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ファイトの系譜 

【 オールラウンド編 】

目の前の地位より万全の体を

2021-09-15
3連敗カド番大関・貴景勝へ休場の勧め
© 朝日新聞社 貴景勝は逸ノ城に敗れ花道を後にする=恵原弘太郎撮影
朝日新聞社 2021/09/14 21:15

大相撲秋場所(東京・国技館)3日目の14日、カド番の大関貴景勝が初日から3連敗を喫し、序盤から苦しい戦いを強いられている。

 やはり何かがおかしい。カド番の大関貴景勝から本来の圧力が感じられない。

 ともに白星がない小結逸ノ城との一番。前日までの頭からいく立ち合いを両手突きに変えたのは、先場所で首のけがを負った相手だったことも影響したか。威力のない突きでは押し込めず、最後は組み止められ、土俵下へ転がされた。

 「一生懸命やって、負けたら弱いだけだし」と、いつもの語り口。圧力が伝わらなかったか、との報道陣の問いには「負けてるってことは、そういうこと」と素っ気なく言った。

 7月の名古屋場所で「頸椎椎間板(けいついついかんばん)ヘルニアによる神経根症」「1カ月の休養を要する」と診断され、途中休場した。重傷とみられたが、今場所前に本人は「もう治ってるし、けがはもう関係ない」と言い切った。病状はそうだとしても、稽古再開は初日まで約2週間と迫っていた「番付発表(8月30日)前くらい」。準備不足は否めない。

 大関デビューの2019年夏場所以降、度重なるけがに悩まされ、カド番は4度目。それでも、15日間土俵に上がった8場所(1場所は関脇)に限れば、6場所で10勝以上を挙げた。優勝もした。コンディションさえ整えば、照ノ富士に対抗できる貴重な存在なのだ。

 だからこそ、目の前の地位より万全な姿に早く戻る選択を勧めたい。思い切って休場し、関脇に落ちたとしても、大関への即返り咲きは十分望めるはず。今の体で土俵に立ち続けたところで、突破口が見つかるとは思えない。(松本龍三郎)

【速報】照ノ富士不知火型横綱土俵入り 大相撲令和三年九月場所 初日

2021-09-19
駿馬さんに正面一列目枡席から見守られての土俵入りは感動的でした。 露払いは照強、太刀持ちは宝富士です。 2021年9月12日撮影

大相撲 73代横綱 照ノ富士 奉納土俵入り 初の「不知火型」披露

2021-09-19
2021年8月24日 18時49分
大相撲の73代横綱に昇進した照ノ富士が東京の明治神宮で奉納土俵入りを行い、初めて「不知火型」の土俵入りを披露しました。

【LIVE】照ノ富士 明治神宮奉納土俵入り SUMO

73代横綱に昇進した照ノ富士が横綱として行う初めての土俵入り 明治神宮での奉納土俵入りの模様をライブ配信!

奉納土俵入りを披露する横綱照ノ富士

2021-09-14
2021/09/13 16:16
© 中日スポーツ 提供 (8月24日撮影)
【大相撲秋場所・北の富士さん展望】

   場所前の引退説もささやかれていた白鵬がコロナ禍休場…照ノ富士の独走となるでしょう  

   名古屋場所が終わったのが7月18日。

   予定していた北海道行きも結局やめることになった。

   オリンピックが始まると「こんな時にオリンピックなんて」と文句を言いつつ、日本選手の奮戦に拍手喝采。連日のメダルラッシュに大満足。やはりスポーツは良いものであることを再認識した次第です。続くパラリンピックの方も選手たちの不撓(ふとう)不屈の精神力に感動をせずにはいられなかった。まるで奇跡である。

   彼らの努力に比べると相撲取りの稽古なんぞ足元にも及ばない。ほとんど子供の遊びである。おそらく力士たちもテレビでオリンピックを見ていたと思う。そしていかに自分たちの稽古が甘かったと感じたと思う。もし何も感じなかったら救いようのないバカである。12日から秋場所が始まるが、よほど頑張らなければお客さんの感動は得られないだろう。さっそく憎まれ口から始まってしまったが、慣例だから展望といきましょう。

   すでに御承知と思いますが白鵬は部屋にコロナ禍の力士が出たので休場となってしまった。照ノ富士の新横綱の土俵より、ある意味、白鵬の動向の方が気になっていたので休場を聞いて思わず「あっけ」に取られた気持ちです。というのも白鵬の膝の回復が遅れ、どうやら場所前に引退を発表するのではとささやかれていたからです。私も信ぴょう性のある話と思っていた一人です。しかしこれで白鵬引退説はなくなりました。もしかして神様が白鵬にもう一度チャンスをくれたのかもしれません。

