終戦

闘いすんで 陽が暮れて・・・

戦の真の勝者は誰?

2026-07-08
讀賣新聞 2026.07.08朝刊
「同朋」という存在について

財閥解体

2026-06-12
財閥の実相
【GHQ占領と日本】04.経済の集中排除と経済制度民主化(財閥解体)
【GHQ占領と日本】04.経済の集中排除と経済制度民主化(財閥解体)
 アメリカを中心とする連合国側は、日本の財閥が日本軍国主義を制度的に支援したとの認識から、これを解体する事で軍国主義を壊滅できると考えた。そして連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1945(s20)年10月11日「経済の集中排除と経済制度の民主化」を指示。そして「過度経済力排除政策」の中核を「財閥解体」と定め、日本政府にその解体を指示した。
 当初、日本政府は財閥解体には消極的だったが、GHQ経済科学局長レイモンド・クレーマーは10月16日に声明を発し、財閥解体に当たっては日本側の自発的な行動に期待するが、日本側に積極的な動きがない場合には、GHQが直接に実施に乗り出すとした。
 これにより、日本政府や各財閥は「財閥解体やむなし」と考え、政府は三井・三菱・住友・安田の4大財閥と協議を進め、「財閥解体計画案」をGHQに提出する。GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーは11月6日、日本政府案を修正し、監督・検閲権を留保する事を条件に、日本政府案を承認した。これを受け日本政府は11月23日、勅令「会社ノ解散ノ制限等ノ件」を公布し、財閥解体が始まった。
 日本政府は、持株会社の有価証券等の整理を進める「持株会社整理委員会」を発足させ、1946年8月23日から委員会は活動を開始した。9月6日、政府は軍国主義である三井本社・三菱本社・住友本社・安田保善社・富士産業(旧中島飛行機)を持株会社であると特定し、これに基づき委員会は、5社に解散を勧告し財閥解体政策は実行に移された。富士産業は純軍需産業としてみなされたため、4財閥に付け加えられた。
 財閥解体は、この4財閥+富士産業の第1次指定に終わらず、中堅財閥や新興コンツェルン、さらには地方財閥・小規模財閥などにも及び、1947(s22)年9月の第5次指定まで続いた。資本の民主化は、旧財閥や創業家一族などが保有する株式等有価証券を、証券処理調整協議会にゆだね、ひろく民間に分散売却することで達成された。
 1947(s22)年には、「過度経済力集中排除法」および「独占禁止法」が成立し、財閥解体措置の効果を恒久化しようとした。過度経済力集中排除法は、「過度の経済力の集中を排除」して再編し、競争的な市場構造を創り出すことを目的とした。そして独占禁止法は、株式所有による支配力の排除や、企業間における「資本的支配関係を阻止」しようとするものであった。
 ところが、米ソ冷戦による国際情勢の変化を背景に、米国政府およびGHQは、いわゆる「逆コース」と呼ばれる対日占領政策の転換が始まり、経済対策も「日本経済自立化の促進」に転換された。そのため、集中排除法や独占禁止法も一部骨抜きにされ、温存された銀行など金融機関を中心に、「企業系列」という形での旧財閥系企業の結びつきが復活することになる。
Facebook 佐々木信雄さん曰く

甲板に人(復員兵)がいっぱいいます・・・

2026-05-05
復員輸送艦として働きました!!
Facebook 山下直樹さん曰く
葛城の魅力は、戦時下の極限状態で完成した**「執念の結実」と、戦後の「献身的な功績」**にあります。資材不足の中で工期を短縮し、雲龍型空母として竣工。実戦で艦載機を飛ばす機会には恵まれませんでしたが、度重なる空襲を耐え抜き、終戦までその姿を維持しました。戦後は復員輸送艦として尽力し、数多の将兵を故郷へ送り届けたその献身は、武勇伝とは異なる尊い誇りとして語り継がれています。

