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闘いの歴史

データベース

断末魔の狂乱、陸に、海に、空に・・・。

2021-08-15
Facebook 歷史時空さんより

映画「民族の祭典」 “Olympia” 開会式

2021-08-09
1936年にヒトラー政権下で開催されたベルリンオリンピックの記録映画.最初にして最高のオリンピック映画といわれる.
レニー・リフェンシュタール監督.

反ブロパガンダ

2021-08-09
『我々は何故戦うか』第1号「戦争の序曲」(1942) トレイラ―

意志の勝利

2021-08-09
意志の勝利』(いしのしょうり、ドイツ語Triumph des Willens)は、1934年にレニ・リーフェンシュタール監督によって製作された記録映画。同年に行われた国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)の第6回全国党大会の様子が記録されている。

「ラッキー・ガール」という見出しで「LIFE」誌に掲載された。

2021-08-08
Facebook 永井由紀夫さん曰く
長崎原爆投下の翌日の朝、日本軍カメラマン山端庸介氏によって撮影された写真。「ラッキー・ガール」という見出しで「LIFE」誌に掲載された。実際は創作写真だったとのこと。
『写真撮影のことはよく覚えています。写真を取らせてくれと言われて、防空壕に入りましたが、あの時は怖くて、逃げることばかり考えていました。笑ってくれと言われ、無理に笑顔を作りました。』18歳の時
熊本県球磨郡の農家に6人きょうだいの四女として生まれました。地元の学校を卒業後、熊本市の日赤病院で見習い看護士として働き、長崎にいた長姉夫婦を頼って長崎に移ってからは国鉄の女性車掌として長崎市で働いていました。
そして運命の日、1945年8月9日を迎えたのですが、実はこの日に佐賀県で同じ国鉄勤務の男性と佐賀県で結婚式を挙げる予定でした。しかし親戚の都合で式が延期となったため、長崎市大黒町の下宿で被爆してしまうのです。
結婚して4人の子供にも恵まれましたが
白血病を発病 波乱の人生を送り
離婚し子供たちとも別れ 
51歳でひっそり亡くなられたそうです

闘いの記録 (戦争と人間)

なぜ台湾人の「ぼく」の父が「三郎」なのか?

