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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

「坂の上の雲」

2020-07-20
https://www.youtube.com/watch?v=sqhCtr15FQE
原作:司馬遼太郎「坂の上の雲」
音楽:久石譲
朗読:渡辺謙
演奏:NHK交響楽団

東京招魂社を靖國神社と改称

2020-06-05
Facebook 英霊の本日の出来事
 
英霊の本日の出来事
 

明治12年6月4日の本日、東京招魂社を靖國神社と改称致しました。
別格官幣社に列す。

正字による表記は「靖國神社(「靖」の旁の「青」の下部が「月」でなく「円」、「国」は舊字體)」。
神社名にある「靖國」は『春秋左氏伝』第6巻僖公23年秋条の「吾以靖國也(吾以つて國を靖んずるなり)」を典拠として明治天皇が命名したもので、明治12年に改称。
當初の東京招魂社の「招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社號としては妥當を失する」可能性があるために廃されたというが、名称變更後も「招魂祭」は続けられている。
因みに同年6月16日の「社號改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇國をば安國と知食(しろしめ)すが故に靖國神社と改称(あらためとなえ)」とある。
安来が根の国であるということを暗に示したという説もある。
英語圏では「Yasukuni shrine」と表記されるが、それと並んで「war shrine」(戰爭神社)と表記される場合がある。

「祠官・神職」
招魂社と称された時期には神官・神職の定めは無かった。
例大祭・臨時大祭には卿または将官、招魂式には将官または佐官、その他の祭祀には佐官、尉官が奉仕した。
明治8年以降は例大祭・臨時合祀祭・招魂祭の祭主は舊陸軍と海軍が隔番で務めた。
明治12年の改称列格によって官員の祭主は廃され祭典は宮司が行うこととなった。
同時に宮司1名、禰宜1名、主典4名が法令によって置かれ、昭和13年からは権宮司も置かれることとなった。宮司以下神官の進退は内務省が、増員・増俸は内務省・舊陸海軍の3者協議で行い、実際の管理は主として財政を負担した陸軍省総務局が行った 。
また、社司・社掌は陸軍省第1局の所属であったが、明治20年には閣令第4号により神官を廃して神職(職名)を置き、舊陸海軍が補任することとなった。
昭和21年の官國幣社制(近代社格制度)廃止以後は自主管理なった。

