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【追悼 #三遊亭金翁 さん死去】

2022-08-27

Facebook NHKアーカイブスさん曰く



【追悼 #三遊亭金翁 さん死去】
愛きょうのある芸風と独特の“だみ声”で親しまれ、四代目三遊亭金馬として長く活躍した落語家の三遊亭金翁さんが27日未明、亡くなりました。
93歳でした。
#NHKアーカイブス では、金翁さんが三遊亭小金馬として出演していた、バラエティー番組の元祖と言われたNHKの人気番組「お笑い三人組」の動画を公開しています。
お笑い三人組

詳細

1955年11月にラジオ番組で始まった喜劇バラエティー。

翌1956年11月にラジオ・テレビ同時放送となり、1960年度からテレビ単独放送に。

金ちゃん(三遊亭小金馬)、良夫さん(一龍斎貞鳳)、六さん(江戸家猫八)の3人組が暮らすあまから横丁で起こる騒動をユーモアたっぷりに描いた。

東京内幸町にあったNHKホールからの公開生放送。

作者は名和青朗、音楽は土橋啓二が担当。

全506回。

総合(火)午後8時30分からの30分番組。

草笛光子を17歳で生んだ母と二人三脚の芝居人生

2022-08-26
連載「母たちの愛と軌跡」 俳優──────草笛光子 母──────冨田登美恵
母、登美恵と光子。昭和10年、七五三のお祝いに。


母はいつも優しく微笑んでいた。温かな手がまめまめしく動いていた。そして、母の年齢を超えたいま思う、あの日の母の厳しいまなざしと、涙のほんとうの意味━━。

1989~2004の15年にわたり長期連載された「母たちの愛と軌跡」は、限りない愛と感謝を込めて綴られた、時代の中で懸命に生きた母たちの人生ドラマ。各界の著名人の心に刻まれた、母の大きな愛、そして母娘をつなぐ絆の物語です。

創刊117年の『婦人画報』のなかでも高い人気を誇ったシリーズを当時の写真とともに婦人画報デジタルにて再掲載いたします。

[初出『婦人画報』1995年10月号 ]

「母、樹木希林を語る」お話 内田也哉子さん
母、樹木希林を語る お話=内田也哉子さん

内田也哉子、十九歳。フランスの大学に籍を置く学生です。彼女は、かつて一度だけ『花へんろ』というテレビドラマに出たことがありました。樹木希林の娘の役です。しかし、彼女は芸能人ではありません。内田裕也を父に、樹木希林を母に、本木雅弘を夫にもつ内田也哉子。その三つの強烈な個性の中で、彼女はしっかりと自分を捉えて生きています。思慮深い瞳をもち、ふつうの人として生きたいと語るその面差しに、才能の輝きをのぞかせるこの人は、未知の可能性に満ちています。母と二人暮らした日々は、也哉子さんに、人生の何を教えたのでしょう。

プーチン大統領のピアノ演奏&歌

2022-08-25
ロシアのプーチン大統領、G20大阪サミット出席のため来日(2019年6月28日)
プーチン氏ジョークも 日ロ首脳会談、和やかに(16/12/15)
ロシア訪問―平成29年4月27日
【安倍元首相死去】「外交の安倍」評価は?トランプ氏やプーチン氏とも…

訃報

2022-08-18
1972年(昭和47年) 森英恵 "Fashions by Mori Hanae"
〈森英恵さんが死去〉母になる前の雅子さまの“ご婚儀ローブデコルテ秘話”「ご成婚パレードの日、雅子さまの笑顔が美しく輝きました」
「文藝春秋」編集部 

 日本を代表するファッションデザイナーの森英恵さんが、8月11日に東京都内の自宅で亡くなった。96歳。

 皇后雅子さまのご婚儀に際したローブデコルテを手がけた森さんは、「文藝春秋」2019年11月号で「現役の外交官として活躍されていた方が皇室に入られるという話題で、皇室がにわかに身近に感じられたあの頃。ご成婚パレードの日、上衣のえり元にあしらった花びらが風にふわりと揺れて、雅子さまの笑顔が美しく輝きました。皇太子殿下と爽やかなカップルで、明るい希望を感じました」と当時の思い出を語っている。「文藝春秋」編集部による、雅子さまのファッションを振り返った記事を再公開する(初出:2021/12/2 年齢・肩書き等は公開時のまま)。

