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あの人 この人

あの人

このコンビから、ブームに火がつきました。

2021-10-22
・花組公演 ・開催時期:1975/07/03~1975/08/12 ・開催場所:宝塚大劇場 ポスター出演者:安奈淳,榛名由梨

【昭和レトロなジャニーズ】

2021-10-22
ジャニーズ1964 あおい輝彦 飯野おさみ 真家宏満 中谷良
Facebook 浅見俊彦 曰く
フォーリーブス1968 北公次 青山孝史 江木俊夫 おりも政夫

Sayoko Yamaguchi for Shiseido (Linea Italiana 1975)

2021-10-20
Facebook 永井 資久さん曰く、 https://kitsunetsuki.tumblr.com/.../sayoko-yamaguchi-for...

Facebook 石田えり

2021-10-19
プロフィール写真です。

昭和42年に公開された「007は二度死ぬ」のボンドガールになった浜美枝さん。

2021-10-19
すごくエキゾティックな顔つきでプロポーションも日本人離れしていましたから、ショーン・コネリーと並んでも全く違和感がなかったです。
Facebook Akira Karoさん曰く、東宝入社前はバスの車掌さんだったとか、

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

今日はクリスチャン・ディオールの命日らしい。

2021-10-24
Facebook 永井資久さん曰く
今日はクリスチャン・ディオールの命日らしい。
(Christian Dior, 1905年1月21日 - 1957年10月24日)1950年代に活躍したフランスのファッションデザイナーである。彼が創立したファッションブランドも「クリスチャン・ディオール」もしくは「ディオール」と呼ばれる。イタリア・モンテカティーニにて52歳で心臓麻痺で死去。。。とある。
現在もブランド「ディオール」は健在で多くのフアンに支持されている。彼はかつて建築家を夢見ていたらしい。そんな彼は数々のドレスやスーツをあたかも布でできた建築物のように生み出してきた。ジュエリーも高貴な構造物として、一点一点大切に仕上げられていく。オートクチュールとハイジュエリーというふたつの世界観が織り成す麗しい建築物として完成させている。
クリスチャンに敬意と感謝を込めて。。。。合掌。
(以下、ウィキペディアより抜粋)
生涯
1905年、クリスチャン・ディオールはフランス北西部ノルマンディーマンシュ県・グランヴィルで実業家の家庭に生まれた。
1920年から1925年12月までフランスのパリ政治学院に学ぶ。彼の両親の願望に応じて外交官になる望みがあったが、ディオールは芸術に強い興味を持っていた。
1928年に彼が小さなアートギャラリーを親からの出資で持ち、パブロ・ピカソやマックス・ジャコブなどの絵を置いた。だが、家庭の財政的な問題により2年でギャラリーを閉鎖する事になる。
1930年代に、ディオールはオートクチュールハウスのためにスケッチデザインをやることによって、生計を立てた。
1938年に、彼はロバート・ピゲと仕事をして、後にリュシアン・ルロンのファッションハウスのデザイナーとして仕事に加わった。そこで、ディオールとピエール・バルマンは主要なデザイナ-であった。
1945年、ディオールは彼自身で事業を始めた。ディオールのファッションハウスは1946年12月マルセル・ブサック(綿のファブリック王)の援助もありパリ、アヴェニュー・モンテーニュ30番地に設立された。
1947年2月には最初のファッションショーを開催。この1947年の春夏コレクションにディオールが採用したラインが、いわゆる「ニュールック」である。これはアラビア数字の8にも似た、細く絞ったウェストとゆったりしたフレアスカートを特徴とするもので、戦時中の資材不足によりフランスのクチュリエたちが1着の服に使える布の面積に厳しい制限を抱えていたのに対し、贅沢に布を使用した点にも特徴を持っていた。『ハーパース・バザー』誌の編集長であったカーメル・スノウはこのコレクションに衝撃を受け、「ニュールック」と呼んだ。
戦後のファッションの指針を示したディオールは47年から57年までの11年間、パリのオートクチュール界の頂点に君臨する。彼は毎シーズン、ラインというテーマに沿って作品を発表した。
略歴
1946年12月にマルセル・ブサック(綿のファブリック王Marcel Boussac)の援助もあり、クリスチャン・ディオール・オートクチュールのメゾンが設立される。
1947年 - 「S/Sコレクション」でパリにデビュー。「8ライン(別名コロール・ライン、いわゆるニュールック)」(ペチコートで膨らませた曲線を強調したゆったりなだらかな肩に細く絞ったウエスト、くるぶしまであるロングスカートというスタイル)最初のコレクションを発表する。
1948年 - 香水部門の会社「パルファン・クリスチャン・ディオール」を設立。アメリカでライセンス生産を開始。ファションでは「ジグザグ・ライン」を発表
1950年 - 「パーティカル・ライン」発表。
1951年 - 「オーバル・ライン」発表。
1952年 - 「シニュアス・ライン」発表。
1953年 - 「チューリップ・ライン」発表。
1954年 - 「Hライン」発表。
1955年 - 「Aライン」、「Yライン」発表。
1956年 - 「アロー・ライン」発表。

