真宗本廟の法灯

真宗大谷派、真宗本廟の法灯について

井波別院が正常化された年ももう忘れていることに気が付き

2024-05-17
facebook 吉峯 教範さん曰く
先日、井波別院が正常化された年ももう忘れていることに気が付き、あらためて調べてみました。
1979年(S54)12/21 本山本願寺の独立に呼応して離脱申請。独自運営に移行。
1980年(S55)11/28 大谷暢道住職・大谷光暢法主ら、別院の代表権を宗派側に引き渡す内容で宗派側と和解【即決和解】。
1981年(S56)6/11 真宗大谷派新宗憲公布。これに伴い別院の代表権を住職(法主・連枝)から輪番に移行。
井波別院院議会は、これを認めずに独自運営を継続
1982(S57)11月、法務省は長浜別院の代表役員を登記されていた海老原容光輪番から暢順住職に戻す。被包括法人であるとはいえ別院は個々の法人格を持っており、それを変更し文部省の認証を得ないうちは代表役員が変更されないことを示したもの。
年末までに、五村・福井・神戸・井波等の各離脱手続き中の寺院についても、代表役員権が輪番から住職に戻される。
1985年(S60)大谷光暢法主・暢道住職ら、和解条項が守られなかったと、「即決和解の無効を求むる訴訟」を提訴。【お東紛争再燃】
大谷派は、連枝が住職を勤める別院の代表役員を宗憲に沿う形の輪番に移行するために当該別院の法人規則の変更を行うために「特命住職」の制度が創設。
1990年(H2)3/3 宗派側は上野諦参務を特命住職として、上野特命住職に代表役員の変更登記。
それに対して、実際の運営をしていた瑞泉寺側は暢道師の地位保全と上野特命住職の職務執行停止を求める仮処分を富山地裁に申請。
1990年(H2)代表役員権をめぐる訴訟中に、宗派側が別院の運営権の掌握を目的に自力救済を強行しようと押しかける。それに対して地元の門信徒からなる瑞泉寺を守る会がその阻止を目論んで瑞泉寺を急遽バリケードで封鎖。
世にいう【井波紛争】が勃発する。
 同年 7/10 宗派側、「井波別院正常化結集大会」を催し、全国から動員した1300人の人間で井波別院を包囲する。
 同年 10/5~10 独自運営側による「綽如上人600回忌法要」が光暢法主御親修にて、暢道住職・暢顕連枝を随従して勤められる。
(光紹新門と暢順連枝は共に代香を派遣)
1996年(H8) 町長の仲裁により、正常化へ向けて瑞泉寺協議会設置
2000年(H12)3/14 守る会と宗派側で、双方協議のうえで別院運営をすることに合意。
 同年6/12 合意に基づき大谷派の地元教区の住職の中より比較的中立の立場にあった高坂制立師が町長(協議会)の依頼により「輪番格」として入寺。
 同年 7/11 これに伴い「建物明渡等請求事件」の上告を棄却 
2002年11月8日 双方合意の上で、高岡教区第二組圓立寺住職藤田誓壽師が、宗派任命の正規の輪番として入寺。
2003年(H15)5/15 大谷派新宗憲の下の別院規則に基づく院議会が開催される
【井波別院の正常化】
 同年 6/24 前住職大谷暢道師が、瑞泉寺でお別れ勤行を勤めて、別院より退出。
2013年10/4~6 真宗大谷派井波別院 宗祖750回忌・本堂修復落慶法要。
という流れでした。
25で列座見習の入ったのが御縁で30代末までの青春時代、あんなにどっぷりと関わっていたのに、20年も経つともう何年の出来事だったかも忘れてしまうもんなんですね。
大谷派における保守派と改革派の争いそのものはこの写真にもあるような流れとして明治から続いていたものだった。
ところが、それとは別の形で大谷家と内局の対立が急遽表面化しヒートアップすることになった転機が昭和44年4月の開申事件とその前にあった新門の東京本願寺住職就任を巡る訓覇内局と大谷家のゴタゴタ。
これの理由と争点が私には子どもの頃からどうも理解できずにきたのだが、最近あらためて田原由紀雄氏の『東本願寺三十年戦争』をパラパラとみていたらなるほどと得心した。
どうやら、こういうことが争点の核心であり、相互に譲らぬまま後のあの泥沼の紛争に突入したようである。
以下は、田原氏の本よりの抜粋。
【東京別院住職就任問題の対立構図】
 内局:新門を別院の住職とする法的根拠として「法嗣は別院住職を兼ねることができる」という一項の追加が必要。
 新門:法嗣の地位は規則に拘束されない。大谷家は超法規的存在である。
【開申事件の対立構造】
 内局の立場:法主といえども、宗門法規の定めには従わなければならない。
 新門の立場:法主は超法規的存在であり、その意思は何をおいても尊重されなければならない。
【開申事件の本音】
 内局「開申は法主名で出されてはいるが、法主の本意ではない。新門が真宗の赤倉温泉に法主夫妻を呼び出し、強引に『管長職を譲れ』と迫ったのが真相だ。」
 新門「お上の言うことが素直に聞けないとは、反逆の感じだ。譲位がお上のご意思である以上、一日も早く実現するのが内局の義務である。条例改正の必要などない。」
つまりは、新門が別院の住職になろうがなるまいが、あるいは管長職だけを新門に譲ろうが三位一体を後生大事に守ろうが、そのことそのものについては双方ともどうでも良かったのである。
要はその手続きを巡る大谷家と内局とのメンツをかけた主導権争いだったということ。
だとすると、その後の門首制の制定と施行による落着を目指した宗派側のとった道筋も守備一貫したものであったと見えてくる…
大谷家側と訓覇氏ら改革派の争点がここにあったのだとしたら、写真にあるような伝統的な御講や御安心を守りたいという市井の保守派と近代教学に基づく改革派の対立という地方の図式と中央の対立図式との間に大きなズレが最初からあったことになる。
教義安心や伝統的な聲明や作法を守ろうとした保守派と単に大谷家の特権を守ろうとした大谷家周辺の側近たちとの間でのボタンのかけ違いは、この辺りから既にあったのだなと今更ながらに納得いたしました。
その後、保守派が散り散りバラバラになったのもなるほどです。
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