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ジャン=ポール・ベルモンドさん死去 『勝手にしやがれ』など主演

2021-09-07
© ジャン=ポール・ベルモンドさん(2010年撮影) - Jason LaVeris / FilmMagic / Getty Images
ジャンポール・ベルモンドさん(左)と女優のジーン・セバーグさん=1964年2月(AFP時事)
シネマトゥデイ 2021/09/07 12:01

[パリ 6日 ロイター] - 映画『勝手にしやがれ』などで知られるフランスのスター俳優ジャン=ポール・ベルモンドさんが6日に死去した。88歳だった。仏映画界に新風を起こした「ヌーベルバーグ」運動の代表的存在として人気を博した。

 1933年、パリ近郊のヌイイシュルセーヌに生まれ、パリの国立高等演劇学校で学んだ。ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1960年)ではチンピラ役を演じて世界的なスターダムにのし上がり、『気狂いピエロ』(1965年)などでも高い評価を得た。

 その魅力は皮肉と繊細さ、温かみや無意識の安らぎが生み出す新しいロマンティックとされ、ヌーベルバーグの代表であるフランソワ・トリュフォー氏、アラン・レネ氏、ルイ・マル氏といった監督作品にも起用された。

 自らスタントをこなすことも多かったベルモンドさんはその後、多くのコメディー映画やアクション映画に出演。ただ、芸術作品から商業作品に転向したことについて、才能を無駄にしたという批判も受けた。これについて、本人は「ある俳優が成功すると他人は、努力をせずリスクを取りたくないから楽な道を選んだ、と背を向ける」と反論した。

 マクロン大統領はベルモンドさん死去を受け、フランスが「国の宝」を失ったとツイートした。

 AFP通信などによると、代理人のミシェル・ゴデスト氏はベルモンドさんが自宅で亡くなったと明かし、「フランス中が悲しんでいるようだ」と語った。

市川海老蔵の長女・ぼたん、『二月の勝者』で現代ドラマ初出演 自己採点は「60点です!」

2021-09-07
© 日本テレビ ドラマ『二月の勝者 -絶対合格の教室-』に出演する市川ぼたん
ORICON NEWS 2021/09/07 05:00

歌舞伎俳優・市川海老蔵の長女・市川ぼたん(10)が、10月16日スタートの日本テレビ系連続ドラマ『二月の勝者 -絶対合格の教室-』(毎週土曜 後10:00)に出演することが決定した。柳楽優弥演じるスーパー塾講師・黒木蔵人が校長として着任する、業績不振の中堅受験塾『桜花ゼミナール』吉祥寺校に通う生徒・浅井紫(あさい・ゆかり)役に起用。今年3月に海老蔵主演で放送された時代劇『桶狭間~織田信長 覇王の誕生~』(フジテレビ系)で映像作品に初挑戦したぼたんが、今度は現代ドラマに初出演する。

 今作は累計200万部以上の中学受験の実態をリアルに描いた人気マンガを実写化した人生攻略ドラマ。ぼたん演じる紫は『桜花ゼミナール』に通う小学6年生で、井上真央演じる佐倉麻衣が担任をつとめるRクラスの生徒。先日、役作りのため髪をボブにヘアチェンジし、初日の撮影に臨んだ。

 ぼたんは「学園ドラマに出演するのが初めてで、オファーをいただいたときは『出てみたい!私でいいの?』という気持ちでしたが、すごくうれしかったです」と歓喜。「みなさん優しくしてくださり、ドラマの撮影はこういうものなんだと知り、そこからドラマに出演したいという気持ちが強くなり、今はすごく楽しいです。今朝、出かける前にお父さんからは『楽しんできてね!』と言ってもらいました」と海老蔵の反応も明かした。

 撮影前は「監督さんから『ここ気をつけてね!』と言われたところができるかな、セリフをうまく言えるか、練習していてもすごく不安」と心配していたが終了後、自己採点を聞かれると「60点です!もっと頑張っていきたいと思います!」と意気込み。

 次屋尚プロデューサーは「本ドラマは当初2020年の7月クールで放送予定だったのですが、コロナの影響で今年10月に延期した経緯があります。もし、延期になってなければ、ぼたんさんの出演も無かっただろうと思うと、とても運命的というか劇的な出会いだったんだな、とつくづく感じています。キリッとした聡明さと、幼くも優しさを持ち合わせたぼたんさんの表情は、このドラマを支える大きな魅力のひとつになるに違いありません」と役者・ぼたんについて力説している。

適任です!!

