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あの人 この人

あの人

現実ということについて Fz\acebook宮﨑さとしさんの投稿

2020-10-28
昭和を飾った有名女性歌手の皆さま 現在のご年齢

東宝の花々 京・司・団・星

2020-10-27
Facebook小堀ようこさんの投稿

淡島千景、津島恵子、藤田恭子、水原真知子、岸恵子 

2020-10-26
昭和の美しい水着 Facebook永井由紀夫さんの投稿より
右から淡島千景、津島恵子、藤田恭子、水原真知子、岸恵子 

夫婦善哉

2020-10-23
夫婦漫才から始まりました。

キャンディーズ

2020-10-22
Facebook永井由紀夫さんの投稿

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

曲軒の極まりです。

2020-10-22
曲軒は、山本周五郎の生き方そのものです。
赤ひげの生き方も、また然りでした。

山本周五郎という生き方

2020-10-22

あるとき、と山本周五郎が書いている。

《私は家人の箪笥をあけてみて、自分の躯が唐竹割りにされたようなショックを受けた。彼女の母親から譲られたその古風な箪笥は、五つある抽出の全部がからっぽになっていたのである。(中略)ほんの常着用の物を幾らか残すだけで、きれいさっぱりなくなっていたのである》(「からっぽの箪笥」)

ノーベル賞

2020-10-22
二人の巨人
Facebook佐々木信雄さんの投稿
 湯川英樹は1907(明40)年1月23日、東京麻布で地質学者小川琢治と小雪の三男として生まれるも、すぐに父琢治の京都帝大教授就任に伴い京都市に移住する。京都市立京極小、京都府立一中、三高、京都帝大学理学部と進み、同じくノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎とは、ほぼ同年代で同じコースを歩んだ。

ノーベル賞ということ

2020-10-22
日本人初の快挙でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
【20th Century Chronicle 1935年(s10)】
◎湯川英樹 中間子論を発表
*1935.2.-/ 湯川英樹大阪帝大講師が、のちのノーベル賞受賞につながる中間子論を発表する。
 1934(昭9)年、大阪帝大講師の湯川英樹は中間子理論構想を発表、翌1935(昭10)年2月には『素粒子の相互作用について』を発表し、中間子(π中間子)の存在を理論的に予言した。原子核を構成する陽子と中性子を結合させる、強い相互作用の媒介となる「中間子」が理論的に存在することを示した。
 戦後の1947年になってから、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からπ中間子を発見し、湯川の理論の正しさが実証された。これにより1949年(昭和24年)日本人として初のノーベル賞受賞者となる。湯川のノーベル物理学賞受賞は、戦争で打ちひしがれた日本国民を勇気づける事件となった。
 湯川英樹は1907(明40)年1月23日、東京麻布で地質学者小川琢治と小雪の三男として生まれるも、すぐに父琢治の京都帝大教授就任に伴い京都市に移住する。京都市立京極小、京都府立一中、三高、京都帝大学理学部と進み、同じくノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎とは、ほぼ同年代で同じコースを歩んだ。
 京都帝国大学を卒業後、京都帝大講師、大阪帝大講師として研究を続け、この大阪時代に「中間子論」を発表する。この時期に、湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となって小川姓から湯川姓となる。父小川琢治は地質学者であり、その子供たちも学者兄弟として有名である。長男の小川芳樹は冶金学者、次男の貝塚茂樹は東洋史学者、三男の湯川秀樹は物理学者、四男の小川環樹は中国文学者として、それぞれ名を成している。
 当時は日中戦争中であり、日本人学者は海外から評価されづらい状況だったが、最先端の量子力学研究者らが集まるソルベー会議に招かれ、以後アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つようになった。戦前には徐々に評価されるようになり、戦後のノーベル賞受賞後の1953(昭28)年、京都大学基礎物理学研究所初代所長に就任、京都大学及び日本の理論物理学の発展に尽くした。
 またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」に、当時の第一級の科学者ら11人連名の共同宣言者として名前を連ねた。1981(昭56)年、京都大学退官後も住み続けた京都市左京区の自宅で死去、享年74。
(この年の出来事)
*1935.3.16/ 政権を握ったナチスのヒトラーが、ベルサイユ条約を破棄し、再軍備を宣言する。
*1935.3.21/ 無実を訴え続けていた無期懲役刑の吉田石松が、秋田刑務所を23年ぶりに仮出所。ただちに再審を請求し、「昭和の巌窟王」と呼ばれる。(1963.2.28無罪確定)
*1935.3.-/ 安田与重郎・亀井勝一郎らが「日本浪漫派」を創刊する。
*1935.4.6/ 満州国皇帝溥儀が来日、天皇が東京駅に出迎える。
*1935.9.-/ 第1回芥川賞・直木賞が決定、芥川賞に石川達三「蒼氓」、直木賞に川口松太郎「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」が選ばれる。