この方にとって、終戦は闘いの始まりでした。

2026-05-04
Facebook Katuhiko Saikiさん曰く
マッカ―サ―は苦悶していた。
彼はドイツの再建も託されて居たからだ。
裕仁の『國民を助けたい!』の不惜身命の思いは受け取った!
しかし、………
では、ドイツはどうする……。
連合国が支援しなければ、ドイツは赤化するのではないか……。
ソ連が一番乗りしたのだから。
先ずドイツ市民を救済する。
日本人は裕仁への敬親が厚い。
ヒットラ―とは違う!のだ。
このままでは、日本人のおおくは飢えるだろぅ………、
だがエンペラー裕仁が存命なら國民は『耐えがだきを耐える、』のではないか……。
マッカ―サ―は呻吟していた、、、、
吉田茂は、戦時下でもマインドを守り抜いた人だった。
武士道精神と英國スピリッツを合わせ持つと、言っていい。
維新前夜の志士の昭和版と言い換えてもいいかもしれぬ。
終戦後、吉田茂が外相に任命される。
彼は愛車のパッカードを娘の和子に運転させ、鈴木貫太郎に会いにゆく。
戦後内閣の外務大臣を拝命したからだ。
吉田は鈴木貫太郎にその報告にいく。
鈴木貫太郎は、『敗けでもあっぱれな負け方がある』と伝える。
東京に帰った吉田茂は
GHQマッカーサー司令長官との初見で訊く。
『アドミラル、GHQとは何の略称ですか?』
吉田茂は元駐英大使である。
知らぬ筈が、ない。
米語ではないクィーンイングリッシュをも自在に操る。
『ジェラル・ヘッド・クォーターズ、GHQ(General Headquarters、連合国軍最高司令官総司令部)だ!』と答えた。
すると吉田茂は涼しい顔で
『私は、ゴ―・ホ―厶・クィックリィ  
Go Home Quickly(さっさと帰れ)の略だとおもっておりました。」と……。
これは都市伝説である。
実際は官僚の佐藤達夫だという説もある。無論相手はマッカ―サ―ではない。
しかし、サムライ、【臣・茂】の心情をいい得ている。
サンフランシスコ平和条約締結の為に渡米する際、吉田茂は公用車で乗り付け、靖国神社に正式参拝。
芳名補には『内閣総理大臣、臣・茂』と記すのである。
Facebook Katuhiko Saikiさん曰く
1945年の降伏から1952年の独立まで、日本を占領・統治した連合国側の機関GHQとの交渉窓口の役割を果たすのはこの吉田茂であることに間違いはない。
昭和20年、敗戦後、枕崎台風の被害、海外からの330万もの復員兵。
我が国が極度の食糧不足に陥ることは自明の理だった。
そして、この吉田茂は農林省の統計を基に算定した食糧不足分 450 万トンの援助助をGHQマッカーサー司令長官に要求したのだ。
義務を伴わぬ懇願である。
一方、マッカーサーは、
『ドイツへの支援も米国が行わなければならない。この上日本に支援する余裕はない!』と拒否する。
すると吉田は、
「このままだと 1 千万人の餓死者が出て、混乱が発生する。この混乱に赤軍(旧ソ連)が乗じたらどうするのです!』
とマッカ―サ―を脅したのである。
恐喝といっていい。
敗戦国の外務大臣が最高司令官に言える台詞ではない。
きな臭い朝鮮問題等、薄氷を踏む思いのマッカ―サ―は、日本への食糧支援を許可する。
しかし、そのトン数は、吉田が示した450万トンの1/6の僅か70万トン。
年が暮れ、続々と復員兵が『日本の土』を踏むなか………
吉田茂がマッカーサーに説明したような餓死者は、……出なかった。
数か月後、マッカ―サ―は机をたたいて激怒する。
「話が違うではないか!餓死者は、どうしたっ!日本の統計はメチャクチャだ!」と。
吉田茂は平然と、
「当然でしょう。日本の統計が無茶でなかったなら、あのような無茶な戦争などしなかった。
「そして、、、、もし、統計どおりだったら日本は貴国に勝っていたはずなのですから……」と返した。
この吉田茂一流のジョークにマッカーサーも大笑いをして、結局お咎めなしとなった。
吉田茂は最初から、ドイツ支援を計算に、入れて【ふっかけ】たのである。
しかしこの時、我が国の統計計算の改善の必要性を感じた。
このような経緯から、吉田が総理になった時、戦後の統計復興が始動することとなるのである。
Facebook 高橋 実知子さん曰く、旧吉田茂邸 

