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闘いの歴史

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「あの感触は…」米兵の生体解剖事件、70年以上消えぬ苦しみ

2021-09-05

太平洋戦争末期 九州帝国大学医学部で行われたアメリカ兵の捕虜に対する生体解剖事件。その現場に立ち会った故・東野利夫医師(享年95)が語った事件の真相とはー

戦時の九大生体解剖事件の証言者、東野利夫

2021-09-05
<九大生体解剖事件>「戦争は人を狂わす」

戦争医学の汚辱にふれて ――生体解剖事件始末記―― 平光吾一

2021-09-05

「しかたなかったと言うてはいかんのです」

2021-09-05

「生体解剖事件」戦犯となった医師の悔い

2021-09-05
拡大 晩年の鳥巣太郎さん(熊野以素さん提供)

1945年5~6月、九州帝国大医学部で、熊本、大分両県境に墜落し捕虜となった米軍機B29搭乗員8人に、外科医らが西部軍立ち会いの下で実験手術を施し、全員を死亡させた。片肺を切除しても生きられるか、海水は代用血液として有効か、などの確認が目的だったとされる。執刀した外科教授は独房で自殺。48年の横浜軍事裁判で軍関係者9人と九大関係者14人が絞首刑や終身刑などの有罪判決を受けた。50年に恩赦で減刑され、死刑になった者はいない

闘いの記録 (戦争と人間)

昭和17年(1942年) [日系人強制収容所]米国ワイオミング州、 彩色でなくカラーフィルム写真

2021-11-26
Facebook 手塚健二さん曰く、お盆を迎え盆踊りの着物の女性
昭和24年(1949年) 神奈川県三崎町 [正月 晴れ着の少女たち]
アメリカ人 駐留者の撮影

「被爆者・坪井直さんのメッセージ▽家族が語った最期の言葉

2021-11-15
クローズアップ現代+
長年、核兵器廃絶を訴えてきた坪井直さんが先月、96歳で亡くなった。爆心地から1.2キロで被爆。40日間生死をさまよい、目覚めたとき口にしたのは、アメリカへの憎しみだった。しかし、5年前、オバマ大統領が広島を訪れた際には、「我々は未来に行かにゃいけん」と前向きな言葉を語りかけた。憎しみをどう乗り越え、どんな未来を見ていたのか。NHKの独自映像と、家族や薫陶を受けた若者たちへの取材から、一人の被爆者が、未来に遺そうとしたメッセージを伝える。

91歳 「オバマと会った被爆者」が伝えた思い

2016年、坪井さん91歳のとき。アメリカのオバマ大統領(当時)が、現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪問。坪井さんは被爆者代表として、その場に参列しました。

原爆を投下した国・アメリカの大統領に、被爆者代表は何を語るのか。謝罪を求めるのか否か。世界中のメディアが注目する中、坪井さんはオバマ大統領の手を取り、笑みを浮かべながら語りました。


「被爆者の坪井直と申します。被爆者としては、そのこと(原爆投下)は人類の間違ったことの一つ。それを乗り越えて、我々は未来に行かにゃいけん。オバマさんがプラハで言った、『核兵器のない世界』、私たちも行きますよ」

核兵器廃絶へ「ネバーギブアップ」

原爆によって多くの命が失われてから、76年。坪井さんは自らも度重なる病で生死の境をさまよい、アメリカへの憎しみを抱えて生きてきました。それでも、憎しみを乗り越えて理性で「核兵器廃絶」を訴え続けました。そして貧血による不整脈のため、96歳で亡くなりました。

