【仰せ】時代と子ども
『忘れてはいけない事、伝えなくてはいけない事もある』
2026-04-09
1940年に作られた幻の東京オリンピックの戦車です。
KITAHARA COLLECTION CHANNEL Vol.169
時代と子ども
運転していた女に禁錮2年6カ月の実刑判決
2026-06-18
妊婦が交通事故死、直後生まれた娘に重い障害
5月21日、1歳の誕生日を迎えた研谷日七未ちゃんです。意識はなく、人工呼吸器が外せません。
遺族:「身体も自分で動かせないから、ストレッチをするとか体位を変えるとかを、こまめにしてあげないといけない状態です」
日七未ちゃんは、母・沙也香さんのお腹の中にいた時に、交通事故に遭いました。
68年前の“赤ちゃん取り違え
2026-06-18
生みの親を探す男性 都に調査義務を果たすよう申し立て
68年前に都立病院で別の赤ちゃんと取り違えられた男性が生みの親を特定するため、都に対し、調査義務を果たすよう東京地裁に申し立てました。
1958年4月に都立墨田産院で生まれた江蔵智さんをめぐっては、生まれたばかりの時に別の新生児と取り違えられていたことが2006年に行われた裁判で認められました。
ただ、都は事実調査をせず、江蔵さんは調査を求めて再び提訴し、東京地裁は2025年、都に調査を命じる判決を下しました。
都は、書面などによる調査の結果、2026年3月、「生みの親の特定は出来なかった」とする調査結果を公表しました。
江蔵さんは、調査対象者へ戸別訪問するなどして調べることを求めていましたが、都は「調査対象者の心情も配慮しなければならない」などとして応じなかったということです。
この結果に対し江蔵さんは、「都は、戸別訪問をして調査をする義務がある」として、判決で命じられた調査義務を果たすよう、東京地裁に申し立てました。
1951(s26).3.5 無着成恭編「山びこ学校」が刊行される。
2021-12-22
「わたしの文章作法」の原点にあたる話題が含まれるので、再掲します。
----
○1951(s26).3.5 無着成恭編「山びこ学校」が刊行される。戦後の生活綴方の復興に影響を与える。
山形県山元村の若き中学校教師 無着成恭は、「生活綴り方運動」に取り組み、教え子である生徒たちの学級文集『きかんしゃ』などに掲載された生活記録作文をまとめて、『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』として刊行した。戦後のアメリカ風理想主義的な教育方針と、貧困な東北山村の現実との矛盾に苦慮した無着成恭は、生活綴方と地域調査の手法によって身近な生活を見つめることから、自治と共同の精神を育成することを目指した。
「綴り方(作文)」の指導を通じた無着の実践記録は、その生き生きとした生徒たちの生活記録から、新制中学校発足期の地域の生活に根ざした民主教育の方向を示すものとして一躍注目され、ジャーナリズムでとりあげられ、映画化・劇化されるなど広く社会的関心をよんだ。
「生活綴り方教育」は、大正自由教育運動の中から生まれた。それは、それまでの画一的な教育から解放し、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育を目指すものであった。しかし戦前戦中の軍国体制下で、忠孝の道徳的なものに抑圧されていった。戦後の占領下では、GHQから、綴り方教育はむしろ軍国主義教育を体現したものとして排斥された。
戦後に推奨されたアメリカ風経験主義に基づく教育は、自身で観察し自分で考えるという自由教育であったが、その手法の確立しないまま教育思想だけが持ち込まれたため、教師たちは困惑していた。そこへ無着成恭が持ち込んだ「山びこ学校」は、かつてからのなじみのある「生活綴り方運動」であり、しかも生活に根ざした戦後日本の民主教育の方向を示すものでもあった。
教師たちは、これなら自分たちにもできると飛びついた。しかし「山びこ学校」の成功は、無著の個人的な感性と思考に負うところも大であったと思われる。子供たちに、自身で観察し自分で考えさせるのは、そのように抽象的な「指令」をするだけでは可能になるはずもない。