2021-10-25
(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

This is the Last Photo of Yamamoto

2021-10-24

【与太郎戦記】

2021-10-19
五代目 春風亭柳昇

春風亭柳昇 与太郎戦記


五代目 春風亭柳昇【与太郎戦記】


春風亭柳昇(五代目)与太郎戦記~戦場にかける恋~【名作:永久保存版】

【近衛声明】

2021-10-15
『Get Back! 30's / 1938年(s13)-2』
【近衛声明】
○1.16 第一次近衛声明発表。日中戦争、泥沼化へ。(国民政府を相手とせず)
○11.3 第二次近衛声明。武漢陥落後の新体制「東亜新秩序の建設構想」を発表する。(東亜新秩序建設に関する声明)
○12.22 第三次近衛声明。国民政府投降派に呼びかけ、日中国交調整の基本方針として「善隣友好・共同防共・経済提携」の近衛三原則をうたう。(近衛三原則)
*1月16日 第一次近衛声明(国民政府を対手とせず)
 1938年(昭和13年)1月16日、近衛文麿首相はトラウトマン工作に基づいた和平案提示に対し、蒋介石率いる国民政府が応じないことを原因として、交渉打ち切りの声明を発表した。
 近衛は声明の中で「国民政府を対手とせず」と述べ、同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発した。これに対し国民政府側も許世英駐日大使の本国召還を決定した(1月20日に帰国)。これにより両国間の外交関係は断絶、日本政府は国民政府との話し合いを自ら放棄し、戦争終結の手がかりを失うことになった。
*11月3日 第二次近衛声明(東亜新秩序建設に関する声明)
 日本軍による広東、武漢の相次ぐ占領にもかかわらず、和平の見通しが立たなかったため、近衛は1938年(昭和13年)11月3日に再度声明を発表した。近衛は「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「国民政府を対手とせず」の発言を修正した。
 この声明の狙いは蒋介石と対立していた汪兆銘を重慶に移転していた国民政府から離反させることにあった。汪はこの後重慶を脱出し、昆明を経由してハノイに到着している。
*12月22日 第三次近衛声明(近衛三原則)
 1938年(昭和13年)11月、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭や今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。汪がこの後に重慶を脱出し、近衛は、1938年(昭和13年)12月22日に対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した。
 汪は撤兵の約束を反故にされたことに衝撃を受けたものの、この声明が日本との和平への道を開いたものと受け止め、滞在先のハノイから重慶の国民政府に向けて和平解決を要請する電報を送ったが、国民政府側はこの提案に反対し、汪から全ての職務と党籍を剥奪した。
 第三次近衛声明の2週間後、内閣総辞職し、対中交渉は平沼内閣に受け継がれた。
(以上、wikipediaより引用)
 第一次近衛内閣は、この一年の間に三度も「近衛声明」なるものを出した。上記記述では三つの近衛声明のつながりが分かりにくいが、これらをつなぐキーマンは「汪兆銘(おうちょうめい)」だと思われる。汪兆銘は辛亥革命での孫文の後継者的な立場にあったが、袁世凱や蒋介石にその地位を奪われる形になっていた。
 蒋介石国民党と毛沢東共産党とは、第二次国共合作が成立し抗日民族統一戦線を構築しつつあった。山間部でゲリラ戦に徹する共産軍にたいして、蒋介石国民党軍は日本の直面する敵であり、和平にも応じず頑強に抵抗姿勢を示したため、和平交渉を打ち切る第一次近衛声明を発表した。
 その後の日本軍による広東、武漢の相次ぐ占領にも蒋介石は和平に応じなかったため、和平グループの中心的存在となった汪兆銘を重慶国民党政府から離反させることを企図し、第二次近衛声明(東亜新秩序建設に関する声明)を出した。つまり提唱する「新秩序」に対応するなら、和平の交渉相手とするということで、その相手とは汪兆銘を指している。
 さらに続いて第三次近衛声明て、講和後の三原則方針を具体的に提示する。汪兆銘はこれを歓迎し、脱出先のハノイから「和平反共救国」を訴えたが、これに呼応する有力者は無く、重慶国民党政府は汪兆銘を永久除名しすべての地位を解除した。このすぐあと、早期停戦のツテを失った近衛は政権を投げ出す。
 近衛が与しやすしとして交渉相手に選んだ汪兆銘は、結局近衛と同じ優柔不断さで実権をもち得なかった。似た者同士が手を組もうとして失敗する例は、今でも多く存在する。交渉相手には、最も困難とされる相手を選ぶべきなのである。

セーラー服と機関銃 昭和9年5月

2021-10-11
Facebook「絆の会」さん曰く、目黒高女(現目黒高校)の女学生による射撃訓練 、この画像初めてみた。

闘いの転機(戦いの前と後)

【佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争】

2021-10-21
Facebook まつたけ しんやさん曰く
【佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争】1968年1月にアメリカ海軍の原子力空母エンタープライズの米軍佐世保基地への入港に対して革新政党・団体・住民を中心とした反対運動、暴動が起こり、エンプラ騒動といわれた。自分は子供だったのでピンとこなかったが、昭和の人々は闘っていたのですね…。