その功績は、世界で評価されています。

長崎です。

2021-11-14
『読売新聞』、2021.11.14朝刊

◎明治六年政変/征韓論政変

2021-11-13
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1873(m6)年】-3
◎明治六年政変/征韓論政変
*1873.10.23/ 明治天皇が、岩倉具視の奏上をいれて、西郷隆盛の朝鮮派遣中止を決定する。西郷は、参議・近衛都督を辞任する。これをうけて、副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の各参議も辞表提出。(明治六年政変/征韓論政変)
 「明治六年政変」(1873年)は、征韓論に端を発した一大政変であり「征韓論政変」とも言われる。征韓論の対立に関しては「岩倉使節団」(1871年)で触れたが、単純化すれば、征韓論を推進した西郷ら「留守政府派」に対して、帰還した大久保・木戸らの「使節団派」が中止させたということになる。
 ロシア・清の潜在的脅威をふまえて、防波堤として押さえておきたい朝鮮を従属させようという「征韓論」に対して、近代化を為し遂げた欧米を視察した使節団は、その前に国力を充実させるべきだと対立した、というのが教科書的な説明になるが、これだけでは何か腑に落ちないものが残る。
 西郷隆盛は必ずしも武力による征韓論ではなく、自らが全権大使となって訪韓するという「遣韓論」であって、直接派兵派の板垣退助、江藤新平らも最終的にこれに同意し、一旦は西郷の使節派遣に決まった。しかし、帰国した大久保利通らはこれに反対し、結局は岩倉具視に諮って覆してしまった。
 派遣中止決定会議の当日、西郷は参議を辞任、同調した板垣、後藤、江藤、副島の参議も翌24日に辞表を提出し、参議半数の5人が下野した。さらに、西郷に同調する薩摩出身者らを始め、政府高官・官吏、将校・軍人など約600名が辞職帰郷する事態に発展、まさに政府・官僚を真っ二つに割る大政変となった。
 この政変で下野し帰郷した要人らに率いられて、佐賀の乱(江藤新平)、萩の乱(前原一誠)、西南戦争(西郷隆盛)など一連の「不平士族の乱」が引き起こされることになり、それらが完全鎮圧され武力による反乱不可能となると、今度は言論による「自由民権運動」(板垣退助ら)へと、政府批判の運動が継がれていった。
 大久保利通の反対論には、表に出ない要因や感情的な反発などもあっただろうが、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が多数存在するという主張には一理があった。まずは内政を充実させることが優先し、その上で、清との琉球帰属問題、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正など、明治新政府が片付けていかねばならない国際問題は山積していたのである。
一方で、留守政府を仕切った西郷隆盛は、強兵で国力を高めることが第一と考えていたことは間違いない。その過程で、徴兵制が施行されたあとの旧藩士の処遇に頭を痛めていたことと考えられる。そのような士族の一種の失業対策として、朝鮮半島へ向けるという考えもあったのであろう。
 西郷は幕末・維新の節々で重要な役割を果たしたが、いったん事が落ち着くとすぐに身を引いたりしており、一貫して内政実務を遂行したという印象が薄い。軍政には長じていても、内政実務は苦手だったのではないだろうか。薩摩藩の藩政改革に携わるうちに、幕府は駄目だと見切るに至り倒幕に踏み切ったが、必ずしも、明瞭な近代国家像を思い描いていたわけではなかったと思われる。 
 そのため内政の判断においては「情」に流されることも多く、勝海舟との江戸無血開城談義は、むしろそれが良い方向に働いた例、一方で征韓論では、下級士族への情的配慮が先行したのではなかっただろうか。かくして下野して薩摩に戻ると、不平士族に取り巻かれて、やがて西南戦争へと引き込まれることとなった。
 征韓論問題とは、はたして時の政府を二分してしまうほどの緊喫な課題であったかどうか。その裏には、使節外遊派と留守政府派との対立が基調にあり、さらに旧藩閥間の勢力争いなどもうごめいていた。留守政府では、西郷のもとで、後藤象二郎・江藤新平・大木喬任が参議に新任され、薩摩に加えて佐賀、土佐出身者の重用が目立ちだした。
 それに対して長州派は、山縣有朋や井上馨が汚職問題に絡んで要職を辞任することになり、留守政府での立場を弱めていたため、外遊から帰国した伊藤博文たちは、大久保と西郷を対立させるなどの工作を行った。なかでも司法卿江藤新平は、疑獄に絡んだ山縣や井上を厳しく追及し、辞任に追い込んだ宿敵と見なされた。
 江藤新平は、いち早く三権分立(特に司法の自立)と議会制を基本とした君主国家を構想し、郡県制(廃藩置県)により中央集権を図り、封建的身分制度を排して四民平等を称えるなど、英仏を範とする法制度を中心にした法治国家を目指した。それゆえ、情実で利権を貪る薩長藩閥高官などには、厳しい方針で対したため、敵も多くかかえた。
 行政権を掌握して、プロイセン風の強権的近代化を推進する大久保利通とも、対立するようになっていたが、その時に征韓論問題が起こった。留守政府の一員として、征韓論には賛成派となったが、これは大久保、伊藤など反対派による、江藤追い落としの格好の材料となった。このように、「征韓論政変」の裏側では、さまざまな力学が働いていたと考えられる。
 江藤新平は下野すると、板垣・後藤らが主導した「民撰議院設立建白書」に署名したあと、佐賀に帰郷する。佐賀で不平士族らに担がれて、最初の大規模不平士族の反乱と言われる「佐賀の乱」を引き起こすも、大久保利通内務卿の手配のもと、政府軍部隊によって鎮圧され、捕縛された江藤は「梟首刑(晒し首)」とされた。
 江戸時代の刑罰で、当時の規定には無い「梟首刑」は大久保の指示で、反乱の見せしめとして、即断実行された。皮肉にも、江藤が目指した司法による公平な裁判でなく、旧制度のもとで極刑に処せられたのであった。
『明治六年政変』(毛利敏彦著/中公新書/1979)
(追補)
 征韓論政変は、外交問題での対立というより、岩倉使節団外遊中に、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助ら、肥前・土佐藩勢力が増して、一方、山縣有朋が汚職で追い落とされたり、内政重視派の大蔵大輔井上馨が孤立するなどで、勢力が下降した長州藩勢力第2世代の伊藤博文らが、江藤・板垣ら肥前・土佐勢追い落としに仕掛けた内政クーデターだと思われる。
 江藤・板垣らが下野して反政府勢力となるのは織り込み済みだったが、西郷までもが政府を去るのには、さすがの大久保利通も驚いただろう。西郷は、ごたごたした新政府の内政は苦手で、維新後の自分の役割は済んだとも認識していただろうし、引き際をうかがっていたので、この機会に降りることにしたのだろうと思われる。

