【アーカイブ】作戦・闘いへの導線の巻

【アーカイブス】作戦の記録

国軍の礎

2020-11-28
Facebook英霊の本日の出来事の投稿

明治5年11月28日の本日、徴兵の詔書が渙發されました。

明治5年2月に山縣有朋が陸軍大輔となり、11月に山縣の徴兵論が採用されて「全國徴兵の詔」が發せられました。

徴兵の詔書
「朕惟ルニ古昔郡縣ノ制全國ノ丁壮ヲ募リ軍團ヲ設ケ以テ國家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵権武門ニ帰シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新ハ実ニ千有余年来ノ一大変革ナリ此際ニ當リ海陸兵制モ亦時ニ従ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各國ノ式ヲ斟酌シ全國募兵ノ法ヲ設ケ國家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ體シ普ク之ヲ全國ニ告諭セヨ
 明治五年壬申十一月二十八日」

徴兵告諭
「我 朝上古ノ制海内挙テ兵ナラサルハナシ、有事ノ日、天子之カ元帥トナリ丁壮兵役ニ堪ユル者ヲ募リ以テ不服ヲ征ス。
役ヲ解キ家ニ帰レハ農タリ工タリ又商賣タリ、固ヨリ後世ノ双刀ヲ帯ヒ武士ト称シ抗顔坐食シ、甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス。
抑、神武天皇珍彦ヲ以テ葛城ノ國造トナセシヨリ爾後、軍團ヲ設ケ衛士防人ノ制ヲ定メ神亀天平ノ際ニ至リ六府二鎮ノ設ケ始テ備ル。
保元平治以後、朝綱頽弛兵権終ニ武門ノ手ニ墜チ、國ハ封建ノ勢ヲ為シ人ハ兵農ノ別ヲ為ス。
降テ後世ニ至リ、名分全ク泯没シ、其弊勝テ言フ可カラス。
然ルニ太政維新列藩版図ヲ奉還シ辛未ノ歳ニ及ヒ、遠ク郡縣ノ古ニ復ス。
世襲坐食ノ士ハ其禄ヲ減ジ刀剣ヲ脱スルヲ許シ四民漸ク自由ノ権ヲ得セシメントス。
是レ上下ヲ平均シ人権ヲ斉一ニスル道ニシテ、則チ兵農ヲ合一ニスル基ナリ。
是ニ於テ士ハ従前ノ士ニ非ス民ハ従前ノ民ニアラス均シク皇國一般ノ民ニシテ國ニ報スルノ道モ固ヨリ其別ナカルヘシ。
凡ソ天地ノ間、一事一物トシテ税アラサルハナシ以テ國用ニ允ツ。
然ラハ則チ人タルモノ固ョリ心力ヲ尽シ國ニ報ヒサルヘカラス。
西人之ヲ称シテ、血税ト云フ。
其生血ヲ以テ國ニ報スルノ謂ナリ、且ツ國家ニ災害アレハ、人々其災害ノ一分ヲ受サルヲ得ス。
是故ニ人々心力ヲ尽シ國家ノ災害ヲ防クハ則チ自己ノ災害ヲ防クノ基タルヲ知ルヘシ。
苟モ國アレハ則チ兵備アリ、兵備アレハ則チ人々其役ニ就カサルヲ得ス。
是ニ由テ之ヲ観レハ、民兵ノ法タル固ヨリ天然ノ理ニシテ、偶然作意法ニ非ス。
然而シテ其制ノ如キハ、古今ヲ斟酌シ時ト宜ヲ制セサルヘカラス。
西洋諸國数百年来研究実践以テ兵制ヲ定ム故ヲ以テ、其法、極メテ精密ナリ。
然レトモ政體地理ノ異ナル悉ク之ヲ用フ可カラス。
故ニ今其長スル所ヲ取リ、古昔ノ軍制ヲ補ヒ、海陸二軍ヲ備ヘ全國四民男児二十歳ニ至ル者ハ尽ク兵籍ニ編入シ、以テ緩急ノ用ニ備フヘシ。
郷長里正厚ク此 御趣意ヲ奉シ徴兵令ニ依リ民庶ヲ説諭シ、國家保護ノ大本ヲ知ラシムヘキモノ也
 明治五年壬申十一月二十八日 」

安保の今と昔

2020-11-20
Facebook佐々木信雄さんの投稿

 1951(s26)年のサンフランシスコ講和条約の成立(日本主権回復)と同時に、吉田首相が単独で署名した旧日米安保条約は、日本に片務的で臨時的なものであった。日本の主権回復とともに駐留軍が撤退するため、日本の軍事的空白を防ぐために、引き続き米軍の駐留を認める必要があった。ただしそれは、米国の「駐留権」を認めるという形で、日本の防衛や駐留自体は、もっぱら米国の都合次第という条約であった。
 