巨艦の終焉:戦艦大和「天一号作戦」の結末

2026-04-26
Facebook 深海のミリタリー同盟「海の会」さん曰く
巨艦の終焉:戦艦大和「天一号作戦」の結末
1945年4月7日、日本海軍が誇る史上最大の戦艦『大和』は、沖縄へ向かう途上の東シナ海(坊ノ岬沖)でその艦歴を閉じました。それは単なる一隻の軍艦の沈没ではなく、大艦巨砲主義時代の終わりと、帝国海軍の事実上の消滅を象徴する出来事でした。

1. 天一号作戦:片道燃料の特攻
沖縄に上陸した米軍に対し、大和を中核とする第二艦隊(軽巡『矢矧』、駆逐艦8隻)に下された命令は、無謀極まるものでした。
    • 作戦内容: 沖縄の海岸に乗り上げ、浮き砲台として陸上部隊を支援。弾薬を撃ち尽くした後は乗員が陸戦隊として戦う。
    • 航空支援なし: かつての連合艦隊のような航空母艦の護衛は一機もなく、剥き出しの状態で米軍の制空権下へ突入することを意味していました。
2. 坊ノ岬沖海戦:波状攻撃の恐怖
4月7日正午過ぎ、米空母機動部隊から放たれた約386機もの航空機(爆撃機・雷撃機)が、大和を包囲しました。
    • 左舷への集中攻撃: 米軍は周到でした。大和の復元力を奪うため、魚雷攻撃をあえて「左舷」に集中させ、艦を傾斜させる戦術を取りました。
    • 回避不能な波状攻撃: 12時30分から14時過ぎまで、合計3回にわたる猛攻が行われました。大和は46cm主砲や多数の対空機銃で応戦しましたが、雨あられと降る爆弾と魚雷を防ぎきることは不可能でした。
3. 最期の瞬間:14時23分
激しい傾斜により主砲も副砲も射撃不能となり、ついに大和は力尽きました。
    • 大爆発: 左舷へ大きく傾いた大和は、14時23分に横転。その直後、主砲弾薬庫に火が回り、巨大な火柱を上げて大爆発を起こしました。その煙は鹿児島からも確認できたと言われています。
    • 戦没者: 伊藤整一司令官、有賀幸作艦長を含む2,700名以上が運命を共にしました。生存者はわずか276名でした。
4. なぜ『大和』は沈んだのか
世界最大の排水量を誇り、最強の装甲を纏った大和が、なぜ航空機だけで撃沈されたのか。
    • 航空主兵への完全移行: 大和が設計された時代の「艦隊決戦」はすでに過去のものでした。機動力と圧倒的な数を持つ航空機の前では、いかに巨大な大砲も無力でした。
    • 対空防御の限界: 多数の機銃を増設していましたが、それらは「数」はあっても、最新のレーダー連動式射撃管制を持つ米軍の迎撃能力に比べれば、命中精度において劣っていました。
5. 2026年現在の『大和』:深海に眠る巨体
大和は現在、鹿児島県坊ノ岬沖の北西、水深約345メートルの海底に沈んでいます。
    • 海底の現状: 船体は爆発の影響で、艦首部分と艦尾側の大きく二つに分断されています。
    • 調査と追悼: 定期的に潜水調査が行われており、2026年現在も、その残骸は戦争の悲劇を伝える歴史的遺産として守られています。また、海底の映像を基にした高精細な3Dモデル化も進んでおり、当時の姿を後世に残す試みが続いています。
35本‼️
これは米側から見た魚雷の打撃本数で、米側の戦闘詳報からの本数です。 あと左舷集中攻撃とよく言われてますが右舷にも多数被雷本数が計上されてます。 この理由は、実戦だからとしか言いようがありません。戦術として武蔵に左右均等に魚雷を当てて20本以上必要になった。ゆえに左舷集中攻撃と言われますが、実戦は、思うような左舷集中が出来なかった。 これは攻撃側の米側も苦戦した証拠ですし35本を受けるまで頑張った大和乗組員の戦いを顕彰すべきだと思います。
1942年7月頃、伊予灘にて左舷に向けて仰角5度にて主砲一斉射する戦艦「武蔵」が発砲している所を撮影
Facebook 山下直樹さん曰く
Facebook Naoki Satoさん曰く
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