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ファイトの系譜 

【 オールラウンド編 】

平成の怪物、引退の時を迎えました。

2021-10-20
『讀賣新聞』2021/10/20朝刊です。
最期は、18番で終わりといたしました!!

三冠王

2021-10-15
Facebook 小椋秀勝 さん曰く
日本プロ野球史上三冠王を獲った人は7人、11度しかありません‥(中島1、野村1、王2、落合3、バース2、ブーマー1、松中1)
2度が、巨人の王、阪神のバース、そして唯一3度の人が‥この人、ロッテ落合です。
中日選手時代、ビビって誰も座らない激高する星野監督の横に、常にちょこんと座っていました…でも、会話は一切なかったそうです…笑

エンゼルス、大谷翔平や『大谷Tシャツ』着たファンが映ったイラストでシーズン終了報告

2021-10-04
© ハフポスト日本版
ハフポスト日本版 2021/10/04 11:08

10月4日(日本時間)に今シーズン最終戦を終えたメジャーリーグのロサンゼルス・エンゼルスが、シーズン終了の報告とファンへの感謝のメッセージをTwitterに投稿した。

ツイートは、大谷翔平ら選手たちや、大谷選手のファンの写真を切り取ったイラストを添えて投稿。

横綱白鳳、引退届!!

2021-09-28

目の前の地位より万全の体を

2021-09-15
3連敗カド番大関・貴景勝へ休場の勧め
© 朝日新聞社 貴景勝は逸ノ城に敗れ花道を後にする=恵原弘太郎撮影
朝日新聞社 2021/09/14 21:15

大相撲秋場所(東京・国技館)3日目の14日、カド番の大関貴景勝が初日から3連敗を喫し、序盤から苦しい戦いを強いられている。

 やはり何かがおかしい。カド番の大関貴景勝から本来の圧力が感じられない。

 ともに白星がない小結逸ノ城との一番。前日までの頭からいく立ち合いを両手突きに変えたのは、先場所で首のけがを負った相手だったことも影響したか。威力のない突きでは押し込めず、最後は組み止められ、土俵下へ転がされた。

 「一生懸命やって、負けたら弱いだけだし」と、いつもの語り口。圧力が伝わらなかったか、との報道陣の問いには「負けてるってことは、そういうこと」と素っ気なく言った。

 7月の名古屋場所で「頸椎椎間板(けいついついかんばん)ヘルニアによる神経根症」「1カ月の休養を要する」と診断され、途中休場した。重傷とみられたが、今場所前に本人は「もう治ってるし、けがはもう関係ない」と言い切った。病状はそうだとしても、稽古再開は初日まで約2週間と迫っていた「番付発表(8月30日)前くらい」。準備不足は否めない。

 大関デビューの2019年夏場所以降、度重なるけがに悩まされ、カド番は4度目。それでも、15日間土俵に上がった8場所(1場所は関脇)に限れば、6場所で10勝以上を挙げた。優勝もした。コンディションさえ整えば、照ノ富士に対抗できる貴重な存在なのだ。

 だからこそ、目の前の地位より万全な姿に早く戻る選択を勧めたい。思い切って休場し、関脇に落ちたとしても、大関への即返り咲きは十分望めるはず。今の体で土俵に立ち続けたところで、突破口が見つかるとは思えない。(松本龍三郎)

【 プロレス編】

【73’ 創立1周年ジャイアント・シリーズ/パンフレット 鶴田友美紹介】

2021-08-11
Facebook ジャンボ鶴田さん曰く

三冠ベルト (Triple Crown Championship Belt)

2021-08-03
Facebook ジャンボ鶴田さん曰く

ラテンの魔豹

2021-08-02
人間発電所 B.サンマルチノの後継者
ドロップキックの名手として知られ、日本では彼がジャイアント馬場に、この技を教え32文ロケット砲が誕生したというエピソードでも有名。

ペドロ・モラレスPedro Morales1942年10月22日 - 2019年2月12日)は、

アメリカ合衆国プロレスラー
プエルトリコクレブラ島の出身だが、少年期に家族と共にニューヨークブルックリンに移住。主にWWWFおよびWWFで活躍していた。
ニックネームは「ラテンの魔豹」。