◎「日米修好通商条約」

2021-10-20
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1856-1860年】
【19th Century Chronicle 1856-1860年】-2
◎「日米修好通商条約」
*1856.8.5/ アメリカ駐日総領事「タウンゼント・ハリス」が、下田玉泉寺を仮領事館とし、アメリカ領事館旗を掲げる。
*1857.5.26/ 米国総領事ハリスが幕府と、9ヵ条の日米約定(下田協約)を締結する。
*1857.10.21/ 米総領事ハリスが、将軍家定に謁見し、アメリカ大統領ピアースの親書を提出する。
*1858.3.20/ 老中堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため入洛するも、朝廷に条約の勅許を拒否される。
*1858.6.19/ 幕府が勅許なしに、「日米修好通商条約」および貿易章程に調印する。
*1859.5.28/ 幕府が、神奈川・長崎・箱館の開港と、露・仏・英・蘭・米との自由貿易を許可する。
 日米和親条約により日本初の総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、安政3(1856)年8月5日、下田に仮領事館を設けアメリカ領事館旗を掲げた。ハリスは翌年の10月に、やっと江戸城に登城がかない、将軍家定に謁見して米大統領ピアースの親書を手渡した。通商条約の締結を指令されて来たハリスは、強硬に自由通商を主張し、幕府内にも止むを得ないという雰囲気が醸成されると、老中首座であった堀田正睦は条約の交渉を開始させた。
 アメリカ側の要望に押しまくられながら、やっと条約の合意が得られるようになると、堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るべく自ら上洛したが、朝廷の公家らの強硬な反対などで勅許を得られないまま江戸にもどる。堀田が上洛中に、南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、以後、井伊が幕府を主導する。
 井伊大老は、勅許を得てからの条約を締結すべきとの考えだったが、交渉担当との指示の行き違いから、直弼の意向に反して勅許を得ないまま条約締結に至ってしまった。そのすぐ後に堀田正睦は罷免され、直接の条約交渉役らも左遷された。しかし勅許無き条約締結は大きな政争を引き起こし、同時期に井伊直弼が慶福に決めた将軍継嗣問題も絡まり、直弼の処置に反対する声が幕府内外に渦巻いた。
 この抗争鎮定のため、井伊は反対派の幕臣や志士・朝廷の公家衆を大量に処罰し「安政の大獄」が始まった。そして、朝廷を利用して幕府の改革をもとめる水戸斉昭など諸侯を謹慎蟄居などで排除した。これらの武断政治は大きな批判を呼び、政局は不穏となった。そして安政7(1860)年3月3日、水戸藩への処置に憤懣をもつ脱藩浪士たちにより、井伊直弼は桜田門外で襲われ暗殺される(桜田門外の変)。
 この同時期、日米修好通商条約批准書の交換のため、正使新見正興を代表とする「万延元年遣米使節」が、ポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛のため、木村喜毅を副使とする「咸臨丸」も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船しており、木村の従者として福澤諭吉も同行渡米している。
 批准された「日米修好通商条約」では、自由貿易・領事裁判権・低い関税率などが取り決められていた。自由貿易の約束に伴い、のちの横浜・神戸など、重要な貿易拠点となる多くの港が開港され、そこに「居留地」が設けられた。そして、後にまで影響を与える不平等条項とされる「領事裁判権(治外法権)」や「低関税率(関税自主権という概念が日本側になかったため、低い関税率だけが決められた)」などが約定された。
 なかでも、深刻な影響を呼び起こしたものに「金銀等価交換」があった。もともと貿易商であったハリスは、領事就任当初から、銀貨基準の等価交換を主張して押し通した(下田協約)。当時の金と銀の交換比率は、世界的には1:15だったが、日本では1:5であったため、銀を持ち込み金と交換することで大きな利益が得られた。その結果として、急激な金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった(幕末の通貨問題)。
 さらに、不平等条約に必ず盛り込まれるのが「片務的最恵国待遇」であった。これはすでに日米和親条約に盛り込まれていたが、事後に他国がより有利な条約等を結んだ時には、それと同等の条件を提供することを義務付けたもので、為替変動や関税率など変動要因の大きい経済分野では重要な条項となる。外交に不慣れな当時の幕府には、はたしてそこまでの認識があったかどうかあやしい。
(この時期の出来事)
*1856.9.-/ 長州藩は、蟄居中の吉田松陰に、萩の松下村塾の主宰することを許可する。
*1857.10.16/ 福井藩主松平慶永(春嶽)らが、一橋慶喜を次期将軍に推奨し(一橋派)、紀州藩主徳川慶福を押す井伊直弼ら(南紀派)との対立構図が明かとなる。
*1858.10.26/ 徳川家茂(慶福)が征夷大将軍となり、第14代徳川将軍に就任する。
*1858.11.16/ 西郷隆盛と僧月照が入水、西郷は救助され、のち奄美大島に潜伏させられる。
*1858.12.5/ 長州藩は、藩老中襲撃を企てたとして、吉田松陰を投獄する。
*1860.1.19/ 幕府軍艦奉行木村喜毀・軍艦操練所頭取勝海舟ら90余名が、咸臨丸でアメリカに向けて浦賀を出帆する。
*1860.8.18/ 孝明天皇が、皇女和宮の降嫁勅許を幕府に内達する。
*1860.12.5/ アメリカ通弁官ヒュ−スケンが、薩摩藩士に惨殺される。

