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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬

2022-08-28
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki)

本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。

 この信仰空間を我らが信心において獲得するところに、それまでの平面的で日常的な生存に、立体的ともいうべき願心の生活空間が与えられるということである。その宗教的実存を念々に確保することが、「信の一念」として開示された「時の先端」の生存が成り立つことである。この時の先端においては、「時剋の極促」(『真宗聖典』239)と表現された「時」の意味が感得される。この「時の先端」とは、いわゆる時間の経過とか瞬間とかとしていわれるような、刻々に移りゆくこの世の時間ではない。むしろ時を突破した時であり、時の経過を突き抜いて継続する時、すなわち現在に永遠を映す時とでもいうべき時である。こういう時が、超越的に常時に持続することが、本願力との値遇としての「横超」によって成り立つということである。

 こういう時を生きる実存を、本願の行者という。本願の行者には、煩悩具足の凡夫という自覚が常時に付帯している。平面的な生活に感じられる煩悩の闇を突破してくる本願の声なき声は、煩悩の闇を妨げとしない。むしろ闇あればこそ、声が慈悲のはたらきとなり、智慧のささやきともなる。そして闇を照らす光明の明るみにもなって、苦悩の衆生に生きる意味を与えてくるのである。

 こういう信心の時には、一面で苦悩の闇からの解放ということがあり、同時に闇へと生き抜いて行こうとする意欲が発起する面がある。このことを親鸞は、一念の「前・後」として開示した。それは、この世の時間的持続の意味の前後ではない。この世的平面を「竪」(自力)とするなら、「横」(他力)ざまに突き破ってくる願心との出遇いの一念の前後である。この出遇いの時を、「この苦悩の生存に死して、大悲の仏陀の国土に生きる」という「往生」の実存的意味としたのである。

 親鸞が晩年に「悲歎述懐和讃」を作るのは、たとえ信心歓喜の生活であっても、この日常的生活には煩悩の闇が厳然としてのしかかっているからである。にもかかわらず信心の事実は、その闇夜を貫く光明として、感じられてくることを表していく。どこまでも、日常的生活を離れず、願力成就の事実を生きるところに成り立つ信心による立体的空間を語っているのである。(了)

(2022年7月1日)


第227回「悲しみに秘めた讃嘆」⑪

 願生の意欲は、菩提心であるとされている。『大経』下巻の三輩往生において繰り返されている「発菩提心」の語によって、曇鸞も源信も往生の意欲すなわち願生心が菩提心であるとしている。しかし、これをそのまま認めるなら、源空の菩提心不必要の考えはどうなるのであろうか。『選択集』にある「菩提心等の余行」の語によって、菩提を求める意欲は諸行であるから、「廃立」という判別において「廃」されるべき心ということになるのか。本願による行として専修念仏が選び取られたのであるからには、凡夫の往生はそれによって成り立つのであろうが、仏道の根本問題である大涅槃を成就するという課題はどうなるのか。

 こういう疑難を聖道門の側から投げかけられたと受け止めた親鸞は、これに教学的に納得するべく、答えとして見出したのが、「真実信心こそ菩提心である」ということであった。本願の因果をたずねれば、真実信心を因として必至滅度(証大涅槃)の願果を得るのだからである。この本願の因果にとって、機の三願にわたって呼びかけられた「欲生我国」はいかなる意義をもつのか。

 曇鸞の指示は、「畢竟成仏の道路、無上の方便」(『真宗聖典』293頁)である。生存するものにとって、その環境との関わりは、重要な意味をもつ。環境に適応できないものは、この世から消滅するのだから。環境が大悲の仏智によって荘厳されたからには、そこで生きるということは仏智に随順することになることは道理であろう。

 そうしてみれば、そこへの「往生」は、「そこに往って、生きる」ことであろう。その場合、穢土の身体は消失して、「虚無の身、無極の体」(『真宗聖典』39頁)という平等の身体が、浄土で生存すると言うほかあるまい。そして、その生活は仏陀の願心を所依として、仏法を荘厳するということになる。

 本願成就文の「願生彼国 即得往生〈かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て」(『真宗聖典』44頁)を、『愚禿鈔』(『真宗聖典』430頁参照)では、「本願を信受するは、前念命終なり」とし、「即得往生は後念即生なり」と言ってある。願生の意欲に触れれば、そこに穢土の関心から仏土の願心への転換が起こる。それを生命の臨終たる「前念命終」に喩えたと見ているのである。その場合、臨終の一念は、宗教的回心の一念に相当する。そうなると宗教的回心は、「死して生きる」と言われていることと成る。生死無常の生存から、畢竟の依り処を願に置く生存へと転成するからである。

 かくして、願生浄土の意味が、「厭離穢土 欣求浄土」という心情的妄念の残滓を払って、「信に死し、願に生きる」という純粋なる本願に依る生存の意味となるのである。

(2022年5月1日)

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