森英恵さんを偲んで
つい先日、三宅一生さんが亡くなったばかりだというのに森英恵さんまでも 日本のファッション界を牽引して来た巨星が。 グレース・ケリーやソフィア・ローレンからも愛されました。
海外への挑戦 森英恵さん「私の履歴書」まとめ読み: 日本経済新聞

二人の歩み

2022-08-05
1960年 浩宮徳仁さま誕生 東京は奉祝ムード(1960年2月)
 1960年、浩宮徳仁親王、現在の天皇陛下ご誕生の際の映像を公開します。 ======= 深夜の宮内庁病院に明かりが煌々と灯ります。 入っていく車にフラッシュがたかれ、大勢の記者が集まります。 慌てた様子で本社への直通電話、いわゆる“ガラ電”をかける姿も。 1960年2月のことです。 車両の後部座席に座るのは美智子妃殿下、現在の上皇后さまの母・正田富美さんです。 美智子さまは予定日の3月1日より8日早く陣痛を訴え、 2月23日 午前1時50分、入院されたのです。 正田富美さんは車を降りると記者に一礼し、足早に病室に向かいました。 徹夜で美智子さまに付き添います。 2月の寒空の下、2人の記者が病室を見上げます。 宮内庁は美智子さまの経過は順調で、正田富美さんと女官長と一緒にいて、まだ分娩室には入っていないと発表しました。 長い夜が明けました。 皇居の前には大勢の人が集まり、美智子妃殿下の入院する病院の方向を見つめています。 熱心に祈る人の姿も。 入院からおよそ15時間後の午後5時25分、 宮内庁の橋本総務課長が会見で発表しました。 宮内庁 橋本健寿 総務課長: 「皇太子妃殿下は、本日午後4時15分、宮内庁病院でご出産、親王がご誕生になりました。  御母子ともにお健やかであります」 親王さま誕生の発表を聞き、頬を緩める記者の姿も。 記者らは走って宮内庁を後にします。 車やバイクも次々と走り出します。 午後5時55分、親王さま誕生の知らせをお聞きになった、皇太子殿下、現在の上皇さまは、渋谷の東宮仮御所から車で宮内庁病院へ向かわれます。 午後6時10分、大勢の記者に囲まれ、宮内庁病院に到着された皇太子さまは、美智子さまと親王さまがいらっしゃる、2階の静養室に向かわれました。 皇太子さまに続いて、祖父になった美智子さまの父、正田英三郎さんも病院に入ります。 正田英三郎さん:「どうか健やかに立派にご成長なさることをお祈りしておる次第でございます」 正田富美さん:「本当におめでとうございます。ただいま新宮さまにご面会を、お目通りさせていただきましたけれど、大変お元気で、こんな嬉しいことはございません」 有楽町にあった朝日新聞東京本社です。 1928年に日本で初めて電光掲示板が設置された場所で、親王の誕生もやはり電光掲示板で速報されました。 読売新聞からも号外が出されました。 我先にと手を伸ばす人たちに笑顔が見えます。 当時は読売新聞もすぐ近くの銀座三丁目、現在の「マロニエゲート銀座2」の位置にありました。 朝日新聞の号外には、美智子さまが午後4時15分、皇居内の宮内庁病院で、お子さまを予定日より8日早くご出産になり、母子ともにお健やかであることが記載されていました。 画面の正面奥に有楽町の日本劇場が見えます。 銀座4丁目付近で撮影された映像です。交差点を人々がせわしなく行き交います。 銀座のデパート、松屋には「祝 皇孫殿下ご誕生」と書かれたアドバルーンが上がりました。 日本橋三越本店は窓から大きな垂れ幕をゆっくりと、慎重におろします。 その様子を見上げる女性が売る新聞はまだ親王誕生を伝えていないようです。 垂れ幕を下げたヘリコプターも飛びました。 日本橋の白木屋は、夜の間に模様がえです。 店内にも、皇太子さまと美智子さまの大きなパネルが掲げられ飾りつけがほどこされました。 中央の階段の上にもお二人の写真。慌ただしく作業が進められます。 あやかろうということなのでしょうか。早速ベビー商戦です。 お宮参り用の産着も並べられています。 午後7時すぎ、提灯行列が練り歩き、夜更けまで奉祝の賑わいが続きました。 万歳の声が響きます。 深夜のバスの車庫です。それぞれの車両に日章旗を取り付けています。 