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コロナと向き合う

ブログ

田畑先生からの発信

2020-12-24
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第387回
(令和2年9月21日掲載)医療文化と仏教文化(213)
   「渡る世間は鬼ばかり」と見る分別思考から、「渡る世間は菩薩ばかり」と見る仏の智慧の視点への変化に導くのが仏教です。 
   私のいとこが父親を「人が良くて、損な役回りばかりして」と見えたのは、その内面の変化が外に現れた相でしょう。
    「渡る世間は菩薩ばかり」と考えて世間を生きると、多くの人は「バカ」だなあと言うでしょう。漫画家の赤塚不二夫氏の「天才バカボン」。「バカボン」は漢字で「婆(薄)伽梵」と書きます。意味は「煩悩を超越した徳のある人」ということです。バカボンのパパの決めゼリフ「これでいいのだ」という言葉は、「すべてをありのままに受け入れる」悟りに近い境地を示しているといえるでしょう。
     タレントのタモリさんが赤塚氏の葬儀で弔辞を述べられています。その一部を紹介します。「あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、『これでいいのだ』と。」
    生身を持って現実の時代、社会、文化、世界状況の中を生きるためには、理知分別をはたらかせて人知を尽くすしかありません。幸いにも仏教にご縁ができ、その異質性に触れて、私の理知分別の人知を生きることの愚かさ、煩悩性を照らし出され、それを超える世界の有ることに目覚めさせられました。
    小ざかしい分別の思考では幸せのためのマイナス要因、すなわち悪、損、負け、嫌い、苦、不安、障害、老病死などを受け取れず、迫りくるマイナス要因に愚痴を言うしかありません。そういう私を見透かして「汝、小さな殻(分別)を出て、大きな世界(仏智)を生きよ」と呼びかけ、呼び覚ます言葉が「南無阿弥陀仏」です。
    呼び覚まされ、仏の世界へ呼び戻されたところに「これでいいのだ」の世界が広がるのです。