(ウィキペディア参照。)
画像は、東京招魂社。
現靖國神社。

「トモダチ作戦」 の秘話。

2021-06-23
Facebook Yosihiro Turusakiさん

「ジャップ、黄色い猿ども」
かつて日本人をこのようにアメリカ人は蔑んでいました。
東日本大震災直後、アメリカ軍が日本の被災者救助のため行われた
 「トモダチ作戦」の秘話。
2011年3月11日東日本大震災が発生、日本に甚大な被害が発生し、当時自衛隊・警察・消防が必死の救助活動を行っていました。
震災直後、同盟国のアメリカは直ちに、日本への復興支援活動を開始してくれました。
オペレーション・トモダチ「友達作戦」。
震災で孤立する、被災地に多くの救援物資を届けてくれましたが、実はこの裏には70年以上前の一つの物語があったから、こそ「トモダチ作戦」が成功したのでした。
それは大東亜戦争終結の5年後、1950年9月の出来事でした。
戦後の傷跡が残る日本に、一人のアメリカ将校が来日しました。
アメリカ海軍提督「アーレイ・バーク大将」でした。
彼はかつての敵国、日本のラバウル方面海軍最高司令官の草鹿中将が公職追放により、鉄道工事現場でツルハシを持って働き「やっと食べて生きている」という話を耳にし、同じ立場にあった軍人とし居ても立ってもいられなくなり、匿名で食料を送ったのでした。
 すると数日後、草鹿本人が怒鳴り込んで来た。
 「侮辱するな!アメリカ人の世話にはならない!」
それだけ言って出て行った草鹿にバーク大将は、日本人の精神に敬意を払うとともに、バーグ自身も草鹿の立場だったら、同じ事をしたに違いと感じたのです。
朝鮮戦争時、日本の帝国ホテルに宿泊した時、ホテル従業員はバーグの荷物を直ぐに持ち、接待しようとしたのですが、これを拒否していました。
実はバークは筋金入りの日本人嫌いでした。
それは日米戦争によって、バークの親友や部下が命を奪われたからでした。
バークの心には、敵国日本への激しい憎悪感がありました。
そのバークが宿泊した帝国ホテルの部屋は、殺風景な部屋で何の飾りもないものでした。そこで、バークは一輪の花を買ってコップに差したのでした。
ところが、翌日バークが部屋に戻るとコップに差してあった花が、花瓶に移されていました。そこで、バークはホテルに
「何で勝手に花瓶に花を移したのか」
と苦情を訴えたのです。
しかし、ホテル側は分からないという回答でした。
数日後には、その花瓶には新しい花が生けられていました。
花はその後も増え続けは部屋を華やかにしました。
この花を飾ったのは、部屋のメイク係の日本人女性でした。
彼女は乏しい給料の中から花を買いバークの部屋に活けていたのです。
その行為に対しバークがチップを払おうとしたのですが、メイク係は
「お金は受け取れません。私はただお客様に心地よく過ごしていただきたいと思っただけです」
と受け取らなかったのでした。
このメイク係の身上を知ったはバークはさらに驚きました。
戦争未亡人でした。
夫を戦争で失った女性がメイク係としてがアメリカ人を嫌わずその花をいけていたのでした。
しかも、その女性の夫は駆逐艦艦長でした。
ソロモン海戦で戦死されたという話を聞いた、バークは
「ご主人を殺したのは私かもしれない」
とメイク係女性に謝罪しました。
ところが、未亡人の女性はこう述べました。
提督が何もしなかったら、提督が戦死していたでしょう。
提督は何も悪い事はしてはいません。
この時バークは「この違いは何なんだ」と考え、日本人の心意義と礼節を知り、バークは親切には親切に答える、という考えに至りました。
特筆すべきは、バーク氏は一刻も早く、アメリカの日本占領を終わらせ、日本独立をアメリカ政府に働きかけました。
加えて戦後5年には日本の平和を維持するため、日本海軍の再建を説いたのです。
アメリカ国内では当時反日感情高まる中、バークは日本の海上自衛隊の発足に尽力を尽くされ、日本海軍機の旭日旗の使用も認めました。
その後バーク氏はアメリカ海軍作戦部長に就任し、日本に対しアメリカ最新鋭機の哨戒機を提供してくれました。
そのバークの功労に日本は、日本最高位の勲章「勲一等旭日大綬章」を贈りました。
バーク氏は1991年96歳で亡くなりましたが、そのバークのご遺体の胸につけられた勲章は日本から送られた「勲一等旭日大綬章」の勲章だけでした。
それは、バークの遺書によるもので、その遺書には日本への感謝と尊敬が書かれいてたそうです。
そして時は流れ、東日本大震災発生当時たまたま、太平洋沖で演習中のアメリカ海軍部隊が日本支援のため駆けつけてくれたのでした。
アメリカ空母、ロナルド・レーガン艦長が指揮する、作戦には2万4000人の将兵、190機の航空機、24隻の艦艇が直ちに日本震災の救助に向かったのです。
その時の空母、ロナルド・レーガン艦長はトム・バーク大佐でした。あの、日本海自を再建した。バークの孫だったのでした。
そのバーク大佐は何と、艦隊の指揮を副官に任せて、艦長自らが救援物積んだヘリを操縦し日本の避難所を飛びまわりました。
 トム・バーク大佐が見た日本の風景
こんな中、救援物資積んだヘリが着陸しようとすると、世界中では、どんなことが起きるか知っていますか?
食料の奪い合いが起こり、もしかしたら、ヘリへの銃撃も起こります。
しかし、日本では食料の奪い合いは一切なくトム・バーク大佐の操縦するヘリはヘリが着陸しやすいその場所を確保しヘリが着陸すると、被災者が荷下ろしを手伝い、全員が飛び立つヘリにお礼をして見送りました。
正に先人のおかげです。
日本人の礼節によって東日本大震災のトモダチ作戦が成功したのでした。万が一にも、先の大戦で日本が卑怯な振る舞いや戦後、アメリカ軍人に無礼な振る舞いをしていたならば、トモダチ作戦は実現もされませんでした。

