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ヨキヒトの仰せ

お釈迦様の生涯と教え

ブッダ 最期のことば 1.2.3.4.

2020-06-14

涅槃交響曲

2021-06-08
黛敏郎追悼コンサート:涅槃交響曲
https://youtu.be/IUnAHyZD_d4

作曲:黛敏郎 
指揮:岩城宏之 
演奏:東京交響楽団 東京混声合唱団 
1998年7月2日 サントリーホールにて
https://youtu.be/3NwHcUJNgsU
黛敏郎作曲「スポーツ・ニュースのための音楽」 
「題名のない音楽会」 
特集「スポーツの秋」 
秋山和慶指揮東京交響楽団 
黛敏郎氏のかわいい姿です

黛敏郎 創作の世界


逆なんです

2023-01-08
facebook名言の宝箱 さん曰く
逆なんです
仏教のなかには,
「托鉢」という行があります。
笠をかぶったお坊さんが、
手に鉢をもって家々を回り
お布施を頂くという行です。
お釈迦さまは、
托鉢に向かう弟子たちに、
こう言ったんです。
「お金持ちの家ではなく、
貧しい人たちの家を回って
托鉢をしてきなさい」
普通、
お布施をいただくんですから、
お金持ちのところに行くのが
常識ですよね?
しかし、
お釈迦さまの思いは
別のところにありました。
貧しい人がなぜ貧しいのか。
それは、
自分のためにしか
お金を使わないからであり
その人たちに
与える喜びを味わってもらう
機会を生みだすのが、
托鉢の真の目的だったのです。
友人の絵本作家の 
のぶみさんが
こう教えてくれました。
「神社のご神体が鏡なのは、
なんでだと思いますか?
鏡は、
『この世界はすべて逆なのだ』
ということを教えてくれているんです。
鏡に映すと、
右と左が逆になるように。
神社では、
お願いをしにくる人の願いが
叶うんじゃなくて、
神様の願いを
聞きにきてくれる人の願いが
叶うんです。
逆なんです。
神社で売られている
お守りもそう。
お守りに守ってもらおう
と頼る人が守られるのではなく、
このお守りを守ろう守ろう、
大切にしよう
と思う人が守られる。
逆なんです。
神様の願いを
聞きにきてくれる人というのは、
自分の願いだけを言いに来る人
ではなく、
みんなの幸せを願いにくる人
だそうです。
だから、のぶみさんは
神社ではこう祈っているそう。
「神様のお手伝いが
できますように。
日本が ちょっとでも
良くなるように、
がんばりますから」

《仏道をならふといふは、自己 をならふなり》 道元禅師

2023-01-06
《仏道をならふといふは、自己 
     をならふなり》 道元禅師
仏教を学ぶということは、 
自分とは何かという問いに対する答えを得るということです。本当の自己の発見です。見せかけの自己、うわべだけの自分というものの理解じゃなくて
自己そのものの正体の発見です。
その自己そのものの正体というのは、我々には、非常に深く隠れているんです
自分というものの正体は、 
絶対に自分の力ではわからないんですね
自分というものの正体は、道元の場合でも、親鸞聖人の場合でも、
仏の光に遇(あ)わなければ見えないものなんです。
 大峯顕師
  今日の宗教の可能性より.79頁