2021-08-28
松平健さん「奉行としてお役に」 高齢者事故撲滅へ愛知県広報大使
© 毎日新聞 提供 「高齢者交通安全広報大使」に任命された松平健さん(左)=県公館で、2021年8月27日午後2時10分、太田敦子撮影

 愛知県は県内交通事故死者の半数以上を占める高齢者に交通安全を呼びかける「広報大使」に豊橋市出身の俳優、松平健さんを任命し、27日に県公館で任命式を行った。

 大村秀章知事から任命状と広報活動用の法被が贈られると、松平さんは「高齢者の事故をなくす『交通安全奉行』としてお役に立てるよう頑張ります」と意気込みを語った。

 県は高齢者交通安全週間(9月14~20日)に合わせ啓発活動を展開する。高齢者に対しヘルメットや反射材の着用▽安全運転サポート車(サポカー)の活用▽飲酒運転や「ながらスマホ」の禁止▽免許の自主返納――の4点を重点的に呼びかける。【太田敦子】

MBSで笑福亭仁鶴さん追悼番組 28日、貴重映像やインタビュー

2021-08-28
毎日新聞 2021/08/28 09:30
© 毎日新聞 提供 落語を披露する在りし日の笑福亭仁鶴さん=MBS提供

MBSテレビ(大阪市)は28日、落語家の笑福亭仁鶴さん=17日に84歳で死去=をしのぶ特別番組「追悼 笑福亭仁鶴さん~天国ってどんなんかなー~」(午後1時54分)を関西地区で放送する。

 仁鶴さんは、1969年に始まった「ヤングおー!おー!」や夫婦で共演した「仁鶴・たか子の夫婦往来」など、同局の番組に数多く出演した。

 追悼特番では、あらゆる世代から愛された仁鶴さんの人生を、落語家タレント▽劇場ネタ▽上方落語▽名ギャグ誕生の秘話――の四つのキーワードに分け、貴重な映像やインタビューを交えて振り返る。出演は仁鶴さんの4年後輩にあたる落語家の桂文枝さん、仁鶴さんの筆頭弟子で上方落語協会会長の笑福亭仁智さんら。

 また、9月5日午前5時20分から、「らくごのお時間」の特別番組を放送し、仁鶴さんの十八番「池田の猪(しし)買い」を届ける。【倉田陶子】

ユニチカマスコットガールの 二代目

2021-08-18
Facebook 須賀 裕之 さん曰く
ユニチカマスコットガールの
二代目は手塚理美(さとみ)さんでしたね
1975年から1978年まで務められました

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

今日はクリスチャン・ディオールの命日らしい。

2021-10-24
Facebook 永井資久さん曰く
今日はクリスチャン・ディオールの命日らしい。
(Christian Dior, 1905年1月21日 - 1957年10月24日)1950年代に活躍したフランスのファッションデザイナーである。彼が創立したファッションブランドも「クリスチャン・ディオール」もしくは「ディオール」と呼ばれる。イタリア・モンテカティーニにて52歳で心臓麻痺で死去。。。とある。
現在もブランド「ディオール」は健在で多くのフアンに支持されている。彼はかつて建築家を夢見ていたらしい。そんな彼は数々のドレスやスーツをあたかも布でできた建築物のように生み出してきた。ジュエリーも高貴な構造物として、一点一点大切に仕上げられていく。オートクチュールとハイジュエリーというふたつの世界観が織り成す麗しい建築物として完成させている。
クリスチャンに敬意と感謝を込めて。。。。合掌。
(以下、ウィキペディアより抜粋)
生涯
1905年、クリスチャン・ディオールはフランス北西部ノルマンディーマンシュ県・グランヴィルで実業家の家庭に生まれた。
1920年から1925年12月までフランスのパリ政治学院に学ぶ。彼の両親の願望に応じて外交官になる望みがあったが、ディオールは芸術に強い興味を持っていた。
1928年に彼が小さなアートギャラリーを親からの出資で持ち、パブロ・ピカソやマックス・ジャコブなどの絵を置いた。だが、家庭の財政的な問題により2年でギャラリーを閉鎖する事になる。
1930年代に、ディオールはオートクチュールハウスのためにスケッチデザインをやることによって、生計を立てた。
1938年に、彼はロバート・ピゲと仕事をして、後にリュシアン・ルロンのファッションハウスのデザイナーとして仕事に加わった。そこで、ディオールとピエール・バルマンは主要なデザイナ-であった。
1945年、ディオールは彼自身で事業を始めた。ディオールのファッションハウスは1946年12月マルセル・ブサック(綿のファブリック王)の援助もありパリ、アヴェニュー・モンテーニュ30番地に設立された。
1947年2月には最初のファッションショーを開催。この1947年の春夏コレクションにディオールが採用したラインが、いわゆる「ニュールック」である。これはアラビア数字の8にも似た、細く絞ったウェストとゆったりしたフレアスカートを特徴とするもので、戦時中の資材不足によりフランスのクチュリエたちが1着の服に使える布の面積に厳しい制限を抱えていたのに対し、贅沢に布を使用した点にも特徴を持っていた。『ハーパース・バザー』誌の編集長であったカーメル・スノウはこのコレクションに衝撃を受け、「ニュールック」と呼んだ。
戦後のファッションの指針を示したディオールは47年から57年までの11年間、パリのオートクチュール界の頂点に君臨する。彼は毎シーズン、ラインというテーマに沿って作品を発表した。
略歴
1946年12月にマルセル・ブサック(綿のファブリック王Marcel Boussac)の援助もあり、クリスチャン・ディオール・オートクチュールのメゾンが設立される。
1947年 - 「S/Sコレクション」でパリにデビュー。「8ライン(別名コロール・ライン、いわゆるニュールック)」(ペチコートで膨らませた曲線を強調したゆったりなだらかな肩に細く絞ったウエスト、くるぶしまであるロングスカートというスタイル)最初のコレクションを発表する。
1948年 - 香水部門の会社「パルファン・クリスチャン・ディオール」を設立。アメリカでライセンス生産を開始。ファションでは「ジグザグ・ライン」を発表
1950年 - 「パーティカル・ライン」発表。
1951年 - 「オーバル・ライン」発表。
1952年 - 「シニュアス・ライン」発表。
1953年 - 「チューリップ・ライン」発表。
1954年 - 「Hライン」発表。
1955年 - 「Aライン」、「Yライン」発表。
1956年 - 「アロー・ライン」発表。