◎黒船来航と開国

2021-10-18
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1851-1855年】-2
◎黒船来航と開国
*1853.6.3/ 米艦隊司令官ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航する。
*1853.6.9/ 浦賀奉行が久里浜でペリーと会見、アメリカの国書を受け取る。
*1854.1.16/ ペリーが軍艦7隻を率いて浦賀に再来、さらに江戸湾内に停泊する。
*1854.3.3/ 幕府が、日米和親条約(神奈川条約)に調印する。
 嘉永6(1853)年6月、米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが率いる艦船4隻が、江戸湾浦賀に接岸した。ペリーは浦賀奉行に、開国を促す米大統領フィルモアの親書を手渡した。幕府側は、将軍が病気であることを理由に、返答に1年の猶予を要求し、ペリーは、1年後に返事を聞くために再来航するとした。
 米国はこの7年前の1846年にも、ビッドルが浦賀に来航して通商を求めた。この時に穏便な交渉方針で臨んで拒否された経験から、ペリーの艦隊は武力で威圧する方針を定めてやって来た。それまでの帆船とは異なり、もうと煙を上げて進む外輪蒸気船の「黒船」は、それだけで威嚇効果は十分だった。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲と称して、江戸湾内で数十発の空砲を発射すると、江戸庶民は腰を抜かした。
 ペリーはその後も数日間、威嚇するように江戸湾に入り込んだうえで、退去した。そのわずか10日後に将軍家慶が死去、第13代将軍家定が就任するも、虚弱ゆえに国政を担える状況ではなく、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。この前年、オランダ商館長から、アメリカが日本の開国を求めて艦隊を派遣するという予告を受けていたが、幕府は黙殺していた。
 ペリーが1年後に再来するとなってから、幕府は大慌てで対策にのり出した。江戸湾警備の増強として、品川沖に11箇所の砲撃用の台場造営を命じた。また、大船建造の禁も解除し、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を浦賀造船所で起工した。さらに、オランダへの艦船発注を発注し、アメリカから帰国した漂流民ジョン万次郎を登用し、アメリカの事情等を説明させた。
 いかにも泥縄式の対策を講じている幕府をあざ笑うかのように、1年の猶予だったはずが、わずか半年後の嘉永7(1854)年1月に、ペリーは6隻の艦船を率いて再来した。続いて3艦も到着、江戸湾に計9隻の艦隊が集結し、江戸は大きく動揺した。虚を突かれた幕府は、このさい開国も止む無しと考え、全12ヵ条に及ぶ「日米和親条約」(神奈川条約)を締結する。ここに200年に及ぶ鎖国は解かれた。
 ひき続き、英・露・蘭とも和親条約を結ぶことになる。オランダとは長い付き合いにも関わらず、紳士的な話し合いで対応したため、武力に訴えてきた米英などより最後にまわされてしまい、強く出る者だけに腰砕けになる幕府の弱腰が明かになると、幕府の権威は地に落ちた。これ以降、「幕末」の風が吹き荒れることになる。
 安政5(1858)年6月には、日米和親条約に基づいて赴任したタウンゼント・ハリス総領事により、「日米修好通商条約」が締結される。この不平等条約は、以後の他の列強との条約の基本となり、日本政府は明治期の終わりまで対応に腐心することになる。ただしアメリカでは、1861年からの南北戦争で内乱状態となり、以降の日本への影響力を失い、主として英仏が幕末の日本の動向に介在することになる。

中国、有人宇宙船を発射 独自ステーション連結

2021-10-16
© KYODONEWS 有人宇宙船「神舟13号」を搭載し、打ち上げられる「長征2号F遥13」=16日未明、中国・酒泉衛星発射センター(共同)
共同通信社 2021/10/16 09:24

【酒泉共同】中国は16日午前0時23分(日本時間同午前1時23分)、有人宇宙船「神舟13号」を打ち上げ、約6時間半後に中国が独自に建設中の宇宙ステーションにドッキングした。
宇宙飛行士3人が中核部分の「天和」に乗り移って半年間滞在し、来年の完成に向け作業する。
習近平指導部が目指す「宇宙強国」の実現に向け、着実な前進となった。

 中国北西部の酒泉衛星発射センターから、ロケット「長征2号F遥13」に載せて発射。
赤い炎を噴き、ごう音とともに夜空に向かって上昇した。
新華社電によると、16日午前6時56分にドッキングに成功した。

ルイス・B・プラー級遠征洋上基地「ミゲル・キース(Miguel Keith)」

2021-10-15
Facebook 中山 正寿 さん曰く、今度は岩国に寄港中のようです。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