私自身、昭和三十年代前半を小学生として過ごした。「山びこ学校」の余波からか、授業にはけっこう作文の時間があったし、やたら作文の宿題も課せられた。低学年の時は作文が大の苦手、「今日は良い天気です、明日も良い天気でしょう。おわり」といつも三行で終わってしまう。先生に相談すると「思ったことを素直に書きなさい」という。それならスタンダールの墓碑銘みたいに「起きた、食った、寝た」だけになってしまう。
(注)スタンダールの墓碑銘「VISSE,SCRISSE,AMO(生きた、書いた、恋した)」、さすがに凡人とは違う(笑)
作文の時間がいやで仕方なかったが、あるときふと、自宅で飼っている猫のことを書き始めた。すると次々と書くことが浮かんできていくらでも書き続けることができる。これに味をしめて、次回の作文も「猫の続き」とかで難なくスルー、そのうち猫の作文が地区の文集掲載作にまで選ばれてしまった。
毎日、暇をもてあまして猫と遊んでる小学生。猫と戯れながら、いやでも猫のやることを観察している。だからいくらでも生き生きとした猫の様子が書ける。「観察し発見し書く」とはそういうことで、教師の仕事はそれに気付くような適切なアドバイスを送ることだろう。
もう一つの例。文豪フローベールに、若きモーパッサンは師事していた。フローベールのアトリエに、モーパッサンは毎日同じ石畳の道を歩いて通ってくる。特別な文学の話をするわけでもなく、茶飲み話をして帰るだけの毎日。フローベールがモーパッサンに出した指示はたった一つ「毎日通ってくる石畳の道のことを書け」。かくして、来る日も来る日もモーパッサンは同じ石畳の道のことを書き続けた。その気で観察すると、同じ石畳にも微妙な光線の具合などで、毎回新しい発見がある。ものを書くということを、フローベールは端的にモーパッサンに教えたというわけである。
<追補>
その後無着成恭は、明星学園の教員から教頭となるとともに、民間の「教育科学研究会・国語部会」のメンバーとして、国語教育の科学的・体系的な日本語指導(言語教育)の確立を進めた。それまでとは異なる、斬新な国語教育法ではあった。というか、それまでまともな国語教育法なんてものは、皆無だったわけだ(笑)
息子の小学校の担任が、教科研の手法に心酔していたようで、やたらその手法に基づいた課題などを出してくるので、初めて知って少し調べてみた。
例えば「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡っていった」という安西冬衛の詩を提示して、「この作者の目の位置はどこにあって、どんな蝶々を眺めているのでしょうか、そのようすを絵に描きなさい」などと設問する。さらに「その絵から、そのとき作者はどのような気持ちでいたのか、想像しなさい」という風に進めると、小学校低学年の生徒たちが、大人も顔負けの詩の解析をして見せたりする。
一種の手品の種明かしみたいだが、この児童たちの解析は、すでに問いかけの構造の中に組み込まれているのだ。だから、生徒たちに特別な読解能力がついたわけではなく、特定の視点を与えずに「この詩について、自由に感想を書きなさい」などと課題を与えると、幼稚な感想でさえ書けないことになる。
いずれにせよ、国語の教育法とかには、一見もっともらしく見えるが、けっこう胡散くさいものが多い。もとより、読解力をつけるにはやみくもに本を読めばよいし、その必要のない人は読まなければよいと思ってる。
私が出くわしたした唯一の作文指導法は、「せんせいあのね、」という言葉を頭につけて始めなさい、というだけのものだった。先生に話しかける言葉の延長上で自然に書けるので、きわめて有効なのである。とはいえ、そのまま成長して会社員になってからも「社長あのね、」と報告書出すわけには行かないのである(笑)
ネルー首相から日本の子どもたちへ贈る言葉
2021-05-30
ニューデリー日本人学校 学校だより 校長 岡林 保幸
191025-10月グルモール .pdf (ndjs.org)
戦争中、上野動物園では爆撃で檻が壊され、猛獣や大型動物が逃げ出して市民に危害を加えないよう 薬殺などの処分が行われました。
象が殺された悲劇は後に物語にもなりました。(童話「かわいそうなぞ う」土家由岐雄) では、戦後どうやって再び上野動物園に象が飼われるようになったのかご存知ですか?