#ありがとう山中さん #お疲れ様でした

2021-10-24
Facebook 読売ジャイアンツさん曰く
#読売巨人軍 の場内放送係の #山中美和子 さんが、23日に #東京ドーム で行われた #ヤクルト 戦で #ウグイス嬢 を務め、45年間務めてきた場内アナウンス生活を終えました。

フランソワ・ロラン・トリュフォー

2021-10-21
Facebook 永井資久さん曰く
今日はフランソワ・ロラン・トリュフォーの命日らしい。
(François Roland Truffaut、1932年2月6日 - 1984年10月21日)
フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人。映画作家・理論家のアレクサンドル・アストリュックがトリュフォーを「愛のシネアスト(cinéaste)」と定義した。
1984年10月21日、52歳で脳腫瘍にて死去。フランスに留まらぬ世界各国の映画関係者が集う盛大な葬儀が執り行われたが、若かりし頃まるで兄弟ででもあるかのように協力し合って映画を創り上げたゴダールだけは、葬儀にも訪れず、追悼文を著すこともなかった。しかし、のちにゴダールは、死後4年経った1988年に出版されたトリュフォー書簡集に、彼からの手紙を提供した。それは、激しくゴダールを罵倒する語調のものであったが、あらたに書き下ろした序文をこうしめくくっている。「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」。。。とある。
トリュフォーと言えば「大人は判ってくれない」かな、不幸な少年時代を送り、やがて映画と出会いが彼の人生を大きく変えたのだろう。彼が人生の全てを映画に捧げて作られた作品は、まるで自分自身でもあり、フランス映画を語るうえで欠かせないものばかり。華氏451も面白かった。
愛のシネアスト、トリュフォーに敬意を込めて。。。。合掌。
(以下、Wikipediaより抜粋)
生涯
パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるような、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し、映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」初代編集長(1951年 - 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬ(1958年)まで親子同然の生活を送る。バザンの勧めにより映画評論を著すようになり、「カイエ・デュ・シネマ」を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を書きまくる。とくに「カイエ」1954年1月号に掲載された『フランス映画のある種の傾向』という一文の厳しい論調故に、当時は「フランス映画の墓掘り人」などと揶揄された。
最初の短編映画を発表したのち、1956年、ロベルト・ロッセリーニの助監督となる。翌1957年、配給会社の社長令嬢と最初の結婚をする。同年、製作会社レ・フィルム・デュ・キャロッス社を設立、2作目の短編映画(『あこがれ』)を演出し、翌1958年公開。1959年、キャロッス社とSEDIF(義父の会社コシノールの子会社)の共同製作による処女長編『大人は判ってくれない』を監督し、大ヒット。トリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高らしめることとなった。トリュフォー自身の体験談を下敷きにして作られた『大人は判ってくれない』は、その後ジャン=ピエール・レオ演ずるアントワーヌ・ドワネルを主人公とする「アントワーヌ・ドワネルの冒険」としてシリーズ化され、『逃げ去る恋』(1978年) に至るまで合計5本制作された。このとき出逢った映画会社マルソー=コシノール当時のマネジャーマルセル・ベルベールは、キャロッス社の大番頭的存在となり、またトリュフォー作品にカメオ出演し続けることになる。
1968年のカンヌ国際映画祭においてはコンテストの必要性の有無を巡って大論争が巻き起こり、トリュフォーはカンヌ国際映画祭粉砕を主張して最も過激な論陣を張った。しかし、この出来事を一つのきっかけに、盟友であったジャン=リュック・ゴダールとの決別を始めとしてヌーヴェルヴァーグの面々と疎遠になり、映画の作風も古典的、正統的な落ち着きを見せ始める。恋愛しか題材として取り扱わないことを含め、若い批評家たちからは「トリュフォーは自分がその地位につくために、ジュリアン・デュヴィヴィエやクロード・オータン=ララ等の古い大作家たちを批判し貶めたのだ」と批判されたが、トリュフォーは「暴力は嫌いだから戦争映画や西部劇は作りたくないし、政治にも興味はないから自分には恋愛映画しか作れない」と一向に意に介することはなかったという。
フランス映画の父として慕い尊敬していたジャン・ルノワールがアメリカで失意の底に沈んでいることを聞きつけ、幾度もアメリカに渡って勇気づけ、ルノワールの死に至るまで両者は親子同然の関係を持ち続けた。また、自分自身の分身を演じ続けたジャン=ピエール・レオに対しても息子同然の扱いをしていたという。その一方でトリュフォー自身は事実上父親を持たず、結婚と離婚を繰り返して安寧な家庭を持てなかった。