ドロップキックの名手として知られ、日本では彼がジャイアント馬場に、この技を教え32文ロケット砲が誕生したというエピソードでも有名。

http://kuro.pinoko.jp/pro/w685.htm


All Japan Pro-Wrestling / Madison Square Garden Series

2021-08-02
当時のMSGのチャンプは“ラテンの魔豹”ことP.モラレス、G馬場に32文を伝授した師匠

WWA世界王座

2021-08-02

WWWF発足期の1963年には、バディ・ロジャースが保持していた世界ヘビー級王座にも挑戦した。ドロップキックを得意としていたように、若い頃は華麗な空中殺法の使い手として鳴らした。

その後、彼のスター性に目をつけたフレッド・ブラッシーの仲介で、ブラッシーのホームリングだったロサンゼルスWWAに移籍。同団体のスター選手となり、1965年3月12日にザ・デストロイヤーからWWA世界ヘビー級王座を奪取。WWA世界タッグ王座も1966年6月から1967年12月にかけて、ブラッシー&バディ・オースチンなどのチームを破り通算6回に渡って獲得した。その後も西海岸および太平洋エリアでの活動を続け、1969年11月4日にはハワイジン・キニスキーからNWA北米ヘビー級王座を奪取している。
http://www.showapuroresu.com/belt/los/index.htm

【 ボクシング編 】(アーカイブス)

蘇るカンムリワシ伝説 具志堅KO集

2021-05-25

海老原博幸 VS ポーン・キングピッチ(1963年)

2021-05-25

沼田義明 VS ラウル・ロハス (1970年)

2021-05-25

" 天才パンチャー " 柴田国明

2021-05-25
世界戦10試合

ラウル・ロハス vs 西城正三

2021-05-25
WBA世界フェザー級タイトルマッチ 1968.09.27 (blog.jp)

【 ボクシング編 】

井上尚弥の最も衝撃的な瞬間!

2021-07-06

井上尚弥ラスベガス防衛戦2 2021年6月20日

2021-06-30
【~WBA_IBF世界バンタム級タイトルマッチ:井上尚弥×マイケル_ダスマリナス~】



井上尚弥 衝撃の3回TKO 1回に勝利確信「弱気な姿勢も見えた。こんなもんかと」

2021-06-21
スポーツニッポン新聞社 2021/06/20 14:48
© スポーツニッポン新聞社 ダスマリナス下し、2本のベルトを肩にかける井上尚弥(AP)

プロボクシングWBA&IBF世界バンタム級タイトルマッチ12回戦は19日(日本時間20日)、米ネバダ州ラスベガスのヴァージン・ホテルズ・ラスベガスで行われ、統一王者・井上尚弥(28=大橋)がIBF1位の指名挑戦者マイケル・ダスマリナス(28=フィリピン)に3回2分45秒TKO勝ち。WBA5度目、IBF3度目の防衛に成功した。

 井上は「第1Rの相手の出方見て、相手の出方次第ですけど早い回でいけるのかなと確信を持てました」と序盤で確信をつかんだことを明かした。ダスマリナスについては「思ったより出てこなかった印象なので。わりと自分のやりやすいペースで進められたのかなと思います」と振り返った。

 中継のスタジオゲストでWBA世界ミドル級スーパー王者の村田諒太(34、帝拳)からも「1ラウンド目のファーストコンタクト、ジャブに対して左フック合わせた瞬間に勝つと思いました?」と聞かれ、井上は「読めたかなと。相手のちょっと弱気な姿勢も見えたのでこんなもんかという感じがありました」と語った。

 リングサイドではWBC王者ドネア、WBO王者カシメロが観戦。井上は「今回は相手うんぬんというよりラスベガスの期待感と、ドネア、カシメロが見に来ている中でどう自分を出し切るかというのが一番の課題だった」。試合は「80点くらい」と自己分析。「少し足の運びがいまいちだなというところもあったので、やりながら感覚をつかみたいと思います」とさらなる進化を誓った。

 さらに「自分の中の位置づけは4団体統一に向けてということで挑んだ試合なので勝ったことのうれしさはありますが、手を挙げて喜んでいられるステージではない。この後にドネア、カシメロの勝者と戦う方向に向けてより精進したい」と先を見据えた。

ダスマリナス「息できなかった」尚弥の強烈パンチに白旗

2021-06-21
「ナオヤはとても良い選手。(ボディーは)かわしたり、守ったりができず、インパクトは強烈で息ができなかった」
© スポーツニッポン新聞社 ボディーで3度ダウンを奪われたダスマリナス(AP)
スポーツニッポン新聞社 2021/06/21 05:30

◇WBA&IBF世界バンタム級タイトルマッチ12回戦 〇井上尚弥 KO3回2分45秒 マイケル・ダスマリナス●(2021年6月19日 米ラスベガス)