善導大師 (AD613~681年・唐代の僧) の『往生礼讃』に、

2022-12-26
facebook 伊勢谷功さん曰く、「前念命終・後念即生」という言葉があります。
善導大師 (AD613~681年・唐代の僧) の『往生礼讃』に、「前念命終・後念即生」という言葉があります。
これを、曽我量深師は、「信に死し、願に生きよ」と言われました。
「死して、生きる」これが「往生」ということです。
そして、最初の「前念・後念」の「念」は「念佛」ということです。
また、「後生」とは、「前念命終・後念即生」の後半にある「後念即生」ということです。
内館牧子•作『終わった人』という小説が、先年映画化されました。
アクション俳優・舘ひろし主演の東映映画です。
一流大学を出て、大手銀行に勤めた主人公が定年退職して「終わった人」になってしまった、というところからこの物語は始まります。
この映画を、まだ私は観ていませんが、そのうち観ようと楽しみにしています。
主人公の田代壮介を演ずる舘ひろしは、テレビドラマ『西部警察』などで活躍した俳優ですから、この映画の主人公「終わった人」は、やがて、終わってなどいられない出来事に巻き込まれて行くのだろうか?    などと想像して、あとの展開が楽しみですが、おそらくこの「終わった人」には、実は続きがあって、人間はなかなか「終わった人」にはなれない。
いわば、彼は「まだ続きのある人」であつたという「結末」なのかなと想像したりしています。
しかし、私たちの人生においては、それは決して「結末」ではありません。
現実には、終わってはいない「続きのあった人」で、しかも誰もが、最後には「死」によって、必ず「完全に終わった人」になるのです。
それが、実際の現実の「結末」なのです。
しかし、そのような、「死が結末であるような人生」からは、「信に死し、願に生きよ」ということは、決して出てきません。
善導大師が言われる「前念命終・後念即生」ということから言えば、「信に死する」ことによって、初めて「願に生きる」人生が始まる、ということです。
釈尊が、35歳で悟りを開かれたとき、「我が生(しょう)已(すで)に尽き、梵行(ぼんぎょう)已(すで)に発(た)つ」(成道の宣言)
「私の、今までの人生は終わった。今ここから、真実の人生が始まるのだ」と言われました。
つまり、悟りを開かれた釈尊にとって、この言葉は、「真実を悟る以前までの生き方は、捨て去るべき迷いの人生であって、真実を悟ることによって初めて、自分自身にとっての本当の人生が始まるのだ」という「佛陀釈尊の宣言」であったということです。
誰も彼もが、あちこち「隣り村」を物色して歩いている内に、「老苦」や「病苦」を得て、やがては、どこにも居場所が無くなって「粗大ごみ」のようになって、ついには「死苦」の中で消えて行くしかない、そのような人生を、まだ間に合うあいだに、早く「卒業」して「本物の終わった人」にならねば、「後生(後念即生)」は始まらないということです。
言い換えれば「生き方の一大方向転換」ということです。
この意味で、「前念命終」とは、本当の意味での「終わった人」になる、ということであり、その一点から、「後生とは何か?」という、次の課題が提起されてくるのです。
私たちには「隣り村」への誘惑はなかなか尽きませんが、一言でいえば、「生命より大事なものが見つかる」ということが、「隣り村」への誘惑を離れる第一歩ではないでしょうか?
個々の生命が一番大事だという前提から、生き物は、生命を守るために何でもやってきました。
生き物は、人間に限らず、自分の生命より大事なものが見つかって初めて、その「自分の生命より大事なもの」のために、自分の生命を差し出すことができるのだと思います。
子のため親のため、先祖のため子孫のため、国家のため人類のため …… 。
いろいろ考えられますが、自分の「生命より大事なもの」が見つかりましたでしょうか?
「個々の個体の生命」より「種の保存」が最優先される生き物(動植物)にとっては、個々の個体は「繁殖」のために存在するものとして、存在そのものの中にすでに刷り込まれています。
これは、単純な生物ほど本能的で顕著です。
これが、人間の知恵が突きとめた「生物学」における「答え」です。
同時に、そのような結論に満足して、生き死にして「終わってはいけない」のが人間です。
このように、人間の知恵がたどりついた「答え」では満足できない「問い」を持ってしまったのが人間なのです。
それは「人間は何のために生きるのか?」という、すでに答えが出てしまっている、その「科学的な答え」には満足できず、さらに「生きる意味」を問う、人間ならではの「問い」なのです。
この知恵を持って以降、私たち「アダムとイブ」の末裔は、楽園を失なって生きて来たのだと、人間が「人間の知恵」を持ったことへの救いのない矛盾と不幸を『旧約聖書』は教え示しているのではないでしょうか?
人間が人間の知恵によって到達した「人間自身が存在する意味」は、人間を「現象(自然現象)」の一環として解明し、みずからを「ニヒリズム」の深淵にまで追い込んでしまいました。
そして、「科学」ではなく「宗教」こそが、この難問に如何に答え得るかを、私たちは「現代」という時代から問い質(ただ)されいるのだと思います。
まさに、「宗教」みずからが、現代社会に存在する意義を自任しているのならば、その「宗教」は、この問いに答える使命を担わされているといわねばなりません。
曽我量深師 (1875年〜1971年)
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