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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎ゾルゲ事件

2022-03-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-2
◎ゾルゲ事件
*1941.10.15/ 国際スパイ容疑で、尾崎秀美(ほつみ)が検挙される。18日、独新聞特派員リヒャルト・ゾルゲも検挙される。(ゾルゲ事件)
 ドイツ紙の記者として東京に在住していたゾルゲを頂点として、数多くのソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動をしていたことが判明、1941(昭16)年9月から1942(昭17)年4月にかけてその構成員が逮捕された。当初、特別高等警察はアメリカ共産党党員である宮城与徳および北林トモたちの周辺を内偵していたが、10月10日に宮城が逮捕され数多くの証拠品が見つかると、はじめてその事件の重要性が認識された。
 宮城は取調べの際に自殺を図り失敗すると、以後は陳述を始め、尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲなどの大物がスパイであることが判明する。ゾルゲは独有力紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の東京特派員かつナチス党員という肩書で日本に赴き、駐日ドイツ大使オイゲン・オットーや大使館付将校ヨーゼフ・マイジンガーらからも信頼を得ていた。
 また尾崎秀美は、元朝日新聞社記者で、近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界・軍部に深く関わっており、日中戦争から太平洋戦争開戦直前まで、政府の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えていた。尾崎はゾルゲとともに処刑されるが、戦後、尾崎秀実をモデルに「愛は降る星のかなたに」というタイトルで映画化され、さらに獄中の尾崎から妻子に宛てた書簡集「愛情はふる星のごとく」」が出版されベストセラーとなった。http://www.nikkatsu.com/movie/20157.html
 また、尾崎のコードネームは「オットー」とされ、劇作家木下順二により「オットーと呼ばれる日本人」として戯曲化されている。左翼系の新劇劇団「劇団民藝」や「前進座」で何度も上演されているが、あの「夕鶴」の作家木下順二が共産党シンパであったことは初めて知った。さらに、文芸評論家尾崎秀樹は秀美の異母弟にあたり、「生きているユダ わが戦後への証言」」を著し、ゾルゲ事件への独自の考察を行っている。
 事件捜査では、ドイツ人・ロシア人などの多くの在日外国人が容疑者や参考人として事情聴取され、日本側にも多くの有力者が含まれていた。また、ドイツ大使オットーや、親衛隊将校で「ワルシャワの屠殺人」と呼ばれたマイジンガーまでもが、ゾルゲを信用しきっており日本側の捜査に異を唱えた。裁判では、ゾルゲ、尾崎が死刑、合計20名が無期懲役など有罪判決を受け、1944(昭19)年11月7日のロシア革命記念日に両人の死刑が執行された。
 日ソ中立条約が結ばれ、一方で独ソ戦が開始される時期に、このような大規模のスパイ組織が暗躍していたことは、日本政府や軍にとっても衝撃であった。日本のちぐはぐな外交は、目に見えない裏側で、このような情報戦に翻弄されていたわけである。 
(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。
佐々木 信雄さん曰く
ゾルゲ事件は、太平洋戦争勃発の直前に摘発されたので、曖昧なまま処理された。日米開戦そのものが、スターリンの工作で実現されたことは、戦後になってやっと明かになってきた。
処分されたゾルゲや近衛のブレーン尾崎秀実だけでなく、内閣書記官長(官房長官相当)・司法大臣などを務め、戦後も社会党の重鎮となった風見章、最後の元老西園寺公望の孫西園寺公一なども実質スパイで、さらに追及すれば首相近衛文麿にも及んだはず。
そんなソ連傀儡政権のもと、いざ日米開戦となると、ポイっと政権を投げ出されたのがヘタレ軍事官僚東条英機、あとは軍部が勝手に動くアノミー世界なのだ(笑)

