本文へ移動

終戦

闘いすんで 陽が暮れて・・・

山下奉文大将の口述遺言

2022-10-08

山下奉文大将の口述遺言

山下大将は、1946年2月23日、Los Baños, Laguna米軍刑務所キャンプ(マニラ市の南方)で絞首刑に処せられた。以下の文は教戒師の森田正覚氏が、処刑実行40分前に、将軍の言葉を記録したものである。
This is the Last Words of General Yamashita Tomoyuki, the Tigar of Malaya, so to be called, which were recorded to the papers from the speech of the General by the priest called Morita, before 40 minutes of his execution

マニラ軍事法廷1945での山下大将

「私の不注意と天性が閑曼であった為、全軍の指揮統率を誤り何事にも代え難い御子息或は夢にも忘れ得ない御夫君を多数殺しました事は誠に申訳の無い次第であります。激しい苦悩の為心転倒せる私には衷心より御詫び申上げる言葉を見出し得ないのであります。

かって、皆さん方の最愛の将兵諸君の指揮官であった「山下奉文」は峻厳なる法の裁を受けて死刑台上に上がらんとしているものであります。アメリカ初代大統領ジョウジワシントンの誕生祝賀記念日に独房を出て刑の執行を受けるということは偶然の一致ではありますが誠に奇しき因縁と云わねばなりません。

謝罪の言葉を知らない私は今や私の死によって、私の背負された一切の罪を購う時が参ったのであります。もとより私は単なる私一個の死によってすべての罪悪が精算されるであらうというような安易な気持ちを持っているものではありません。

全人類の歴史の上に拭うべからざる数々の汚点を残した私は、私の命が断たれるという機械的な死について抹殺されることとは思わないのであります。絶えず死と直面していた私にとりましては死ということは極めて造作のない事であります。

私は大命によって降伏した時、日本武士道の精神によるなれば当然自刃すべきでありました。事実私はキャンガンで或はバギオでかってのシンガポールの敵将パーシバルの列席の下に降伏調印をした時に自刃しようと決意しました。然し其の度に私の利己主義を思い止まらせましたのは、まだ終戦を知らないかっての部下達でありました。

私が死を否定することによって桜町(キャンガン)を中心として玉砕を決意していた部下達を無益な死から解放し祖国に帰すことが出来たのであります(私が何故自決をしなかったかということは、ついている森田教誡師に質問され詳しく説明致した所であります。)

私は武士は死すべき時に死所を得ないで恥を忍んで生きなければならないということが如何に苦しいものであるかと云う事をしみじみと体験致しました。此の事より■して、生きて日本を再建しなければならない皆様の方が戦犯で処刑されるものよりどれだけ苦しいかということが私にはよく分るのであります。

若し私が戦犯でなかったなら皆さんからたとえ如何なる恥辱を受けませうとも自然の死が訪れて参りますまで生きて贖罪する苦難の道を歩んだでありませう。

兵は国の大事にして死生の地、存亡の道なり、察せざるべからず、と孫子もいったように兵はまさしく凶器であり、大きな罪悪でありました。この戦争を防止するため私はあらゆる努力を払いました。然し悲しいかな私の微力よく之を阻止することが出来なかったことはまことに慙愧に耐えない次第であります。

マレー侵略、シンガポール攻略、国民の血を湧かした丈に恐らく皆さんは私を生粋の侵略主義者、軍国主義者の最たるものであると目して居られるでしょうがそれは当然であります。一身を軍職に捧げた職業軍人であります。今更何をか之に加えましょうか。然し私も軍人であると共に一■日本国人民としての意識も又相当強く動いて居りました。亡国と死者とは永久に再生はないのであります。

兵事は古えより明君賢将の深く慎み警むる所でありました。一部の■者がひとの事を断じて国民大衆を多く殺傷し残れる者を今日の如く塗炭の苦しみに落入れたことは等しく軍部の専断であり国民諸君の怨嗟悉く我等に集中するを思う時私は正に断腸の思がするのであります。

ポツダム宣言によって日本が賢明ならざる目論見によって日本帝国を滅亡に導いた軍閥指導者は一掃され、民意によって選ばれた指導者によって平和国家としての再建が急がれるでしょうが、前途益々多事多難んることが想像されます。建設への道に安易なる道はありません。軍部よりの圧力によったものとは云えあらゆる困苦と欠乏に堪えたあの戦争十箇年の体験は必ず諸君に何物かを与えるに違いないと思います。新日本建設には、私達のような過去の遺物に過ぎない職業軍人或は阿諛追従せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者等を断じて参加させてはなりません。