親王誕生から一夜が明けました。 渋谷の東宮仮御所に紅白の幕がかかるテントが設けられました。 皇太子さまを乗せた車列が出ていきます。 その後、国旗を立て高級車が相次いで到着します。 各国の大使らがお祝いを述べにきたのです。 塀沿いに大勢の人が並んでいます。 皇太子さまを乗せた車が帰ってきました。 集まった人たちはその後、正門から次々に入り 設置されたテントに向かいます。お祝いの記帳をするのです。 皇居には大変な行列ができました。 午後0時半から4時までの間に宮内庁玄関前で一般国民の記帳を受け付ける予定でしたが 朝早くから坂下門の前に並ぶ人が多くいたため、予定を30分くりあげました。 門の外から宮内庁前の記帳所まで絶え間なく、整然と人が並びます。 正装の人もいます。 子どもや赤ちゃんを連れた人からお年寄りまで、順番にゆっくりと記帳の列は進みます。 紙に顔を近づけ、鉛筆で丁寧に名前を記します。 列は一向に途切れません。 記帳台はテントの外にも準備されましたが、まだまだ人が溢れています。 近くの工事現場から駆け付けたのでしょうか、 ヘルメットをかぶった男性のグループも記帳所を訪れました。 宮内庁病院です。 足場を組んでテレビカメラが据え置かれています。 望遠レンズは回転で切り替えます。 これは「スピグラ」の愛称で呼ばれた報道用のスチールカメラです。 美智子さまと親王さまの様子を伝えるための、万全の取材態勢がとられています。 何か動きがあるのを記者らはひたすら待ち続けます。 人の出入りで集まってくるカメラマン。ほぼ全員の手に「スピグラ」が。 親王誕生の2日後の2月25日、医師と看護師が整列して車列を迎えます。 天皇・皇后両陛下が宮内庁病院にお見えになったのです。 美智子さまを見舞い、親王さまと初めて対面され、天皇陛下はこの日、お守刀を贈られました。 夜には皇太子さまのきょうだい、義宮さまと、結婚を2週間後に控えた清宮さまが宮内庁病院にいらっしゃいました。 現在の常陸宮さまと、島津貴子さんです。 病院を出られる時には、皇太子さまと3人ご一緒に並んで写真撮影に応じました。 お七夜に当たる2月29日、命名に先立って宮内庁病院で行われる「浴湯の儀」です。 白い幕で仕切られた部屋の向こうで女官に抱かれた新宮さまが産湯をつかい、反対側では、衣冠単を着た、読書をつとめる坂本太郎氏が日本書紀を読み上げます。 鳴弦をつとめる前田利建氏と浅野長武氏は「おう」という掛け声とともに弓の弦を引きます。 文武、両方の運を祈る儀式で、映像は、予行演習の際のものです。 そして、いよいよ宮内庁・橋本総務課長がお名前と称号を発表します。 橋本総務課長:  「今月23日、ご誕生になった親王殿下は御名を徳仁と名ぜられ、浩宮と称されます。」 記者:  「浩宮、それに徳仁どういう意味?」 橋本総務課長:  「この中庸の第32章というのはですね、ちょっと出典を申し上げますと  『●●其仁(※●は肉月に屯)。淵淵其淵。浩浩其天。苟不固聡明聖知、達天徳者、其孰能知之。』  浩宮の浩は『浩々たる其の天』の浩。それから、徳仁の徳という字は『天徳』の徳という字をとっておられる。」 命名の儀が終わると、皇太子さまはお祝いの席へ。 各界の要人から祝意を受けられました。 岸信介総理があいさつし、乾杯。 宮内庁の宇佐美長官は、一般国民の戸籍簿にあたる、皇統譜に名を記入します。 祝賀の鼓笛隊によるパレードは雪がちらつく中で行われました。 3月12日の宮内庁病院です。 当時の宮内庁病院は関東大震災の後、倉庫として新築された建物にあり、今の皇宮警察本部の裏にありました。 そこに一台の車が止まります。 大勢の病院関係者の姿もあります。 午後2時半、退院された美智子妃殿下です。白地にしだれ桜を染め抜いた和服姿の美智子さまのうしろを、白羽二重のおくるみに包まれた徳仁さまの姿が。 車にお乗りになると、牧野東宮女官長から徳仁さまを大切そうに抱き取られます。 徳仁さまのお顔がよく見えるよう、車の窓を開け、おくるみを少し開いてくださいました。 初めて国民が目にする徳仁さまは美智子さまの腕の中でスヤスヤと眠っています。 