支える人

岸元総理に聞く

2026-09-07
逸見リポート 【戦後100年「つなぐ」プロジェクト】

五代目円楽の「優しい演出」

2026-09-04
撮影/キンマサタカ © 現代ビジネス
三遊亭好楽が「笑点」のクビを言い渡されたとき

 1978年の「落語協会分裂騒動」で落語協会と袂を分かった五代目圓楽。三遊亭好楽は師匠の林家正蔵の死後、その圓楽に弟子入りする。定席(新宿末廣亭、浅草演芸ホール、鈴本演芸場、池袋演芸場)に出ることができない五代目圓楽一門会の噺家として傘寿を迎えた好楽が自身の来し方を振り返る。

【侍ジャパンU-12】U12アジア選手権V

2026-08-26
桑田監督から選手へ最後のメッセージ 侍ジャパンU-12アジア選手権終え解団式/双子バッテリー・石井裕翔選手、石井陸翔選手インタビュー
10年ぶりにアジア選手権で優勝を果たした侍ジャパンU-12日本代表が16日、帰国し、選手や桑田真澄監督らが出席して解団式を行った。 
今大会では最後のメッセージとなる挨拶で桑田監督は「アジアチャンピオン本当におめでとうございます」と選手たちを労うと 「3つ話をしたいと思います」と切り出した  1つ目は目的・目標。「強い人になり、強い選手になる」を掲げて大会に臨んでいた。桑田監督は2点差、2死一塁まで追い込まれたスーパーラウンドの台湾戦を例に、「強くなったと思いました」と振り返った。目標の面では「アジアチャンピオン」、「自分で考えて行動する」を設定していた。アジアチャンピオンは達成。「自分で考えて行動する」は、初日の練習の後に「こんな集中力のない練習でアジアチャンピオンなんかなれないよ」と選手たちを叱責したという。その後、選手たちで考えてミーティングをしたことを聞き「すごくうれしかった」と評価した。  2つ目は「BCR」という標語。「バランス、チャレンジ、リスペクト」の英単語の頭文字で、野球に限らず「苦しい時、悩んでいる時、うまくいかない時にBCRを思い出して頑張ってほしい」と語った。  3つ目は「1日でも1年でも長く野球を続けてもらいたい」というお願いだった。「勝負の厳しさ、道具を大事にする、礼儀・あいさつ、お互いを助け合う、協力し合う。当然理不尽なことも経験すると思うけど、野球をできるだけ長く続けて、仲間を増やして、仲間と出会って楽しい充実した人生を過ごしてもらいたいと思います」と呼びかけた。  桑田監督は「君たちと一緒に野球ができて監督はすごくうれしかったです」と感謝を伝えると、スタッフ陣にも感謝の言葉を述べて、締め括った。
桑田真澄監督【侍ジャパンU-12】U12アジア選手権Vで「再確認」したもの 最初は「ペッパー」もできず 食で苦闘、救ったのは選手たちのひと言

日米の架け橋役

2026-06-28
西日本新聞 2026.06.27朝刊より
長嶋茂雄MLB監督を語る 聞き手アイク生原 マーチン アンダーソン 長嶋語 レイクランドのいわゆるスパーキーアンダーソンのひきいるですね
アイク生原さんを報道しないマスコミの実態【 C3.Japan 】
小島 圭市: 1986年読売巨人軍に入団後、アメリカマイナーリーグ、中日ドラゴンズ、台湾プロ野球と各国を渡り、2000年よりMLBスカウトに転身。プロ選手、アマチュア選手のスカウティングを担当。その後、アジア全域の責任者として活躍する。自身の幅、深みを広げるため独立。野球以外の事業にも積極的に進めている。
【生原昭宏】日米野球交流の中心的役割を果たす
https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-142/ 昭和40年、ドジャースのウォルター・オマリー会長と親交の深い鈴木惣太郎氏の紹介により単身渡米し、ドジャース傘下のスポーケンの用具係からアメリカの野球生活をスタートした。後にドジャースのオーナーに就任するピーター・オマリー氏とは長年行動をともにした間柄で、昭和57年からオーナーの補佐兼国際担当として活躍した。巨人・中日のベロビーチ・キャンプの実現、日米大学野球開催などプロ、アマを問わず幅広い日米野球交流の中心的役割を果した。野球留学生に親身な世話をするなど多くの野球人に慕われた。