「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)
織田信長と摂津国石山本願寺に拠る本願寺第 11世顕如との間で元亀1 (1570) 年から天正8 (80) 年までの 11年間にわたって続けられた合戦。室町時代中期以降,浄土真宗 (一向宗) 教団の伸張は著しく,一向一揆は,領主,守護大名などに対する戦いを広範囲に展開した。本願寺第 10世証如は,第8世蓮如の建立した石山道場を同宗の本寺とし,寺域を広げ,防備を固め,門前に新興商工業者を集め,やがて同寺は一大領主勢力に発展した。浅井,朝倉両氏を討って全国統一を目指す織田信長は元亀1年,本願寺打倒に立上がり,本願寺はその興廃をかけて全国門徒を対信長戦に駆りたてた。以来,天正8年3月,顕如が信長と和して本願寺を信長に渡し,同年4月,紀伊雑賀 (さいが) に退くまで合戦は続けられた。この間,信長は一向宗門徒を近江,長島,雑賀に討ち,浅井,朝倉両氏を滅ぼし,武田氏を長篠に討ち,さらに伊勢に北畠氏を滅ぼし,一方,中国征伐の軍を起すなど,本願寺を孤立させていった。石山本願寺の降伏は,信長の畿内および周辺に対する政権の確立を意味する(百科事典マイペディア「石山合戦」)。

闘いの転機(戦いの前と後)

AIRPOWER 2016 - Full Messerschmitt Me 262 Flying Display.

2021-09-20
www.flugmuseum-messerschmitt.com Messerschmitt Me 262 Flying Display at the Airpower 2016 in Zeltweg Austria.