当時の報道によりますと、お二人とも経過は順調で、この日の朝には、誕生当時より身長が4センチ、体重は506グラム増え、51センチ、3416グラムとなったということです。 渋谷の東宮仮御所からは、皇太子さまを乗せた車が出ていきます。 近所の人でしょうか、前の道に人が集まり始めました。 美智子さまにとっては18日ぶりのご帰宅、徳仁さまにとっては初めての我が家です。 警察官が出動し整理を始めました。お二人の帰りを待ちわびる人は、時間が経つにつれて増え、報道陣も正門前で待機します。 抱っこされた赤ちゃん、子どもからお年寄りまで、詰めかけた人はもう4列にも5列にも連なっています。 かっぽう着の人もいます。 報道陣がカメラを構えました。 お二人を乗せた車が東宮仮御所へ入ります。 後部座席に向けて、シャッターが切られます。 正門前のカメラの映像では、 美智子さまは車が東宮仮御所の門に入るまで、 徳仁さまを抱いていらしたことが分かります。 車列が門の中に入ると、お二人の姿を一目見ようと、報道陣や集まった人々が次々と門まで詰めかけます。 カメラは美智子さまより一足先に、初めて我が家に入る徳仁さまの姿を捉えていました。 この東宮仮御所は、現在の常陸宮邸である「常盤松御用邸」にあたります。 美智子さまは皇太子さまとご結婚後、ここで過ごされてきました。 皇太子さまを乗せた車が戻ってきました。 車は、東宮仮御所の車寄せに止まります。 帰りを待っていた美智子さまと、皇太子さまは互いに一礼し、中へと入られます。 この地で親子三人の生活が始まります。 [テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
1961年 浩宮徳仁さま 初めてのお誕生日(1961年2月)
1961年2月23日、当時の皇太子ご夫妻の長男、浩宮徳仁さまが初めてのお誕生日を迎えられました。 現在の天皇陛下です。 予定日より8日早く誕生した浩宮さま。 生まれたときの体重は2540グラムと少し小さめでしたが、初めての誕生日を迎える前日、22日の夕方に計った身長は74センチ、体重は10.15キロと、当時の1歳児の平均を上回っていたということです。 上手にお座りできるのに、どうしてもお母さま、 美智子妃殿下の方に行きたくなってしまうようです。 カメラ用のポーズができたかな・・・でも、やっぱりママの方へ・・・ 立つのだってへっちゃらです。 でもやっぱり美智子さまに向かって一直線。 いつも一緒にいたいようです。 お母さまがそばにいて話しかけられると・・・この笑顔です。 実はジャンプも得意! 美智子さまと手をつないで、ぴょんぴょんぴょん お誕生日はお忙しく、午前9時、東宮御所の職員、続いて宇佐美宮内庁長官からお祝いを受けられました。 東宮御所の玄関にご一家でお出ましになりました。 美智子さまは着物姿です。 皇太子さまのお見送りはここまで、お二人は昭和天皇皇后両陛下へのご挨拶に、皇居に向かわれます。 車の中では美智子さまが浩宮さまを抱かれていました。 9時20分、到着されると並んで、待ちかねている天皇皇后両陛下のもとへ。 勤労奉仕のボランティアの見送りを受け、浩宮さまと美智子さまの車列が皇居を後にします。 門の外で待っていた人たちは、ひと目だけでもお姿が見られたのでしょうか。 浩宮さまが生後およそ4カ月だった前の年の6月17日、 ご一家は最初に暮らした仮御所から、元赤坂の東宮御所に引っ越されました。 浩宮さまは晴れた日にはこの庭でよく遊ばれました。 この映像は1歳の誕生日に向けて撮影されたものです。 美智子さまは、乳母制度を取りやめ、母乳で育児されました。 「普通の母親がすることはすべて自分でしたい」と話されたといいます。 皇太子ご夫妻は、浩宮さまを「ナルちゃん」とお呼びになり、 皇室の歴史が始まって以来初めて、両親の手で子どもをお育てになりました。 公務で留守をする際、 育児を担当する侍従らと子育ての方針を共有できるよう ノートにまとめて残されました。 自分で投げたものは自分で取りに行かせる、片づけないうちは次の遊びに移らない、まず「ありがとう」を覚えさせる、一日に一回くらいは、愛情を示すためしっかりと抱いてあげてください。 