#ありがとう山中さん #お疲れ様でした

2021-10-24
Facebook 読売ジャイアンツさん曰く
#読売巨人軍 の場内放送係の #山中美和子 さんが、23日に #東京ドーム で行われた #ヤクルト 戦で #ウグイス嬢 を務め、45年間務めてきた場内アナウンス生活を終えました。

フランソワ・ロラン・トリュフォー

2021-10-21
Facebook 永井資久さん曰く
今日はフランソワ・ロラン・トリュフォーの命日らしい。
(François Roland Truffaut、1932年2月6日 - 1984年10月21日)
フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人。映画作家・理論家のアレクサンドル・アストリュックがトリュフォーを「愛のシネアスト(cinéaste)」と定義した。
1984年10月21日、52歳で脳腫瘍にて死去。フランスに留まらぬ世界各国の映画関係者が集う盛大な葬儀が執り行われたが、若かりし頃まるで兄弟ででもあるかのように協力し合って映画を創り上げたゴダールだけは、葬儀にも訪れず、追悼文を著すこともなかった。しかし、のちにゴダールは、死後4年経った1988年に出版されたトリュフォー書簡集に、彼からの手紙を提供した。それは、激しくゴダールを罵倒する語調のものであったが、あらたに書き下ろした序文をこうしめくくっている。「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」。。。とある。
トリュフォーと言えば「大人は判ってくれない」かな、不幸な少年時代を送り、やがて映画と出会いが彼の人生を大きく変えたのだろう。彼が人生の全てを映画に捧げて作られた作品は、まるで自分自身でもあり、フランス映画を語るうえで欠かせないものばかり。華氏451も面白かった。
愛のシネアスト、トリュフォーに敬意を込めて。。。。合掌。
(以下、Wikipediaより抜粋)
生涯
パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるような、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し、映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」初代編集長(1951年 - 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬ(1958年)まで親子同然の生活を送る。バザンの勧めにより映画評論を著すようになり、「カイエ・デュ・シネマ」を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を書きまくる。とくに「カイエ」1954年1月号に掲載された『フランス映画のある種の傾向』という一文の厳しい論調故に、当時は「フランス映画の墓掘り人」などと揶揄された。
最初の短編映画を発表したのち、1956年、ロベルト・ロッセリーニの助監督となる。翌1957年、配給会社の社長令嬢と最初の結婚をする。同年、製作会社レ・フィルム・デュ・キャロッス社を設立、2作目の短編映画(『あこがれ』)を演出し、翌1958年公開。1959年、キャロッス社とSEDIF(義父の会社コシノールの子会社)の共同製作による処女長編『大人は判ってくれない』を監督し、大ヒット。トリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高らしめることとなった。トリュフォー自身の体験談を下敷きにして作られた『大人は判ってくれない』は、その後ジャン=ピエール・レオ演ずるアントワーヌ・ドワネルを主人公とする「アントワーヌ・ドワネルの冒険」としてシリーズ化され、『逃げ去る恋』(1978年) に至るまで合計5本制作された。このとき出逢った映画会社マルソー=コシノール当時のマネジャーマルセル・ベルベールは、キャロッス社の大番頭的存在となり、またトリュフォー作品にカメオ出演し続けることになる。
1968年のカンヌ国際映画祭においてはコンテストの必要性の有無を巡って大論争が巻き起こり、トリュフォーはカンヌ国際映画祭粉砕を主張して最も過激な論陣を張った。しかし、この出来事を一つのきっかけに、盟友であったジャン=リュック・ゴダールとの決別を始めとしてヌーヴェルヴァーグの面々と疎遠になり、映画の作風も古典的、正統的な落ち着きを見せ始める。恋愛しか題材として取り扱わないことを含め、若い批評家たちからは「トリュフォーは自分がその地位につくために、ジュリアン・デュヴィヴィエやクロード・オータン=ララ等の古い大作家たちを批判し貶めたのだ」と批判されたが、トリュフォーは「暴力は嫌いだから戦争映画や西部劇は作りたくないし、政治にも興味はないから自分には恋愛映画しか作れない」と一向に意に介することはなかったという。
フランス映画の父として慕い尊敬していたジャン・ルノワールがアメリカで失意の底に沈んでいることを聞きつけ、幾度もアメリカに渡って勇気づけ、ルノワールの死に至るまで両者は親子同然の関係を持ち続けた。また、自分自身の分身を演じ続けたジャン=ピエール・レオに対しても息子同然の扱いをしていたという。その一方でトリュフォー自身は事実上父親を持たず、結婚と離婚を繰り返して安寧な家庭を持てなかった。

