかに宗教問題はない。
つまり人間が完成することです。


 

622
自利利他で人間が完成するということが仏道だと。
人間をやめることが仏道ではない。
人間が人間として成就するということが自利利他円満です。
それが仏道だと。
これほど大きな掴み方はないでしょう。
ただ問題は、自利利他を考えている時にはなんでも自利利他円満ができると思うのです。
やってみると円満はできない。
だからこれが実践問題です。

親鸞にとっての源信僧都と法然上人

2020-04-03
真向かいになるということ

601
本願は、
初めに「国に地獄、餓鬼、畜生あらば正覚をとらじ」と。
「国」の願です。
これが大事なのです。
国というようなことは、
どこから出てきたのかということです。
これは非常に深い問題ではないかと思うのです。
なにかそこには、
本願というものは人間の祈りを、
人間に先立って、言い当てたと。
国というものは
天から降ってきたものではないでしょう。
人間の祈りなのでしょう。


 

603
人間の深奥の要求というものを、
人間に先立って、却って自己の問題とすると。
自己といっても
別に自己というものがあるわけではない。

宗教心です。
もっと言えば菩提心でしょう。

その菩提心が

人間の祈りを人間に先立って

自己の問題とすると。
こういうものが
本願というものだろうと思うのです。

 

604

観経疏の中に「弥陀の本国四十八願」という言葉があります。
本国の願だから本願なのでしょう。
そういうように、人間に先立って人間の問題を自己の問題とすると。
それが菩提心です。
宗教心です。
したがって、
そこに人間の予想を超えて
それが応えられていると。
人間は、
その人間に先立つような問題を持っているものが、
実は人間なのです。
不思議なことです。
自分の考えで考えた祈りではないのです。

考えよりも先に人間は問題を持っている。
 

605

それは人間の考えで解決できたと言えない。
言えないけれどもあきらめるわけにはいかないと。
そういう問題を菩提心というものが自覚してくるのです。
こういうように、
宗教心というものは人間と無関係にあるものではない。
人間そのものが
人間では出来ないような問題を持っている。
それが人間なのです。
それでないと
国土の本願というようなものが出てくるはずかないでしょう。
本願はどこか天から降ってきたようなものではないのです。


 

606
菩提心が人間の問題を自己の問題としているのが本願です。
だから人間は本願において自己に遇うわけです。
それで答えは南無阿弥陀仏が答えです。
これは思い通りになったのではない。
「予想を超えて」答えられている。


607
国の願は三悪趣が無いというような意味だったのです。
国は非常に低いところから始まっているのです。
それは本願というものは論文ではないので、
非常に低いところから出発しているのです。
三悪趣の無い国を祈ると。
これは源信僧都の言葉というのが非常に深いのです。
私は思いますけれども、
親鸞は初めは法然上人よりも源信僧都を慕われたのだろうと思います。
法然とは性格が正反対みたいなのです。


608
源信僧都というのは非常に内観的な人だったと思うのです。
それに対して法然上人は頑固者だったのではないかと思うのです。
その頑固というものの意味の深さはあとで分かってきたのです。
頑固ということは今の言葉で言えば
「知識人ではない」ということです。
知識人でないという意味は、ものを横から見ないというのです。


609
何でも第三者の立場に立つのが知識人です。
ものを横から見るのです。
横から見たら往相だの還相だのということはありはしない。
そうでしょう。
横から見れば往相も還相もない。
船に乗って我々は往相でいくのです。
そうすると岸は向こうから来るでしょう。
そうでしょう。
こちらの船に景色がどんどん向こうから近づいてくると。
そうすると自分が流れを遡っていることです。
だから自己が往なら、自己をとりまく景色は還です。
往還と。
そういうように世界が流動しているでしょう。
第三者にそんなことはありはしない。
船から降りてみよと。
何も船が往っているのではないと。
船から降りれば、傍観すれば往も還も無い。
そうでしょう。なにも「行」がない。
それが第三者です。


610

知識人、インテリゲンチャというのはそういうところに居るのです。
だからそういう人はその場その場の答えを出す。
それも多少は意味はある。
けれども、いざという場合は立場をすぐ変えてしまう。
変節する。
その時その時は巧みな答えを出すけれども、出ないようになると「これは私の考えだ」というような具合ですぐやめてしまうのです。
そういうところに知識人の不信任というものがあるのではないかね。あてにならない。