 さて新横綱照ノ富士に話題を移しましょう。

 私はまだ照ノ富士の土俵入りを見ていません。無観客でひっそり明治神宮で授与式と土俵入りを行ったようです。何ともさびしい話ではありませんか。最近では稀勢の里の時は2万人近い人が新横綱を見に来たと聞いています。千代の富士の時は怖くなるくらいの人出でした。初日の土俵入りが今から楽しみです。

 どうやら稽古も十分にできたようです。それなら優勝は決まったようなものです。白鵬の休場で照ノ富士の独走となるでしょう。横綱の重圧に負けなければ当分は照ノ富士の時代が続くと思います。とは言っても膝に爆弾を抱えているので絶対というわけにはいきません。「絶対」と「お化け」は出たことがありませんから、念のために二番手だけ挙げときましょう。

 本当は正代と言いたいところだが、勝ち越すのが精いっぱいの大関には絶対無理です。この絶対は自信を持って断言できます。貴景勝も苦しい場所になるでしょう。

 こうなったら清水の舞台から飛び降りる気持ちで御嶽海としましょう。優勝2回の実績がどうしても捨て難く、調子に乗ると2桁の星は挙げるだけのものがある。続いて名前だけでも良かったら高安にも頑張ってもらいたい。それから大関に敬意を表して貴景勝と正代。情けない予想だが、こんなものだろう。とにかく照ノ富士が崩れたら幕内力士全員にチャンスがあるということだ。

 いろいろ書いてはみたが、結局、照ノ富士次第である。だから優勝争いにはさほど興味はない。それより豊昇龍、明生、それに三枚目まで番付を上げてきた宇良に期待をしたい。

 初日、豊昇龍は正代と顔が合っている。たしか内掛けで連勝している。今場所はどんな手が飛び出すか楽しみである。正代は今夜は寝付きが悪いことだろう。

 宇良は宝富士と対戦する。すっかり正攻法の相撲に大変身したようだが、さぞかし苦労したことだろう。炎鵬が十両に落ちてさびしくなったが、今度は宇良が活躍する番が来たようだ。けがをしないで頑張ってもらいたい。

 新十両の北青鵬が休場することになった。残念な休場だが、相手がコロナでは話にならない。

 それでは先程も述べたが、オリンピックの選手たちに負けないような感動的な場所になるよう全力士の健闘を祈る。私も老骨にムチ打って「はやわざ御免」に挑戦しよう。

 今場所は少し厳しくなりそうだが、悪く思わんでもらいたい。それでは15日間よろしくお願いします。(元横綱)

新横綱・照ノ富士が綱打ちと「不知火型」の土俵入り稽古

2021-09-19
師匠の還暦土俵入り用と照ノ富士は綱一緒に

新横綱・照ノ富士が綱打ち 柔道の大野将平の金に刺激「2人で話した横綱と連覇という目標を達成」

大相撲の新横綱・照ノ富士(伊勢ケ浜)が27日、都内の部屋で綱打ちと土俵入りの稽古を行った。終了後に報道陣の電話取材に応じ「ちょっとでも実感が湧いているところかなと思う。何キロどうこうという重さじゃなくて、自覚を持って行動しなければいけない重さは感じた」とあらためて最高位に立ったことをかみしめた。不知火型の土俵入りの稽古に関しては「いやー、全くできていない感じですね」と辛めの自己採点だった。

 自身の綱も完成し、目指す横綱像については「どうこうはなく、やはり見ているままの横綱になりたい。どういう横綱、ああいう横綱という理想はないので。これから考えて、どんな地位なのかどんな立場なのかというのは、どういう生き方をするべきなのかということを含めて考えて、生き方でみんなが認めてくれる横綱になりたいなと思っている」と決意を語った。

【 プロレス編】

【73’ 創立1周年ジャイアント・シリーズ/パンフレット 鶴田友美紹介】

2021-08-11
Facebook ジャンボ鶴田さん曰く

三冠ベルト (Triple Crown Championship Belt)

2021-08-03
Facebook ジャンボ鶴田さん曰く

ラテンの魔豹

2021-08-02
人間発電所 B.サンマルチノの後継者
ドロップキックの名手として知られ、日本では彼がジャイアント馬場に、この技を教え32文ロケット砲が誕生したというエピソードでも有名。

ペドロ・モラレスPedro Morales1942年10月22日 - 2019年2月12日)は、

アメリカ合衆国プロレスラー
プエルトリコクレブラ島の出身だが、少年期に家族と共にニューヨークブルックリンに移住。主にWWWFおよびWWFで活躍していた。
ニックネームは「ラテンの魔豹」。

