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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

良心は痛まないだろうか・・・、大統領閣下・・・。

2022-03-01
2022.03.01、『読売新聞』朝刊

秋篠宮家の長男・悠仁さま(15)が4月から筑波大学附属高校(筑附)に進学することになった。

2022-03-01
© NEWSポストセブン 提供 筑波大学附属高校に進学が決まった悠仁さま(時事通信フォト)
悠仁さま、筑附入学早々に待ち受ける「蓼科合宿」は高校生活を左右する一大行事

現在通学するお茶の水大学附属中学と筑附の間で設けられた「提携校進学制度」を利用しての進学だと宮内庁が発表しており、皇位継承者が学習院以外の高校に入学するのは戦後初のこと。

 筑附といえば偏差値70を超え、毎年東大に20~30人合格者を輩出する男女共学の進学校だが、自由を重んじる校風で、「制服もなく、ガリ勉学校という雰囲気はない。部活に委員会にと、のびのびと過ごす生徒が多いです」(OB)。

 そんな筑附で、悠仁さまを待ち受ける最大のイベントが入学早々にやってくるという。

「1年生の7月に行なわれる『蓼科生活』です。長野県北佐久郡の蓼科高原で3泊4日の合宿をするのですが、これは筑附生の間で“その後の学校生活を左右する”と言われる天王山。合宿はクラスごとに行なわれ、登山に飯盒炊爨、餅つき、キャンプファイヤーと、いわゆる林間学校的なイベントです。高校入学組が中学からの内部進学組に溶け込むための親睦会的な意味合いが強く、この合宿で距離を縮めないと、その後も浮いちゃうんです。筑附は3年間クラス替えがないので」(同前)

 蓼科といえば、元皇族の東伏見宮家の別荘を改装した「ホテルハイジ」をはじめ、皇室御用達の施設が多数ある。今年の開催は新型コロナの収束状況次第だが、悠仁さまにとっては“ホーム”ともいえる地だ。

「クライマックスは夜の肝だめしです。男女ペアになり、真っ暗な山道を提灯ひとつで歩いて行く。引率のOBや宿の管理人が道中でお化けに扮して脅かしてくるのですが、これが怖いのなんの。ペアはくじ引きで決まり、その後カップルになるケースも珍しくない。“蓼科マジック”と呼ばれています」(別のOB)

 悠仁さまも肝だめしで大切な人を見つけるかもしれない──のだが、ひとつネックが。宮内庁担当記者が語る。

「当然ですが、悠仁さまには複数の警護が付きます。合宿中も例外ではありません。肝だめしの最中も、おそらくは遠巻きに見守るのでしょう」

 いささかムードに欠けるものの、悠仁さまには存分に青春を謳歌してほしい。

※週刊ポスト2022年3月11日号

日系人強制収容「二度とないように」 恥ずべき出来事と米大統領

2022-02-20

Facebook 時事通信社さん曰く


日系人強制収容「二度とないように」 恥ずべき出来事と米大統領
第2次大戦中に米国で起きた日系人強制収容の根拠となった大統領令署名から、19日で80年を迎えました。

 第2次大戦中に米国で起きた日系人強制収容の根拠となった大統領令署名から、19日で80年を迎えた。これに先立ちバイデン米大統領は18日、「わが国の歴史で最も恥ずべき出来事の一つだ」とする声明を出し、「日系人への連邦政府の公式謝罪を改めて確認する」と表明。日本語で「Nidoto Nai Yoni(二度とないように)」と過ちを繰り返さない決意を示した。

戦争の記憶~米・日系人強制収容所

 真珠湾攻撃翌年の1942年2月、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名。日系人約12万人が正当な理由なく「敵性外国人」として収容所に送られ、過酷な生活を強いられた。
 バイデン氏は声明で、日系人が自宅や職、財産だけでなく「全ての米国人に等しくある基本的自由すら失った」と指摘。強制収容の歴史が「人種差別、恐怖、外国人排斥を許せば、悲劇的な結末を招くことを現代のわれわれに気付かせてくれる」と記した。
 その上で「日系米国人だけでなく、世界に意味を持つ米国人の物語だ」と語る元収容者の言葉を紹介。「今後、こうした『米国ならざる行為』に一切関与しない」と誓った。