「最高の年」が過ぎ去ったとき–航空機の「墓場」

2021-09-18
2018年6月6日 Matthew Gaskill、ゲスト著者
引退したB-52爆撃機

第二次世界大戦の終結から1年余り後の1946年11月、RKOピクチャーズとサミュエルゴールドウィンは、1947年のアカデミー賞で7つのオスカーを受賞した映画「我等の生涯最良の年」を公開しました。


あなたがそれを見たことがないなら、あなたはそうすべきです。知らない人のために、それは3人の帰国した退役軍人と彼らが民間人の生活に戻るのに直面した困難の物語です。俳優の一人、ハロルド・ラッセルはこれまで演技をしたことがありませんでしたが、戦争で両手を失ったホーマー・パリッシュを演じて、オスカー最優秀助演男優賞を受賞しました。

大井はそれを返す:ソ連が1951年にアメリカのF-86セイバージェットを盗んだ方法

2021-09-18

朝鮮戦争中(1950年から1953年)、アメリカとその同盟国は韓国に味方し、ロシアと中国は北朝鮮に味方した。彼らの多くの武器の中で、米国は北米のF-86セイバー(セイバージェットとも呼ばれる)を持ち、北朝鮮はロシアのMIG-15を使用しました。したがって、双方は相手の飛行機について知りたがっていました。ソ連がセイバーを盗むことに決めたのはそのためです。


アメリカは1949年に第1戦闘航空団の第94戦闘飛行隊の飛行隊の一部としてF-86を使用し始めました。彼らのスイープウィングのデザインは、彼らがトランジック速度(時速600 t0 768マイルで音速を超える)を達成することを可能にし、彼らのまっすぐな翼を持つ相手がほこりに咳を残しました。

したがって、彼らはすぐに朝鮮戦争で使用された主な空対空戦闘機になりましたが、F-80やF-84のようなまっすぐな翼を持つジェット機の以前のモデルはまだ使用されていました。これは、ソ連が自分のミコヤン・グレビッチMiG-15ジェット戦闘機でセイバーに応答した1950年11月1日に変更されました。

ドイツ空軍自滅ミッション:ボーデンプラッテ作戦 – 1945年1月1日

2021-09-17
2018年4月6日コリン・フレイザー、ゲスト著者

ドイツ空軍にとって、第二次世界大戦は1945年1月1日に終わり、同盟国の空中優位に対する最後の必死の試みで終わりました。この日の後、西部と東部の戦線がベルリンに崩壊したため、ドイツの空は次の数ヶ月ですぐに失われました。


ボーデンプラッテ作戦は、アルデンヌ攻勢、またはバルジの戦い(1944年12月16日-1945年1月25日)を支持して連合軍の空軍力を損なうように設計されましたが、悪い冬の天候は最初の利用可能な日、1月1日まで操作を押し戻しました。

ボーデンプラッテ作戦のような効果的で大量の空爆のために天候が十分に改善された頃には、アルデンヌ攻勢は西側連合国によって停滞していました。そこで、このドイツ空軍の攻撃はノースウィンド作戦を支援するために変更されました。

この巨大な潜水艦工場は、

2021-09-17
2018年1月7日シャハン・ラッセル、ゲスト著者

エーリッヒ・フリードリヒ・マイケル・ラックナーは、前世紀の最も影響力のあるエンジニアの一人と考えられています。彼は革新的なタイプのコンクリート構造を開発し、世界中の多くのプロジェクトを担当しました。彼の遺産は、インロス・ラックナーAG建設会社、エリック・ラックナー財団、エリック・ラックナー賞に残っています。


しかし、Lacknerは名声を得る別の主張を持っています。彼はドイツのバレンティン潜水艦工場の現場の監督エンジニアでした。大規模な施設では、わずか20ヶ月で10,000人から12,000人の奴隷労働者が建設されました。これらの労働者は母国から連れて行かれ、現場で働くことを余儀なくされました。何千人もの人々が過大暴露、栄養失調、要約処刑で死亡したが、決して完了しなかった。

