逸品の世界
ちょっと気になる逸品の世界
高取焼宗家
唐臼が響く小鹿田の里「伝統を今に」職人達の思い 大分県日田市
鳥瞰図
鳥瞰図とは? パノラマ地図を眺めてみませんか?
鳥瞰図(ちょうかんず、鳥目絵(とりめえ)・俯瞰(ふかん)図・パノラマ図とも言います、英語 bird’s eye view)とは、空を飛ぶ鳥の視点から地上を見おろしたように描いた図のことで、建物や山などの立体感や遠近感がよく描かれ、街の広がりや地形などを把握するのに適しています。
現在の地図ような真上から見おろした形の地図表現が定着する以前に、鳥瞰図による市街図などが作成されていました。現在でも観光地の案内図などに鳥瞰図が使われているのをよく見かけます。
http://www.geo-prd.co.jp/birdseyeview
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吉田初三郎は京都生まれの鳥瞰図絵師で、最初の『京阪電車御案内』(大正2年)が、皇太子時代の昭和天皇から「これは奇麗で解り易い」と賞賛されたことに喜び、生涯に1600点以上もの作品を描いたと言われています。
国際日本文化研究センターでは吉田初三郎、および彼の影響のもと同時代の絵師が描いた鳥瞰図の網羅的な収集を行ってきました。本データベースではその全体像を把握できるようにするとともに、画像を共有するための国際的な枠組、IIIF (International Image Interoperability Framework)を採用し、一般市民から世界の研究者まで広く活用されることを目的としています。
涼し気な明珍の風鈴 姫路藩のお抱え甲冑師
蝦夷錦
私たちのアイヌの文化に対する知識というのはかなり貧弱なものではないでしょうか。
クマやシャケを捕り、顔に入れ墨をして、アッシと呼ばれる麻の衣服を着ている?
ところがどっこい。
調べてみますと、アイヌ民族は、記録の残る江戸時代に限ってみるだけでも、かなりの名商人であったことがわかっています。
19世紀まで、当時の日本では中国の黒竜江流域を山丹といい、そこに住む人をサンタン人と呼びました。そしてこの人達が樺太(からふと)に渡り、樺太や北海道のアイヌとの間に展開した交易をサンタン交易といったそうです。
当時、鎖国中であった日本では東西からの貿易品は全て長崎を通じて入ってきていましたが、北では密かに独自の交易が行われていたというわけです。
清王朝の宮廷ではたらく官吏たちが着ていた官服。豪華な絹織物であったこの官服もこのとき北海道にもたらされ、「山丹(サンタン)服」と呼ばれていました。
江戸時代、アイヌの人々にとってはかなりの不平等な交易を強いていた松前藩、とくにこの「山丹服」にご執心でした。ご禁制の舶来品と知りながらなんとか交易を続けたい松前藩、幕府への献上品に「蝦夷錦」と呼ばわって納めていたといいます。そして、幕府もその実情は知りながら、これを「蝦夷のものならば」と容認していたフシがあります。
「赤穂の塩」がメキシコ産だったり、ゾーリンゲンの刃物が燕市で作られていたり、のような「ラベルのからくり」はこの頃から既にあったのですね。(笑)
「山丹服」はアイヌ社会の中でも社会的地位の高い族長が着たといわれます。
写真の人物は山丹服を纏ったアイヌの英雄国後(クナシリ)の総長ツキノエ。500人の部下を率いた優れた軍人でもあったといわれます。(1774年(安永3)アイヌに対し過酷な収奪や酷使、虐殺を行った飛騨屋(ひだや)久兵衛の船を襲撃し、松前藩との交易を一時停止させますが,のち藩と和睦。1789年(寛政元)の国後・目梨(めなし)のアイヌ蜂起ではアイヌを説得して事態をおさめ,その功を松前藩に賞されました。)
独自にロシアとの交易も行い、まさに北の交易の拠点を束ねて栄えたアイヌの人々。「山丹服」はその象徴なんですね。