収容当時の図とマンザナール収容所跡に建立されている慰霊碑
マンザナー日系人強制収容所の光景が、アメリカ合衆国史の「闇」を映し出す

◎レーニンが死去、後継争い始まる

2022-02-22


Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1924(t13)年】
◎レーニンが死去、後継争い始まる
*1924.1.21/ レーニン死去、53歳。以後、トロツキー派対スターリン派の内部抗争が始まる。
 レーニンは、暗殺未遂の後遺症や革命後の国政処理の激務によって、次第に健康を害していった。1922年5月に脳発作を起こして右半身に麻痺が生じ、演説がうまくできなくなっていた。政局の指示を行うのが難しくなり、政治局に休養を命じられると、スターリンはレーニンの側近として、他の政治局員がレーニンと面会するのを制限し、その影響力を強化していった。
 レーニンに率いられた「ソ連共産党政治局」は、いわば内閣のようなもので、主要な政策の決定を担っていたが、政務が煩雑になると、レーニンは「書記局」を独立させ、自身の近くで直接補佐する「書記長」にヨシフ・スターリンを就任させた。スターリンは、いわば内閣官房長官のような役割で、レーニンの体力が衰えるにつれて、レーニンの意向を代表する立場に立って、その実権を掌握していった。
 レーニンは、話すことも出来ず、ほぼ廃人状態となり、1924年1月21日に最後の発作を起こして死去した。葬儀は1月27日に行われたが、スターリンが葬儀を仕切り、後継者の立場をアピールした。本来ナンバーツーの位置付けだったレフ・トロツキーは、スターリンが送った偽の葬儀日程のため、葬儀に参列さえできなかった。
 10月革命で最も活躍したのはトロツキーであり、トロツキーは赤軍の創始者として、革命後の内戦でも、これを勝利に導いた立役者だった。レーニン死後の党内闘争では、諸派はいずれもレーニンを神格化し、その忠実な後継者としてふるまい、スターリン派はマルクス・レーニン主義を体系化し、トロツキー派はボリシェヴィキ・レーニン主義を標榜した。
 やがて主流派をまとめ上げたスターリンは、党の「書記長」として書記局に権限を集中させ、対立するトロツキーを閑職に追いやり、やがて国外に追放する。スターリンは、「一国社会主義論」による国内体制の維持を優先する路線を示した。一方で、トロツキーは「世界同時革命論(永久革命論)」を展開したが、この理論対立に敗れ、スターリンによるトロツキー派大粛清の大義名分ともされた。
 日本での60年、70年安保闘争の時期を通じて、様々な派が独自路線を主張して抗争したが、互いに相手側を「トロツキスト!」と罵りあった。互いに分派抗争する各グループが、相手側を「トロツキスト(分派主義者)」となじり合うのは壮観でもあった(笑)
 追放されたトロツキーは、各地を転々としながら最終的にメキシコに居を定めた。この間、第4インターナショナルを結成し、国際社会主義運動を展開したが、スターリンは国内で大粛清を進めており、メキシコに逃れていたトロツキーにも刺客が派遣された。そしてトロツキーは、1940年8月、関係者に成りすまし、登山家を装った刺客により、ピッケルで後頭部を打ち砕かれ暗殺された。
 「グルジア問題」の処理にあたってスターリンと対立するに至ったレーニンは、粗暴で猜疑心の強いスターリンの性格を案じるにいたり、書記長職からの解任を提案する覚書を書いたりしたが、すぐ後の発作で表現能力を失い、死後もスターリンに握りつぶされた。
 支配権を握った「スターリン書記長」は、その後着々と「一国社会主義」を構築していった。ヒトラーをも圧倒する大粛清で、完全な独裁権力を掌握したスターリンは、第2次大戦では、敗戦国の日独をしのぐ、参戦国最大の国民の犠牲を出したにもかかわらず、戦後は米ソ対立の「冷戦構造」を作り出し、一方の雄として君臨した。
 スターリンに関しては当然ながら毀誉褒貶は多いが、ソビエト連邦という共産主義国家が、70年にも渡ってユーラシア大陸に存在し得たという事実は、スターリンの構築した「一党独裁体制」に負うところが多いであろう。
「国家と革命」 (講談社学術文庫/2011/レーニン 著・角田安正 訳)
(この年の出来事)
*1924.4.6/ イタリア総選挙で、ファシスタ党が絶対多数を獲得、ムッソリーニの独裁体制が完成。
*1924.5.23/ スターリンが、ソビエト共産党第13回大会で、トロツキーらの反対派をプチブル的と批判する。
*1924.6.11/ 憲政会加藤高明を首相に、第1次加藤内閣(護憲3派内閣)が成立する。

ウクライナの市民  ミャンマーの市民に  今、心を寄せて

2022-02-27

Facebook Syoukyou Odakeさん曰く

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【掲示版急遽貼り替え】
 殺すな 殺さすな
 武力で平和は作れない
  ウクライナの市民
  ミャンマーの市民に
  今、心を寄せて
 武力によって社会体制を変えるため、権力者の命令によって殺されていく多くの「いのち」。
昨年、軍のクーデター下のミャンマーで。そして今、ロシア軍の攻撃を受けるウクライナで。
 今、その渦中にある市民の人たちに心を寄せ、
「戦争反対」「暴力・殺戮反対」の声をあげる人々とともに、私も掲示版に一声。
 これらの声が世界中の大きなウネリとなり、
かの地に「真の平和」が一日も早く訪れることを切に願って。
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