2020 年度全戦没者追弔法会 記念講演

2021-04-02
2020 年度全戦没者追弔法会

・趣旨 日常に潜む戦争 ―不安と恐怖の中で―

 私たちの宗門は、かつて侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに多くの人々を戦 場へと送り出しました。戦争で命奪われたすべての人々、遺族のみならず、アジア諸国、 とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。戦争の 歴史が明らかにされる中で、私たちは被害者であると同時に、加害者としての歴史も問わ れてきたのです。だからこそ、なぜ戦争が起きるのか、社会はなぜ戦争に向かったのかと いうことを、全戦没者の悲しみの歴史に学び、戦争をくり返してきた人間の過ちを見つめ、 未来に伝えていくことを大切にしています。 この法会において、私たちは、戦争で命奪われたすべての人々の願いに耳を澄まし、日 常に潜む戦争の影を見つめ、戦争の無残さ、それを生み出す人間の深い闇を、心に刻みた いと思います。そのことにより、「国 こく 豊 ぶ ⺠安 みんあん 兵戈 ひょうが 無用 む よ う (国豊 ゆた かに⺠安 やす し。兵戈 ひょうが 用 もち いるこ となし。)」(『仏説無量寿経』)という、仏の大悲によって真実の豊かさと安らぎが与えら れるところに、兵士も武器も必要がないという教えが、具体的な現実の課題をとおして知 らされます。 いま世界は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に震撼しています。国内においても 感染終息の目途が立たず、命を守るために感染を防ぐ努力は大切です。しかしながら、看 過してはならないのは、感染することにより世間から冷たい眼を向けられるのではないか と恐れる私たちの心や世間の風潮です。その恐れやメディアの報道などによって、私たち の心は追いつめられ、増大した不安から大衆の動向に身をゆだねることで、かりそめの安 心を得ているのではないでしょうか。 国家による戦争と、ウイルスという公衆衛生の問題は、本来、質が異なります。しかし、 不安の高まりからくる過剰な同調圧力は、戦時下と似通ったものを感じずにはいられませ ん。私たちは、不安から逃れるために、その場の空気や力関係に従うことで自分の身を守 ろうとします。そのような意識が、家族のため、みんなのため、やがては国のためにと、 「自発的に」命令に従い、「正義」の名のもとに凄惨な戦争へと向かっていったのです。 私たちは、厳しい状況の中で、⼾惑い揺れ動く心や、追いつめられて呻 うめ きをあげる一人 ひとりの小さな悲しみこそ大切にしていきたいと思います。それにより、「一切 いっさい 恐懼 く く 爲作 い さ 大安 だいあん (一切の恐懼 く く に、ために大安 だいあん を作 な さん。)」(『仏説無量寿経』)という仏の願いに応え てまいります。 このたびの法会が、非戦・平和への歩みを共につなぐ場となることを心より願います。
講師:真城 義麿氏(真宗大谷学園専務理事・元大谷高校校⻑)

政局について

次の総裁、河野氏トップ 内閣支持率5カ月ぶり回復

2021-09-20
立候補者討論会に臨む(左から)河野太郎ワクチン担当相、岸田文雄前政調会長、高市早苗前総務相、野田聖子幹事長代行
=18日午後、東京都千代田区の日本記者クラブ(宮崎瑞穂撮影)(株式会社 産経デジタル)
産経・FNN合同世論調査 2021/9/20 11:39

https://www.sankei.com/article/20210920-POZDTID4Q5JM5D4WO2FO3G7RD4/?utm_source=coins&utm_medium=push&utm_campaign=COINs

産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)は18、19両日に合同世論調査を実施した。菅義偉(すが・よしひで)首相の後任を選ぶ自民党の総裁選に立候補した4人のうち誰が新総裁にふさわしいかを聞いたところ、河野太郎ワクチン担当相が52.6%で最も多かった。岸田文雄前政調会長が15.2%で続き、高市早苗前総務相は11.6%、野田聖子幹事長代行は6.4%だった。

次期首相に最も必要な資質については、リーダーシップが35.4%と最多で、政策20.2%、説明能力19.5%、実績9.1%、国際感覚8.5%、人柄5.9%と続いた。

次期首相に最も期待する政策(複数回答)に関しては、新型コロナ対策が59.2%でトップ。景気や雇用40.2%、年金・医療・介護27.8%、子育て支援・教育19.3%、外交・安全保障18.1%、行政改革・財政再建15.2%、環境・エネルギー政策7.0、憲法改正5.8%-の順だった。

一方、首相が、自民総裁選に立候補せず退陣を表明したことに関しては「妥当だと思う」が78.9%、「妥当だと思わない」が15.8%だった。

菅内閣の約1年間の実績を評価するかどうかは「評価する」が62.5%、「評価しない」が36.2%だった。

5月以降下落を続けていた菅内閣の支持率は10.2ポイント増の42.3%で、不支持率は9.1ポイント減の52.2%だった。支持率が回復するのか5カ月ぶり。

ワクチンの2回接種が国民の5割に達したことなどから新型コロナ対策は「評価する」が19.8ポイント増の42.5%と上昇に転じた。「評価しない」は21.7ポイント減の48.7%だった。


河野候補

2021-09-18

岸田候補

2021-09-18

高市候補

2021-09-18

野田候補

2021-09-18
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