終戦
闘いすんで 陽が暮れて・・・
【旧陸軍被服支廠 国支援で文化財に道】
「琵琶湖周航の歌」
戦没者の遺骨を納骨する式典 佳子さまが初めて出席(2023年5月29日)
ロシア人が最初にベルリンに入った |カラー化された第二次世界大戦
玉音放送の後に起こった最後の空戦
玉音放送の後に起こった最後の空戦
ここからは筆者が浅からぬ縁をもつことができた小町定(終戦時飛曹長)のその後の歩みを見てみよう。小町は、昭和19年1月17日の空戦のときは二〇四空の下士官兵の総元締ともいえる「先任搭乗員」の立場だった。筆者が、「小町さん、どうしてこのニュース映像、いちばんうしろに映ってるんですか?もっと前に出たらよかったのに」と聞くと小町は、「先任搭乗員が前に出ると若い連中が緊張するからね。こんなときは若い搭乗員を前面に出してやらなきゃ」と答えた。
重傷を負っても、悪化した戦局はベテラン搭乗員を休ませてくれない。小町はわずか2ヵ月の入院ののち、京都府の日本海側に急造された練習航空隊・峯山海軍航空隊の教員となり、まもなく准士官である飛行兵曹長に進級。昭和20(1945)年6月、横須賀海軍航空隊(横空)に転勤、ここで終戦を迎えた。
しかし、日本本土上空の戦いは、まだ終わっていなかった。
玉音放送は国民に終戦を告げるものではあっても「停戦命令」ではなく、大本営が陸海軍に、自衛のための戦闘をのぞく戦闘行動を停止する命令を出したのは8月16日午後のこと。8月19日、海軍軍令部は、支那方面艦隊をのぞく全部隊にいっさいの戦闘停止を命じるが、その期限は8月22日零時だった。これは、ラジオ放送で戦時に自粛していた音楽や娯楽番組、天気予報が復活し、灯火管制が解除されたのと同じタイミングである。
「自衛のための戦闘は可」とされていた8月18日、日本本土を偵察飛行に飛来した米陸軍の四発新型爆撃機・コンソリデーテッドB‐32ドミネーター2機を、横空の零戦、紫電改、雷電計10数機が邀撃した。横空では終戦が告げられてもなお、機銃弾を全弾装備した戦闘機が列線に並べられ、搭乗員たちは戦う気概をみなぎらせて指揮所に待機していた。
「敵大型機、千葉上空を南下中」
との情報に、搭乗員たちは色めきだった。
「それ、やっつけろ!と、みんな気が立っていますから、われがちに飛び上がった。私は紫電改に乗って、真っ先に離陸しました。誰からも命令された覚えはないし、いちいちお伺いをたてている暇なんかありません。東京湾の出口付近で追いついて、ラバウル、トラックで鍛えた直上方からの攻撃で一撃。敵機に20ミリ機銃弾が炸裂するのが見えました。余勢をかって急上昇して、伊豆半島の上でもう一撃。相手はとにかく、降下しながら全速で逃げるものだから、紫電改でも二撃が精いっぱいでした。零戦だったら、とてもあそこまで追えなかったと思います」
と、小町は回想する。このB-32は墜落こそ免れたが、機銃の射手が1人、機上戦死した。この件に関して米軍からのクレームはなく、これが日本海軍戦闘機隊の最後の空中戦闘になった。
停戦命令が発効すると、横空では、搭乗員を優先的に郷里に帰すことになり、小町も8月23日、退職金がわりの証券1枚と汽車の切符がわりの伝票1枚だけを受け取り、追い立てられるようにして横須賀をあとにした。
ところが、石川県の郷里の駅に着いてみると、駅員が「そんな伝票のことは聞いていない」と通してくれず、挙句の果てにキセル乗車の疑いまでかけられて、復員早々、駅員と喧嘩になってしまった。証券のほうも、銀行へ行くと「そんな話は聞いてない」と換金に応じてくれなかった。複数の横空関係者によると、退職金を現金で受け取れた隊員もいたが、航空隊にある現金が底を尽くと、残りは横浜正金銀行の証券渡しになったという。
「そのときは帝国海軍の大ペテンにひっかかった思いでした。恨み骨髄、もう金輪際、国のために命なんか懸けてやるもんか、と思いましたよ」
郷里に帰ってみると、戦時中は熱狂的に迎えてくれた村人たちの目が、妙に冷ややかになっているのが肌で感じられた。陰で「戦犯」呼ばわりされているのも耳に入ってくる。小町は自分を知る者が誰もいない東京に出る決心をした。
とはいえ、東京に出たからといってすぐに仕事があるわけではない。小町は海軍に入る前に勤めた会社の伝手を頼って釘を6樽手に入れ、それを売り歩く行商を始めた。するとそのうち、国鉄蒲田駅前の建築会社で、釘を売るために軒下を貸してくれることになった。やがて字が上手で計算が得意なことが社長に気に入られ、いつしかその会社で働くようになった。
そして社長のすすめで材木商を営むようになるが、店主の小町が材木について素人なのに、客のほうは全員がプロ。買い叩かれるばかりで、毎日店を開けるたび、客が来るのが怖かったという。
材木商をしばらくやったあと、建築会社を始める。材木商とちがい、各専門職に仕事を任せ、自分は号令をかける立場でいられるというのがその理由だった。しかしこの仕事も、心ない客に代金を払ってもらえず、出来上がりに根拠のないクレームをつけられて訴えられるなど、けっして楽な商売ではなかった。
苦しいながらも伸びてきた建築会社だったが、小町は、近代的なビルの時代に対応することに限界を感じ始めた。そこで、自分のビルを持つことを決意、ある銀行に融資を申し込む。
「銀行が、一週間かけて近所を聞き回ったり、人物調査をしたらしいです。あとで支店長が言ってましたが、『小町さんは口は悪いけど、腹のなかは空っぽで、どんなことがあっても約束は守る、信用できる人ですよ』と、誰かが言ってくれたらしいです。それで融資にOKが出まして、しかもオイルショックでインフレになる直前に建てたものだから、建築費も安く上がった。それで家賃も安くできたから、テナントはあっという間に埋まりました」
昭和48(1973)年、「グランタウンビル」の完成である。釘の行商から身を起こして、都内の駅前一等地のビルのオーナーになったのだ。