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兵戈無用(ひょがむよう)

「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

さだまさし  男は大きな河になれ~モルダウより~

2024-02-19
さだまさし:男は大きな河になれ

小澤征爾 

2024-02-19
小澤征爾 79歳の音楽
小澤征爾~76歲的執念
追悼 小澤征爾&ボストン響 ベルリオーズ「幻想交響曲」 1978年
サイトウ・キネン・オーケストラ 最初の欧州ツアー 1987年
斎藤秀雄没後30年 ドキュメンタリー
小澤征爾 32年ぶりのN響 Seiji Ozawa NHK Symphony Orchestra for the first time in 32 years
見比べ 32歳と43歳の小澤征爾 ベルリオーズ「幻想交響曲」 第5楽章 1967年&1978年
Young Performers: Seiji Ozawa 小澤 征爾 / Ozawa · Bernstein レナード・バーンスタイン · New York Philharmonic
1967年 小澤征爾&日本フィル ベルリオーズ「幻想交響曲」第5楽章
わたしが子どもだったころ 小澤征爾

小澤征爾64歳の挑戦~ 

2024-02-19
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小澤征爾64歳の挑戦 2/2 ~

海外での活躍、N響からのボイコット……世界的指揮者、小澤征爾さんの歩み

2024-02-19
ヨキヒトとの邂逅
揮者の「帝王」カラヤン(写真右)が弟子をとるためのコンクールも通過、ベルリンで巨匠の薫陶を受けた。
1961年にはアメリカのニューヨーク・フィルからのオファーを受け、北米の大物レナード・バーンスタイン(写真)の副指揮者になる。こうして小澤さんはさまざまな巨匠の薫陶を受けつつ、北米でのキャリアを歩み始めた。 画像:Marion S. Trikosko, Public domain, via Wikimedia Commons
世界的に活躍し交友関係も広い小澤さんだが、なかでも特筆に値するのは旧ソ連出身のチェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(写真)との親交だろう。トロント交響楽団時代に共演して以来の仲で、32年ぶりにN響に復帰する際にもロストロポーヴィチからの説得があったという。
アメリカ時代の顕著な功績として、1967年の武満徹(画像中央)「ノヴェンバー・ステップス」初演が挙げられるだろう。当時小澤さんがレナード・バーンスタインのもと副指揮者を務めていたニューヨーク・フィルハーモニック設立125周年記念として委嘱された同作は絶賛をもって迎えられた
履歴
卒業後は日本のオーケストラを指揮していたが、1959年に単身渡仏。同年ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝を果たし注目を集めた。
小澤さんはそのまま桐朋学園短期大学(現:桐朋学園大学音楽学部)へ進学。桐朋学園は後に井上道義や尾高忠明などの指揮者を輩出している。
幼い頃からピアノを習っており、成蹊中学校卒業後、チェリストで指揮者の斎藤秀雄が主催する指揮塾に参加。一年後にはその斎藤秀雄が設立した桐朋女子高校音楽科(共学)に一期生として入学した。 画像:桐朋学園, 江戸村のとくぞう, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons
N響事件
単身渡欧して海外で華々しい経歴を歩み始めた小澤さんだったが、これは当時としては異例のキャリアだった。そのことが表面化したのが、NHK交響楽団(N響)によるボイコット事件だ。
1961年、海外で活躍する小澤さんをN響が招聘、翌62年に客演指揮者として半年間の契約を結んだ。だが、活動するうちに楽団との軋轢が深刻になっていき、ついにはN響が「今後、小澤氏には協力しない」と表明し演奏会を一方的に中止してしまう。
オーケストラのいないステージにひとりで立つ小澤さんの姿はセンセーショナルに報道され、小澤さんを応援する文化人が結集して「小澤征爾の音楽を聞く会」を開催する事態に。やがて作曲家の黛敏郎の仲介で一応の和解に至るものの、次に小澤さんがN響の指揮台に立ったのは32年後の1995年だった。
こうした経緯もあって海外での活躍に軸足を置いた小澤さんだったが、1972年に日本フィルハーモニー交響楽団が親会社と争議に陥り解散した際には元楽団員らとともに新日本フィルハーモニー交響楽団を設立している。 画像:新日本フィルの本拠地、すみだトリフォニーホール
サイトウ・キネン・オーケストラ→セイジ・オザワ 松本フェスティバル
1984年には師・斎藤秀雄没後10年を記念してメモリアルコンサートを開催。87年には「サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)」としてその時のメンバーでヨーロッパツアーも行った。
ヨーロッパツアーから戻ったSKOが本拠地に選んだのが長野県の松本だった。そうして始まったのが「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で、1992年以来現在までその伝統が続いている(現在は「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に改称)
生老病死
2月6日、世界的指揮者の小澤征爾さんが心不全のため亡くなった。88歳だった。複数のメディアが報じている。
2009年に食道がんが発見され、翌年には食道を全摘。その後は療養をしながら休養も挟みつつ活動を継続していた。
がんの他にも腰痛にも悩まされており、以降は指揮者として指揮台に立つ機会は減少。それでも「セイジ・オザワ 松本フェスティバル(旧サイトウ・キネン・フェスティバル松本)」の監督や後進の指導などに尽力していた。
1935年、旧満州(中国東北部)のシャンヤン(旧奉天)で生まれた。父親の小澤開作は満州国協和会の結成メンバーで、小澤さんの名前「征爾」は関東軍参謀の板垣征四郎と石原莞爾の名前から採られている。
世界的指揮者・小澤征爾さん(88)死去 「世界のオザワ」と呼ばれ“アジア人”のクラシック音楽人生の道を切り開く 「教えると中毒になる」
小澤征爾さん死去 ボストン交響楽団が追悼演奏|TBS NEWS DIG
Zubin Mehta faz uma imensa homenagem a esse grande maestro Seiji Ozawa
オーケストラがやって来た/最終回 '83/3

藤原行成

2024-02-11
『紫式部と男たち』(木村朗子 著)文春新書 © 文春オンライン
藤原行成、紫式部のスカウト。藤原道長は時代を作った名キュレーター《『光る君へ』をもっと楽しむためのブックガイド+α》 | 文春オンライン (bunshun.jp)

 今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公にもなっている紫式部。稀代のモテ男・光源氏を描いた平安文学『源氏物語』の作者はどんな人物で、『源氏物語』はどのように書かれ、読まれたのか。木村朗子さんの『紫式部と男たち』では、当時の政治システムと女が書いた物語の系譜からそれらを読み解いていく。

「まず摂関政治というものが分かりにくいですよね。権力トップの座を狙うのに戦をするのではなく、外戚として要職に就き実権を握るという変わったシステムです。娘を入内させ、天皇に気に入ってもらい、次代の天皇となる男児を産んでもらう。そのためには中宮に仕える女房たちを選りすぐり、優れたサロンを形成する必要がありました」

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