ドロップキックの名手として知られ、日本では彼がジャイアント馬場に、この技を教え32文ロケット砲が誕生したというエピソードでも有名。

http://kuro.pinoko.jp/pro/w685.htm


All Japan Pro-Wrestling / Madison Square Garden Series

2021-08-02
当時のMSGのチャンプは“ラテンの魔豹”ことP.モラレス、G馬場に32文を伝授した師匠

WWA世界王座

2021-08-02

WWWF発足期の1963年には、バディ・ロジャースが保持していた世界ヘビー級王座にも挑戦した。ドロップキックを得意としていたように、若い頃は華麗な空中殺法の使い手として鳴らした。

その後、彼のスター性に目をつけたフレッド・ブラッシーの仲介で、ブラッシーのホームリングだったロサンゼルスWWAに移籍。同団体のスター選手となり、1965年3月12日にザ・デストロイヤーからWWA世界ヘビー級王座を奪取。WWA世界タッグ王座も1966年6月から1967年12月にかけて、ブラッシー&バディ・オースチンなどのチームを破り通算6回に渡って獲得した。その後も西海岸および太平洋エリアでの活動を続け、1969年11月4日にはハワイジン・キニスキーからNWA北米ヘビー級王座を奪取している。
http://www.showapuroresu.com/belt/los/index.htm

【 ボクシング編 】(アーカイブス)

大場政夫

2020-10-07
【 昭和の大ヒーロー ♪ 伝説のボクサー:大場政夫 大特集 ♪ 1998年放送 】
https://youtu.be/07POis-2g2k

1973年1月25日、3週間ほど前に逆転KOで5度目の防衛を果たしたばかりの大場は、首都高速5号線でカーブを曲がり切れずに中央分離帯を乗りこえ対向車のトラックと正面衝突。 愛車のシボレー・コルベットと共にチャンピオン・ベルトを巻いたままあの世へと旅立ちました。23歳でした。

永遠のチャンプ

2020-06-25
永遠のチャンプ・大場政夫。

私が最も敬愛するボクサーです。

1949年10月21日東京都足立区生まれ。

実父がギャンブル好きで、幼少期の暮らしは相当に貧しかったようです。

その実父がボクシングファンだった影響から、なんと小学校の入る頃には既に、将来は世界チャンピオンになり、両親に家を贈ろうと決めていました。

その後も決意はブレることなく、1965年の中学卒業と同時に帝拳ジムに入門、プロボクサーへの第一歩を踏み出すことに。

翌年には、渡辺和喜に1回KO勝ちでプロデビュー。

以降は、持ち前の負けん気と豊富な練習量で頭角を現し、次々と難敵を退けて世界ランキング上位へと駆け上がりました。

そして、プロ28戦(25勝2敗1分8KO)で、念願の世界タイトル初挑戦の切符を手中にします。

1970年10月22日、タイのベルクレック・チャルバンチャイを13回KOで倒し、WBA世界フライ級王座を獲得。

この時、大場は21歳。

プロキャリア4年で小学生の頃抱いていた夢を叶えました

その後、2年半足らずで王座を4度防衛。

そして1973年1月2日、WBA世界フライ級5度目の防衛戦を迎えます。

相手は「稲妻小僧」の異名を持つ元WBC世界フライ級チャンピオン、タイの英雄チャチャイ・チオノイ。

大場は1Rにチオノイの豪快な右フックを食いダウン。

その際に右足首を捻挫し、以降は足を引きずりながらのファイトを強いられます。

しかし、大場は驚異的な粘りで劣勢を挽回、8Rからは優勢に立ち、12Rを迎えます。

前半は打ちつ打たれつでしたが、中盤に機を見て大場が猛ラッシュ。

ロープ際で連打を浴びせられたチオノイは、遂に崩れ落ちます。

その後、チオノイは半ば戦意喪失状態になり、最後はレフェリーが試合を止め、大場は大逆転で5度目の防衛に成功しました。

1月2日のゴールデン枠に、人気ボクサーの世界戦生中継とあって、祖母の家に集まっていた親戚一堂はTVに釘付け。

終盤は皆が「大場〜っ!」と絶叫するほどの大熱戦でした

小学校3年生だった私も、感動で泣きそうになりました。

決して器用ではなく、打たれて強いわけでもなく、スピードもそれ程ではない……が、

猛練習で培った旺盛なスタミナと折れない心で、ただ愚直に左右のワンツーを繰り出す。

いつまでも、いつまでも、相手が倒れるまで繰り出す。

その闘志を前面に押し出したボクシングスタイルは、観る者の心まで奮い立たせる迫力がありました。

この試合の23日後、1973年1月25日。

大場は愛車シボレー・コルベット・スティングレーで首都高速5号池袋線を走行中、大曲カーブを曲がり切れず中央分離帯を乗り越え、反対車線に出たところを大型トラックと正面衝突。

