【 プロレス編】
ジャイアント馬場激動の30年
インターナショナル選手権
16文 × 2 = 32文
ボボ・ブラジルという生き方
1957年8月、日本プロレスに初来日。8月14日に東京都体育館で行われた力道山とのシングルマッチは「頭突き対空手チョップ」として注目された。試合ではココバットの連打で力道山を大流血に追い込んだが、力道山のダメージが深刻であることを察知したブラジルは、これ以上の試合続行は危険と判断、リングを降りて控え室に戻り、試合放棄による判定負けを自ら選んだ。当時のマスコミは、力道山の出血が止まらないため、血を見るのが嫌いなブラジルが戦意を喪失したなどと報じたが、この初参戦を最後に、力道山がブラジルを日本に招聘することはなかった。
1968年6月、WWA世界ヘビー級王者として、日本プロレスへの11年ぶりの再来日が実現(『ゴールデン・シリーズ』終盤戦への特別参加)。来日第1戦となる6月25日、愛知県体育館において、ジャイアント馬場を破りインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。シリーズ最終戦の6月27日、蔵前国技館において馬場に奪回されたが、力道山没後の日本プロレスのエースとして、強豪を相手に21回もの連続防衛記録を達成していた馬場にとっては、初の王座陥落となった。
以降も日本プロレスへの参戦を続け、1969年4月の3度目の来日時には『第11回ワールドリーグ戦』に出場。外国陣営ではクリス・マルコフと同点の首位となり、5月16日の東京都体育館での優勝決定戦では、同じく日本陣営の同点首位だった馬場およびアントニオ猪木との4選手による決勝トーナメントが行われた(第1試合で馬場と引き分けとなり、第2試合でマルコフを破った猪木が優勝)。
馬場のインターナショナル・ヘビー級王座には、1970年2月2日に札幌中島スポーツセンター、1972年1月6日に大阪府立体育館においても挑戦。1972年12月、日本プロレスへの最後の来日となる『インター選手権シリーズ(インターナショナル・チャンピオンシップ・シリーズ)』への参戦時には、馬場の日本プロレス退団による返上で空位となっていた同王座を賭けて、12月1日に横浜文化体育館において大木金太郎と対戦。「頭突き世界一決定戦」とも呼ばれたこの試合を制し、2度目の戴冠を果たした。12月4日に広島県立体育館で大木にタイトルを明け渡したものの、日本プロレスでインターナショナル・ヘビー級王座を2回獲得した外国人レスラーはブラジルだけである。










