【アーカイブス】作戦の記録
· 昭和13年の新聞。
2021-04-18
Facebook 福田 晋也さん曰く
[昭和13年] No.CFSK-0039「五輪東京大会 中止に決定す」
対応に追われるオリンピック東京大会事務局や競技場建設現場、厚生省と厚生省官舎における会議、中止を発表する小橋東京市長。(?) ※この映像には音声がございません。
「オリンピックの唄」
佐伯孝夫(作詞)、中山晋平(作曲)
渡邊はま子、篠崎純(唄) 1936年5月(出版)、Victor 53741 1940年に開催される予定だった東京オリンピック。
同年に皇紀二千六百年を迎えることもあり、関連記念行事という位置付けもあったようです。
これは、開催が決まった1936年に発表された曲で、いわゆるテーマソングでしょうか。
しかし、1937年に勃発した支那事変などの影響で、1938年に日本は開催中止を決めて返上しました。次点だったヘルシンキで開催されることになりましたが、第二次世界大戦の勃発により、開催自体が中止となりました。
【1944年 マリアナ沖海戦】
2021-04-17
多数の航空戦力を喪失。事実上の機動部隊壊滅
開戦当時は無敵を誇った零戦もこの時期にもなると旧式化・陳腐化していた。 後継機「烈風」の配備が遅れていた日本に対して、アメリカは高性能な後継機(F4Fワイルドキャットからの)F6Fヘルキャットを主力に据えており、その性能差は熟練パイロットであっても埋めるのは困難だった
1943年代後半になると、アメリカ軍は中部太平洋での攻勢を本格化。
この状況を受けて空母機動部隊である第一機動艦隊と第一航空艦隊を主力とする基地航空隊によって撃破するという作戦を立てた。この決戦想定作戦を「あ号作戦」といい、あ号の「あ」はアメリカの「あ」である。
機動部隊を率いる小沢治三郎中将は、日本海軍の艦載機の特徴である航続距離の長さを活かし、アメリカ軍艦載機の作戦圏外から攻撃部隊を送り出すアウトレンジ戦法を実行した。
しかしレーダーに誘導された戦闘機による迎撃によりそのほとんどが米機動部隊に近づく前に撃墜され、またVT信管を使用した(使用率20%)対空弾幕の増強により、わずかに残った日本の攻撃隊は次々と撃墜された。
さらに当時すでに多くの熟練パイロットを失っており、開戦時のエースパイロットやベテランの熟練者達の持つ技量で行うことを前提にしたアウトレンジ戦法はほぼ不可能に近かった。
こうしてたやすく撃ち落とされる日本側の艦載機をアメリカ側では「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んだ。また、日本海軍の空母が相手との距離を縮めないように同じ海域に留まっていたため、次々と敵潜水艦の餌食となってしまった。
この戦いで大鳳、翔鶴、飛鷹という数少ない正規空母とそれに準ずる空母3隻を失った他、参加航空兵力の3/4以上となる378機もの航空機の損失により第一機動艦隊は事実上壊滅、日本海軍は二度と機動部隊中心の作戦を行う事ができなくなった。
また、この後「絶対国防圏」の要ともいえるサイパン島を失ったことで、戦局の挽回や有利な条件で講和を結ぶ可能性は完全に失われた。
◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜
2021-03-25
6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前の唯一の例であった。
【20th Century Chronicle 1943年(s18)】
◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜
*1943.4.18/ 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で搭乗機を撃墜され戦死する。
1943(昭18)年3月中旬、ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨ぐべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第3艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し、敵の戦線を攪乱する目的で実行された。
ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。
1943(昭18)年4月18日、山本機がブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して1ヵ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前の唯一の例であった。
山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
(この年の出来事)
*1943.1.31/ 独ソ戦のスターリングラード攻防で、ついに独軍が降伏する。
*1943.2.1/ ガダルカナル島から日本軍が撤退を始めるが、大本営発表はこれを「転進」と表現する。
*1943.9.8/ イタリアのバドリオ政権が、連合軍に無条件降伏する。
*1943.11.22/ ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が、エジプトのカイロで会談、対日方針を定めた「カイロ宣言」を発表する。
◎皇紀2600年記念式典
2021-03-24
*1940.7.22/ 第2次近衛内閣が成立。陸相に東条英機、外相に松岡洋右が就任し、総力戦体制を確立する。
【20th Century Chronicle 1940年(s15)】
◎皇紀2600年記念式典
*1940.2.11/ 皇紀2600年の紀元節には、全国11万の神社で大祭が行われ、難局克服の大詔が発布される。
*1940.11.10/ 宮城前広場で紀元2600年記念式典が挙行される。
西暦1940(昭15)年は神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、記念行事を計画・推進してきた。軍国主義が抬頭するなか、国威を発揚させ「神国日本」の国体観念を徹底させようという意図で、橿原神宮中心に極めて神道色の強い行事が遂行された。この年2月11日の「紀元節」には、全国11万もの神社において大祭が行われ、各地で展覧会、体育大会など様々な記念行事が催された。
そして、11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「紀元二千六百年頌歌」が作曲された。式典の模様は日本放送協会によりラジオで実況中継されたが、天皇の勅語の箇所は放送が中断された。初めて天皇の肉声がラジオで流されたのは、1945年終戦の玉音放送であった。
「紀元二千六百年頌歌」
https://www.youtube.com/watch?v=8cN4GJRInro
国民歌「紀元二千六百年」
https://www.youtube.com/watch?v=zYgKAzOoNsQ
「皇紀」とは「神武天皇即位紀元」または「神武紀元」のことを指し、初代天皇とされる神武天皇の即位の年を紀元元年とした。「日本書紀」の既述では「辛酉の年」とあり、この年が西暦の紀元前660年1月1日と比定された。しかし古事記や日本書紀のその神話的な内容には考古学上の確証がなく、神武天皇(古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存とある)が実在した人物とは認められていない。
とはいえ「西暦紀元」も、イエス・キリストが生誕した日を紀元とするが、そもそも「処女懐胎で生れた神の子」の生誕なども神話といえば神話、どこまで確かであるは似たようなものである。ちなみに、大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」のゼロは、皇紀2600年の末尾一桁から付けられたことに由来する。明治から戦事中まで、日本の陸海軍が用いた兵器の名称には、皇紀の末尾数字を用いたことからそうなった。
(この年の出来事)
*1940.6.14/ 仏政府がパリを退去、パリが陥落し独軍が無血入城。
*1940.7.22/ 第2次近衛内閣が成立。陸相に東条英機、外相に松岡洋右が就任し、総力戦体制を確立する。
*1940.11.23/ 大日本産業報国会が結成される。