611

あてにすることが出来ない。
インテリゲンチャというのはその時その時で都合のいい答えを出してくれる便利な人です。
それはあてにできないでしょう。
だから法然のその頑固、知識人でないというところに初めて本当の人だと。
その人の言っている言葉には多少矛盾があっても頑固一徹だと。
こういうところに初めて、その人が生きていると、信頼できるのです

信頼ということ

2020-04-03
【試聴】「浄土の教学」安田理深/法話CD「本願に生きた念仏者シリーズ」③|東本願寺出版
1980年真宗本廟同朋会館において行われた「同朋会運動の願いに聞く集い」での音声を収録。生涯、聞法の生活一筋で歩まれた安田理深師の熱のこもった講義。

法然上人という人

612
信頼、これは大事なことです。
教育というようなことは皆、そうなるのではないかね。
しゃべっていないと人が教化できないというのではない。
その人が居ることで人が救われてしまうと。
そういう、沈黙していても、会った者がなにかそこに力を得てくると。
こういうのが本当ではないかと思うのです。

 

613
親鸞は法然に会ってはじめて、
これは知識人ではないと。
本当の人だと。
だからそれを逆に言えば、弁解しない人です。それは
「あなたの間違いではないか」と言われて
「いや、そうでない」と言い返さないのです。弁解しない。
「その通りです」と言うのです。
そういう、自己を弁解しない人というのが、
初めて信頼できる人ではないかと思います。
法然上人はそういう人だったのです。
単に噂を聞いているあいだは分からなかったのです。
親鸞は法然上人の噂は聞いていたのでしょう。その噂を通してみるとあまり法然上人の生き方を親鸞は好まなかったのでしょう。
むしろ好むのは源信僧都です。


 

青木玲先生の文章

2020-04-03
宗祖としての親鸞聖人に遇う

「であい」の大切さ

(青木 玲 教学研究所助手  現職は九州大谷短期大学准教授)

 毎年、高校の恩師から年賀状をいただいている。高校を卒業してからであるから、もう十数年になる。今年の年賀状には、「この三月で高校教師を退職します」と記されていた。私には、高校時代にこの先生から言われた、いまだに忘れられない、大事な言葉がある。
 先生は、私が高校二年生の時の担任で、英語を担当される女性の方であった。何事にも非常に厳しく、豪快で、かつ生徒一人ひとりと真向かいになって相談にのってくれる方であった。高校の中で唯一寺院出身であった私に対しては、特に進路について大変心配をし、様々なアドバイスをして下さった。
 はっきりとは記憶していないが、進路を決める三者面談の時であったと思う。進路に悩む私に対して、先生は次のようなことを言われた。「偏差値や就職率で大学を選ぶことは大切なことだ。しかし、本当に大切なのは、大学に進学して、一人の先生、一人の友達にであうことだ」と。当時は、成績の悪い私に対するなぐさめの言葉としか思えなかった。しかし、大学に進学し、少しずつではあるが、親鸞聖人の言葉に触れていくにつれ、先生から言われた言葉の重みを感じるようになった。
 親鸞聖人は、『教行信証』「化身土巻」に、
 愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(聖典三九九頁)
と記され、また『歎異抄異抄』第二条には、
 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(聖典六二七頁)
と述べられている。これは、聖人が二十九歳の時、「よきひと」法然上人の「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えとのであいを通して、阿弥陀の本願に帰依されたことを表している。さらに、『高僧和讃』には、
 曠劫多生のあいだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし(聖典四九八頁)
と記されている。曠劫多生という長い間、生死を離れる強縁である阿弥陀の本願を知らなかった、もし法然上人がおられなかったならば、一生涯をむなしく過ごしていただろう、と。親鸞聖人が生涯をかけて念仏者として生きていくことを決定できたのは、法然上人とのであいによってであった。
 また親鸞聖人は、流罪の地の越後や、その後身を置かれた関東でたくさんの方とであわれ、その方々と共に念仏の教えを聞き、仏道を歩んでいかれた。その意味で、親鸞聖人が歩まれた仏道は、法然上人を始めとするたくさんの方々とのであいを抜きには考えることは出来ないだろう。
 現在、全国各地の方々とであう場に身を置いて仕事をさせていただいている。先生ご自身がどのような意図で「であいが大切だ」と言われたのかは分からないが、ただ、今の私にとって「であい」が元気や勇気を与えてくれていることは間違いない


(『ともしび』2012年6月号掲載)

TOPへ戻る