◎藤原氏内紛と藤原道長と藤原伊周の争い

2021-06-21
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【10世紀クロニクル 981-1000年】
◎藤原氏内紛と藤原道長と藤原伊周の争い
*986.6.23/ 花山天皇が、藤原兼家らに欺かれて出家、一条天皇に譲位し兼家がその摂政となる。
*987.7.21/ 摂政藤原兼家が、氏長者の公邸 東三条殿を再建する。
*990.1.25/ 藤原兼家の長子道隆の娘定子が、入内する。
*990.5.8/ 藤原兼家が出家し、長子道隆が関白となる。
*990.9.16/ 円融皇太后詮子が出家し東三条院となる。 (女院の初め)
*995.4.10/ 関白藤原道隆(43)没。 道隆の弟道兼が関白になるが、急死する。
*995.7.24/ 右大臣藤原道長と甥の内大臣藤原伊周が、内裏で激しく口論する。
*996.1.15/ 内大臣藤原伊周・権中納言隆家兄弟が、従者に命じて花山法王に矢を射かける。
*996.4.24/ 伊周は太宰権帥に、隆家は出雲権守に左遷される。 (長徳の変)
*999.11.1/ 藤原道長の娘彰子が入内する。
*1000.2.25/ 中宮定子を皇后に、彰子を中宮とする。 道長のごり押しで事実上の二皇后制となる。
*1000.12.16/ 皇后定子(25)が、出産に際して死亡する。
藤原基経の子 「藤原忠平」は、宇多・醍醐天皇と親政が続いたあと、延長8(930)年、幼帝朱雀天皇が即位したため摂政となる。 30数年にわたって中枢を占めたため、忠平の子孫が嫡流となり、長子実頼が摂関を継ぐが、兄より優れると評された次男「藤原師輔」が実質を握り、 さらに伊尹・兼通・兼家という3兄弟が官位を高め、娘安子を村上天皇の中宮に送り込むなど、子孫に恵まれた。
師輔は、天徳4(960)年52歳で薨去するが、のちに安子の産んだ子が冷泉・円融天皇として即位するなど、外戚としての関係を強化できたために師輔の家系が主流となり、「九条流」と呼ばれた。 師輔の跡は長男 伊尹が継ぐが早く亡くなり、その後継を「藤原兼通」・「藤原兼家」兄弟が激しく争う。
兄の伊尹が摂政として政治を仕切る間、兼家はそれを支えたため、兄の兼通より官位が上回ってしまい、兼通に強く妬まれた。 伊尹が49歳で死ぬと、円融天皇との関係が良好だった兼通が氏長者を継ぎ、関白となる。 この間、兼家は不遇の時を過ごすが、貞元2(977)年、兼通の死とともに復権する。
天元元(979)年に右大臣に進んだ兼家は、父の遺志を継いで延暦寺横川に恵心院を建立し、かねて望んでいた詮子の入内もかない、懐仁親王(後の一条天皇)に恵まれた。 ぎくしゃくしていた円融天皇との関係も修復され、永観2(984)年、円融天皇は花山天皇に譲位し、詮子の産んだ懐仁親王(一条天皇)が東宮に立てられた。
花山天皇は色にふけり、寵愛した女御藤原忯子が急死すると出家すると言い出した。 兼家の三男 道兼から出家に追随すると言われて、天皇もその気になって剃髪出家してしまう。 藤原兼家・道兼父子の策略は成功し、兼家の娘 詮子の産んだ懐仁親王(一条天皇)が即位し、兼家は外戚として摂政となる。
 氏長者となった兼家は、右大臣を辞して兼官しない摂政として、官位の上下に拘束されない身となった。兼家は、息子の道隆や道長などの子弟を公卿に抜擢し、氏長者邸として東三条殿の一部を内裏に模して建て替えるなどして、地位を他の公家とは隔絶したものに高めた。
 藤原兼家は永祚元(989)年、嫡男道隆を内大臣に任命、自らは太政大臣に就任し、翌 永祚2(990)年、一条天皇の元服に際して関白に任じられるも、僅か3日で道隆に関白を譲って世襲を確定させて出家、栄華を極めた2ヵ月後に病没した。享年62。
 この後、兼家の家系は大いに栄えるが、ここでも確執が発生する。嫡男道隆は長女定子を一条天皇の女御として入内させ、兼家が薨去すると氏長者となり、定子を中宮として帝の外舅となり、次女原子を皇太子妃とするなど、後宮政策を進めるが、長徳元(995)年4月10日薨去。享年43。
 道隆が死去すると弟の道兼が関白となるが、就任僅か数日で病で死去する。一条天皇は道隆の嫡子「藤原伊周」を後継にと考えたが、母后東三条院(詮子)が弟の「藤原道長」を強く推したため、天皇は道長を登用する。
 道長と伊周の叔父・甥は激しく対立し、長徳元(995)年7月24日には内裏の陣座で諸公卿を前に激しく口論し、その3日後には2人の従者が都で集団乱闘騒ぎを起こしている。一条天皇は道長に「内覧」を許し、さらに右大臣に任じ、道長が藤原氏長者となった。
 翌 長徳2(996)年正月、伊周とその弟隆家は女性関係が原因で、花山法皇に矢を射かける事件を引き起こした。ことは露見し4月に罪を責められた伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷されて失脚した(長徳の変)。その年7月に道長は左大臣に昇進し、名実ともに廟堂の第一人者となる。
 長保元(999)年11月道長は、一条天皇に長女彰子を女御として入内させ、翌長保2(1000)年2月には、定子を皇后の宮にまつり上げして彰子を中宮とし、事実上の一帝二后を強行した。心労に苛まれた定子は、その年の暮れに第二皇女を出産した直後に崩御し、赦されて帰洛していた兄の伊周は、妹の亡骸を前に慟哭したという。
(この時期の出来事)
*981.7.7/ 円融天皇が、関白藤原頼忠の四条坊門大宮第に移り、譲位後の御所と定める(四条後院)。
*982.10.-/ 学者 慶滋保胤が随筆「池亭記」を著す。
*982.-.-/ この頃、源高明が、朝廷儀式の手引き書「西宮記」を著す。
*985.4.-/ 源信が「往生要集」を著す。
*986.-.-/ この頃、「宇津保物語」ができる。
*994.6.27/ 京に天然痘など疫病が大流行。疫病神横行風評のため、北野船岡山で御霊会を行う。
*996.-.-/ この頃、清少納言が「枕草子」の一部を著す。
*998.-.-/ この頃、勅撰和歌集「拾遺和歌集」ができる。