建設は1943年にレクムのブレーメン郊外のヴェーザー川沿いに始まりました。ナチスはすでにフランスのブレストにはるかに大きなUボート基地を持っていましたが、工場ではありませんでした。戦争に勝つためには、ドイツはイギリスを取り出す必要があった - アメリカ人が戦争に入るまで海上で唯一の脅威。

真宗大谷派の取り組みについて

戦時中の出来事です。

2021-07-07

「洛中大火夢物語」 木版地図

2021-06-15
 元治元年(1864年)7月19日京都大火の模様。
禁門の変(蛤御門の変)に伴い、長州藩邸(現在の京都ホテルオークラ)付近と境町御所付近から出火。
Facebook牧野直人さん曰く
先祖から伝わる幕末の古地図より。
 1。「洛中大火夢物語」 木版地図
 元治元年(1864年)7月19日京都大火の模様。
禁門の変(蛤御門の変)に伴い、長州藩邸(現在の京都ホテルオークラ)付近と境町御所付近から出火。火の手は現在の京都御苑の西側~南東方面の広い範囲に広がり、東本願寺、本能寺等多くの寺院も焼失した。
 京都市街の半分以上、約27000世帯、が焼失、死者は約340名が出たと云う。
 どんどん焼け、元治の大火、鉄砲焼け、ともいう。
 2。大火直前の京都の地図と思われるものもありましたので投稿致します。

東西分立について

2021-02-02
本願寺は二つに分かれ、その位置から准如上人の堀川七条にある本願寺を西本願寺といい、教如上人の烏丸七条にある本願寺を東本願寺と称するようになったのです。
徳川家康は京都七条烏丸に寺基を寄進し本願寺を建て、隠居されていた教如上人を招きました
Hp浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺より
戦国の世も終わりに近づき、顕如上人は長男教如上人と共に京都堀川の本願寺に移られました。
その翌年(1592)顕如上人が御浄土に御還りになり、教如上人が本願寺を継職され、親鸞聖人御一流の御法義はより一層諸国に弘まろうとしていました。
ところがその三年後、急に時の天下人豊臣秀吉が介入、教如上人は突如として隠居させられる事となりました。
代わりに本願寺を継職されたのは三男の准如上人というお方です。
教如上人は時流を読むのに長けた方でしたので、秀吉は、日本最大の教団に教如上人がおられるのを恐れたのです。
さらに時は流れ、いつしか天下の趨勢は徳川家康の手に落ちていました。
家康は京都七条烏丸に寺基を寄進し本願寺を建て、隠居されていた教如上人を招きました。
時の天皇陛下の勅許を賜り、教如上人はこの本願寺に入ることとなりました。
ここに本願寺は二つに分かれ、その位置から准如上人の堀川七条にある本願寺を西本願寺といい、教如上人の烏丸七条にある本願寺を東本願寺と称するようになったのです。
統治能力に優れた家康は、本願寺を東西に分かつことによって、本願寺の力を二分し、幕府の基礎を安泰ならしめたのです。
ここで私たちが覚えていなければならないことは、親鸞聖人御一流の御法義に食い違いが生じて東西に分かれたのではないということです 