駄々をこねたら叱ってください。 好き嫌いをしないように、器が「ナーイ」になったら、たくさんほめてあげてください、などなど、方針は多岐にわたって綴られました。 このノートの伝言は「ナルちゃん憲法」と呼ばれるようになり、育児の指南書として話題になりました。 皇太子殿下も「マイホームパパ」ならぬ「マイホーム皇太子」と呼ばれるほど子育てに参加されました。 この映像には映っていませんが、皇太子ご夫妻は、浩宮さまの1歳の誕生日プレゼントとして、庭をスコップで堀り、 長さ4メートル、幅2メートル、深さ30センチの砂場を作られました。 浩宮さまはこの頃には、「ママ」など片言の言葉を発せられていたということです。 健やかに成長されています。 [テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
外務省入省前にインタビュー 皇后・雅子さま独占秘蔵映像
いよいよ明日、天皇陛下の即位を国内外に宣言する『即位礼正殿の儀』が行われます。 テレビ東京は、皇室に入られる前、外交官試験に合格してすぐの皇后・雅子さまに独自にインタビュー取材を行っていました。 雅子さま「高校1年生のときに父の仕事でアメリカに行きました。それまで日本で教育を受けていたが、外に出てみてアメリカと日本というのはこんなに違う国なんだ、こんなに国民性も違うんだということを肌で感じて、それがすごく面白いなと思ったので、国際的な分野で仕事がしたいなと思うようになった」。 1986年、当時22歳の雅子さま。 ハーバード大学卒業の才女、そして父親と同じ道を歩み、親子2代の外交官。 テレビ東京は当時、キャリアウーマンの先駆けだった雅子さまに注目、独自にインタビュー取材をしていました。 雅子さま「昔から父が外務省ということもあったし、私が中学生くらいのときからか、女性の方が毎年ひとりふたりと外務省に入るようになった。そんなことから漠然と、外務省というのが私の頭の中にあり、女としてやっていくのにもそういう仕事もあるなという気持ちがあった」。 1987年に外務省に入省し、外交官としてのキャリアを築かれていた雅子さま。 これは1991年、アメリカの当時の国務長官、ベーカー氏が来日したときの写真です。 この時雅子さまは通訳を務められました。 外務省時代、雅子さまがランチで利用されていた店があります。 日比谷公園の中にある『松本楼』。 壁際の席で友人とランチを楽しまれていたという雅子さま。 お気に入りのメニューは、牛骨や香味野菜など4週間かけて煮込んだフォンドボーを使い、手間暇かけて作ったハヤシライス。 松本楼・小坂文乃社長「お姿を拝見したときはお2人でハヤシライスを美味しそうに召し上がってられて。雰囲気がオーラと言うかすごく神々しいというか、目立つ方でいらしゃいましたね」。 雅子さまは当時「結婚観」についても語られていました。 雅子さま「結婚と両立させて、この仕事柄海外勤務も多いし、普通の家庭生活を考えた場合(両立は)なかなか難しい問題はいろいろあると思うが、それはその場になって自分で解決していく問題としておきたいと思ってできれば家庭と両立させたいと思っている」。 そんな未来を描かれていた雅子さまの運命を大きく変える出会いがありました。 雅子さま「『雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』というふうにおっしゃってくださいました」。 外交官からプリンセスへ・・・あれから26年。 元外交官というキャリアが改めて生かされようとしています。 雅子さまは、外交官当時から「日本の外交」についての思いがありました。 雅子さま「世界の中で日本がどういう役割を果たしていけるか、世界の繁栄のために平和のために何をしていかなければいけないかということを考えていく時期にきていると思う」。 皇室が担う「国際親善」。 皇后となられた雅子さまの「皇室外交」の行方に注目が集まっています。
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