現役世界チャンピオンのままこの世を去りました。

大場は3度目の防衛戦後に、それまでで得たファイトマネーで埼玉県に一戸建を新築購入し、両親に贈っています。

また、実弟の高校までの学費も全額支払い終えていました

中学卒業後、ボクシングに総てを賭けてきた大場が、4度目の防衛成功後に生涯で初めて自分自身へ贈ったご褒美が、当時日本に2台しかなかったシボレー・コルベット・ステイングレーでした。

大場政夫 
プロボクシング生涯戦績
38戦35勝16KO2敗1分
第25代WBA世界フライ級王座5度防衛

大場政夫  VS  チャチャイ・チオノイ (1973年)

2021-06-30
【昭和45年】大場政夫 vs.ベルクレック・チャルバンチャイ
1970年10月22日 WBA世界フライ級タイトルマッチ

大場政夫・最強の刺客を迎えて予想不利!

2021-06-30
花形 進 (横浜協栄)選手との日本人対決を制すると同時に、3度目の防衛達成、若き日の借りを返した大場選手。

4度目の防衛戦は、”最高の刺客”オーランド・アモレス(パナマ)を迎えて行なわれる事になった。

「最強の相手を選ぶのは、チャンピオンの宿命ではありませんか」

これはチャンピオンとしてのプライドだと説明した長野マネジャー。

パナマの黒ヒョウと異名されたアモレス。戦績28勝(19KO)1敗。

バスケスは、毒グモだ。(~~)
試合は昭和47年(1972年)6月20日、日大講堂で行なわれた。
試合開始早々、アモレスの左フックで大場選手ダウン。会場は静まり返る。前途多難なスタート。
3、4回と激しい打撃戦の中で激しいバッティング。額から流血のチャンピオン。
迎えた5回、右ストレートからチャンスを掴んだ大場選手は怒涛の連打。アモレスはマットに深々と沈んだ。

ラッシュ、ラッシュといえば、F原田であります。

2020-11-30
Facebook佐々木信雄さんの投稿

『日本最強のチャンピオン ファイティング原田』世界フライ~バンタム~フェザー級タイトルマッチ

https://youtu.be/g-P52YLkZRI
ファイティング原田氏の栄誉を称え、
リングネームである「ファイティング」は
JBCで欠名扱いで現役選手が名乗る事は現在不可能となっている。

【20th Century Chronicle 1965年(s40)】

◎スポーツ界で快挙 二選

*1965.5.18/ ファイティング原田が、ボクシング世界バンタム級で、日本人初のチャンピオンとなる。

 1965年5月18日、名古屋市愛知県体育館で、プロボクシング世界バンタム級タイトルマッチが行われた。軽量級でも最強のボクサーが集まるとされた「黄金のバンタム」で、50戦無敗の王者エデル・ジョフレ(ブラジル)の9度目の防衛戦に、元世界フライ級王者ファイティング原田が挑戦した。試合は、ジョフレが圧倒的有利と予想されていたが、2-1の僅差の判定で原田が勝利するという番狂わせが生れた。
  

 ファイティング原田は、1962年10月10日、19歳で世界フライ級王座に初挑戦し、当時の世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に激しい連打を浴びせ、11Rノックアウト勝ちをおさめた。1952年の白井義男以来、10年目の世界チャンピオンだったが、3ヵ月後のポーンとのリターンマッチで、減量に苦しんで判定で敗れた。
  

 バンタム級に転向した原田は、1963年9月、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦する。5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開だったが、6R、メデルに一瞬の隙をついたカウンターをヒットされ、3度のダウンの末にKO負けした。しかし原田はすぐに再起し、1964年10月、ライバルの東洋王者青木勝利に3R KO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権をつかんだのだった。
  

 ファイティング原田のラッシングパワーは、当時テレビジョンの普及とともにブームを迎えつつあったプロボクシングを、一挙に人気スポーツに押し上げた。と同時に、日本のプロボクシング界を世界レベルに引き上げ、次々と原田に続いて世界に挑戦する選手を生み出した。
 
  

*1965.10.-/ 南海ホークス野村克也捕手が、戦後初の三冠王に輝く。

 野村克也は名監督としても名を馳せているが、現役時代の生涯記録はざっと挙げても、2901安打(歴代3位)・657本塁打(歴代2位)・1988打点(歴代2位)・ 3017試合(歴代1位)・11970打席(歴代1位)とすごいものが並ぶ。さらにこの年、戦後二リーグ制になって初の三冠王に輝いた。
  