 岸信介は、1957(s32)年2月、病に倒れた石橋湛山首相の後継に指名され、石橋内閣を引き継ぐと、1958(s33)年5月の総選挙で政権としての信任を得て、第2次岸内閣を組閣する。選挙を経て自身を得た岸首相は、アジア重視の自主外交を進めながら、一方で対米尊重の基本枠は譲らず、日米安保条約の改定に向けて、着々と条件を整えていった。
 

1959.8.28 福岡の三井三池鉱山が4580人の人員削減案を発表

2020-11-15
総評などの支持を受けた三井三池労組は全面ストライキに突入し、戦後最大の炭鉱争議に発展する。
60年前の三池争議の最中、良識派により三池新労組が誕生、3月17日! |
大牟田市の市民生活は、様々な分野て、完全に二つに分断されまた。

再軍備

2020-11-10
Facebook佐々木信雄さんの投稿
 
【20th Century Chronicle 1954年(s29)】
◎陸海空自衛隊 発足
*1954.6.9/ 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
 日本を占領した連合国軍は、当初日本の軍事力を完全に無力化する予定であった。しかしソ連が核保有国となり冷戦構造が顕著になるとともに、大陸では中国人民共和国が成立し、さらに1950(s25)年に朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発すると、全く状況が変わってきた。日本に駐留の米軍は、その主力を朝鮮半島に向けざるを得ず、空白となる日本の治安維持は、日本自体が担う必要に迫られ「警察予備隊」を組織させた。
 1951(s26)年、サンフランシスコ講和条約が成立すると、同時に(旧)日米安全保障条約も締結される。これは、占領軍が撤退すると同時に、米軍の継続駐留や基地の存続を認め、日本の防衛は日本自身が主体となり、米軍はこれを援助するというものであった。その趣旨を明確にするために翌1952年、警察予備隊は「保安隊」と改組された。
 1954(s29)年、安保条約を具体的に補完するため「日米相互防衛援助協定(MDA)」が結ばれ、米国は日本に駐留するとともに日本に軍事支援を与え、その支援を受けて、日本は自国の防衛のために軍備を整えることが義務付けられた。これにより日本は、防衛の目的に限り再軍備する事を認められ、それに対応して保安隊は「自衛隊」と改組され、事実上の自国防衛軍となった。
 とはいえ自衛隊は、設立当初から現在に至るまで、論議の的になり続けてきた。詳細には立ち入らないが、憲法九条との関係で、自衛隊は軍隊であるとかないとか、無意味な空論が続けられてきた。自衛隊は名実ともに自衛軍であり軍隊である。問題は、それが憲法で認められ得る軍隊なのかどうか。もし認められないなら、憲法を変更するかどうか、それだけの問題だろう。
 とここまで書いて、50年前の高校生の時に、こっそりローカル新聞に投稿した内容と全く同じなのに気付いた。クラスの女子に気付かれて恥ずかしい思いをしたが、とにかく50年間自分の見解が変わっていないことよりも、50年間政治状況が全く変わっていないことの方に驚かされた(笑)
(この年の出来事)
*1954.2.1/ 女優マリリン・モンローが、夫のMLB野球選手ジョー・ディマジオと新婚旅行で来日する。
*1954.1.2/ 皇居の一般参賀で、二重橋上で群衆が折り重なって倒れ、16人が死亡、65人が重軽傷を負う。(二重橋事故)
*1954.4.21/ 犬養健法相が、検事総長へ指揮権を発動して、造船汚職容疑の佐藤栄作自由党幹事長への逮捕請求を阻止する。
*1954.11.24/ 自由党分派・改進党・日本自由党の3党合同によって「日本民主党」が結成される。(総裁鳩山一郎)
*1954.12.6/ 左右社会党など野党共同で吉田内閣不信任案を提出、7日、吉田内閣が総辞職して長期政権に幕。10日、鳩山一郎内閣が成立する。
*1954.-.-/ 電気洗濯機・電気冷蔵庫・電気掃除機が「三種の神器」と呼ばれる。のち掃除機に代わってテレビジョンが加えられる。

