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兵戈無用(ひょがむよう)

「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

暗殺の系譜

2020-12-05
メンフィスでの出来事
Facebook佐々木信雄さんの投稿
20th Century Chronicle 1968年(s43)】
◎キング牧師 暗殺
*1968.4.4/ 黒人運動指導者キング牧師が、メンフィスで暗殺される。
 '63/11 JFケネディ、'65/2 マルコムX、'68/4 キング牧師、'68/6 ロバート・ケネディが、次々と暗殺された。その背景は様々だが、たったこの5年間での暗殺の集中には、暗澹たる思いがする。やはりベトナム戦争のもとでの、アメリカ社会の混乱が反映されていると考えられる。
 ワシントン大行進での" I Have a Dream "という演説は、JFケネディ就任演説に並ぶ名演説として記憶されている。無抵抗主義に徹して、そののち「公民権法」を勝ち得て、さらにノーベル平和賞を受賞する。
 しかしその後も実際的な黒人差別は無くならず、急進派には無抵抗平和主義を突き上げられる不遇にも出会うことになった。そしてキング牧師暗殺が起ると、過激な黒人暴動が各地に起こり、さらに混迷を招くことになる。
(この年の出来事)
*1968.1.30/ 南ベトナム全土で解放勢力が大攻勢、テト攻勢を開始する。
*1968.10.8/ 阪神タイガースの江夏豊投手が、シーズン奪三振385の世界記録を達成、最終401を記録する。
*1968.10.12/ 第19回オリンピック メキシコ大会が開催される。

フランシーヌの場合は・・・。

2020-12-05
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1968年(s43)】
◎パリ5月革命
*1968.5.3/ フランスのパリ大学で学生と警官隊が衝突、13日には学生・労働者がゼネスト。(パリ5月革命)
 この季節、先進国の間では、若者の叛乱と言われる反体制活動が同時的に頻発した。アメリカでは反ベトナム戦争、日本では反70年安保という固有のトピックスがあったが、フランスではいかにもフランスらしく、アナーキスト、社会民主主義者、毛沢東主義者、トロツキストさらには労働組合員など、ソ連スターリン主義に近いフランス共産党を除く、あらゆる反体制組織が集った。
 ソルボンヌで有名なパリ大学をはじめ、多くの大学が集中する「カルチェ・ラタン」では、バリケードを築いて「解放区」と呼び、警察と乱闘となった。カルチェ・ラタンとは単に「ラテン地区」という意味で、かつて学生やインテリが占有していたラテン語を話す人たちが住んだところから来ている。いずれにせよ、パリの街には革命騒ぎが似合うようだ。
 日本でも学生運動には大きな影響を及ぼし、神田カルチェ・ラタン闘争なるものもあったが、一般人には遠いフランスでの出来事かと思われる。かろうじて、新谷のり子『フランシーヌの場合』という反戦ソングで思い出す人もいるかも知れない。ちなみに、フランシーヌ・ルコントが焼身自殺したのは、5月革命がすでに沈静化した、翌年の3月30日のことであった。「フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん」と歌った本人も、その後の行動をみるとそれほど、おりこうとも思えないのだが。
「フランシーヌの場合」 https://www.youtube.com/watch?v=fIYFbDQPNJg
(この年の出来事)
*1968.1.30/ 南ベトナム全土で解放勢力が大攻勢、テト攻勢を開始する。
*1968.10.8/ 阪神タイガースの江夏豊投手が、シーズン奪三振385の世界記録を達成、最終401を記録する。
*1968.10.12/ 第19回オリンピック メキシコ大会が開催される。

如己愛人(にょこあいじん)

2020-10-24
博士は自らの身体を被爆医療に捧げた。
原子爆弾に仆(たお)れた学生の森尾君が臨終の床に叫んだ言葉
原子爆弾に仆(たお)れた学生の森尾君が臨終の床に叫んだ言葉「みんな泣くな。泣いてはいかん。研究するんだ。研究してくれ。最初の原子爆弾だったから、まだ治療法がわかっていない。それで、ぼくは死ぬのだ。研究すれば、原子病を治す道が見つかるんだ。みんな泣くな。研究してくれ。そして、ぼくたちを最後の原子病患者として食い止めてくれ給え」――その言葉が私の細りゆく命にむちうって原子病研究へかり立てているのである。 さいわい、私自身が原子病患者である。これを自ら実験台にして、いま研究を続けている。わが命が終ったら、友人が解剖してくれるだろう。そのとき、この廃物となった肉体が原子病の病理究明のため、いささかでも役に立つだろう。生きていても、死んでも、天主の御栄えのためになり、人類の幸福のためになるのなら、その他に何を私は求めようか――。

