本文へ移動

路面電車

路面電車etc

京都市営交通が明治45年6月11日に市電の運行を始めて以来、

2022-06-16
Facebook 堀切 邦生さん曰く、今年で110周年を迎えたことを記念して京都市営地下鉄や市バスにロゴマークを掲出しています。
すでにご紹介いただいていますが、京都市電として最後まで活躍して広島電鉄に転じた1900形にも同じヘッドマークの掲出が始まりました。こちらは12月まで掲出されるとのことです。

地上時代の京阪京津線。

2022-01-24

Facebook 山梨賀之さん曰く さん曰く

地上時代の京阪京津線。
町中を高床車がゆく光景は京津線の地下化で福井のみになってしまった。
かつては割と都市部でも見られた光景だったが絶滅危惧となって久しい。
もはや新しく誕生する事の無いだけに福井の動向が気になるところ。
三条-蹴上間の何処か

佐藤 雅彦
福井も200形、1編成保存ですが営業から
離れましたし602も予備車です。
実質消えました。
高床で併用軌道を走るのは江ノ電腰越―江ノ島間と
極楽寺ー七里ガ浜付近の道路片隅も併用軌道扱い、
京阪京津線、石山坂本線の浜大津付近
あとは道路端ですが熊本電鉄ですね。

京都近代化を遡る【05.京都策第Ⅱ期・京電/京都市電】

2021-09-23
Facebook 佐々木信雄さん曰く
京都近代化を遡る【05.京都策第Ⅱ期・京電/京都市電】
 1895(明28)年、民間企業である「京都電気鉄道」により第1期区間が開業し、日本最初の営業用電気鉄道となった。背景には、国内に先駆けて琵琶湖疏水を利用して蹴上水力発電所が建設されたことがあり、その電力の活用に電車が挙げられたのだった。当時は電灯や産業用電力利用もほとんどなく、結果的に京電の路面電車が電力の唯一の使い道となった。
 1895(明28)年2月、京都市南部の伏見から京都駅前付近まで最初の路線が開通し、同年4月、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。これは京都岡崎公園を会場として第4回内国勧業博覧会が開かれ、その開催にあわせての開業であった。京電は琵琶湖疏水の発電によって電力が供給されたため、発電所の機械故障や琵琶湖の増水などによる停電で、たびたび電車の走行が止まった。
 さらに開業当初は運転技術や設備が未熟で、衝突事故や電圧変動による立往生などもよく発生した。当時は停留所の概念がなく、電車は任意の場所で乗降扱いを行っていたので混乱をまねいた。また、事故を防止するため、先導役の少年が電車の前を走りながら告知していたが、不安定な電圧が突発的に上がって電車が急加速、先導役の少年自身が轢かれるという事故もあったという。
 その後、京都市による路線建設も進められ、競合する京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、1918(大7)年に市に買収され「京都市電」に統合された。京都市の路面電車は、琵琶湖疎水の水力発電によって供給される潤沢な電力を基にして始められたが、それに重ね、京都の計画的に建設された碁盤の目状の主要道路が電車の運行に都合が良かったことや、人口が多く観光客も多く見込めることなどがあった。さらには、首都東京移転による危機感と市民の進取の風潮が大きく働いたうえに、1895(明28)年の平安遷都1100周年を記念して、内国勧業博覧会が催される事になったことも、追い風となった。
 京都市が京電を買収し競合区間の路線が統一され、大正中期から昭和初期までは市電の第一期黄金時代となった。路線は戦後に至るまで延長され乗客も増大、1963(昭38)年)には一日平均50万人を超える利用となった。しかし昭和30年代の後半からモータリゼーションが進み、さらに市電と競合する市バスや会社バスが増加すると、市電はむしろ主要道路を占有する邪魔者とされるようになってきた。
 1969(昭44)年)、当時の革新系市長により京都市の新たな交通計画が策定され、「十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網」が決定され、財政再建の名目で市電路線の撤廃が始められた。1976(昭51)年に全面撤去へと計画が変更され、1978(昭53)年には全面廃止された。なお、地下鉄路線網は当初計画から40年以上が経過した現在も未完部分を残したままで、京都市財政は破綻の危機に面している。その主要原因は、地下鉄建設の膨大な費用負担だといわれている。
 京電時代に「伏見ー京都駅間」(伏見線)や「京都駅ー北野間」(堀川線)など幾つもの路線が敷設されたが、走る電車はいわゆる狭軌(Narrow gauge)用であり、のちに京都市電と統合されたとき、京都市電の広い軌道を走る
最大文字数 : 10000車体と区別するため「N電」と呼ばれたという。一般に路面電車をチンチン電車の愛称で呼ぶことが多いようだが、京都ではもっぱら狭軌を走るマッチ箱のようなN電のことを、「チンチン電車」と呼んでいた。
 市営化後、堀川線は1961(昭36)年8月1日に廃止され、その他のN電も順次廃止されたが、私はこのころ中学生になったばかりで、東堀川通りを走るチンチン電車を、堀川通りを並走する市バスの窓から眺めた記憶があるが、結局、一度も乗ることがなかった。チンチン電車が廃止になる当日には、記念して造花で飾られた「花電車」が走ったという。

都電解体(昭和47年頃、東京都荒川区の南千住車庫にて)

2022-01-20

Facebook Yasuharu Miyake  さん曰く

都電解体(昭和47年頃、東京都荒川区の南千住車庫にて)
東京の都電が昭和47年11月に荒川線の一部を除き廃止されたことに伴い、老朽化し再利用ができない都電の車輌は、順次解体されました(写真①②)。
でもやっぱり解体は、寂しいものですね。
そして、解体を待つ都電は、当時の子供にとっては格好の遊び場になっていました(写真③)。
思わず「危ないよ!」と声をかけたくなります。

(昭和45年頃、江東区の総武線亀戸駅付近)

2022-01-18
Facebook Miyakeさん曰く、 荒川線の一部を除いて廃止され、今はない東京の都電とSLが一緒に走っていました。
TOPへ戻る