卒業生の森山眞弓さんがお亡くなりになった。

2021-10-20
Facebook 津田塾大学 - Tsuda Universityさん曰く
森山真弓さん死去 女性初の官房長官
卒業生の森山眞弓さんがお亡くなりになったことが新聞各紙で報じられています。

 選挙区であった栃木の下野新聞では、『「女性初の」との形容詞がこれほど多い政治家は他に知らない。中でも内閣の要である官房長官は今もって森山さんただ一人である。』と紹介しています。 

【横森 良造】

2021-10-20
Facebook まつたけ しんや さん曰く
【横森 良造】
日本を代表するアコーディオン奏者。昭和のバラエティや歌番組で活躍。「スター誕生!」「NHKのど自慢」等に出演。歌が上手でない人にも上手に優しく演奏を合わせてくれたが、「お笑い頭の体操」の月の家 圓鏡にだけは手こずっていた。

時機相応について  時代と人

角川映画「人間の証明」

2021-07-19
Facebook 中園淳一郎さん曰く、母さん、僕のあの帽子,どうしたんでせうね? ええ,夏,碓氷から霧積へゆくみちで, 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
人間の証明 テーマ曲 ジョー山中

Metamorphosis of Elizabeth Taylor In Memoriam: Elizabeth Taylor (February 27, 1932 - March 23, 2011)