自ら実験台にして

2020-10-24
「原子病の床に」 永井隆 より
八月八日朝、空襲警報が鳴っていた。私はにこにこ顔の妻に見送られて家を出た。やがて弁当を忘れたことに気がついた。そしてわが家へ引返した。そこで思いがけなくも、玄関に泣き伏している妻を見た。―― それが別れだった。その夜は防空当番で大学に泊った。あくれば八月九日。一発の原子爆弾は、私たちの頭上に破裂した。――あの機械もこなごなに砕かれて焼けた。妻も家もろともこなごなに砕かれて焼けてしまった。のっぺらぼうの原子野の、防空ごうの中に、重傷を三角巾で巻いてころがっている私、それは全く無一物となり、全く孤独となり、慢性の原子病に、さらに加えて原子爆弾の中性子による急性原子病を併発し、完全な廃人となっている私であった。 ――だが、私は参ってしまったのではなかった。私は無一物の中から、新しい力の無尽蔵にわき出るのを感じたのである。「生きるも死ぬるも天主の御栄のためにネ」といった、あの夜の妻の言葉が、いまこそ私に新しい世界をひらいてくれた。私の肉身はすでに廃物である。しかし私の霊魂は自由自在に活躍する。いや、私は霊魂のみとなって活躍するというべきであろう。 原子爆弾に仆(たお)れた学生の森尾君が臨終の床に叫んだ言葉「みんな泣くな。泣いてはいかん。研究するんだ。研究してくれ。最初の原子爆弾だったから、まだ治療法がわかっていない。それで、ぼくは死ぬのだ。研究すれば、原子病を治す道が見つかるんだ。みんな泣くな。研究してくれ。そして、ぼくたちを最後の原子病患者として食い止めてくれ給え」――その言葉が私の細りゆく命にむちうって原子病研究へかり立てているのである。 さいわい、私自身が原子病患者である。これを自ら実験台にして、いま研究を続けている。わが命が終ったら、友人が解剖してくれるだろう。そのとき、この廃物となった肉体が原子病の病理究明のため、いささかでも役に立つだろう。生きていても、死んでも、天主の御栄えのためになり、人類の幸福のためになるのなら、その他に何を私は求めようか――。

占領されるということ

2020-11-02
ゼネスト中止指令が発令
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1947年(s22)】
◎2・1ゼネスト 中止
*1947.1.1/ 吉田首相がラジオ放送での年頭の辞で、労働運動の一部活動家を「不逞の輩」と非難し、問題となる。
*1947.1.31/ 2・1ゼネストが、マッカーサーの命令により中止される。
 1947(昭22)年2月1日に実施を計画されていたゼネラル・ストライキが、決行前日の午后になって、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの指令によって中止となった。全国労働組合共同闘争委員会の伊井弥四郎共闘委員長は、GHQによって半強制的に、NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された。午後9時15分に伊井委員長は、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙しながら発表した。
 戦争中は労働運動が禁止され、労働組合は解体されていたが、戦後に進駐したGHQは、日本に米国式の民主主義を植えつけるため、その他の民主化政策とともに、労働運動を確立することが必要と考え、労組勢力の拡大を容認した。GHQにより合法化された日本共産党がリードする形で、労働運動が高揚し、1946(昭21)年8月には総同盟と産別会議、さらに9月には全官公労が結成された。
 同年11月には、総員260万人にもなった全官公庁共闘が、待遇改善と越年賃金を政府に要求したが、要求への政府の対応を不満とし「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。挨拶に立った日本共産党書記長の徳田球一は、明確に倒閣を宣言し、もはや経済要求の闘争の域を超えてしまった。
 1947(昭22)年1月1日、吉田茂首相は年頭の辞で、過激になってきた労働組合などを「不逞の輩」と呼んだ。これに煽られた労組は一斉に反発し、1月9日に全官公庁共闘はゼネラル・ストライキを決定、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長がゼネスト実施を宣言した。
 要求受け入れの期限は2月1日として、要求受け入れが実現されない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告した。ゼネストが実施された場合、交通・通信など日本経済の動脈がストップし経済活動が停止してしまう。また、日本各地に駐留する米軍への補給寸断・相互連絡の途絶が発生すれば、日本の治安維持および軍事的にも重大な危機に陥ると判断された。
 1月22日と1月30日の2度にわたって、伊井委員長など幹部は、GHQ経済科学局長ウィリアム・マーカット少将に呼び出され、ゼネストは許されないと忠告されたが、伊井はマッカーサーの命令でないと承諾しなかった。しかし、期限切れ直前の1月31日午後4時、マッカーサーは直接「ゼネストの中止」を指令した。
 2・1ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であったとされる。意図的に労働者の権利意識を向上させながらも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産党の影響力を感じた場合、連合軍は労働者側には立たないことを示した。
 しかしその後もストライキがあとを絶たないため、マッカーサーは芦田内閣に書簡を送り、公務員のストライキを禁止するよう指示し、1948年(昭23)年7月31日公布の政令201号によって、国家・地方公務員のストライキは禁止されることになった。
 また、占領軍を解放軍と規定していた日本共産党は、GHQの方針転換に迷走した後、かつての暴力革命路線(ボルシェヴィズム)へ転換することとなる。そのため、労働者からの支持を失い、その後の労働組合は日本社会党支持に傾いていく。
 さらに、1949(昭24)年10月の中華人民共和国の建国や、1950(昭25)年6月の朝鮮戦争の勃発をみて、GHQの占領政策は、それまでの急激な民主化から、日本を「逆コース」と呼ばれる共産主義への防波堤的に位置づける政策に転換した。
(この年の出来事)
*1947.1.4/ 公職追放令が改正され、追放範囲が言論界や地方公職などに拡大される。
*1947.3.1/ 全国労働組合連絡協議会(全労連)が結成される。
*1947.4.1/ 日本全国で、男女共学および6・3制の義務教育が始まる。
*1947.6.1/ 日本社会党の片山哲が首相となり、社会・民主・国民協同の3党連立で片山内閣が成立する。
*1947.6.8/ 日本教職員組合(日教組)が結成される。
*1947.10.14/ 秩父・高松・三笠の3直宮家を除く、11宮家51人の皇籍を離籍する。
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