卒業生の森山眞弓さんがお亡くなりになった。

2021-10-20
Facebook 津田塾大学 - Tsuda Universityさん曰く
森山真弓さん死去 女性初の官房長官
卒業生の森山眞弓さんがお亡くなりになったことが新聞各紙で報じられています。

 選挙区であった栃木の下野新聞では、『「女性初の」との形容詞がこれほど多い政治家は他に知らない。中でも内閣の要である官房長官は今もって森山さんただ一人である。』と紹介しています。 

【横森 良造】

2021-10-20
Facebook まつたけ しんや さん曰く
【横森 良造】
日本を代表するアコーディオン奏者。昭和のバラエティや歌番組で活躍。「スター誕生!」「NHKのど自慢」等に出演。歌が上手でない人にも上手に優しく演奏を合わせてくれたが、「お笑い頭の体操」の月の家 圓鏡にだけは手こずっていた。

時機相応について  時代と人

角川映画「人間の証明」

2021-07-19
Facebook 中園淳一郎さん曰く、母さん、僕のあの帽子,どうしたんでせうね? ええ,夏,碓氷から霧積へゆくみちで, 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
人間の証明 テーマ曲 ジョー山中

Metamorphosis of Elizabeth Taylor In Memoriam: Elizabeth Taylor (February 27, 1932 - March 23, 2011)

