あの時、この時
財津一郎さん
【綾小路きみまろ】
法によって判断するという司法の姿勢
張本勲
張本さんは韓国人としての誇りを持っていた。初めて首位打者を獲ったプロ3年目(当時東映=現日本ハム)の1961(昭和36)年、大江健三郎との対談で「おふくろに教えられたんです」と語っている。当時21歳、前年60年、母とともに初めて韓国を訪問し、故郷を意識していたころである。
「韓国人として胸を張って、自分の力で生きなさいとしょっちゅう言われました」と言うと、大江は「立派なお母さんですね」と応じた。「でも自分で悟ったんじゃないんです」。対談は小澤征爾、黒柳徹子ら当時の各界若手とともに、62年刊行の『世界の若者たち』(新潮社)にまとめられた。
張本さんの父・相禎(サンジ)さんと母・順分(スンフン)さんは韓国・慶尚南道の出身。1940(昭和15)年春、3人の子どもと海峡を渡り、広島で暮らし始めた。同年6月19日生まれの張本さんは母親のおなかの中にいた。
翌41年には太平洋戦争に突入。食糧、物資が不足していった。山で採れたサツマイモをたき火に放り込んで焼きイモにしてよく食べた。
4歳の冬、友だちとたき火を囲んでいるとトラックがバックしてきた。車に押され、火の中に倒れ込んだ。やけどは右半身全体に及んだ。右手の薬指と小指は癒着して離れなくなった。以来、右手は見せないように努めていた。
東映時代の恩師、打撃コーチだった松木謙治郎さん(阪神OB)からは右手の強化とレベルスイングによる中距離打者を目指すように指導を受けた。
後年、NHK解説者だった川上哲治さんに見せると「うっ」と絶句された。「よくぞ、この手で……」と涙ぐまれた。
原爆で長姉・点子さんを亡くし、戦後、一時、韓国に帰っていた父の訃報が届いた。残されたのは10歳上の兄・世烈(セウリ)さん、次姉・貞子さんとバラックで4人暮らし。母は必死に働いた。猿候川の畔、東雲町に転居し、6畳1間、トタン屋根の家にホルモン焼き肉店を営んだ。張本さんは「母親が寝ているところを見たことがなかった」と話していた。
在日韓国人がいじめにあっていると、ケンカになった。「母は間違ったケンカはいかんが、筋の通ったケンカなら許してくれた。そして負けるなと言っていた」
小学5年で大人たちの町内野球で初めて野球に触れ、興味を抱いた。段原中の野球部では右手では投げるのは難しく、左投げに転向した。
巨人が宿泊していた吉川旅館(現ホテル・フレックス)の様子を見に行き、窓越しに大広間でのすき焼きなど豪華な食事や賞金だろうか封筒入りの現金を目の当たりにした。
「将来はプロ野球選手になってもうけて、大きな家を建ててみせる。母親に楽をさせてやりたい」。この誓いの約束はプロでの原動力となり、実現させた。
浪華商(現大体大浪商)時代、校内弁論大会で2度、優勝している。被爆体験と原爆で亡くした姉を語った「ケロイド乙女」と、差別をテーマにした「絶叫」だった。
3年最後の夏の大会前、野球部員の暴力事件が発覚した際、「張本一人がやった」と、ぬれぎぬで責任を負わされ、休部させられた。「韓国人という理由だったろう」と話していた。「死のう」と何度も淀川の鉄橋の上に立ったという。
そんな折、韓国行きの話が舞いこんだ。甲子園大会に出られなかった在日韓国人選手で選抜チームをつくり、韓国各地を転戦した。
「野球に命を救われたんですよ」
そんな張本さんだからこそ、「野球に命をかけてきた」という言葉が胸に響くのだった。(編集委員)
王さんの背後で大ジャンプ!
「張本ジャンプ」は、1977年9月3日、巨人・王貞治選手(現ソフトバンク球団会長)が、ハンク・アーロン選手(ブレーブスなど)が保持していた当時の米大リーグ記録の通算755本塁打を抜く、756号を放った直後に飛び出した。
両手を大きく広げ、笑顔を浮かべて一塁へ歩を進める王選手の背後で、張本さんは右腕を突き上げ、斜め上に大ジャンプした。
張本さんはこのときの心境を産経新聞のインタビュー企画「話の肖像画」(聞き手・清水満特別記者)の中で次のように語っている。
ワンちゃんのホームランが出たとき、跳びあがったのは無意識でしたよ。ウォワーッって感じでね。意識してたらあんなに跳べないよ。後で写真を見たけど、よくもまあ、こんなに跳んだなって。自分でも本当にうれしかったねぇ。








