岸元総理に聞く
五代目円楽の「優しい演出」
【侍ジャパンU-12】U12アジア選手権V
日米の架け橋役

個人からチーム…
監督に指名したのは正力松太郎だ。戦前に読売新聞の経営を引き受けて飛躍的に発行部数を伸ばし、日本にテレビ放送を導入した。NHKから1年遅れて民放初の日本テレビを創業開局する。
1931年、読売新聞は初めて日米野球を主催し、34年にベーブ・ルース、ルー・ゲーリックら豪華メンバーを日本に招いた。当時の記録をたどると、その熱狂ぶりが残されている。
オープンカーで銀座通りをパレードする米国チームに、沿道の人々が日米両国の国旗を振りながら「ルース! ルース!」と大合唱。大リーグの英雄も立ち上がって応えたという。
ちまたで「巨人、大鵬、卵焼き」のフレーズがはやったように大衆路線を突っ走った。日本にプロ野球を根付かせた正力は3大指針を掲げた。
-「巨人軍は常に強くあれ。巨人軍は常に紳士たれ。巨人軍はアメリカの野球に追いつき、そして追い越せ」-。
川上 正力さんは会社の上の人というより、師弟という感覚でした。わたしは正力さんの指針を何度もかみしめた。巨人軍が強くあれというのは、勝てということだと思いました。勝負ごとだから当たり前のことですが、勝つことに徹底しろというふうに受けとったのです。
監督1年目の61年から海外キャンプをした。宮崎キャンプの後、ドジャースのフロリダ州ベロビーチを訪問。巨人顧問の鈴木惣太郎が、ドジャース会長ウォルター・オマリーと旧知の間柄だったことで実現した。



ベロビーチの「ドジャー・タウン」として認識されている施設は、2019年にスポーツのキャンプ施設として初めて米国の史跡に認定された。歴史は古く第2次大戦中、米海軍と陸軍のトレーニング施設を建設。1948年から、当時ニューヨークのブルックリンに本拠を置いていたドジャースが借り受けた。現在の名称は20世紀初の黒人大リーガーを記念して「ジャッキー・ロビンソン・トレーニング施設」となっている。
53年に完成したホルマン・スタジアムのほか、4面のグラウンドと内野だけのグラウンドに加え、10人近くが一緒に投げられるブルペンがある。宿泊施設、レストラン、ロッカーのほか、選手や関係者の余暇用に9ホールのゴルフ場や専用の滑走路も近隣に作った。バスケットボールのコートやプールもあった。近くを流れる堀にはワニがおり、緑が美しい施設だった。






