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高橋直樹が語った因縁のライバル

2023-08-28
一目でわかる個性的なルックス。日本ハム時代の高橋直樹(写真・共同通信) © Sportiva 提供
高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki によるストーリーさん曰く、甲子園、早稲田、プロ、そして突然の死。

高橋直樹さんに会いに行ったのは2018年8月。きっかけは〈西武ライオンズ誕生40周年〉の同年、仕事の関係で球団の歴史を紐解いたときのことだ。1982年の埼玉・所沢移転後初優勝を語るに欠かせない選手として、その名が浮上した。

 82年6月、高橋さんは広島から移籍すると、当時は前期後期制のパ・リーグで西武の前期優勝に貢献。移籍後7勝を挙げて、日本ハムとのプレーオフ、日本一になった中日との日本シリーズでも登板している。

写真集にDVD、異例の人気…「

2023-08-25
オグシオ」小椋久美子と潮田玲子は“バドミントン界をどう変えた”のか? 潮田「成績を残して胸を張りたいと…」
「オグシオ」の愛称で異例のブームを巻き起こした潮田玲子と小椋久美子(2006年撮影)
facebook Sports Graphic Numberさん曰く

「あの頃を超えたいですよね」

 いつだったか、バドミントン関係者の言葉を耳にしたことがある。8月21日、バドミントンの世界選手権開幕とともにふいに思い起こすことになった。

 あの頃――2008年にペアを解消するまでの数年間にわたり、バドミントン界で小椋久美子と潮田玲子、「オグシオ」が脚光を浴びていた時期だ。2人は日本のバドミントンでは前例のないほど大きな注目を集め続けた。とりわけ、銅メダルを獲得した2007年の世界選手権を軸とする2006年から2008年は、ブームと言えるほどの関心を集めた。その功績は、実は日本バドミントン界にとって大きなものだったのではないか――。

【世界バドミントン東京2022】特別企画<オグシオ>スペシャル対談 #1
【世界バドミントン東京2022】特別企画<オグシオ>スペシャル対談 #2
【世界バドミントン東京2022】特別企画<オグシオ>スペシャル対談 #3
2008第62回全日本バドミントン 5連覇オグシオvsスエマエ no.6
200811.16 オグシオ対スエマエ 第2セット最終盤 息詰まるラリー。これぞバドの魅力

元巨人・新浦壽夫氏 3年間で54勝を挙げた韓国球界に別れを告げた理由

2023-08-08
新浦壽夫氏(2016年撮影) © (C) スポーツニッポン新聞社
スポーツニッポン新聞社 の意見

巨人、大洋(現DeNA)などで活躍し、NPB通算116勝、韓国プロ野球でも54勝を挙げた新浦壽夫氏(72)が7日に更新されたYouTube「よしひこチャンネル」にゲスト出演。わずか3年で韓国球界を離れた理由を告白した。

 新浦氏といえば、第1次長嶋政権(1975~80)、第1次藤田政権(81~83)で巨人のエースとして君臨したレジェンド左腕。32歳の時に日本を離れ、韓国プロ野球に新天地を求めた。

 3年契約を結んだ三星ライオンズでは、1年目に16勝(10敗)、2年目に25勝(6敗)、3年目に13勝(4敗)を挙げる活躍。糖尿病を患っていたものの、医者からもプレーに影響はない、お墨付きを得ており、「まあ、黙ってやれば、2ケタは勝つだろうな。5年か6年はやれるだろう」と本人も自信を持っていた。

 ただ、別の問題があった。「1年目の16勝をした時に給料が上がらなかったんです」。いきなりエース級の活躍を見せたサウスポーに対し、球団フロントは「ウォンが上がってますので」と苦しい?言い訳。25勝を挙げた2年目のシーズンオフも、給料は変わらず、「ウォンが動いてますから」の言葉を聞いた。

 当時、新浦氏が球団と「闘争」しなかったのには、恩師の「助言」があった。「長嶋(茂雄)さんには“韓国へ行ったら、金のことで問題起こすなよ”(と言われていて)。はい、黙ってましょうって」

 沈黙は金なり。トラブルを起こさず、3年で日本復帰を決めた新浦氏のもとには、大洋(現DeNA)、日本ハムから獲得オファーが。セ・リーグで戦う気持ちを固め、その後は「巨人キラー」としてならした。

新浦寿夫(巨人)粘りの投球で好リリーフ!(1978年)

アムステルダム 第9回オリンピック大会

2023-08-03
facebook 佐々木信雄さん曰く、1928.7.28/ アムステルダムで第9回オリンピック大会が開催される。
【20th Century Chronicle 1928(s3)年】
◎アムステルダム 第9回オリンピック大会
*1928.7.28/ アムステルダムで第9回オリンピック大会が開催される。
 第9回夏季オリンピックは、1928(昭3)年7月28日から8月12日まで、オランダのアムステルダムで開催された。日本は第5回スウェーデンのストックホルム大会で初参加、第7回ベルギーのアントワープ大会、第8回パリ大会と(第6回ベルリン大会は第1次世界大戦のため中止)、参加経費などの工面に苦労しながらも参加を続けてきたが、その成果はこのアムステルダム大会で発揮された。
 陸上競技三段跳びで織田幹雄、競泳200m平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得。また、この大会から初めて女子の陸上競技への参加が認められ、日本から女子選手として唯一人参加した人見絹枝は、800m走で女子初めて銀メダルを獲得した。最終的に日本選手団は、金2、銀2、銅1、入賞者合計では11名と大活躍をみせた。
 この大会から初めて女性の参加が認められたほか、聖火が大会を通じて継続して燃やされた最初の大会でもあった。またコカ・コーラ社が初の大会スポンサーとなって、コカ・コーラが参加関係者に支給されるなどした。
 しかし、この時期の大会ではアマチュアリズムが徹底され、トップ選手のプロ化が進みつつあったテニスは実施競技から除外された。またこの大会で通算9個目の金メダルを獲得したフィンランドの中長距離陸上選手パーヴォ・ヌルミは、後に賞金大会に出たという理由から、以降の五輪参加を認められず最後の金となった。
 女子でたった一人日本から参加した人見絹枝は、100m走、200m走、走幅跳びで世界記録を出すなど、日本女子アスリートの先駆者であった。アムステルダム五輪では得意の走り幅跳びや200m走は実施されず、事実上100m走一つに絞って出場したが準決勝4位で敗退してしまう。そこで人見は、それまで走ったことのない800m走への出場を急遽決め、決勝ではドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
 アムステルダム五輪後も、人見は競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面などに忙殺された。1930年には、国際女子オリンピック大会への遠征費捻出のために、幾つもの国内の競技に出場しながら募金活動に駆けずり回り、さらに1ヵ月以上かけての船便で欧州に向うと、女子選手団を率いて、プラハでの国際女子競技大会をメインに欧州を転戦。半月の内に5つの大会が集中するなどして、肉体的精神的に疲労困憊、人見は体調を崩しながらも競技に出場し奮闘した。
 帰りの海路ですでに体調は悪化していたが、年末に帰国した後も遠征報告や募金へのお礼などで走り回り、その過労がたたり翌3月に喀血、結核性肋膜炎で阪大病院に入院、8月2日結核からくる肺炎を併発して死去、享年24。奇しくも、アムステルダム800m決勝の日から、ちょうど3年後の日であったという。

板東英二 - 燃えよドラゴンズ!(1974)

2023-07-28
燃えよドラゴンズ!(昭和49年)(高音質)
燃えよドラゴンズ!! '88 (映像)
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