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あの時、この時

財津一郎さん

2026-10-10
芸能才人図鑑 財津一郎さん
てなもんや三度笠「252話 柳橋の乱戦」

【綾小路きみまろ】 

2026-10-08
爺ちゃん情報ー懐かしの爆笑ライブ
【ほぼノーカット】綾小路きみまろ、「人生は70代で決まる」発売記念トークショー開催

法によって判断するという司法の姿勢

2026-10-03
Facebook 2ch劇場さん曰く
1891年、滋賀県大津で起きた一つの事件が、日本全体を揺るがした。
来日中だったロシア皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、警備中の巡査・津田三蔵に突然襲われた。
大国ロシアの皇太子が、日本国内で刃物による襲撃を受けた。
明治政府にとって、これは外交上の重大な危機だった。
当時の日本は、まだ列強と肩を並べる国力を持っていなかった。もしロシアが報復として軍艦を送り、強硬な対応に出れば、国の存亡に関わる事態になる可能性もあった。
政府内部には強い不安が広がった。
内閣総理大臣の松方正義や伊藤博文ら政府首脳は、事件を起こした津田三蔵を極刑に処すことで、ロシアへの誠意を示そうと考えた。
そのため司法側に対し、日本の皇室に対する犯罪に適用される「大逆罪」を、外国皇族への襲撃にも広げて適用するよう圧力をかけた。
しかし、ここで立ちはだかった人物がいた。
大審院長、児島惟謙だった。
現在の最高裁判所長官にあたる立場にいた児島は、政府の要求を受け入れなかった。
大逆罪は日本の皇室を対象とした法律であり、外国の皇族への襲撃に適用することは法の解釈を超えていた。
国家の危機を理由に法律を曲げるのか。
それとも、厳しい状況でも法の原則を守るのか。
児島が向き合ったのは、単なる一つの裁判ではなかった。
政府からの圧力が強まる中でも、児島は担当裁判官たちを守り、公正な審理を進めるよう求めた。
結果として、津田三蔵には通常の法律に基づき無期徒刑の判決が下された。
当時の政府にとって、ロシアの反応は最大の懸念だった。
だが、日本側が法に基づいて処理したことを受け、ロシアは武力による報復には踏み切らなかった。
大津事件は、日本の近代司法の歴史において重要な出来事として記録されることになった。
国家の危機に直面した時、政府の判断と法律の原則が衝突することがある。
児島惟謙が守ろうとしたのは、一時的な外交対応ではなく、裁判が政治の力だけで動かされない仕組みだった。
大国への恐怖が広がった時代に、一人の裁判官が守ったものは、法によって判断するという司法の姿勢だった。 

張本勲

2026-09-10
張本勲 3000本安打達成までの軌跡
張本勲 元プロ野球選手 2014.12.3
元プロ野球選手の張本勲さんが、「ヒロシマ(被ばく)~浪商~東映フライヤーズ~巨人軍」をテーマに対談形式で話した。
元プロ野球選手の張本勲さんが、「ヒロシマ(被ばく)~浪商~東映フライヤーズ~巨人軍」をテーマに対談形式で話した。 司会 宮内 正英 日本記者クラブ企画委員(スポーツニッポン新聞社) 日本記者クラブのページ http://www.jnpc.or.jp/activities/news...
 記者による会見リポート(日本記者クラブ会報2015年1月号に掲載)
 自分史を重ねて「球界のご意見番」アッパレ 東京五輪の64年、私は運動部記者として水原監督率いる東映フライヤーズ(現日本ハム・ファイターズ)を担当、「張本番」をやったことがある。 当時の張本選手は「球界一の暴れん坊」、チーム内でも水原監督以外は先輩を先輩とも思わず、取材するメディアも払いのける態度。23歳の若さで強打の四番打者。「文句あるなら、実力で来い」が、顔に表れた気力。 在日韓国人ゆえの差別、貧困、広島での原爆被爆、姉の死、野球選手にとって致命的な幼年時の右手大けがによる後遺症など、当時は一切語らず。ただ世の中の不条理に、野球の力で敢然とぶつかっていく気迫のものすごさがあった。 
それから50年、昨年11月26日発表の日本野球機構80周年ベストナインに王、長嶋氏らとともに選ばれた。2752試合、3085安打、504本塁打、生涯打率・319という実績。「栄光の功労者」、アッパレ「球界のご意見番」になった。 
会見では、浪商から東映入団の真相、実兄がタクシーの運転手をしながら乏しい収入から学費を捻出した兄弟愛、契約金2百万円のうち百万円で広島に家を買い最愛の母に捧げたこと、東映時代の対南海戦で愛人が観戦している前で途中交代され、グラブを投げ捨て合宿に帰り、一、二階のガラスをたたき割ったこと、王選手と銀座の女性を張りあったこと、プロ野球選手の強敵は「酒、バクチ、女」、それでつぶれた有望若手投手、最高の投手は左の金田、江夏、右の杉浦、尾崎、野村捕手のささやき戦術に空振りのバットで反撃したことなど生の球界裏話。 一方、原爆体験から強く戦争反対を語り、「政治のことはわからないが」と言いながら、朴韓国大統領の度重なる対日批判、慰安婦問題を表に出すことへの疑問など日韓関係の現状を深く憂う発言。
軽妙でしかも淡々とした語り口に会場は何度もうなずき何度も沸いた。 中日新聞相談役 大林 主一