他氏排斥の闘い

2021-06-20
acebook佐々木信雄さん曰く【10th Century Chronicle 961-980年】
【10th Century Chronicle 961-980年】
◎「安和の変」と藤原摂関家での権力争い
*967.6.22/ 藤原実頼が関白となる。
*969.3.25/ 藤原師尹らの陰謀により、左大臣源高明が大宰権帥に左遷される(安和の変)。
*969.9.23/ 藤原実頼・師尹が推す守平親王が、11歳で円融天皇として即位し、藤原実頼が摂政となる。
*970.5.20/ 藤原実頼(71)が没し、弟の藤原師輔の子 伊尹が摂政となる。
*973.11.27/ 藤原兼通が関白となる。
*977.10.11/ 藤原兼通が、弟兼家をさけて、関白を藤原頼忠に譲る。
 「安和の変」は、安和2(969)年に起きた藤原氏による他氏排斥事件とされ、この年3月25日、左馬助源満仲らが中務少輔橘繁延らの謀反を密告したことに始まったが、右大臣藤原師尹の企みで、左大臣「源高明」にも謀反の嫌疑がかけられ、大宰権帥に左遷されることになった。
 それより前、康保4(967)年に村上天皇が崩御し、冷泉天皇が即位すると、関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。冷泉天皇が病弱だったため、早期に東宮を定めることになり、冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王と守平親王が候補にあげられた。しかし、年長の為平親王は源高明と縁戚があるので、これを排除したい藤原氏が策動し、年下の守平親王を皇太子とした。
 源高明は醍醐天皇の第10皇子で、臣籍降下し源の姓を賜与された。光源氏のモデルにも擬せられるほどの尊貴な身分で、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。
 康保4(968)年、冷泉天皇の即位に伴い左大臣に昇るが、この時点では藤原師輔や中宮安子もすでに亡く、高明は宮中で孤立していた。そのため、自らの娘を輿入れさせていた為平親王を差し置いて、太政大臣の藤原実頼や右大臣藤原師尹の力で、守平親王(円融天皇)を皇太子に推されてしまう。
 安和の変で源高明を失脚させた藤原実頼・藤原師尹の兄弟は、その後一年の間に続いて死去する。一方、より早く亡くなった次男の藤原師輔だが、子孫には恵まれ、村上天皇の中宮安子を始め、広く外戚を結ぶことに成功した。
 そのため、師輔の系統は「九条流」と呼ばれ、以後、兼家・道長・頼通と続き、冷泉天皇から後冷泉天皇まで8代にわたる天皇の外戚となり、摂政関白の地位を独占して、藤原北家の全盛期を展開することになる。
(この時期の出来事)
*961.-.-/ この頃、現存の伊勢物語が成立する。
*967.7.9/ 延喜式を施行する。
*970.6.14/ 祇園御霊会が初めて行われる。(祇園祭の初め)
*974.-.-/ 藤原道綱の母の「蜻蛉日記」の記述が終わる。
*976.7.26/ 内裏消失により、円融天皇が関白藤原兼通の堀河第に移る。(里内裏の初め)
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