恐らく占領軍の政策として何等かの方法が取られるでありましょうが将に死に就かんとする私は日本の前途を思うの余り一言申し添えたいと思うのであります。踏まれても、焼かれても強い繁殖力を持った雑草は春が来れば芽を吹きます。国悉く破れて山河のみとなった日本にも旺盛なる発展の意志を持った日本の皆様は、再び文化の香り高い日本をあの1863年丁独戦争によって豊沃なるヌレスリッヒ、ホルスタイン両州を奪はれたデンマークが再び武を用いる事を断念し不毛の国土を世界に冠たる欧州随一の文化国家に作り上げたように建設されるであろう事を信じて疑いません。私共亡国の徒は衷心からの懺悔と共に異国の地下から日本復興を祈念いたします。新に軍国主義者共を追放し自ら主体的立場に代られた日本国民諸君、荒された戦禍の中から雄々しく立上がって頂き度い。それが又私の念願であります。私は朴訥なる軍人であります。

今や死の関頭に立って萬感交々至り謝罪と共に言語の形式を以って申し述べたいのでありますが、武将の常として従来多くを語らず寡言実行の習癖と加うる語句又豊富でありませんので之を表現することが出来ないことを残念におもいます。


私の刑の執行は刻々に迫って参りました。もう40分しかありません。この40分が如何に貴重なものであるか、死刑因以外には恐らくこの気持の解る人はないでしょう。私は森田教誡師と語ることによって、何時かは伝はるであろう時を思い、皆さんに伝えて頂くことに致します。

聞いて頂きたい・・・・

其の第一は義務の履行ということであります。
この言葉は古代から幾千の賢哲により言い古された言葉であります。そして又此の事程実践に困難を伴うことはないのであります。又此事なくしては民主主義的共同社会は成り立たないのであります。他から制約され強制される所のものでなく自己立法的内心より湧き出づる所のものでなくてはなりません。束縛の鉄鎖から急に解放されるであろう皆さんがこの徳目を行使される時に思ひを致す時聊か危惧の念が起こって来るのであり、私は何回此言葉を部下将兵に語ったことでしょうか。峻厳なる上下服従の関係に在り抵抗干犯を許されなかった軍隊に於いてさえこの事を言はざるを得なかった程道義は著しく頽廃していたのであります。甚だ遺憾な事でありますが今度の戦争におきましては私の麾下部隊将兵が悉く自己の果たすべき義務を完全に遂行したとは云い難いのであります。他律的な■務に於いてさえ此の通りでありますから一切■絆を脱した国民諸君の■に為すべき自律的義務の遂行にあたっては聊か難色があるのではないかと懸念されるのであります。旧軍人と同じ教育を受けた国民諸君の一部にあっては突如開顕された大いなる自由に幻惑された余り他人との関聯ある人間としての義務の履行に怠慢でありはしないかと云うことを恐れるのであります。

自由なる社会に於きましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。此の倫理性の欠除という事が信を世界に失ひ■を萬世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本的原因であると思うのであります。

此の人類共通の道義的判断力を養成し、自己の責任に於て義務を履行すると云う国民になって頂き度いのであります。

諸君は、今他の地に依存することなく自らの道を切り開いて行かなければならない運命を背負はされているのであります。何人と雖も此の責任を回避し自ら一人安易な方法を選ぶ事は許されないのであります。こゝに於いてこそ世界永遠の平和が可能になるのであります。

第二に、科学教育の振興に重点をおいて頂きた度いのであります。
現代に於ける日本科学の水準は極く一部のものを除いては世界の水準から相去る事極めて遠いものがあるということは何人も否定することの出来ない厳然たる事実であります。一度海外に出た人なら第一に気のつく事は日本人全体の非科学的生活ということであります。

合理性を持たない排他的な日本精神で真理を探究しようと企てることは、宛も水によって魚を求めんとするが如きものであります。我々は資材と科学の欠除を補ふ為に汲々としたのであります。