石山本願寺と顕如上人

2021-02-02
顕如上人(1543〜1592)
長男教如上人(1558〜1614)
『石山合戦』

顕如上人(1543〜1592)の時代はまさに戦国時代。
織田信長が猛威を振るい各地で戦が絶えませんでした。
本願寺とていつ信長に襲われるか分からない緊迫した中で、顕如上人は布教活動をなさっておられました。
ついに本願寺にまでも信長の魔の手が伸びてきました。
信長は本願寺を見て、一方的に「ここに城を築くので本願寺を移転せよ」と顕如上人に伝えてきたのです。
当然のことながら顕如上人はこれを頑なに拒否されました。
蓮如上人が築かれた法城を再度失うことは思いもよらぬことです。
これに激怒した信長は本願寺を武力で攻めてきましたが、顕如上人は御門徒にこの事態を説明し、よくこれを防がれました。
これが歴史の教科書などでお馴染みの、十一年間の長きにわたり繰り広げられた『石山合戦』なのです。
あまりの長期にわたる戦に、時の天皇陛下が和議に立たれたので、長引けば犠牲者が多くでるばかりであると考えられた顕如上人は、信長に石山本願寺を明け渡し、紀州鷺森に移られる御決心をなさいました。
しかし、当時新門であられた長男教如上人(1558〜1614)は、信長の過去の行為から講和後の奇襲も予想されるとお考えになられて、徹底抗戦の構えを崩されませんでした。
が、再度朝廷より和議の命を受け鷺森に退かれました。
ついに蓮如上人御苦心の石山本願寺は信長の手に渡ってしまったのです。
顕如上人が鷺森を本願寺とし再興なさろうとしていた矢先、教如上人の予見通り、信長は家臣の丹羽長秀に鷺森襲撃を命じました。
しかし命運が尽きたのは、信長の方だったのです。
そのときちょうど本能寺の変が起こり、顕如上人も鷺森本願寺も難を逃れました。
その後、顕如上人は貝塚、天満と移られ、その都度本願寺の寺基も移り変わりました。
そして豊臣秀吉から京都七条堀川の地に十万余坪の土地を寄進され、顕如上人はそこに移られ、本願寺の寺基もまたその地に移されたのでした。
戦国の世も終わりに近づき天下太平の槌音が聞こえて参りましたが、この直後に思いもよらぬ出来事が起こるのです。

石山本願寺について

2021-02-02
蓮如上人と御同行が心血を注いで建立された山科本願寺は、他宗徒と近江の大名六角氏に攻められ、紅蓮の炎に包まれてしまったのです。
蓮如上人の曾孫の證如上人(1516〜1554)
證如上人は大阪石山の坊舎に移り、そこを本願寺と定められました。これが有名な「石山本願寺」です。
Hp浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺より
応仁の乱に端を発した天下の暗雲は日本全土を覆い尽くし、本願寺もそれと無縁ではいられなくなりました。
このころの本願寺は蓮如上人の曾孫の證如上人(1516〜1554)の時代でした。
證如上人はわずか五歳で父圓如上人と死別され、そして祖父實如上人がお亡くなりになり、十歳で本願寺を背負うという大変な御苦労をされました。
しかし御苦労はそれだけではとどまらず、あろうことか蓮如上人と御同行が心血を注いで建立された山科本願寺は、他宗徒と近江の大名六角氏に攻められ、紅蓮の炎に包まれてしまったのです。
證如上人は大阪石山の坊舎に移り、そこを本願寺と定められました。これが有名な「石山本願寺」です。
世の乱れはますます勢いを増し、本願寺の歴史に大きな爪痕を刻み込むこととなるのです。 

