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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

この先生は偉い人だと思ったのです。

2022-06-09

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


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私はいつか金子先生と話をしていて、
この先生は偉い人だと思ったのです。
私は学生時代、
金子先生から唯識の講義を聞いたのです。
その金子先生が私に
「あなたは学生時代からずっと唯識の教学を学んでこられたが
   私も長い間唯識を学んできました。
   しかし自分のものにならないのです」と。
こういう具合にえらく正直な先生です。
私に唯識を講義してくれた先生です。
仏教で「学」、「学ぶ」というのは、
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仏教で「学」、「学ぶ」というのは、
世間では学のある人が偉い人だ、
学のない者はつまらない者だというけれども、
仏教ではそうではない。
学が無いということは
学する必要が無いということです。
それを阿羅漢という。
「無学」というのが阿羅漢です。
「有学」というのは学ばねばならない者をいう。
学者といったら我々が学者なのです。
世間と逆でしょう。
本当の、学ぶということが聞法なのです。
1385
たいてい皆、先生になってしまう。
そうでしょう。
私は金子先生に大変親しみがあるのですが、
そう聞かれて「自分は学生ですから」と言ったら、
金子先生が
「いや、学生と発音するから低いようですけれども、
ゆゆしき学生〔がくしょう〕というものがありますからね」と言われた(笑)。
私に唯識を教えた人が、
教えた学生に「あなたの境地は」と、
こういうことを聞くというのは、
えらい先生ではないかね
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ある人が皮肉を言ったのです。
曽我先生はそう言っておられますけれども、
先生の話を聞いて
みな分からないから眠っているでないですかと、
誰かが曽我先生に注意した。
そうしたら曽我先生は
「そうではない、みな感動して聞いているのですよ」と(笑)
1388
それから私らの学生時代、曽我先生が名古屋へ布教に行かれた。
そしたら先生が演台に立った瞬間に「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と、前に座っている連中が声を出して念仏し出した。
すると先生、「まだ早い」と(笑)。
それは、有り難くなるために来ているのです。
有り難くなりたいから来ている。
本当に聞法していないのです。
救われたいのではない、有り難くなりたいのです。
皆、ほとんどそうではないですか。
「まだ早い」と言ったのです、曽我先生は。おもしろいでしょう(笑)
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