 1962年、当時シーズン最多本塁打52本を記録するも、翌年、王貞治が55本を打ってあっさり抜かれる。三冠王も、王が73・74年と連続獲得してその栄光は後退、ずっと更新し続けてきた通算最多本塁打・最多打点なども、ことごとく王に抜かれて歴代二位にあまんじることとなる。
  

 記録面では王に立ちはだかられたが、それ以上にライバル心を焚き付けられた相手は、「記録より記憶に残る男」長嶋茂雄であった。京都府北部の寒村に生まれ育ち、甲子園には無縁な無名公立高校を出て、テスト生として辛うじてプロ野球選手に潜り込んだ野村にとって、東京六大学のスター選手として華々しく巨人に入団、いきなり本塁打王と打点王の二冠を獲得して新人王、そんな長島はまばゆいばかりの存在であった。
  

 野村が節目の600号本塁打を達成したときの観客は七千人程度、その時のインタビューで、長嶋ら(王も含めて)をヒマワリにたとえ、そして自らをひと目につかずひっそりと咲く月見草に擬したのであった。
  

(この年の出来事)
*1965.2.10/ 社会党の岡田春夫が衆議院予算委員会で、防衛庁統幕会議の極秘文書(三矢研究)を暴露し、政府を追及。
*1965.3.6/ 山陽特殊製鋼が、負債総額500億円を抱え、会社更生法の適用を申請する。(戦後最大の倒産)
*1965.3.20/ 河野一郎国務大臣から、記録性に欠けると批判された市川崑監督「東京オリンピック」が公開され、大ヒットとなる。
*1965.4.23/ 吹原産業の吹原弘宣社長が、三菱銀行から30億円の通知預金証書を搾取したかどで逮捕される。(吹原産業事件)
*1965.6.12/ 新潟大学の植木幸明教授らが、阿賀野川流域で水俣病に似た有機水銀中毒患者が発生していると発表する。(第2水俣病)
*1965.10.21/ 朝永振一郎博士が、ノーベル物理学賞を受賞決定。
 *1965.11.8/ 日本テレビ(NTV)が、ナイトショー「11PM」の放映を開始する。

【 ボクシング編 】

井上尚弥の最も衝撃的な瞬間!

2021-07-06

井上尚弥ラスベガス防衛戦2 2021年6月20日

2021-06-30
【~WBA_IBF世界バンタム級タイトルマッチ:井上尚弥×マイケル_ダスマリナス~】



井上尚弥 衝撃の3回TKO 1回に勝利確信「弱気な姿勢も見えた。こんなもんかと」

2021-06-21
スポーツニッポン新聞社 2021/06/20 14:48
© スポーツニッポン新聞社 ダスマリナス下し、2本のベルトを肩にかける井上尚弥(AP)

プロボクシングWBA&IBF世界バンタム級タイトルマッチ12回戦は19日(日本時間20日)、米ネバダ州ラスベガスのヴァージン・ホテルズ・ラスベガスで行われ、統一王者・井上尚弥(28=大橋)がIBF1位の指名挑戦者マイケル・ダスマリナス(28=フィリピン)に3回2分45秒TKO勝ち。WBA5度目、IBF3度目の防衛に成功した。

 井上は「第1Rの相手の出方見て、相手の出方次第ですけど早い回でいけるのかなと確信を持てました」と序盤で確信をつかんだことを明かした。ダスマリナスについては「思ったより出てこなかった印象なので。わりと自分のやりやすいペースで進められたのかなと思います」と振り返った。

 中継のスタジオゲストでWBA世界ミドル級スーパー王者の村田諒太(34、帝拳)からも「1ラウンド目のファーストコンタクト、ジャブに対して左フック合わせた瞬間に勝つと思いました?」と聞かれ、井上は「読めたかなと。相手のちょっと弱気な姿勢も見えたのでこんなもんかという感じがありました」と語った。

 リングサイドではWBC王者ドネア、WBO王者カシメロが観戦。井上は「今回は相手うんぬんというよりラスベガスの期待感と、ドネア、カシメロが見に来ている中でどう自分を出し切るかというのが一番の課題だった」。試合は「80点くらい」と自己分析。「少し足の運びがいまいちだなというところもあったので、やりながら感覚をつかみたいと思います」とさらなる進化を誓った。

 さらに「自分の中の位置づけは4団体統一に向けてということで挑んだ試合なので勝ったことのうれしさはありますが、手を挙げて喜んでいられるステージではない。この後にドネア、カシメロの勝者と戦う方向に向けてより精進したい」と先を見据えた。