3000安打を達成したロッテ・張本勲と母・順分さん(1980年5月28日、川崎球場) © (C) スポーツニッポン新聞社
韓国人としての誇りと反骨心を胸に「野球に命」――張本勲さんをしのぶ

張本さんは韓国人としての誇りを持っていた。初めて首位打者を獲ったプロ3年目(当時東映=現日本ハム)の1961(昭和36)年、大江健三郎との対談で「おふくろに教えられたんです」と語っている。当時21歳、前年60年、母とともに初めて韓国を訪問し、故郷を意識していたころである。

 「韓国人として胸を張って、自分の力で生きなさいとしょっちゅう言われました」と言うと、大江は「立派なお母さんですね」と応じた。「でも自分で悟ったんじゃないんです」。対談は小澤征爾、黒柳徹子ら当時の各界若手とともに、62年刊行の『世界の若者たち』(新潮社)にまとめられた。

 張本さんの父・相禎(サンジ)さんと母・順分(スンフン)さんは韓国・慶尚南道の出身。1940(昭和15)年春、3人の子どもと海峡を渡り、広島で暮らし始めた。同年6月19日生まれの張本さんは母親のおなかの中にいた。

【内田雅也の広角追球】

 翌41年には太平洋戦争に突入。食糧、物資が不足していった。山で採れたサツマイモをたき火に放り込んで焼きイモにしてよく食べた。

 4歳の冬、友だちとたき火を囲んでいるとトラックがバックしてきた。車に押され、火の中に倒れ込んだ。やけどは右半身全体に及んだ。右手の薬指と小指は癒着して離れなくなった。以来、右手は見せないように努めていた。

 東映時代の恩師、打撃コーチだった松木謙治郎さん(阪神OB)からは右手の強化とレベルスイングによる中距離打者を目指すように指導を受けた。

 後年、NHK解説者だった川上哲治さんに見せると「うっ」と絶句された。「よくぞ、この手で……」と涙ぐまれた。

 原爆で長姉・点子さんを亡くし、戦後、一時、韓国に帰っていた父の訃報が届いた。残されたのは10歳上の兄・世烈(セウリ)さん、次姉・貞子さんとバラックで4人暮らし。母は必死に働いた。猿候川の畔、東雲町に転居し、6畳1間、トタン屋根の家にホルモン焼き肉店を営んだ。張本さんは「母親が寝ているところを見たことがなかった」と話していた。

 在日韓国人がいじめにあっていると、ケンカになった。「母は間違ったケンカはいかんが、筋の通ったケンカなら許してくれた。そして負けるなと言っていた」

 小学5年で大人たちの町内野球で初めて野球に触れ、興味を抱いた。段原中の野球部では右手では投げるのは難しく、左投げに転向した。

 巨人が宿泊していた吉川旅館(現ホテル・フレックス)の様子を見に行き、窓越しに大広間でのすき焼きなど豪華な食事や賞金だろうか封筒入りの現金を目の当たりにした。

 「将来はプロ野球選手になってもうけて、大きな家を建ててみせる。母親に楽をさせてやりたい」。この誓いの約束はプロでの原動力となり、実現させた。

 浪華商(現大体大浪商)時代、校内弁論大会で2度、優勝している。被爆体験と原爆で亡くした姉を語った「ケロイド乙女」と、差別をテーマにした「絶叫」だった。

 3年最後の夏の大会前、野球部員の暴力事件が発覚した際、「張本一人がやった」と、ぬれぎぬで責任を負わされ、休部させられた。「韓国人という理由だったろう」と話していた。「死のう」と何度も淀川の鉄橋の上に立ったという。

 そんな折、韓国行きの話が舞いこんだ。甲子園大会に出られなかった在日韓国人選手で選抜チームをつくり、韓国各地を転戦した。

「野球に命を救われたんですよ」

 そんな張本さんだからこそ、「野球に命をかけてきた」という言葉が胸に響くのだった。(編集委員)

世界新記録の通算756号本塁打を放ち、バンザイする巨人・王貞治(右)とジャンプして祝福する張本勲=1977年9月3日、後楽園球場 © iza
「張本ジャンプ」

 9日に死去したプロ野球界のレジェンド、張本勲さん。日本球界の歴代最多となる3085安打を記録した大打者は、日米通算4376安打を放ったイチロー氏(オリックス、マリナーズなど)と深い信頼関係で結ばれていた。その象徴的なエピソードとして知られるのが、イチロー氏が「張本ジャンプ」を激賞したことだ。

王さんの背後で大ジャンプ!

「張本ジャンプ」は、1977年9月3日、巨人・王貞治選手(現ソフトバンク球団会長)が、ハンク・アーロン選手(ブレーブスなど)が保持していた当時の米大リーグ記録の通算755本塁打を抜く、756号を放った直後に飛び出した。

両手を大きく広げ、笑顔を浮かべて一塁へ歩を進める王選手の背後で、張本さんは右腕を突き上げ、斜め上に大ジャンプした。

張本さんはこのときの心境を産経新聞のインタビュー企画「話の肖像画」(聞き手・清水満特別記者)の中で次のように語っている。

ワンちゃんのホームランが出たとき、跳びあがったのは無意識でしたよ。ウォワーッって感じでね。意識してたらあんなに跳べないよ。後で写真を見たけど、よくもまあ、こんなに跳んだなって。自分でも本当にうれしかったねぇ。


2026.09.11の朝刊
西日本新聞、2026.09.11朝刊
讀賣新聞、2026.09.11朝刊
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ポスト力道山

2026-07-17
ジャイアント馬場とPWF~昭和の全日本プロレス
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