実はインドの ネルー首相が、上野動物園がある台東区の子どもたちの熱望に応え、昭和24年に自分の娘の名前を付 けた「インディラ」を贈ってくれたことによるのです。
それは、独立間もないインドが、イギリスの植民地から解放するために、命をかけて貢献してくれた日 本に対しての深い好意を持ち、「敗戦で打ちひしがれていた日本を元気づけたい」と思ったからでした。
この時、ネルー首相から子どもたちに次のような文書が贈られました。
皆さん 私は皆さんの希望によって、インドの象を一頭皆さんへお贈りすることを大変嬉しく思います。 この象は見事な象で、大変にお行儀が良く、そして聞く所によりますと、体に縁起の良いしる しをしっかりそなえているとの事です。 皆さん、この象は、私からのではなく、インドの子どもたちから日本の子どもたちへの贈物で あるとご承知下さい。 世界中の子どもたちは多くの点で似かよっています。 ところが大人になると変わり出して、そして不幸な事には、時々喧嘩をしたりします。 私たちはこの様な大人たちの喧嘩を止めさせなければなりません。そして、私の願いはインド の子どもたちや日本の子どもたちが成長した時には、おのおの自分たちの立派な祖国のためばか りにではなく、アジアと世界全体の平和と協力のためにも尽くして欲しいということです。 ですから、このインディラという名を持った象を、インドの子どもたちからの愛情と好意の使 者として考えて下さい。インディラは東京でたったひとりぼっちで、あるいは少しさびしがって 遊び友だちを欲しがるかも知れません。 もし、皆さんが希望するならば、インディラがこれから自分の住家としてゆく新しい国で、幸 福になるように、お友だちの象をもう一頭送るようにすることもできます。 象というものは立派な動物で、インドでは大変に可愛がられ、しかもインドの特に代表的なも のです。象は賢くて、しんぼう強く、力が強く、しかも優しいものです。私たちも皆、象の持つ これらの良いところを、身につけるようにしてゆきたいものです。 おわりに、皆さんに私の愛情と好意とを贈ります。
ジャワハルラル ネルー 1949年9月1日 ニューデリー
このインドの好意はその後も続いていて、四頭目の象には「スーリア」が 贈られました。
「スーリア」とはヒンズー語で「昇る太陽」という意味で、 これは「日出ずる国」である日本にちなんで命名されました。
10月22日には「ナマステ!INDIA☆DAY」が開催されました。
インド に関する様々な文化に触れる活動を通してインドへの関心を高め、現地理解 を深めると共に、日本と異なる文化を認め、国際社会の一員として生きてい こうとする姿勢を培うことができたらと思います。
戦争中、上野動物園では爆撃で檻が壊され、猛獣や大型動物が逃げ出して市民に危害を加えないよう 薬殺などの処分が行われました。
象が殺された悲劇は後に物語にもなりました。(童話「かわいそうなぞ う」土家由岐雄) では、戦後どうやって再び上野動物園に象が飼われるようになったのかご存知ですか?
実はインドの ネルー首相が、上野動物園がある台東区の子どもたちの熱望に応え、昭和24年に自分の娘の名前を付 けた「インディラ」を贈ってくれたことによるのです。
それは、独立間もないインドが、イギリスの植民地から解放するために、命をかけて貢献してくれた日 本に対しての深い好意を持ち、「敗戦で打ちひしがれていた日本を元気づけたい」と思ったからでした。
この時、ネルー首相から子どもたちに次のような文書が贈られました。
皆さん 私は皆さんの希望によって、インドの象を一頭皆さんへお贈りすることを大変嬉しく思います。 この象は見事な象で、大変にお行儀が良く、そして聞く所によりますと、体に縁起の良いしる しをしっかりそなえているとの事です。 皆さん、この象は、私からのではなく、インドの子どもたちから日本の子どもたちへの贈物で あるとご承知下さい。 世界中の子どもたちは多くの点で似かよっています。 ところが大人になると変わり出して、そして不幸な事には、時々喧嘩をしたりします。 私たちはこの様な大人たちの喧嘩を止めさせなければなりません。そして、私の願いはインド の子どもたちや日本の子どもたちが成長した時には、おのおの自分たちの立派な祖国のためばか りにではなく、アジアと世界全体の平和と協力のためにも尽くして欲しいということです。 ですから、このインディラという名を持った象を、インドの子どもたちからの愛情と好意の使 者として考えて下さい。インディラは東京でたったひとりぼっちで、あるいは少しさびしがって 遊び友だちを欲しがるかも知れません。 もし、皆さんが希望するならば、インディラがこれから自分の住家としてゆく新しい国で、幸 福になるように、お友だちの象をもう一頭送るようにすることもできます。 象というものは立派な動物で、インドでは大変に可愛がられ、しかもインドの特に代表的なも のです。象は賢くて、しんぼう強く、力が強く、しかも優しいものです。私たちも皆、象の持つ これらの良いところを、身につけるようにしてゆきたいものです。 おわりに、皆さんに私の愛情と好意とを贈ります。
ジャワハルラル ネルー 1949年9月1日 ニューデリー
このインドの好意はその後も続いていて、四頭目の象には「スーリア」が 贈られました。
「スーリア」とはヒンズー語で「昇る太陽」という意味で、 これは「日出ずる国」である日本にちなんで命名されました。
10月22日には「ナマステ!INDIA☆DAY」が開催されました。
インド に関する様々な文化に触れる活動を通してインドへの関心を高め、現地理解 を深めると共に、日本と異なる文化を認め、国際社会の一員として生きてい こうとする姿勢を培うことができたらと思います。