ダスマリナス「息できなかった」尚弥の強烈パンチに白旗

2021-06-21
「ナオヤはとても良い選手。(ボディーは)かわしたり、守ったりができず、インパクトは強烈で息ができなかった」
© スポーツニッポン新聞社 ボディーで3度ダウンを奪われたダスマリナス(AP)
スポーツニッポン新聞社 2021/06/21 05:30

◇WBA&IBF世界バンタム級タイトルマッチ12回戦 〇井上尚弥 KO3回2分45秒 マイケル・ダスマリナス●(2021年6月19日 米ラスベガス)

 左ボディーで3度ダウンを奪われたダスマリナスは「ナオヤはとても良い選手。(ボディーは)かわしたり、守ったりができず、インパクトは強烈で息ができなかった」と白旗。「総合力が高く、スピード、パワーがあり、動きもよく、スキルがあった」と王者を称えた。

 同じフィリピン勢のドネアとカシメロの対戦については「よりコンディションが良い選手が勝つ」とし、その勝者が井上に挑む一戦について「良い試合になるはずで、(井上に対して)勝つチャンスがあるかもしれません」と予想した。

井上尚弥が防衛成功!ダスマリナスを3回TKO バンタム4団体統一へ前進

2021-06-20
日刊スポーツ新聞社 2021/06/20 18:39
© 日刊スポーツ新聞社 ダスマリナスを攻める井上尚弥(AP)

<ボクシング:WBAスーパー、IBF世界バンタム級タイトルマッチ12回戦>◇19日(日本時間20日)◇米ネバダ州ラスベガス

WBAスーパー、IBF世界バンタム級王者井上尚弥(28=大橋)が防衛(WBA5度目、IBF3度目)に成功した。

IBF同級1位マイケル・ダスマリナス(28=フィリピン)を3回TKOで倒し、日本人初となる2戦連続の「聖地」防衛に成功した。

WBC同級王者ノニト・ドネア(38=フィリピン)ら他団体の対抗王者が見守る中、ラスベガスのリングで実力をアピールした。目標に掲げるバンタム級4団体統一へ、大きなステップを踏んだ。

  ◇   ◇

全米生中継、ラスベガスでは自身初の有観客興行という舞台で、井上が白星をつかんだ。日本人初となる2戦連続「聖地」防衛に成功。「試合当日の自分がどのようなパフォーマンスをするのか、ラスベガスにどんな試合をみせられるのか。自分でも楽しみ」。神経質になり、緊張しても良い環境であっても、井上は愛称「モンスター」らしくファイトした。

昨年10月のジェーソン・モロニー(オーストラリア)戦で初めてラスベガスに進出した。米プロモート大手トップランク社と契約後初試合で7回KO勝ちを収めた試合内容は大きな評価を受けた。「間違いなく彼は世界で最高のファイター。誰もが彼のようにはなれない」と絶賛していた同社ボブ・アラムCEOが試合前会見でも「モンスターが米国に戻ってきた」と手放しで歓迎。試合1週間前からラスベガスの掲示板は井上-ダスマリナス戦のPRが増え、中継局の米ESPNでは連日、ゴールデンタイムに井上を特集番組が放送された。

井上は言う。「もうプロモーションを含め、かなり期待を感じるので、その期待を裏切らないように、出せるものすべて出して、しっかりと勝ちにつなげたいです」。所属ジムの大橋秀行会長(56)は「米国での対応、評判が前回に比べものにならないぐらい(高い)。本人も比較していて、良い意味でかなり気合が入っている」と口調を強めていた。期待を力に変え、海外オッズでも優位の井上が確実に「聖地」で勝利を手にした。

◆井上尚弥(いのうえ・なおや)1993年(平5)4月10日、神奈川・座間市生まれ。元アマ選手の父真吾さんの影響で小学1年から競技を開始。相模原青陵高時代にアマ7冠。12年7月にプロ転向。国内最速(当時)6戦目で世界王座(WBC世界ライトフライ級)奪取。14年12月にWBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、史上最速(当時)の8戦目で2階級制覇。18年5月にWBA世界バンタム級王座を獲得し、国内最速(当時)の16戦目で3階級制覇。19年5月にWBA、IBF世界バンタム級王者に。同年11月、WBSSバンタム級トーナメント優勝。家族は夫人と1男2女。164・5センチの右ボクサーファイター。