2021-07-14
Facebook Slideshow "Metamorphosis"さん曰く

松竹撮影所での豪華メンバー

2021-07-11
Facebook 石山 裕子さん曰く
左から 倍賞千恵子 船越一郎 浅丘ルリ子 渥美清 下條正巳

「パネルクイズ アタック25」、この秋で終了です。

2021-07-03
初代司会者/児玉清逝きて、早10年・・・。
アタック25 芸能人大会 ~児玉清さんと博多華丸さん夢の競演~

昭和の怪優、天本英世

2021-07-03
Facebook 唐沢俊一さん曰く



昭和の怪優、天本英世。1926(大正15/昭和元)年生まれ。1945(昭和20)年、19歳のとき学徒出陣で徴兵されるが、その年に終戦。短い軍人生活だったが、よほど軍隊が性に合わなかったと見え、徹底的な反戦・反国家主義者となる。復員後、東大法学部に入学するがここも居心地が悪かったらしく、「乞食になる」と宣言して中退、俳優座で舞台役者になった(ここらへんよくわからないw)。当時の劇団パンフレットにすでに「特異な個性の持ち主」と書かれており、この形容は天本に終生つきまとう。
1954(昭和29)年に松竹映画『二十四の瞳』で高峰秀子の夫役で出演、映画がヒットしたためたちまち知名度が上がり、当時は二枚目だったこともあって、街を歩くと女学生たちがぞろぞろ後をついてきたという。
1958(昭和33)年に東宝と専属契約、ことに岡本喜八監督に気に入られ(岸田森と同じ)、岡本の『暗黒街』シリーズで黒づくめの殺し屋を演じ評判となる。1967(昭和42)年には岡本の『殺人狂時代』、本多猪四郎の『キングコングの逆襲』でそれぞれマッド・サイエンティスト役を印象的に演じて、これ以降の天本の持ち役となった。
そのマッド・サイエンティスト演技の集大成が1972(昭和47)年に東映が制作したテレビドラマ『仮面ライダー』のショッカー幹部・死神博士で、初出演時にプロデューサーの平山亨が控室を訪ね、「こんな化け物のような役ですいません」と謝ったところ、天本は「僕はこういう役をやらせればボリス・カーロフの上を行きますから」と自信満々に答えたという。果然、死神博士は天本の代名詞にもなり、NHKの『日曜美術館』にゲスト出演した際も女性アナウンサーに「『仮面ライダー』の死神博士、と言った方がわかりやすいかも知れませんが」と紹介され、苦笑していた。
このときのゲスト出演もそれがらみだったが、晩年の天本のイメージはスペインの詩人・ロルカの詩の原語朗読者としてであり、このスペイン語は独学で身につけたもの。椅子に座って片腕を宙にのばし、陶酔しているかのようにスペイン語を滔々と語る独特のスタイルはタモリが形態模写をするほど印象の強いものだったが、なにしろ50歳を越してからの独学の語学だったため、かなり癖の強いスペイン語で、語学の専門家からは苦言を呈されることもあったらしい。
趣味はスペインの他は野球観戦で、反権力者らしくアンチ巨人。楽屋のテレビで試合を見ながら「それっ、やっちゃえ、打ち取れ!」と興奮しながら応援している姿は死神博士のイメージからはほど遠く、楽屋を訪ねたファンを唖然とさせたという。2003(平成15)年没。

ちょっと気になる歌・唄・音

色づく街 南 沙織

2021-10-15

タモリ(1978)

2021-09-25

SEPTEMBER  竹内まりや  1980

2021-09-20

花の時・愛の時 前川清 40周年記念コンサートより

2021-08-18

吉田正 生誕100周年

2021-08-15
「寒い朝」

寒い朝 ☆ 吉永小百合 (サウンド・トラック)

吉永小百合/「寒い朝」  /マヒナスターズ

「面影 渡り鳥」

あの時、この時

1987年 鈴鹿サーキット初のF1日本グランプリが開催

2021-10-08
Facebook 湊 二三夫さん曰く、F1ブームが始まった。
当時は給油が無くフルタンクで走るので、底を擦って火花がバチバチでした。

岸田文雄氏が新総裁選出、第100代首相へ 決選投票で河野氏を下す

2021-09-29
© 朝日新聞社 自民党総裁選で新総裁に選ばれ、あいさつをする岸田文雄氏(中央)
=2021年9月29日午後3時16分、東京都港区、上田幸一撮影
岸田氏は第100代首相
自民党総裁選は29日、党本部で投開票され、岸田文雄前政調会長(64)が決選投票で河野太郎行政改革相(58)を破り、第27代総裁に選出された。
10月4日召集の臨時国会で、岸田氏は第100代首相に選ばれる。

『ザ・ベストテン』 昭和55年8月14日のランキングです

2021-09-29
Facebook 杉田耕二 さん曰く
昭和54年4月5日のランキングです

昭和34年発売、ダットサン•ブルーバード。 当時の社長が、青い鳥からの命名だそうです。

2021-09-27
Facebook Kazuhiko Sugiharaさん曰く
当時の社長が、青い鳥からの命名だそうです。

これまでの総理の演説・記者会見など

2021-09-23
HP 首相官邸
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