本文へ移動

闘いの歴史

データベース

Facebook 闘諍堅固

2021-09-14
とうじょうけんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。

五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

麻生太郎 2009年4月16日 英語で五輪招致

2021-11-18
安倍晋三総理大臣のプレゼンテーション IOC総会(13/09/08)

【シリーズ自民党総裁の椅子】谷垣禎一「前途に思いを馳せる」(2009年9月)

2021-11-18
【第86回自由民主党大会】谷垣禎一元総裁 スペシャルスピーチ (2019.2.10)

【Message】New Year's Greetings Yasuo Fukuda_1.1.2008

2021-11-18


【シリーズ自民党総裁の椅子】福田康夫「座り心地よくない」(2007年9月)【映像記録 news archive】


宮沢喜一総理への英語インタビュー Kiichi Miyazawa English Interview

2021-11-18

闘いの記録 (戦争と人間)

別府良孝さん 「反戦僧侶」の掘り起こしに取り組む

2021-11-09
Facebook Yoshihito Hashimotoさん曰く
別府良孝さん 「反戦僧侶」の掘り起こしに取り組む
戦争は釈尊(しゃくそん)の教えにあらず。昭和初期、こう訴え投獄された僧侶がいた。俳優植木等さんの父、植木徹誠(てつじょう)らが知られるが、そんな仏教者を「反戦僧侶」と名づけ、宗教専門紙で情報提供を呼びかけるなど、無名の僧侶の掘り起こしに取り組んでいる。
 知らぬ間に戦争はやってくる、という先人の戒めを重く受け止めている。戦争一色の時代、仏教界も積極的に国策に協力した。背景には、明治時代に入って寺院や仏像が破壊された「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の強烈な恐怖があった。第1次世界大戦後には「戦争は菩薩行(ぼさつぎょう)だ」などと戦意をあおる仏教指導者が目立って増えていった。
 「突然、戦争協力に転じたのではない。好戦、反戦に分かれるメカニズムを解明しないことにはあの時代に戻りかねません」
 名古屋市の曹洞宗寺院で住職を務める。科学者でもある。名古屋大大学院の物理学教室で学び「目の中にあるタンパク質の計算」で理学博士号をとった。後のノーベル賞受賞者も生んだ教室では、科学者運動のリーダーでもあった素粒子研究の坂田昌一教授らの薫陶が息づいていた。「平和の創造に寄与する研究者たれ」と。
 名大本体も後年、戦争目的の学問研究と教育には従わず、と謳(うた)う「平和憲章」を定めた。仏教者、科学者としてのキャリアが今日の活動に色濃く反映されている。(文・写真 藤生明)
 べっぷよしたか(73歳)

「戦争」問うBC級戦犯の遺書など保存 福岡・嘉麻市

2021-11-08

便箋(びんせん)で際立つ「戦争絶対反対」「世界永遠の平和」の大きな文字-。福岡県嘉麻市出身の旧日本海軍1等兵曹、藤中松雄さんの遺書だ。先の大戦中、沖縄県・石垣島で米軍捕虜3人が処刑された「石垣島事件」でBC級戦犯に問われ、巣鴨プリズン(東京拘置所)で最後に死刑執行された一人。終戦から76年。同市碓井平和祈念館で保存される遺書は先の大戦とは何だったかを今も問い続ける。