◆世界主要4団体統一王者 過去6人誕生している。世界主要4団体となって以降、04年にバーナード・ホプキンズ(ミドル級)、05年にジャーメイン・テイラー(ミドル級)、17年にテレンス・クロフォード(スーパーライト級=すべて米国)、18年にオレクサンドル・ウシク(クルーザー級=ウクライナ)、20年にテオフィモ・ロペス(ライト級=米国)が達成。そして、階級最強トーナメントのWBSSスーパーライト級覇者ジョシュ・テイラー(英国)が5月23日、ホセ・カルロス・ラミレス(米国)との4団体統一戦を制し、史上6人目の統一王者になった。

【 オールラウンド編 】(アーカイブス)

中野浩一 伝説

2021-08-04

1964年東京オリンピックの体操競技

2021-08-03

女子団体ではソビエト連邦が4連覇を達成した。
2位にはチェコスロバキアが入り、3位は日本となり日本女子団体初のメダル獲得となった。
女子個人総合では、ソビエト連邦のラリサ・ラチニナチェコスロバキアベラ・チャスラフスカ一騎討ちとなった。
優勝したチャスラフスカの優美な演技は「オリンピックの名花」と讃えられ、絶大な人気を博した。

アントン・ヘーシンク 日本柔道に立ち塞がったオランダの巨人

2021-07-31
1964年東京大会柔道無差別級決勝のヘーシンク

「柔道(講道館柔道)」は、現在世界中で行われているスポーツ競技となっているが、その発展段階では、紆余曲折もあった。国内のスポーツ競技統括団体としての全日本柔道連盟は1949年に設立。柔道が次第に世界に広まっていくにつれ、本家の日本と世界との間には徐々に軋轢が生じていた。事実、1951年に欧州柔道連盟が改組され国際柔道連盟が設立された時点では日本は加盟しておらず、加盟は翌年となった。

1956年に東京で開催された第1回世界選手権は、無差別級のみで行われ日本人選手が制した。1958年の第2回も東京で開催され同様に日本人選手が優勝したが、1961年にパリで開催された第3回大会は、オランダのアントン・ヘーシンクが、日本代表の3選手を次々に撃破し、外国人選手として初めての優勝を飾る。これに先立つ1959年のIOC総会で、1964年東京オリンピックの正式競技として柔道を導入することが決定されていたが、ヘーシンクに敗れたこの時から柔道の本家日本の「打倒ヘーシンク」への本格的な動きが始まった。

東京オリンピックの柔道は、軽量級、中量級、重量級、無差別級の4種目が実施された。結果は軽、中、重量各級では順当に日本人選手が金メダルを獲得したが、無差別級では本家の期待を一身に背負った神永昭夫が、決勝でヘーシンクに敗れた。日本の柔道が世界のJUDOになった瞬間であった。オリンピックでの正式種目としての実施、そしてヘーシンクが日本人選手を破って金メダルを獲得したこと、この2つの事実が重なったことがその後の柔道国際化の嚆矢となったのは間違いない。
もし無差別級でも神永が勝ち、4種目を日本が独占していたならば、国際化の動きは鈍っていたのではないかといわれている。

決勝で神永を抑え込む

2021-07-31
ヘーシンクの勝利の瞬間、オランダの関係者が狂気乱舞して畳の上に駈け上がり母国の英雄に抱きつこうとしたのを、ヘーシンクは押さえこみの体勢のまま右手を挙げ制したのだ。

オランダの巨人アントン・へーシンクの足跡を辿ってみよう。
ヘーシンクは1934年4月にオランダ第4の都市、首都アムステルダムの30km南に位置するユトレヒトで生まれた。父は運河の小さな船の船乗りという貧しい家に育ち、12歳の時から建築現場で働いていた。14歳で地元の柔道教室に通い始めたが、1955年20歳の時にオランダ柔道連盟の招きで指導に訪れていた道上伯との運命的な出会いを果たす。

198cmの長身、85kgの体重、手足が長く、技にスピード感のあるヘーシンクに道上の目がとまった。指導次第では伸びるという直感が働いたのである。道上とへーシンクの関係は、眞神博の労作「ヘーシンクを育てた男」(文藝春秋/2002年)に詳しく紹介されている。
道上は1912年に愛媛県八幡浜で生まれている。14歳で柔道を始め、すぐに頭角を現し昇段試験を受け合格したがあまりに若いということで免状が発行されず、翌年15歳になるのを待って正式に初段を取得したというエピソードが残っている。