日田市よりの広報

2020-12-07
日田市役所
 

【新型コロナウイルス・インフルエンザの診療と検査ができます】

日田市内の医療機関で、新型コロナウイルス感染症とインフルエンザの診療及び検査ができます。
 
【注意】
受診ができる曜日や時間、診療、検査対応等は医療機関によって異なるため、受診前に必ず各医療機関に電話で問い合わせください。

↓詳細は下記URLをご確認ください↓
https://hita-med.or.jp/

■お問い合わせ先
一般社団法人 日田市医師会
0973-24-2228

↓市ホームページはこちら↓
https://www.city.hita.oita.jp/kurashi/kenkou/iryou/9398.html

【問合せ】
健康保険課保健医療係
0973-24-3000

田畑先生の投稿

2020-12-06
人間、人生の全体を考える
日本医事新報2020年9月19日号No.5030. p.58  掲載
♯医療と仏教 「人間、人生の全体を考える」田畑正久
新型コロナウイルス、安楽死、尊厳死など、人間の生命に関わることがマスメディアに出ない日はありません。これらは「人間をどう見るか」「人生をどう考える」の課題が現れていることだと思います。
医療関係者の傾向として、現代科学を総動員して治療にあたろうとします。これは尊いことで、患者はその恩恵を受けることになります。しかし、医療者が最善を尽くしても患者が力尽きて「死」に至ることも避けられません。医療者の多くは科学的思考で訓練されてきています。そのために「死んでしまえばおしまい」と考えて取り組んでいるのです。
十数年前、「モリ―先生との火曜日」(ミッチ・アルボム著、NHK出版)という本が話題になりました。モリーさんは筋萎縮性側索硬化症(ALS)だったのです。忍び寄る死の影。しかし師の顔には昔と変わらぬ笑顔がありました。「この病気のおかげで一番教えられていることとは何か、教えてやろうか?」 。そして、老教授の生涯最後の授業が始まります。
モリーは海のエピソードを教えます。「小さな波は海の中でぶかぶか上がったり下がったり、楽しい時を過ごしていた。気持ちのいい風、すがすがしい空気……ところがやがて、ほかの波たちが目の前で次々に岸に砕けるのに気がついた。『わあ、たいへんだ。ぼくもああなるのか』。そこへもう一つの波がやってきた。最初の波(小波)が暗い顔をしているのを見て、『何か、そんなに悲しいんだ?』とたずねる。 最初の波は答えた。『わかっちゃいないね。ぼくたち波は皆、砕けちやうんだぜ! 皆なんにもなくなる! ああ、おそろし』。すると二番目の波がこう言った。『ばか、分かっちゃいないのはおまえだよ。おまえは波なんかじゃない。海の一部分なんだよ』」
穏やかな小波の状態であるのを「私」と思い、その状態を当たり前、当然の事と思っていたのです。そして、刻々と変化する自然現象(自然な姿、縁起の法による変化)によって起きた強い波を見て、「ぼくもああなるのか」と混乱が引き起こされたのです。小波にとって、穏やかな海を本来の姿と考え、その状態を局所的、近視眼的に見て、海の全体像が見えていませんでした。
我々医療者は、人間、人生の全体を考え、「老病死」に対処することが求められています。それには、仏教文化を含めて、人類の文系文化を総動員する必要があります。

田畑正久先生のコラム

2020-10-19
「お前も死ぬぞ 釈尊」
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第383回
(令和2年7月6日掲載)医療文化と仏教文化(209)
「お前も死ぬぞ 釈尊」。仏教伝道協会「お寺の掲示板大賞」の一昨年の大賞作品となった標語です。新型コロナウイルス感染が近隣で報告されたとき、高齢者の私も「死」が頭をよぎりました。朝、目が覚めたら「今日の命を頂いた、南無阿弥陀仏」と称えます。風邪症状も倦怠感もない。それなりに元気なのは「有ること難し」と念仏していました。
仏教では「悟りを開いても、病気になる、ならないは関係ない」と前に書きました。それでは、人間の生老病死の四苦を救うことにならないのではないかと思われる人が多いと思います。仏教は老化現象、病、死に関係なく、人間を丸ごと救います。生死(しょうじ)の苦の本(もと)を抜くというのです。
仏教の智慧は物事をあるがままに見ます。人間は多くの「因」や「縁」によって生かされている存在です。「形あるものは必ず壊れる」すなわち「死」の法則を免れることはできません。あるがままとは、死ぬのが必然のところを「有ること難し」で今日を生かされているということです。
自我意識は3歳ぐらいまでに出てくるといわれています。「身」が先にあり、後から出てきた意識は本来、物事を認識する働きをする所です。身についての正しい認識をする「場」なのです。ところが、いつの間にか身の「主(あるじ)」のようになって管理支配するようになっています。身は本来「縁起の法」の沿って動いていて、老い、病む、死ぬということが起こるのです。
仏教標語に「心に従うな、心の主となれ」があります。心は事実を認識する立場を忘れて偉くなって、いつの間にか身の管理者になろうとしているのですが、結果は欲に振り回される奴隷になっています。心も「法」に沿って一瞬一瞬変化していて無常・無我です。心の動きからちょっと距離を置いてクールに見る「主」に成れと教えています。身の置かれている状況をあるがままに見て、老、病、死は私に何を教えよう、目覚めさせよう、演じさせようとしているのかと考える。それが迷いの苦の本を抜くことになるというのです。
冒頭の標語の「死ぬぞ」とは、死を忘れ、考えないようにしているわれわれに「目を覚ませ!」と迫って、死を超える安心(あんじん)を与えようとしているのです。

今年の夏は、こんなこと忘れてしまうような夏でした。

2020-10-19
コロナ騒動の中で、年度の半分が終わりました。
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