のらくろ

2020-10-17
1931.1.-/ 田河水泡の漫画『のらくろ二等卒』の『少年倶楽部』への連載が開始される。人気を博し、以後連載は10年9ヵ月続く。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1931年(s6)】
◎「のらくろ二等卒」
*1931.1.-/ 田河水泡の漫画『のらくろ二等卒』の『少年倶楽部』への連載が開始される。人気を博し、以後連載は10年9ヵ月続く。
 講談社「少年倶楽部」にて1931年から連載が始まる。当時の少年雑誌は「読物(少年小説)」が主流だったが、人気小説を連載中の人気作家佐藤紅緑のアドバイスなどから漫画を掲載するようになったという。それまで漫画は「ポンチ絵」と呼ばれて、時事的な問題の風刺画が主であった。時期的には、現在のようなコマ割りや吹き出しという形式は登場し始めたころだった。
 文筆家志望で落語作家などを手掛けていた田河水泡は、自らの軍隊経験、たまたま飼い出した犬などから、物語性のある「のらくろ」の連載につながっていった。戦前の漫画としては稀有な長期連載となり、太平洋戦争の始まる直前に編集長判断で打ち切りになった。内務省筋から、時節柄、漫画というふざけたものの掲載を許さないという通知があったからだという。
 当初は、志願兵でドジばかりしながら、後半は少し手柄を挙げて2年満期で除隊という構想だったが、人気沸騰のため継続連載となる。最初は四足で歩く犬として描かれたが、昇進するにつれて擬人化され見慣れた「のらくろ」となってゆく。階級も、二等卒(二等兵)だったが徐々に階級を上げ、最終的に大尉まで昇進する。予定では、少佐に昇進させるつもりだったが、軍からさすがに佐官はだめだと苦情があり、やむを得ず大尉で除隊させたとされている。
 田河水泡は戦後も長く活躍し、平成元年90歳で没した。そのため単行本、全集版、様々な職業の外伝、戦後新シリーズなど多岐ににわたり、その姿の変遷や軍隊の位も変更されているものが多い。1930年代の子供雑誌には、『のらくろ』や『冒険ダン吉』『タンクタンクロー』などの人気漫画が連載され評判を呼んだ。
 一方でこの時期、「絵物語」というジャンルが成立した。これは紙芝居から発展したもので、戦後の劇画などにもつながる。大分割された紙面で、絵と文字の説明部分が同じ程度のスペースを占めたものが基本で、文字部分が多く物語表現に適し、絵も漫画よりリアルな表現であった。軍部の検閲を意識して、軟弱とみられた漫画から絵物語に形式を変えたものもみられた。
 紙芝居の大ヒット作『黄金バット』や『少年ケニヤ』が絵物語として連載され、『冒険ダン吉』『タンクタンクロー』などは、当初の絵物語がのちにコマ割りされ漫画となった。私自身、昭和30年前後の少年雑誌にはまった世代だが、『少年ケニヤ』は絵物語、『冒険ダン吉』や『タンクタンクロー』は漫画化されたものを読んだ記憶がある。
(この年の出来事)
*1931.3.6/ 右翼団体「桜会」の橋本欣五郎と民間右翼の大川周明が、軍部政権樹立のクーデターを計画、未遂に終わる(3月事件)。
*1931.10.17/ 参謀本部の橋本欣五郎中佐ら「桜会」による軍部内閣樹立クーデターが未然に発覚、陸軍将校らが検挙される(10月事件)。
*1931.10.31/ 東京朝日新聞が、北海道・東北の大凶作・飢饉を報じる。
*1931.11.10/ 天津で日中両軍が衝突するなか、旧清朝の宣統帝溥儀が、日本軍の手引きで大連へ脱出する。
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