道上の父や長兄がアメリカへ渡り事業で成功していたこともあり、道上もアメリカ渡航を企てたが途中で頓挫し、八幡浜へ戻ってまた柔道にのめり込み、19歳で三段に昇格。武道専門学校で学んだ後、高知高校、上海東亜同文書院で教員を務め終戦を迎える。
戦後すでに七段になっていた道上に転機が訪れるのは1953年のことである。
フランス柔道連盟から指導者としての招聘を受けたのだ。
道上はその誘いに呼応しフランスに渡った。はじめは1年間の契約であったが、滞在は長期に渡ることになり、父の死にも立ち会うことができなかった。そして、フランスから指導に行ったオランダでヘーシンクと遭遇したのである。

道上がオランダを訪れるのは2カ月に一度で、20日間程度滞在したが、この間ヘーシンクを徹底的に指導した。柔道の指導はもちろん、サッカー、レスリング、水泳、ランニングも行い、さらに当時は珍しかったバーベル等を使ったウエイトトレーニングも取り入れ、頑強な身体を作り上げていった。その甲斐あって、ヘーシンクはヨーロッパでは無敵の存在としてその名を知られるようになる。

ヘーシンクが最初に日本を訪れたのは、1956年の第1回世界選手権に出場するためである。この時は準決勝で吉松吉彦七段に敗れている。続く1958年の第2回大会にも来日したが、この大会でも準々決勝で山鋪公義六段に敗れた。第3回大会は1961年末にパリで開催されることになっていたが、ヘーシンクはその年の1月に来日し、2カ月間滞在、講道館や警視庁で練習を積んだ。そして迎えた第3回パリ大会では、前述の通りヘーシンクが初の世界一に輝いたのだ。
この瞬間、道上はオランダの柔道関係者により抱えられて試合場に押し上げられ、駆けよってきたヘーシンクに握手され至上の喜びを味わっている。

世界選手権で優勝し帰国したヘーシンクを待っていたのは熱狂的な歓迎の嵐であった。オランダ政府は由緒ある「オレンジ・ナッソー勲章」を彼に与えその功績を讃えた。ヘーシンクはすでに故郷ユトレヒトに小さな柔道場を有していたが、石油メジャー企業からの援助により新たに大規模な道場が建設され、ヘーシンクは道場主に収まるとともに、デラックスなガソリンスタンドも併設されその経営も任された。道場に面した通りは「ヘーシンク通り」と名付けられた。道上・ヘーシンク師弟の次なる目標は当然のことながら、3年後の東京オリンピックでの金メダル獲得であり、新たな研さんの日々が続いた。

1964年東京大会の柔道で日本チームは、無差別級に出場するヘーシンクに、前回の世界選手権ですでに対戦している神永昭夫を当てるか、まだ一度も対戦していない猪熊功をぶつけるかで大いに悩んだ。天理大学でヘーシンクを指導した経験のある日本チームの松本安市監督は、重量級に猪熊、無差別級に神永を出場させることに決定。日本人の間では、地元日本でのオリンピックで神永がヘーシンクに雪辱し、覇権を奪還することに期待が膨らんだ。


決勝当日、日本武道館には1万5000人の大観衆が詰めかけ、世紀の大一番を見守った。無差別級には9カ国9人しかエントリーがなかったために変則的な方式が採用された。その予選リーグでいきなり神永対ヘーシンク戦が実現し、ヘーシンクが優勢勝ち。神永は敗者復活戦に回ったが、決勝で両雄が再び合いまみえることになった。

試合は一進一退を繰り返したが、開始8分過ぎにヘーシンクが一瞬のすきをついて得意の寝技で神永を抑え込み、そのまま一本勝ちとなった。それまでの軽、中、重量級で日本は3つの金メダルを獲得していたが、無差別級の覇者こそ真の王者であると思われていただけに、この結果はやはり日本の柔道が世界に敗れたことを意味した。

落胆している日本の観客の前で、もう一つの印象的な光景が繰り広げられた。ヘーシンクの勝利の瞬間、オランダの関係者が狂気乱舞して畳の上に駈け上がり母国の英雄に抱きつこうとしたのを、ヘーシンクは押さえこみの体勢のまま右手を挙げ制したのだ。この行為は、「礼にはじまり礼に終わる」という柔道の精神を具現化する行為として現在でも高く評価されている。

最上階には、回転ラウンジがありました。

2021-07-29
東京オリンピックの来日客に日本が誇る富士山を見せたいという理念の体現
Facebook ホテルニューオータニさん曰く
1964年のホテル開業時に、 東京オリンピックの来日客に日本が誇る富士山を見せたいという理念のもと、世界最大の回転展望ラウンジとしてオープンした「BLUE SKY」(現在はビュッフェダイニング「VIEW & DINING THE SKY」として営業中) 。
国立競技場から迎賓館、富士山までを一望する圧巻の眺望は、今もなお多くのお客さまに愛されています。
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