個人からチーム…

2026-05-25
1961年3月ベロビーチキャンプでドジャースのオマリー会長(右)と練習を見守る川上哲治監督
監督就任1年目、巨人に導入「ドジャースの戦法」でチーム作り / 川上哲治氏編3

監督に指名したのは正力松太郎だ。戦前に読売新聞の経営を引き受けて飛躍的に発行部数を伸ばし、日本にテレビ放送を導入した。NHKから1年遅れて民放初の日本テレビを創業開局する。

1931年、読売新聞は初めて日米野球を主催し、34年にベーブ・ルース、ルー・ゲーリックら豪華メンバーを日本に招いた。当時の記録をたどると、その熱狂ぶりが残されている。

オープンカーで銀座通りをパレードする米国チームに、沿道の人々が日米両国の国旗を振りながら「ルース! ルース!」と大合唱。大リーグの英雄も立ち上がって応えたという。

ちまたで「巨人、大鵬、卵焼き」のフレーズがはやったように大衆路線を突っ走った。日本にプロ野球を根付かせた正力は3大指針を掲げた。

-「巨人軍は常に強くあれ。巨人軍は常に紳士たれ。巨人軍はアメリカの野球に追いつき、そして追い越せ」-。

川上 正力さんは会社の上の人というより、師弟という感覚でした。わたしは正力さんの指針を何度もかみしめた。巨人軍が強くあれというのは、勝てということだと思いました。勝負ごとだから当たり前のことですが、勝つことに徹底しろというふうに受けとったのです。

監督1年目の61年から海外キャンプをした。宮崎キャンプの後、ドジャースのフロリダ州ベロビーチを訪問。巨人顧問の鈴木惣太郎が、ドジャース会長ウォルター・オマリーと旧知の間柄だったことで実現した。

ドジャースの春季キャンプ地、ベロビーチ
95年、ベロビーチ・キャンプでラソーダ監督(左)らが見守る中、初めて投球練習をするドジャース・野茂(右手前)
<1961年2月27日>「ドジャースの戦法」を学びに、巨人がベロビーチへ出発。組織化された近代野球の第一歩
<1961年2月27日>「ドジャースの戦法」を学びに、巨人がベロビーチへ出発
前列中央の黒いスーツが川上哲治新監督で、その右隣のメガネ姿の紳士は巨人軍顧問で日米の野球交流の架け橋と言われた鈴木惣太郎。プロ4年目の長嶋茂雄は後列左から2人目

 川上は一冊の本に出合う。『ドジャースの戦法』。ロサンゼルス・ドジャースの教育係であるアル・カンパニスが書いた当時最先端の技術書である。本は守備のフォーメーションを中心に、チームプレーの重要性を繰り返し説いていた。川上は一読、「神の啓示を受けたと直感した」。個人の力の弱さを補うには、一人ひとりをチームワークという目に見えない糸でつなぎ合わせ、チームプレーという総合力で戦うしかないと確信したのである。それは大投手が抑え、四番の一振りで勝負を決めるという、豪快と言えば聞こえはいいがその実態は粗さが目立つ従来の日本プロ野球との決別を意味した。
ベロビーチのドジャータウンは米軍基地がスタート

ベロビーチの「ドジャー・タウン」として認識されている施設は、2019年にスポーツのキャンプ施設として初めて米国の史跡に認定された。歴史は古く第2次大戦中、米海軍と陸軍のトレーニング施設を建設。1948年から、当時ニューヨークのブルックリンに本拠を置いていたドジャースが借り受けた。現在の名称は20世紀初の黒人大リーガーを記念して「ジャッキー・ロビンソン・トレーニング施設」となっている。

 53年に完成したホルマン・スタジアムのほか、4面のグラウンドと内野だけのグラウンドに加え、10人近くが一緒に投げられるブルペンがある。宿泊施設、レストラン、ロッカーのほか、選手や関係者の余暇用に9ホールのゴルフ場や専用の滑走路も近隣に作った。バスケットボールのコートやプールもあった。近くを流れる堀にはワニがおり、緑が美しい施設だった。

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