我々は優秀なる米軍を喰い止める為百萬金にても贖い得ない国民の肉体を肉弾としてぶっつける事によって勝利を得ようとしたのであります。必殺肉弾攻撃体当り等の戦慄すべき凡ゆる方法が生れました。僅かに飛行機の機動性を得んが為には、防衛装置の殆どを無視して飛行士を生命の危険にさらさざるを得なかったのであります。
我々は資材と科学の貧困を人間の肉体を以って補わんとする前古未曾有の過失を犯したのであります。この一事を以ってしても我々職業軍人は罪萬死に価するものがあるのであります。 今の心境と、降伏当時との心境には大なる変化があるのでありますが、ニュービリヒット収容所に向ふ途中、ヤングの記者スパートマクミラン君が「日本敗戦の根本的な理由は何か」と質問された時、重要かつ根本的な理由を述べんとするに先達って今迄骨身にこたえた憤懣と■■な要求が終戦と共に他の要求に置き換えられ漸く潜在意識のなかに押込められていたものが突如意識の中に浮び上がり、思はず知らず飛び出した言葉は「サイエンス」でありました。敗因はこれのみではありませんが重大要因の中の一つであったことは紛れもない事実であります。 若し将来不吉な事でありますが戦争が起こったと仮定するならば、恐らく日本の取った愚かしい戦争手段等は廃人の夢の昔語りと化し短時間内に戦争の終結を見る恐るべき科学兵器が使用されるであろうことが想像されるのであります。戦争の惨禍をしみじみと骨髄に■して味うた日本人は否全世界の人類は、この恐るべき戦争回避に心■を打込むに違ひありません。又このことが人間に課せられた重大な義務であります。

あの広島、長崎に投下された原子爆弾は恐怖にみちたものであり、それは長い人間虐殺の歴史に於てかって斯くも多数の人間が生命を大規模に然も一瞬の中に奪われたことはなかったのであります。獄中にあって研究の余地はありませんのでしたが、恐らくこの原子爆弾を防御し得る兵器は、この物質界に於て発見されないであろうと思うのであります。

過去に於ては、如何なる攻撃手段に対してもそれに対する防御は可能であるといわれて参りました。実際このことは未だに真実であります。過去の戦争を全く時代遅れの戦争に化し去ったこの恐るべき原子爆弾を防御し得る唯一の方法が若し有るとするならば世界の人類をして原子爆弾を落としてやろうといふような遺志を起こさせないような国家を創造する以外には、手はないのでであります。敗戦の将の胸をぞくぞくと打つ悲しい思い出は我に優れた科学的教養と科学兵器が十分にあったならば、たとへ破れたりとはいへ斯くも多数の将兵を殺さずに平和の光輝く祖国へ再建の礎石として送還することが出来たであらうといふ事であります。私がこの期に臨んで申し上げる科学とは人類を破壊に導く為の科学ではなく未利用資源の開発或は生存を豊富にすることが平和的な意味に於て人類をあらゆる不幸と困窮から解放するための手段としての科学であります。

第三に申し上げたい事は・・・特に女子の教育であります・・・
伝うる所によれば日本女性は従来の封建的桎梏から開放され参政権の大いなる特典が与えられた様でありますが現代日本婦人は西欧諸国の婦人に比べると聊か遜色があるように思うのですが、これは私の長い間の交際見聞に基く経験的事実であります。

日本婦人の自由は、自ら戦い取ったものではなく占領軍の厚意ある贈与でしかないという所に危惧の念を生ずるのであります。

贈与といふものは往々にして送り主の意を尊重するの余り直ちに実用化されないで観賞化され易いのであります。

従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。皆さんは旧殻を速かに脱し、より高い教養を身に付け従来の婦徳の一部を内に含んで、然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切に発揮して下さい。 自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません。

最後にもう一つ婦人に申し上げ度い事は、
皆さんは既に母であり又は母となるべき方々であります。母としての責任の中に次代の人間教育という重大な本務の存することを切実に認識して頂き度いのであります。私は常に現代教育が学校から始まっていたという事実に対して大きな不満を覚えていたのであります。