よく闘いました・・・。

2020-10-31
硫黄島の指揮官は、栗林中将でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1945年(s20)】
◎硫黄島玉砕
*1945.2.16/ 米艦隊が硫黄島に徹底攻撃を開始。3月25日、日本軍守備隊が玉砕する。
 1944(昭19)年8月、グアム島をほぼ制圧し、同年12月にフィリピンのレイテ島を陥落させた連合国軍は、日本本土への攻撃拠点として、小笠原諸島南端に位置する火山島「硫黄島」に戦略目標を定めた。硫黄島の攻略は、沖縄上陸および日本本土戦略爆撃が実現可能となる重要なステップとされた。
 1945(昭20)年2月16日、アメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。前哨戦に続き、19日明け方から猛烈な艦砲射撃が始まり、さらに爆撃機および艦載機による銃爆撃が続くと、午前9時、第1波が上陸を開始して、本格的な上陸戦が展開された。水際での日本軍の抵抗は少なく、海兵隊は円滑に上陸し前進したが、日本軍は地下坑道に潜み艦砲射撃に耐えて、10時過ぎになってから一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。
 19日だけで米海兵隊は500名以上の戦死者を出したが、夕方までには圧倒的な兵力で海岸堡を築き東海岸線への上陸を果たした。翌20日以降、島南端にある摺鉢山の要塞と、島中央北部の飛行場のある元山方面とに分かれて侵攻開始したが、摺鉢山の戦いは熾烈を極めた。張り巡らした地下坑道に潜伏し、ゲリラ的に反撃を加える日本軍に対し、米軍は坑道入り口から火炎放射器を浴びせたり、入り口をブルドーザでふさぎ上部に開けた穴からガソリンを流し込み焼き尽くす「馬乗り攻撃(日本兵側の呼称)」などで、逐一つぶしていった。
 23日午前、アメリカ軍は攻撃開始後7日目にしてようやく擂鉢山を制圧し、山頂に到達した海兵師団兵士が付近で拾った鉄パイプを旗竿にして星条旗を掲揚した。しかしその星条旗はみすぼらしくその場面を確認した者も少なかったので、あらためて別の兵士たちによって大きな星条旗を掲揚するシーンを、従軍専属カメラマンに撮らせたものが有名な「硫黄島の星条旗」として残された。その写真をもとにして、アーリントン国立墓地の近くの「合衆国海兵隊戦争記念碑」は作成されている。
 栗林忠道陸軍中将指揮下の守備軍は、3月5日戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移したが、7日、米海兵師団は奇襲を断行し中央突破、日本軍を島の北部と東部に分断した。この日、栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)を発する。戦訓電報は、戦況を分析し、のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送るものであるが、栗林は恩師にあたる蓮沼蕃侍従武官長にも宛てている。この電文は客観的合理的な提言であるが、参謀本部に握りつぶされることを危惧したためと言われる。
 栗林中将は無意味なバンザイ攻撃を許さず、最後まで可能な限り組織的攻撃をすべしと命じた。しかしいよいよ追い詰められると、16日栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。17日、大本営はその多大な功績を認め日本軍最年少の大将に昇進させるが、栗林は同日に、最後の総攻撃を企図し各部隊へ最後の指令を送った。
 しかし出撃の機会が見つけられず転進したのち、26日栗林大将は最後の反攻を敢行する。栗林中将以下、残された約400名の将兵はアメリカ軍陣地へ攻撃をかけたが、この最後の攻撃は決して万歳突撃ではなく、最大限の打撃をあたえる決死の夜襲であった。攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地は混乱に陥り、200名以上の死傷者を出したとされる。
 また、予科練育ての親とも言われた市丸利之助海軍少将は、途中から合流し総攻撃に加わったが、遺書として米大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた「ルーズベルトニ与フル書」をしたため、英訳させたものとを部下とともに懐中して戦死した。米軍が将校の遺体を検査することを見越して携行したもので、目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、アメリカの新聞にも掲載された。それは、日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げつつ共産主義ソ連と連携する連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
 末期的な前線における栗林中将や市丸少将の冷静な論述は、国民に知らされることなく、大本営は3月21日、硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」・・・栗林や市丸の理知的な思考を、参考にさえできなかったのは誰なのか。
 日本軍には増援や救援の具体的な計画はもとよりなく、硫黄島守備兵力2万名はほぼ玉砕戦死。一方、アメリカ軍の戦死・戦傷は3万近くにおよび、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍の被害が日本軍を上回った稀有な戦いであった。また、硫黄島上陸とほぼ同時に始められた、対ドイツのノルマンディー上陸作戦における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦屈指の最激戦として米国でも認識されている。
 硫黄島の戦いは日米双方の映画・テレビのドラマで取上げられている。クリント・イーストウッド監督は、日米双方の視点から連作として描いた。
『父親たちの星条旗』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:ライアン・フィリップ) https://www.youtube.com/watch?v=WQfpHrHx_Oc
『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:渡辺謙) https://www.youtube.com/watch?v=0x54bOTdJA0
(この年の出来事)
*1945.9.11/ GHQが東条英機ら39人の戦犯の逮捕を命令する。(東条は自殺未遂)
*1945.9.27/ 天皇が米大使館にマッカーサーを訪問。
*1945.9.26/ 哲学者三木清(49)が、豊多摩拘置所で獄死する。
*1945.10.24/ 国際連合(UN)が正式に発足する。
*1945.11.2/ 日本社会党結成、9日に日本自由党、16日に日本進歩党など、戦後政党の結成が相次ぐ。
*1945.12.6/ GHQが近衛文麿ら9人の戦犯逮捕追加を命令、近衛は16日に服毒自殺。(戦犯逮捕)
*1945.1211/ 抗生物質ペニシリンを発見した英国細菌学者アレグザンダー・フレミングに、ノーベル医学生理学賞が授与される。
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