 左ボディーで3度ダウンを奪われたダスマリナスは「ナオヤはとても良い選手。(ボディーは)かわしたり、守ったりができず、インパクトは強烈で息ができなかった」と白旗。「総合力が高く、スピード、パワーがあり、動きもよく、スキルがあった」と王者を称えた。

 同じフィリピン勢のドネアとカシメロの対戦については「よりコンディションが良い選手が勝つ」とし、その勝者が井上に挑む一戦について「良い試合になるはずで、(井上に対して)勝つチャンスがあるかもしれません」と予想した。

井上尚弥が防衛成功!ダスマリナスを3回TKO バンタム4団体統一へ前進

2021-06-20
日刊スポーツ新聞社 2021/06/20 18:39
© 日刊スポーツ新聞社 ダスマリナスを攻める井上尚弥(AP)

<ボクシング:WBAスーパー、IBF世界バンタム級タイトルマッチ12回戦>◇19日(日本時間20日)◇米ネバダ州ラスベガス

WBAスーパー、IBF世界バンタム級王者井上尚弥(28=大橋)が防衛(WBA5度目、IBF3度目)に成功した。

IBF同級1位マイケル・ダスマリナス(28=フィリピン)を3回TKOで倒し、日本人初となる2戦連続の「聖地」防衛に成功した。

WBC同級王者ノニト・ドネア(38=フィリピン)ら他団体の対抗王者が見守る中、ラスベガスのリングで実力をアピールした。目標に掲げるバンタム級4団体統一へ、大きなステップを踏んだ。

  ◇   ◇

全米生中継、ラスベガスでは自身初の有観客興行という舞台で、井上が白星をつかんだ。日本人初となる2戦連続「聖地」防衛に成功。「試合当日の自分がどのようなパフォーマンスをするのか、ラスベガスにどんな試合をみせられるのか。自分でも楽しみ」。神経質になり、緊張しても良い環境であっても、井上は愛称「モンスター」らしくファイトした。

昨年10月のジェーソン・モロニー(オーストラリア)戦で初めてラスベガスに進出した。米プロモート大手トップランク社と契約後初試合で7回KO勝ちを収めた試合内容は大きな評価を受けた。「間違いなく彼は世界で最高のファイター。誰もが彼のようにはなれない」と絶賛していた同社ボブ・アラムCEOが試合前会見でも「モンスターが米国に戻ってきた」と手放しで歓迎。試合1週間前からラスベガスの掲示板は井上-ダスマリナス戦のPRが増え、中継局の米ESPNでは連日、ゴールデンタイムに井上を特集番組が放送された。

井上は言う。「もうプロモーションを含め、かなり期待を感じるので、その期待を裏切らないように、出せるものすべて出して、しっかりと勝ちにつなげたいです」。所属ジムの大橋秀行会長(56)は「米国での対応、評判が前回に比べものにならないぐらい(高い)。本人も比較していて、良い意味でかなり気合が入っている」と口調を強めていた。期待を力に変え、海外オッズでも優位の井上が確実に「聖地」で勝利を手にした。

◆井上尚弥(いのうえ・なおや)1993年(平5)4月10日、神奈川・座間市生まれ。元アマ選手の父真吾さんの影響で小学1年から競技を開始。相模原青陵高時代にアマ7冠。12年7月にプロ転向。国内最速(当時)6戦目で世界王座(WBC世界ライトフライ級)奪取。14年12月にWBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、史上最速(当時)の8戦目で2階級制覇。18年5月にWBA世界バンタム級王座を獲得し、国内最速(当時)の16戦目で3階級制覇。19年5月にWBA、IBF世界バンタム級王者に。同年11月、WBSSバンタム級トーナメント優勝。家族は夫人と1男2女。164・5センチの右ボクサーファイター。

◆世界主要4団体統一王者 過去6人誕生している。世界主要4団体となって以降、04年にバーナード・ホプキンズ(ミドル級)、05年にジャーメイン・テイラー(ミドル級)、17年にテレンス・クロフォード(スーパーライト級=すべて米国)、18年にオレクサンドル・ウシク(クルーザー級=ウクライナ)、20年にテオフィモ・ロペス(ライト級=米国)が達成。そして、階級最強トーナメントのWBSSスーパーライト級覇者ジョシュ・テイラー(英国)が5月23日、ホセ・カルロス・ラミレス(米国)との4団体統一戦を制し、史上6人目の統一王者になった。

【 オールラウンド編 】(アーカイブス)