幼児に於ける教育の最も適当なる場所は家庭であり、最も適当なる教師は母であります。真の意味の教育は皆さんによって適切な素地が培われるのであります。若し皆さんがつまらない女であるとの謗りを望まれないならば、皆さんの全精力を傾けて子女の教育に当って頂き度いのであります。然も私のいう教育は幼稚園或は小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時を以て始められなければならないのであります。愛児をしっかりと抱きしめ乳房を哺ませた時何者も味う事の出来ない感情は母親のみの味いうる特権であります。愛児の生命の泉としてこの母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。単なる乳房は他の女でも与えられようし又動物でも与えられようし代用品を以ってしても代えられます。然し、母の愛に代わるものは無いのであります。

母は子供の生命を保持することを考へるだけでは十分ではないのであります。

■が大人となった時自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、強調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。

皆さんが子供に乳房を哺ませた時の幸福の恍惚感を単なる動物的感情に止めることなく、更に知的な高貴な感情にまで高めなければなりません。母親の体内を駆け巡る愛情は乳房からこんこんと乳児の体内に移入されるでせう。

将来の教育の■分化は、母親の中に未分化の状態として溶解存在しなければなりません。
幼児に対する細心の注意は悉く教育の本源でなければなりません。功まざる母の技巧は教育的技術にまで進展するでせう。

こんな言葉が適当か、どうか、専門家でない私には分りませんが、私はこれを「乳房教育」とでも云い度いのです。

どうかこの解り切った単純にして平凡な言葉を皆さんの心の中に止めて下さいますよう。これ が皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります。」

(終わり)

注記:
1) On 23 February 1946, at Los Baños, Laguna Prison Camp, 30 miles (48 km) south of Manila-Philipines, Yamashita was hanged.
2) ■部分は、口述筆記原本での文字の判読不能、欠落等を指します。

■ ■ ■


■ 口述者略歴: 山下奉文大将

出生と軍経歴
 高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。兄山下奉表は海軍軍医少将。高知・海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(18期)、陸軍大学校(28期)卒業後、スイス、ドイツに留学し、帰国後、陸軍省軍事課長、軍事調査部長等を歴任した。
 二・二六事件では皇道派の幹部として決起部隊に理解を示すような行動をした。山下は決起部隊の一部の将校が所属していた歩兵第3連隊の連隊長を以前務めていて彼らと面識があり、同調者ではないかと周囲からは見られていた。このため、山下宅の電話は事件前から当時の逓信省陸軍省軍務局(事件後は戒厳司令部)によって傍受・盗聴を受けている。決起部隊が反乱軍と認定されることが不可避となった折に、山下の説得で青年将校は自決を覚悟した。このとき山下は陸軍大臣と侍従武官長を通じて、彼らの自決に立ち会う侍従武官の差遣を昭和天皇に願い出たが、これは天皇の不興を買うことになった。
 事件収拾後、山下は軍から身を引く覚悟も固めたが、川島義之陸軍大臣が慰留につとめ、朝鮮・竜山の歩兵第40旅団長への転任という形で軍に残った。しかし、事件の影響で陸軍の主流派のコースからはずれ、参謀本部大本営などのエリートポストにつくことは一度もなかった。
マレーの虎
 太平洋戦争の緒戦において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮する。日本の新聞はその勇猛果敢なさまを「マレーの虎」と評した(「マライのハリマオ」は別人(谷豊)の異名)。シンガポールの戦いの終結時に敵将イギリス軍司令官のアーサー・パーシバル中将に対して「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話は一躍有名になったが、実際にはより落ち着いた紳士的な文言・口調の会話だったという。
 一方で、司令部参謀の辻政信が強硬に主張した華僑粛清を承認するなどといった汚点も残した。ただしこの華僑虐殺事件は辻の独断専行による面が多く、山下の責任を否定する見解も存在する。山下は辻の邪悪な性格を彼の着任早々に見抜いており、「我意ばかり強く、国家の重大事を任せることのできない小人、こすい(ずるい)奴」だと辻のことを評していたと言われる。
 マレー作戦の成功で山下は国民的な英雄となったが、昭和天皇は山下に拝謁の機会を与えなかった。これは二・二六事件の時の山下の行動を天皇が苦々しく思っていたためだとも、
フィリピン防衛戦
山下はシンガポール攻略という大きな戦績をあげたが、東條英機から疎まれてその後は満州に配置され、以後は大きな作戦を任されることはなかった。しかし敗色が濃厚となった1944年(昭和19年)に第14方面軍司令官として起用され、日本軍が占領していたフィリピンの防衛戦を指揮することになった。
 ダグラス・マッカーサーらの指揮する連合軍に対して善戦するが、台湾沖航空戦での誤った戦果報告に基づいて立案されたレイテ決戦を大本営から強いられ、本来予定していたルソン島での決戦を行うことはできなかった。飛来する敵航空機がまったく減らないことから、山下は台湾沖航空戦の戦果発表を誤報と考え、このレイテ決戦に反対していた。
 つづくルソン島の戦いでは、ルバング島小野田寛郎少尉からの「敵艦見ゆ、針路北」との報告で、マニラ湾からリンガエン湾への迅速な陣地転換に成功するが、徐々に兵力差で圧倒され、最終的には山岳地帯へ退いての持久戦に追い込まれている。1945年(昭和20年)9月3日フィリピンのバギオにて降伏した。降伏時、巨漢で有名だった山下はすっかりやせ細ってしまっていた。
マニラ軍事裁判
 降伏時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられる。1945年(昭和20年)10月29日審理開始。法廷ではシンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ、12月7日に死刑判決を受けた。
 山下奉文は、処刑前に教誨師の森田正覚に日本人へ向けた遺言を残した。彼が最後に伝えたかったことは、戦時中の彼の行いに対する自責の念と自由を尊び平和を追求する新しい日本に対する理想であった。(原本は、奈良県立図書情報館などで閲覧できる。なお、文字の欠落等がある。)  出典:ウィキペディアWikipedia)の該当記事を編集短縮した。