2021-07-14
Facebook Slideshow "Metamorphosis"さん曰く

松竹撮影所での豪華メンバー

2021-07-11
Facebook 石山 裕子さん曰く
左から 倍賞千恵子 船越一郎 浅丘ルリ子 渥美清 下條正巳

「パネルクイズ アタック25」、この秋で終了です。

2021-07-03
初代司会者/児玉清逝きて、早10年・・・。
アタック25 芸能人大会 ~児玉清さんと博多華丸さん夢の競演~

昭和の怪優、天本英世

2021-07-03
Facebook 唐沢俊一さん曰く



昭和の怪優、天本英世。1926(大正15/昭和元)年生まれ。1945(昭和20)年、19歳のとき学徒出陣で徴兵されるが、その年に終戦。短い軍人生活だったが、よほど軍隊が性に合わなかったと見え、徹底的な反戦・反国家主義者となる。復員後、東大法学部に入学するがここも居心地が悪かったらしく、「乞食になる」と宣言して中退、俳優座で舞台役者になった(ここらへんよくわからないw)。当時の劇団パンフレットにすでに「特異な個性の持ち主」と書かれており、この形容は天本に終生つきまとう。
1954(昭和29)年に松竹映画『二十四の瞳』で高峰秀子の夫役で出演、映画がヒットしたためたちまち知名度が上がり、当時は二枚目だったこともあって、街を歩くと女学生たちがぞろぞろ後をついてきたという。
1958(昭和33)年に東宝と専属契約、ことに岡本喜八監督に気に入られ(岸田森と同じ)、岡本の『暗黒街』シリーズで黒づくめの殺し屋を演じ評判となる。1967(昭和42)年には岡本の『殺人狂時代』、本多猪四郎の『キングコングの逆襲』でそれぞれマッド・サイエンティスト役を印象的に演じて、これ以降の天本の持ち役となった。
そのマッド・サイエンティスト演技の集大成が1972(昭和47)年に東映が制作したテレビドラマ『仮面ライダー』のショッカー幹部・死神博士で、初出演時にプロデューサーの平山亨が控室を訪ね、「こんな化け物のような役ですいません」と謝ったところ、天本は「僕はこういう役をやらせればボリス・カーロフの上を行きますから」と自信満々に答えたという。果然、死神博士は天本の代名詞にもなり、NHKの『日曜美術館』にゲスト出演した際も女性アナウンサーに「『仮面ライダー』の死神博士、と言った方がわかりやすいかも知れませんが」と紹介され、苦笑していた。
このときのゲスト出演もそれがらみだったが、晩年の天本のイメージはスペインの詩人・ロルカの詩の原語朗読者としてであり、このスペイン語は独学で身につけたもの。椅子に座って片腕を宙にのばし、陶酔しているかのようにスペイン語を滔々と語る独特のスタイルはタモリが形態模写をするほど印象の強いものだったが、なにしろ50歳を越してからの独学の語学だったため、かなり癖の強いスペイン語で、語学の専門家からは苦言を呈されることもあったらしい。
趣味はスペインの他は野球観戦で、反権力者らしくアンチ巨人。楽屋のテレビで試合を見ながら「それっ、やっちゃえ、打ち取れ!」と興奮しながら応援している姿は死神博士のイメージからはほど遠く、楽屋を訪ねたファンを唖然とさせたという。2003(平成15)年没。

ちょっと気になる歌・唄・音

色づく街 南 沙織

2021-10-15

タモリ(1978)

2021-09-25

SEPTEMBER  竹内まりや  1980

2021-09-20

花の時・愛の時 前川清 40周年記念コンサートより

2021-08-18

吉田正 生誕100周年

2021-08-15
「寒い朝」

寒い朝 ☆ 吉永小百合 (サウンド・トラック)

吉永小百合/「寒い朝」  /マヒナスターズ

「面影 渡り鳥」

あの時、この時

1962年 東京六本木の六本木交差点!驚くべき田舎っぽさ現在の状況からは、想像しにくい。

2021-10-19
Facebook 石山 裕子さん曰く

新幹線 500系 W編成

2021-10-19
Facebook 井田 和希さんの投稿より

500系W編成は、東京口で見れる列車は基本博多~東京間通し列車のみ。
だから、並走する山手・京浜東北線や東海道線から見かけると「遥々九州から来た列車」と一目で判るのが良かった。

木原 一さんの投稿
新幹線の品川駅がなかった時代には、上り列車の車窓から都心の高層ビル街がみえ、やがて通勤電車が寄ってきて、品川駅付近にさしかかるとメロディーが流れ、東海道線や山手線・京浜東北線と並走しながら『長らくの御乗車、お疲れ様でした…』のアナウンス…その雰囲気と間の取り方がなかなか良かったです。今では品川~東京は近すぎてバタバタしているうちに着いてしまいますが…「いい日旅立ち」が流れれば終着駅らしいムードが出るかもです。

川嶋 昌和
新橋~品川あたりでは、在来線と抜きつ抜かれつ、加速の差が分かるので、個人的は好きな区間です。

JALの翼として初めて太平洋を渡った「City of Tokyo号」

2021-10-18
Facebook JAPAN AIRLINES (JAL)さん曰く、2度の給油が必要であっても太平洋の横断は画期的なことでした。
DC-6B型機は1950年代後半に貨物便として東京-サンフランシスコ線に就航しました。 よく見ると貨物一つ一つに目的地が記載されています
写真はセミカーゴ機に改造されたDC-6B型機です。

1969年12月 「建設中の太陽の搭」

2021-10-17
Facebook 石山 裕子さん曰く、建造物よりも、これを作るための足場の組み方を考えるほうが難しかったのでは?

戦前の大阪通天閣、 驚くほど立派です。

2021-10-10
Facebook 石山 裕子さん曰く
三浦 十右衛門さん曰く、 この通天閣の照明点灯の球切れ交換を受注したのが松下幸之助の出世のふりだしだと副社長だった故水野博之氏から直接聞きました。
現在の通天閣
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