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ちょい話【釈尊編】

お釈迦様の生涯と教え

◎仏教伝来と崇仏論争

2021-05-23
Facebook佐々木信雄さん曰く
【6世紀クロニクル541-580年】‎
◎仏教伝来と崇仏論争
‎*538/ 百済の聖明王から仏像・経論が贈られる(仏教公伝)。 (日本書紀では552年とされる)‎
*552/ 蘇我・物部氏のあいだに崇仏論争が起き、排仏派の物部尾興や中臣鎌子が破仏をおこなう。
*570/ 蘇我稲目が没し、物部尾興らが大規模な破仏をおこなう。
*571/ 欽明天皇が没する。
*572/ 敏達天皇が即位し、大連(おおむらじ)には物部守屋、大臣(おおおみ)には蘇我馬子が就任する。
‎ 私的な信仰としてはすでに伝来していたが、6世紀半ばの欽明天皇期、百済の聖明王が仏像や経典とともに仏教の功徳を賞賛した上表文を献上したのをもって、公式の「仏教公伝」とされる。 「日本書紀(720年成立)」では、欽明天皇13(552)年に百済の聖明王が使者を使わし仏教を伝えたとされるが、内容に矛盾を含み、今では538年説が有力となっている。‎
 4世紀後半以降、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が連携・抗争を繰り返しており、6世紀前半即位した百済の聖明王(聖王)は、次第に新羅の圧迫を受け、さかんにヤマト政権に対して援軍を要請しており、より良好な関係をもつため、百済聖明王はヤマト政権に公的に仏教を伝えた(仏教公伝)。
‎ 仏教が伝来する以前、日本には土着の原始神道(古神道)が存在したと考えられるが、大陸で高度に洗練された仏教は理解されがたく、すんなりとは受容されなかった。 ヤマト政権をささえる豪族の中では、物部氏・中臣氏など原始神道の神事に携わる氏族が力を持ち、排仏派の物部尾興や中臣鎌子が破仏を行ったと記録されている。‎
 他方、渡来人勢力とつながりのあった新興勢力の蘇我氏は、早くから国際的な視野を持ち、朝鮮半島国家の先進的な文物を取り入れる観点からも、仏教の受容に積極的であったとされる。
‎ 日本書紀には、欽明天皇の前で、蘇我稲目と物部尾輿が崇仏廃仏の論争をかわしたことが書かれている。 ただ、このような宗教論争は表面的な問題にすぎず、本質は政権内部における蘇我氏と物部氏の勢力争いであったとする説もある。‎
‎ 仏教をめぐる蘇我稲目・物部尾輿の対立は、そのまま子の蘇我馬子・物部守屋に持ち越され、馬子は渡来人の支援も受け仏教受容の度を深めた。 しかし敏達天皇の末年に疫病が流行すると、物部守屋らはこれを蘇我氏による仏教崇拝が原因として、大規模な廃仏毀釈を実施した。‎
‎ 587年、用明天皇が崩御したあと、物部守屋と蘇我馬子がそれぞれの思惑で後継の天皇を担ごうとして対立、ついに守屋は馬子軍の放った矢に射抜かれて死ぬ。 これにより物部氏は没落し、蘇我氏に対抗できる勢力はいなくなった(丁未の役)。‎
 やがて蘇我氏が擁立した推古天皇が即位すると、蘇我馬子は、用明天皇の子 厩戸皇子(聖徳太子)と協力して仏教推進政策を進め、本格的な伽藍を備えた半官的な蘇我氏の氏寺 飛鳥寺が建立され、また聖徳太子によって四天王寺・法隆寺が建立され、飛鳥の仏教文化が花開くことになる。
(この時期の出来事)
*541/ 百済・加羅(任那)諸国・倭が、加羅の復興会議を開く。
‎*554/ 百済が倭に派兵を求め、見返りに五経博士などを派遣する。 新羅戦で百済聖明王が戦死する。‎
*562/ 新羅が大伽耶を併合し、加羅(任那)が滅亡する。

【6世紀 541-580年】‎

2021-05-23
Facebook佐々木信雄さん曰く
(この時期の出来事)
*541/ 百済・加羅(任那)諸国・倭が、加羅の復興会議を開く。
‎*554/ 百済が倭に派兵を求め、見返りに五経博士などを派遣する。 新羅戦で百済聖明王が戦死する。‎
*562/ 新羅が大伽耶を併合し、加羅(任那)が滅亡する。
倭国の政治状況

【ジャイナ教の話】

2021-05-05
Facebook 柴崎 義雄さんな曰く



【ジャイナ教の話】
東大仏教青年会から、機関誌「仏教文化(第59号)」が届きました。岡山理科大学の堀田和義准教授の「はじめてのジャイナ教」という講演録が載っていたので、興味を惹かれて読んでみました。
ご存じの方もおられるかも知れませんが、「ジャイナ教」は、ちょうど釈尊と同じころ、インドで興った宗教で、いわゆる「六師外道」(「外道」とは、ヒドい言い方ですね(笑))のひとつです。インドにおいては、仏教も含め、これらの宗教が全ていったん滅んでしまったのに、この「ジャイナ教」だけは、連綿と命脈を保ち、今も信者は少ない(人口の0.37%)ながら活動を続けています。仏教徒として、当然、釈尊が何を覚られ、どういう世界をごらんになっていたのかは、非常に興味があるところですが、当時のインドの宗教・哲学とも相互の影響関係にあったのは、言うまでもないでしょう。ということで、読んでみたくなったわけです。
で、ジャイナ教の教義の中で、一番の特徴は、何と言っても「不殺生戒」の強調です。だから彼らは、道を歩く時に小さな虫を踏み殺さないように、常に注意していて、また虫を吸い込まないように、鼻と口を覆う、マスクに機能の似た布を付けています。これはコロナのずっと前からです(笑)。さらに、徹底した菜食主義者(ベジタリアン)でもあります。(と、この辺りまでは私も知っていました。)
また、野菜でも「根菜」は食べない、というのは、土を掘り起こす時に虫を殺してしまうからなどという理由からだそうです。反対に菜食主義でも、乳製品はよい、というのは、動物を殺すわけではないから、のようです。
「ジャイナ教」は仏教と同じで、そのころ盛んだった「バラモン教」の重要な祭祀である犠牲獣の生贄に反対を主張していたため、このように「不殺生戒」を強調したものと思われます。
あとはみなさん、さして興味もないでしょうから省略しますが、ひとつだけ蛇足を加えます。それは「ベジタリアン」という言葉です。これって「野菜(ベジタブル)」が語源だと思っていませんか?---実は違います。野菜なら「ベジタブリアン」などとなるわけで、この語源は、ラテン語の「ウェゲトゥス(vegetus)=活発な、生き生きとした」です。な~んて、私も堀田先生のお話で初めて知りました(笑)。


釈尊のお説法

2020-04-07

延暦寺の絵解き

2021-04-18
能慈院殿の頃、真宗大谷派門首後継として、延暦寺根本中堂にてお勤めなさいました。
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