1964年東京オリンピックの体操競技

2021-08-03

女子団体ではソビエト連邦が4連覇を達成した。
2位にはチェコスロバキアが入り、3位は日本となり日本女子団体初のメダル獲得となった。
女子個人総合では、ソビエト連邦のラリサ・ラチニナチェコスロバキアベラ・チャスラフスカ一騎討ちとなった。
優勝したチャスラフスカの優美な演技は「オリンピックの名花」と讃えられ、絶大な人気を博した。

アントン・ヘーシンク 日本柔道に立ち塞がったオランダの巨人

2021-07-31
1964年東京大会柔道無差別級決勝のヘーシンク

「柔道(講道館柔道)」は、現在世界中で行われているスポーツ競技となっているが、その発展段階では、紆余曲折もあった。国内のスポーツ競技統括団体としての全日本柔道連盟は1949年に設立。柔道が次第に世界に広まっていくにつれ、本家の日本と世界との間には徐々に軋轢が生じていた。事実、1951年に欧州柔道連盟が改組され国際柔道連盟が設立された時点では日本は加盟しておらず、加盟は翌年となった。

1956年に東京で開催された第1回世界選手権は、無差別級のみで行われ日本人選手が制した。1958年の第2回も東京で開催され同様に日本人選手が優勝したが、1961年にパリで開催された第3回大会は、オランダのアントン・ヘーシンクが、日本代表の3選手を次々に撃破し、外国人選手として初めての優勝を飾る。これに先立つ1959年のIOC総会で、1964年東京オリンピックの正式競技として柔道を導入することが決定されていたが、ヘーシンクに敗れたこの時から柔道の本家日本の「打倒ヘーシンク」への本格的な動きが始まった。

東京オリンピックの柔道は、軽量級、中量級、重量級、無差別級の4種目が実施された。結果は軽、中、重量各級では順当に日本人選手が金メダルを獲得したが、無差別級では本家の期待を一身に背負った神永昭夫が、決勝でヘーシンクに敗れた。日本の柔道が世界のJUDOになった瞬間であった。オリンピックでの正式種目としての実施、そしてヘーシンクが日本人選手を破って金メダルを獲得したこと、この2つの事実が重なったことがその後の柔道国際化の嚆矢となったのは間違いない。
もし無差別級でも神永が勝ち、4種目を日本が独占していたならば、国際化の動きは鈍っていたのではないかといわれている。

決勝で神永を抑え込む

2021-07-31
ヘーシンクの勝利の瞬間、オランダの関係者が狂気乱舞して畳の上に駈け上がり母国の英雄に抱きつこうとしたのを、ヘーシンクは押さえこみの体勢のまま右手を挙げ制したのだ。

オランダの巨人アントン・へーシンクの足跡を辿ってみよう。
ヘーシンクは1934年4月にオランダ第4の都市、首都アムステルダムの30km南に位置するユトレヒトで生まれた。父は運河の小さな船の船乗りという貧しい家に育ち、12歳の時から建築現場で働いていた。14歳で地元の柔道教室に通い始めたが、1955年20歳の時にオランダ柔道連盟の招きで指導に訪れていた道上伯との運命的な出会いを果たす。

198cmの長身、85kgの体重、手足が長く、技にスピード感のあるヘーシンクに道上の目がとまった。指導次第では伸びるという直感が働いたのである。道上とへーシンクの関係は、眞神博の労作「ヘーシンクを育てた男」(文藝春秋/2002年)に詳しく紹介されている。
道上は1912年に愛媛県八幡浜で生まれている。14歳で柔道を始め、すぐに頭角を現し昇段試験を受け合格したがあまりに若いということで免状が発行されず、翌年15歳になるのを待って正式に初段を取得したというエピソードが残っている。

道上の父や長兄がアメリカへ渡り事業で成功していたこともあり、道上もアメリカ渡航を企てたが途中で頓挫し、八幡浜へ戻ってまた柔道にのめり込み、19歳で三段に昇格。武道専門学校で学んだ後、高知高校、上海東亜同文書院で教員を務め終戦を迎える。
戦後すでに七段になっていた道上に転機が訪れるのは1953年のことである。
フランス柔道連盟から指導者としての招聘を受けたのだ。
道上はその誘いに呼応しフランスに渡った。はじめは1年間の契約であったが、滞在は長期に渡ることになり、父の死にも立ち会うことができなかった。そして、フランスから指導に行ったオランダでヘーシンクと遭遇したのである。