処刑

山下は執行日の前日となる1946年2月22日の午後11時30分に死刑囚監房につれていかれたが、世話役のラドマン中佐から執行時間が早朝6時と聞くとその1時間前に起こしてほしいと頼んでいる。明けて翌1946年の2月23日早朝5時に、ラドマンが約束通りに山下を起こしに行くと、山下はぐっすりと眠っていたため、ラドマンは遠慮して起こすのを止めている。やがてその20分後に山下は自ら起きたが、時計を見た後に起こしてくれなかったラドマンに抗議をしている。山下はマッカーサーの命令通り、帝国陸軍大将としての軍服および一切の勲章も着用しないまま、米軍のカーキーシャツとズボン、緑色の作業服姿に着替えると、日本人教誨師の言葉を聞いて黙禱し、その後は取り乱すこともなく執行前の手続きをこなしていった。執行の1分前にラドマンが執行人を連れてやってきて、山下に素早く目隠しして、手首に手錠をかけたが、山下は執行人をリラックスさせるためか「少し手錠が固い」と冗談を言っている。その後、東京の方を向いて深々と礼をすると、躊躇することなく絞首台の方に歩いて行き、絞首刑に処された。享年60。

さる23日朝、…大将の魂は永久に帰らぬ旅に出た。時に午前三時二分、将軍はさすがに帝国軍人らしく最後まで泰然とし冷静そのものであった。執行は…極秘裡に行われ、米西太平洋司令部からは簡単な発表があった。最後に何か言い残すことがあるかと問われると、彼は、天皇陛下の御長寿と永遠の御繁栄をお祈りしますとだけ述べた。
マニラUP電(1946年2月24日)
もし敗戦の敵将を処置するために、正式な手続きの仮面をかぶった復讐と報復の精神をのさばらせるならば、それは同じ精神を発生させ、全ての残虐行為よりも永久的な害毒を流すものである
マーフィー米最高裁判事
山下に対してどのような考えを持つにせよ、彼には威厳と平静さがあった。勝利者になろうが、敗北者になろうが、司令官になろうが、捕虜になろうが、彼は男らしかった。(中略)彼の眼は深くて思慮があった…人生を見つめて来た者の眼、人生を理解し、死を恐れない者の眼
弁護人フランク・リール大尉


守屋正によると、山下は十三階段を登る前に、「何か欲しいものはないか」といわれたのに対し、ビールを一杯所望して、いかにもうまそうに飲み、「子供は日本式で育てるように家族に伝えてくれ」と遺言したという。山下は懸命な弁護をしてくれたリールらアメリカ軍の弁護団に、お礼として記念の金貨などの貴重品や、軍服用のベルトなど身の回り品を贈呈しており、遺品はタバコケースと腕時計と部隊長徽章だけであった。

TOPへ戻る