政局について

総括いたします。

2021-11-08
Facebook 伊吹文明さん曰く
総選挙が終り、自公政権継続の民意が定まりました。
後継者である勝目やすし君が京都一区で無事当選し、肩の荷がおりました。
彼に伝えたことは、「当選者一人の小選挙区選出議員は、自分に投票頂いた有権者だけでなく、他に投票した有権者の主権も代表していることを忘れないように」ということです。
従って異なる意見にも耳を傾ける姿勢、しかし最後は自分の価値観、自民党公認という筋を通す姿勢が大切になります。
勝目君が謙虚に研鑽を積み、多くの人に支持され、人間として、政治家として大成してくれることを願っています。
 私も自民党所属代議士の立場を離れ、今後は一国民・ひとりの有権者として意見を述べたいと思います。
とはいえ、私の政治理念や価値観が変るものでもなく、政策や政局、社会事象への評価は従来と大きく違わないので、異なる立場、価値観でのご意見もご遠慮なくお寄せ下さい。
 さて総選挙の総括です。
自民党は選挙前の予測をくつがえし、議席数は減ったものの単独過半数を大きく上回り、自公合計の議席数は絶対過半数(衆議院の各委員会の委員長を自公で独占しても、なお各委員会の過半数を制する)を超えました。
一方立憲民主党は、選挙前の議席数大幅増の予測に反し、選挙前議席を10以上減らしました。
自民・立憲とも選挙前議席を減らした分、維新は大阪を中心に小選挙区を制し、他都府県でも比例票を大幅に伸ばし、選挙前から30議席増の第三党に躍り出ました。
 この背景を自民、立憲両党は検証し、党勢を立てなおさないと、来年の参議院選挙は両党にとって厳しいものとなるでしょう。
議席大幅減の予測をくつがえした自民党に勝利感は希薄です。
勝った小選挙区の多くで前回の得票率を下回り、甘利幹事長、石原元幹事長、現元大臣等が小選挙区で苦杯を嘗める等手放しで喜べる状況ではありません。
これまでのコロナ対策を私は評価していますが、その良さの説明がうまくなく、国民の不満やいらだちを抑えられなかった印象です。
森友案件や政治とカネについても、国民への誠実な説明姿勢が問われたようです。
聞く力」に加え、「説明する力」、「実行する力」が期待されます。
 立憲民主党は、共産党に選挙協力に引き込まれたのが失敗だったと思います。安全保障や経済成長戦略、天皇制等、共産党綱領や主張は非現実的と国民は見ています。
選挙の票の数合せを狙ったのが逆に、自公政権には不満でも、理念の違う共産党と選挙協力する立憲民主党にも投票したくないとの民意を生み、政権批判の受皿として維新の伸張を許したと思います。
日本政治の為、立憲民主党が健全なリベラル政党としての成長することを願っています。

茂木新幹事長のあだ名は「モテキング」、政官とも恐れる王様起用3つの理由

2021-11-06
© ダイヤモンド・オンライン 提供 自民党幹事長への就任の記者会見をする茂木敏充氏(11月4日) Photo:JIJI
小倉健一 2021/11/06 06:00

自民党幹事長に茂木敏充前外相が就いた。
トランプ前大統領に「タフネゴシエーター」と言わせしめた高い実務能力を持つ一方で、「とにかく怒りっぽい」と毀誉褒貶が激しい。
永田町・霞が関では期待と不安が交錯するが、岸田文雄首相の茂木氏起用には、三つの深謀遠慮が透けて見える。(イトモス研究所所長 小倉健一)

攻めてるつもりでしたが・・・。

2021-11-01
『読売新聞』の朝刊、2021.11.1です。

NHK 選挙WEB

2021-10-19

甘利幹事長が小選挙区敗北で辞任へ

2021-11-01
自民党本部の開票センターで、当確者の名前にバラを付ける総裁の岸田首相(右)と小選挙区で敗北した甘利幹事長(中央)。甘利氏は幹事長を辞任する意向を党幹部に伝えた
31日午後9時56分、東京・永田町
11/1(月) 0:05配信 「安倍」「小石河連合」の”逆襲”が始まる

岸田文雄首相(自民党総裁)は11月1日未明、政権の要である甘利明幹事長が小選挙区敗北により辞意を固めたことを受け、今後の政権運営への懸念を強めた。甘利氏の後任が焦点となるが、政権への打撃は必至だ。自民、公明両党は1日に党首会談を開き、連立政権の継続を確認。新型コロナウイルス対応や、格差是正を含む経済対策の裏付けとなる2021年度補正予算案の編成に取り組む。立憲民主党など野党は来年夏の参院選をにらみ、甘利氏敗北は「政治とカネ」問題が主要因とみて、追及を強める。

 首相は党本部で、甘利氏の進退を巡り「本人の話を聞いた上で、私が判断する」と語った。

闘いすんで 陽が暮れて・・・

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

勝新太郎さんと田宮二郎さんというより、「悪名」の二人・・・。

2021-11-22
Facebook 石山 裕子さん曰く、勝さんお若いです。田宮さんカッコいいです。

ジョニーという生き方

2021-11-25
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

日曜日も 終わりそうね

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。
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