本文へ移動

ヨキヒトの仰せ

お釈迦様の生涯と教え

善導大師 (AD613~681年・唐代の僧) の『往生礼讃』に、

2022-12-26
facebook 伊勢谷功さん曰く、「前念命終・後念即生」という言葉があります。
善導大師 (AD613~681年・唐代の僧) の『往生礼讃』に、「前念命終・後念即生」という言葉があります。
これを、曽我量深師は、「信に死し、願に生きよ」と言われました。
「死して、生きる」これが「往生」ということです。
そして、最初の「前念・後念」の「念」は「念佛」ということです。
また、「後生」とは、「前念命終・後念即生」の後半にある「後念即生」ということです。
内館牧子•作『終わった人』という小説が、先年映画化されました。
アクション俳優・舘ひろし主演の東映映画です。
一流大学を出て、大手銀行に勤めた主人公が定年退職して「終わった人」になってしまった、というところからこの物語は始まります。
この映画を、まだ私は観ていませんが、そのうち観ようと楽しみにしています。
主人公の田代壮介を演ずる舘ひろしは、テレビドラマ『西部警察』などで活躍した俳優ですから、この映画の主人公「終わった人」は、やがて、終わってなどいられない出来事に巻き込まれて行くのだろうか?    などと想像して、あとの展開が楽しみですが、おそらくこの「終わった人」には、実は続きがあって、人間はなかなか「終わった人」にはなれない。
いわば、彼は「まだ続きのある人」であつたという「結末」なのかなと想像したりしています。
しかし、私たちの人生においては、それは決して「結末」ではありません。
現実には、終わってはいない「続きのあった人」で、しかも誰もが、最後には「死」によって、必ず「完全に終わった人」になるのです。
それが、実際の現実の「結末」なのです。
しかし、そのような、「死が結末であるような人生」からは、「信に死し、願に生きよ」ということは、決して出てきません。
善導大師が言われる「前念命終・後念即生」ということから言えば、「信に死する」ことによって、初めて「願に生きる」人生が始まる、ということです。
釈尊が、35歳で悟りを開かれたとき、「我が生(しょう)已(すで)に尽き、梵行(ぼんぎょう)已(すで)に発(た)つ」(成道の宣言)
「私の、今までの人生は終わった。今ここから、真実の人生が始まるのだ」と言われました。
つまり、悟りを開かれた釈尊にとって、この言葉は、「真実を悟る以前までの生き方は、捨て去るべき迷いの人生であって、真実を悟ることによって初めて、自分自身にとっての本当の人生が始まるのだ」という「佛陀釈尊の宣言」であったということです。
誰も彼もが、あちこち「隣り村」を物色して歩いている内に、「老苦」や「病苦」を得て、やがては、どこにも居場所が無くなって「粗大ごみ」のようになって、ついには「死苦」の中で消えて行くしかない、そのような人生を、まだ間に合うあいだに、早く「卒業」して「本物の終わった人」にならねば、「後生(後念即生)」は始まらないということです。
言い換えれば「生き方の一大方向転換」ということです。
この意味で、「前念命終」とは、本当の意味での「終わった人」になる、ということであり、その一点から、「後生とは何か?」という、次の課題が提起されてくるのです。
私たちには「隣り村」への誘惑はなかなか尽きませんが、一言でいえば、「生命より大事なものが見つかる」ということが、「隣り村」への誘惑を離れる第一歩ではないでしょうか?
個々の生命が一番大事だという前提から、生き物は、生命を守るために何でもやってきました。
生き物は、人間に限らず、自分の生命より大事なものが見つかって初めて、その「自分の生命より大事なもの」のために、自分の生命を差し出すことができるのだと思います。
子のため親のため、先祖のため子孫のため、国家のため人類のため …… 。
いろいろ考えられますが、自分の「生命より大事なもの」が見つかりましたでしょうか?
「個々の個体の生命」より「種の保存」が最優先される生き物(動植物)にとっては、個々の個体は「繁殖」のために存在するものとして、存在そのものの中にすでに刷り込まれています。
これは、単純な生物ほど本能的で顕著です。
これが、人間の知恵が突きとめた「生物学」における「答え」です。
同時に、そのような結論に満足して、生き死にして「終わってはいけない」のが人間です。
このように、人間の知恵がたどりついた「答え」では満足できない「問い」を持ってしまったのが人間なのです。
それは「人間は何のために生きるのか?」という、すでに答えが出てしまっている、その「科学的な答え」には満足できず、さらに「生きる意味」を問う、人間ならではの「問い」なのです。
この知恵を持って以降、私たち「アダムとイブ」の末裔は、楽園を失なって生きて来たのだと、人間が「人間の知恵」を持ったことへの救いのない矛盾と不幸を『旧約聖書』は教え示しているのではないでしょうか?
人間が人間の知恵によって到達した「人間自身が存在する意味」は、人間を「現象(自然現象)」の一環として解明し、みずからを「ニヒリズム」の深淵にまで追い込んでしまいました。
そして、「科学」ではなく「宗教」こそが、この難問に如何に答え得るかを、私たちは「現代」という時代から問い質(ただ)されいるのだと思います。
まさに、「宗教」みずからが、現代社会に存在する意義を自任しているのならば、その「宗教」は、この問いに答える使命を担わされているといわねばなりません。
曽我量深師 (1875年〜1971年)
TOPへ戻る