親鸞聖人(しんらんしょうにん)の生涯
本廟創立と東本願寺の歴史
親鸞聖人の生涯~ご誕生から入滅まで~
興福寺奏状
法然聖人流罪事
貞慶解脱上人御草
同形状詞少少
九箇条の失の事
第一 新宗を立つる失。
第二 新像を図する失。
第三 釈尊を軽んずる失。
第四 万善を妨ぐる失。
第五 霊神に背く失。
第六 浄土に暗き失(浄土を暗くする失)。
第七 念仏を誤る失。
第八 釈衆を損ずる失。
第九 国土を乱る失。
興福寺僧綱大師等、誠惶恐謹言。
殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糾改せられんことを請ふの状。
右、謹んで案内を考うるに一つの沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞、古師に似たりと雖も、その心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九箇条あり。
『興福寺奏状』は、元久2年(1205)奈良興福寺の衆徒が法然聖人の提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書で、起草者は、法相宗中興の祖といわれる解脱坊貞慶上人とされる。法然聖人弾劾の上奏文というべき文書であり、これを因として、承元の法難と称される法然師弟に対する死罪を含む専修念仏への弾圧がなされた。御開山は『教行証文類』の後序で、
- ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
- ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す、諱尊成]今上[土御門院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
親鸞聖人を訪ねて-浄土真宗 創生の軌跡-(御旧跡巡拝ガイド)
八五〇年の時を超えて各地に息づく
親鸞聖人のご足跡をたどる
京都に生まれ、越後へ流罪となり、常陸で布教し、再び京都へと、旅の多いご生涯を送られた親鸞聖人。
法然上人との出遇いにより他力本願の教えに目覚め、
越後へ流されてからは非僧非俗を宣言して民衆に寄り添い、常陸の地では20年にもわたり教えを広めました。
その足跡には、親鸞聖人のみ教えが、今もなお息づいています。
ご誕生の頃
1.ご誕生
親鸞聖人は、平安時代の末期、承安3(1173)年に京都の日野の里(現在の京都市伏見区)にて、日野有範の長男としてご誕生されました。
親鸞聖人が生まれたのは、国の体制が大きく揺れ動いた激変の時代でした。公家中心の政治が行われた平安時代から、武士が実権を握る鎌倉時代へ。親鸞聖人のご誕生前に起こった「保元の乱(1156年)」「平治の乱(1160年)」によって、平清盛を棟梁とする平氏が政治の実権を握り、度重なる戦乱の末に敗北した源氏は遺恨を深め、世はさらなる戦乱の時代へと進みます。
さらには、台風や大地震、洪水などの自然災害や疫病がつぎつぎと起こりました。親鸞聖人5歳のときには京都に大火災が起こり、都の三分の一が消失、翌年には大飢饉が発生し、4万人を超える死者が出たといいます。
人々はいよいよ世の中が衰え救いのない「末法の世」が訪れたと、恐れおののきました。
親鸞聖人の幼少期は、このような混乱と荒廃に満ちた時代でした。
法界寺は親鸞聖人の誕生の地と伝えられている、日野の里にある真言宗醍醐派の寺院です。
この地には元々藤原氏の流れを汲む日野氏の伝領地があり、そこに日野家が別邸を建てたことから日野の里と呼ばれてきました。日野家の氏寺でもある法界寺は日野資業が創建したもので、その後伽藍が整備されました。