◎日ソ中立条約

2022-03-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-1
◎日ソ中立条約
*1941.4.13/ 日ソ中立条約が調印される
 1936(昭11)年、日本は「日独防共協定」を結び、満州国北部国境の脅威となるソ連を牽制することにしたが、1939(昭14)年、ドイツは日本への通知なく「独ソ不可侵条約」を締結し、すぐにポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始められた。ソ連囲い込みを意図した防共協定は事実上の意味を失い、1940(昭15)年、より明確な同盟関係の「日独伊三国軍事同盟」を締結した。
 ヨーロッパで快進撃をするドイツに乗り遅れるなと、三国同盟で意を強くした日本は南進を始め、英米との対立関係が顕著となっていた。松岡洋右が外務大臣に就任すると、日独伊ソ四国による「ユーラシア枢軸」を構想し、三国軍事同盟に続き、「日ソ中立条約」でソ連を枢軸国側に引き入れることを目指した(「日独伊ソ四国同盟構想」)。
 妄想に近い構想であるが、松岡自身はこのユーラシア枢軸によって、国力に勝るアメリカに対抗できると考えた。ソ連側は相手にしなかったが、まもなく「ドイツの対ソ侵攻計画」を察知したことで、対独戦に専念できるように、松岡構想と違う狙いで日本の提案を受諾し、1941年4月13日モスクワで調印した。
 ヒトラーは三国同盟締結時にすでにソ連侵攻を決めており、状況を読み違えた松岡の日独伊ソ四国同盟構想などはあり得ないことであった。しかしソ連は日ソ中立条約によって極東の部隊を西部へ移動させることができ、同年12月のモスクワ防衛戦に投入した結果モスクワは防衛された。
 ヒトラーは日本への通知なく独ソ戦を開始しており、ソ連を甘く見ると同時に、日本の役割を軽視した。もし日ソ中立条約を結ばせず、ソ連の兵力を東西に分散させたままならば、ソ連を崩壊させられたかも知れない。また、この条約の締結に先立ち、チャーチルは松岡に、ドイツは早晩、ソ連に侵攻することを警告していたという。
 日本にとって意味のない日ソ中立条約であったが、敗戦ぎりぎりまで日本が頼りにしたのもこの条約であった。日本側は条約の有効期間がまだ残っているとして、ソ連の仲介による和平工作を期待している。しかしヤルタ会談において、秘密裏にソ連の対日参戦が約束されており、ソ連はこれを黙殺し密約どおり対日参戦を行うことになる。
 ドイツに軽視されソ連に裏切られたなどと、国家間の情報戦で恨みごとを言っても始まらない。戦闘以前に「情報戦」ですでに敗北していたのであり、この年の10月には「ゾルゲ事件」の摘発が始まったが、露見したのは諜報活動のごく一部に過ぎない。友邦ドイツにも仮想敵国の共産ソ連にも、日本の機密情報は漏れ漏れであり、まもなく全面戦争に入るアメリカにも、言うまでもなく情報戦で完全敗北していたのであった。
(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。

征露から正露へ・・・。

2022-03-20
どっこい生きてる、征露丸・・・。 どちらかへ贈ってあけたいような・・・。

地下鉄サリン事件から3月20日で27年がたつ。

2022-03-20

Facebook 時事通信社さん曰く


地下鉄サリン事件から3月20日で27年がたつ。日本の首都・東京の地下鉄で、月曜日朝の通勤時間帯に化学兵器のサリンが同時多発的にまかれ、乗客や駅員13人が死亡、約6300人が重軽症を負った未曽有の事件は、世界中に衝撃を与えた。今でこそ、事件は「テロ組織」と呼称するにふさわしいオウム真理教による事件であることは誰もが知るところだが、そもそも日本の行政当局が宗教法人として認証した宗教団体が、なぜそのような事件を引き起こしたのか。それが日本征服を目的とした全体計画の「前哨戦」にすぎなかったことを、現在どれだけの日本人が理解しているだろうか。(作家・ジャーナリスト 青沼陽一郎)

自由に出入りできる海がほしい・・・。

2022-03-03
【図解】ボスポラス、ダーダネルス海峡
Facebook 時事通信社さん曰く、ロシア軍艦の一部通航認めず トルコ外相、説明を修正  2022年03月02日20時46分

【イスタンブール時事】トルコのチャブシオール外相は1日夜、テレビ番組にオンライン出演し、ボスポラス、ダーダネルス海峡を通って地中海から黒海に向かおうとしたロシア軍艦4隻のうち、3隻について両海峡の通航を認めなかったと明らかにした。

黒海への軍艦航行を制限 海峡沿岸のトルコ

 アナトリア通信によると、チャブシオール氏は2月28日、戦時中の航行制限を認める国際条約に基づき、両海峡に軍艦を通航させないよう各国に警告。その際「(軍艦の)通航要請はこれまでのところない」と説明していたが、これを修正した形だ。

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