道上がオランダを訪れるのは2カ月に一度で、20日間程度滞在したが、この間ヘーシンクを徹底的に指導した。柔道の指導はもちろん、サッカー、レスリング、水泳、ランニングも行い、さらに当時は珍しかったバーベル等を使ったウエイトトレーニングも取り入れ、頑強な身体を作り上げていった。その甲斐あって、ヘーシンクはヨーロッパでは無敵の存在としてその名を知られるようになる。

ヘーシンクが最初に日本を訪れたのは、1956年の第1回世界選手権に出場するためである。この時は準決勝で吉松吉彦七段に敗れている。続く1958年の第2回大会にも来日したが、この大会でも準々決勝で山鋪公義六段に敗れた。第3回大会は1961年末にパリで開催されることになっていたが、ヘーシンクはその年の1月に来日し、2カ月間滞在、講道館や警視庁で練習を積んだ。そして迎えた第3回パリ大会では、前述の通りヘーシンクが初の世界一に輝いたのだ。
この瞬間、道上はオランダの柔道関係者により抱えられて試合場に押し上げられ、駆けよってきたヘーシンクに握手され至上の喜びを味わっている。

世界選手権で優勝し帰国したヘーシンクを待っていたのは熱狂的な歓迎の嵐であった。オランダ政府は由緒ある「オレンジ・ナッソー勲章」を彼に与えその功績を讃えた。ヘーシンクはすでに故郷ユトレヒトに小さな柔道場を有していたが、石油メジャー企業からの援助により新たに大規模な道場が建設され、ヘーシンクは道場主に収まるとともに、デラックスなガソリンスタンドも併設されその経営も任された。道場に面した通りは「ヘーシンク通り」と名付けられた。道上・ヘーシンク師弟の次なる目標は当然のことながら、3年後の東京オリンピックでの金メダル獲得であり、新たな研さんの日々が続いた。

1964年東京大会の柔道で日本チームは、無差別級に出場するヘーシンクに、前回の世界選手権ですでに対戦している神永昭夫を当てるか、まだ一度も対戦していない猪熊功をぶつけるかで大いに悩んだ。天理大学でヘーシンクを指導した経験のある日本チームの松本安市監督は、重量級に猪熊、無差別級に神永を出場させることに決定。日本人の間では、地元日本でのオリンピックで神永がヘーシンクに雪辱し、覇権を奪還することに期待が膨らんだ。


決勝当日、日本武道館には1万5000人の大観衆が詰めかけ、世紀の大一番を見守った。無差別級には9カ国9人しかエントリーがなかったために変則的な方式が採用された。その予選リーグでいきなり神永対ヘーシンク戦が実現し、ヘーシンクが優勢勝ち。神永は敗者復活戦に回ったが、決勝で両雄が再び合いまみえることになった。

試合は一進一退を繰り返したが、開始8分過ぎにヘーシンクが一瞬のすきをついて得意の寝技で神永を抑え込み、そのまま一本勝ちとなった。それまでの軽、中、重量級で日本は3つの金メダルを獲得していたが、無差別級の覇者こそ真の王者であると思われていただけに、この結果はやはり日本の柔道が世界に敗れたことを意味した。

落胆している日本の観客の前で、もう一つの印象的な光景が繰り広げられた。ヘーシンクの勝利の瞬間、オランダの関係者が狂気乱舞して畳の上に駈け上がり母国の英雄に抱きつこうとしたのを、ヘーシンクは押さえこみの体勢のまま右手を挙げ制したのだ。この行為は、「礼にはじまり礼に終わる」という柔道の精神を具現化する行為として現在でも高く評価されている。

最上階には、回転ラウンジがありました。

2021-07-29
東京オリンピックの来日客に日本が誇る富士山を見せたいという理念の体現
Facebook ホテルニューオータニさん曰く
1964年のホテル開業時に、 東京オリンピックの来日客に日本が誇る富士山を見せたいという理念のもと、世界最大の回転展望ラウンジとしてオープンした「BLUE SKY」(現在はビュッフェダイニング「VIEW & DINING THE SKY」として営業中) 。
国立競技場から迎賓館、富士山までを一望する圧巻の眺望は、今もなお多くのお客さまに愛されています。

国家の要請

2021-07-27
Facebook ホテルニューオータニさん曰く
1964年の東京オリンピック開催に際し、国内の宿泊施設不足を補うべく国家の要請のもと誕生したホテルニューオータニ。
開業当時の写真には、かつての東京オリンピックのロゴが写っています。
客室数1,058室(当時 ) 17階建てという日本初の超高層建築である点など、新時代を切り拓く最新技術が次々に導入されました。
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