28歳のBC級戦犯が死刑囚に…家族に宛てた7千字の遺書https://www.nishinippon.co.jp/item/n/609843/

最期の闘いの場は、蝦夷地でした。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
"ラストサムライ"の戦の地となりました。
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-6
◎函館五稜郭の戦い
*1868.8.19/ 旧幕府海軍副総裁榎本武揚が、艦船8隻を率いて、品川より奥州に向けて脱走出帆する。
*1868.10.25/ 榎本武揚が、函館五稜郭を占領する。
*1868.12.25/ 榎本武揚が蝦夷地全域を占領し、旧幕府軍の総裁に選出される。 
 慶応4(1868)年4月、江戸城無血開城の条件に、新政府への旧幕府軍艦の引渡しが含まれていたが、海軍副総裁の榎本武揚は、軍艦の引渡しに応じず開陽など主力艦の温存に成功した。8月19日、奥羽越列藩同盟からの支援要請に応じて、榎本率いる8隻の旧幕府艦隊は、品川沖を脱走し仙台に向った。この榎本艦隊には、旧幕閣や彰義隊に旧幕府軍事顧問団のフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。
 榎本艦隊は、悪天候で2隻を失いながらも、9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、最後まで戦った会津藩や庄内藩も降伏し、東北戦争は終結してしまった。榎本艦隊は、仙台藩に貸与していた運送船を加え、桑名藩主松平定敬、備中松山藩主板倉勝静、歩兵奉行大鳥圭介、旧新選組副長土方歳三ほか、旧幕臣など東北戦の残党などを収容し、東北沿岸を北上した。
 新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というもので、約8万人の旧幕臣を養うことは不可能であり、榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ北方の防備と開拓にあたらせようと画策していた。榎本は、新政府軍に追われながら、新政府軍平潟口総督宛てに、旧幕臣の救済のため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出する。
 蝦夷地に到達した榎本艦隊は、10月21日、箱館を迂回して、北方の内浦湾鷲ノ木に約3,000名が上陸した。箱館には、旧箱館奉行に代わり新政府の箱館府が置かれていたが、東北戦争に兵員を割かれ手薄となっていた。旧幕府軍は、大鳥圭介率いる部隊と土方歳三率いる部隊の二手に分かれて箱館へ向けて進軍する。明治1(1868)年10月22日夜、無用な戦闘を避けるべく新政府への嘆願書をたずさえた先行隊が宿営中、箱館府軍の奇襲を受け、戦端が開かれた。
 明治1(1868)年10月24日、大鳥軍と土方軍は箱館府軍を撃破し、新政府軍箱館府知事は「五稜郭」の放棄を決め青森へ退却、旧幕府軍は10月25日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させ、旧幕府軍は箱館を占領することに成功した。さらに、松前藩の松前城や館城も攻略して、蝦夷地の平定を達成する。ただし、江差方面攻略の支援に来ていた主艦船開陽などが、悪天候のため座礁沈没し、支援新政府軍の上陸阻止が出来なくなるという痛手を負った。
 12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、蝦夷地開拓を求める嘆願書を新政府に送るが、右大臣岩倉具視に却下され、来たる新政府軍の攻勢に備えることになった。
 旧幕府軍による箱館占拠の通報が東京に届くと、11月19日旧幕府軍追討令が出されたが、冬季作戦は無理として、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始するとし、新政府軍は青森周辺に冬営した。一方、海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄をアメリカから購入し、甲鉄を旗艦とした新政府軍艦隊は、翌 明治2(1869)年3月9日品川沖を青森に向けて出帆した。
 新政府軍艦隊が東北の宮古湾に入るとの情報を受けると、榎本軍は甲鉄を奪取する作戦を実行するも、暴風雨等で難航し、貴重な3艦船を失い敗退する。宮古湾海戦に勝利した新政府艦隊は、青森に到着すると、4月初には渡海準備が完了した。そして、青森を出発した新政府軍は、明治2(1869)年4月9日早朝、江差北方の乙部に上陸した。
 江差を奪還した新政府軍は、4月半ばには陸軍参謀黒田清隆率いる2,800名など増援軍が到着、松前口・木古内口・二股口・安野呂口の四方面から箱館へ向けて進軍を開始する。物量で圧倒する新政府軍に対して、旧幕府軍は各方面とも後退を余儀なくされ、唯一、土方歳三の指揮する二股口の戦いでは、激闘の末、新政府軍を退却させるが、背後から挟撃される危険が生じたため、土方軍も五稜郭への撤退を余儀なくされた。
 明治2(1869)年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、海陸両面から箱館に迫まった。箱館湾海戦では、箱館湾に侵入した新政府軍艦に、榎本軍は残された軍船により抵抗するも、砲弾を打ち尽くすなどして、意図的に座礁させて浮き砲台とするしかなかった。同日、五稜郭北方の急造堡塁の四稜郭方面の戦闘でも、敗退し五稜郭に退却する。
 一方、同日未明、陸軍参謀黒田清隆率いる新政府軍が箱館山の裏側に上陸し、函館湾拠点の弁天台場の背後を襲った。結果的に、弁天台場の旧幕府部隊は、五稜郭本隊と分断され孤立する。新政府部隊は箱館市街をほぼ制圧し一本木関門付近にまで進出、旧幕府部隊は五稜郭まで退いた。このとき、土方歳三は孤立した弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死した。
 翌5月12日、唯一残された五稜郭本隊に対して新政府軍が降伏勧告をするも、榎本総裁はいったん拒否する。この時、榎本が所有していた貴重な「海律全書」を、新政府軍参謀黒田清隆に託し、黒田は返礼として酒樽・鮪を五稜郭に送り届ける。榎本はこの厚意を拝受し、旧幕府軍首脳側が合議の上、降伏・五稜郭開城を決定した。
 5月18日、五稜郭は開城し、榎本ら幹部とともに郭内将兵も投降、ここに箱館戦争は終結した。降伏した旧幕府軍の将兵は弘前藩ほかに預けられたが、ほとんどが翌年に釈放。榎本武揚はじめ幹部7名は、東京で投獄された(明治5年釈放)。
 新政府軍黒田清隆と旧幕府軍榎本武揚が、五稜郭開城にあたって意を通じ合ったことが、この緩和な処置に寄与したと想像される。その後、榎本は、新政府重鎮となった黒田に助命されたうえ明治政府に出仕し、北海道開拓使として北海道の開拓に尽力するなど、新政府の官吏として有能な仕事を為した。

"錦の御旗"は、掲げられましたけれど・・・。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
*1868.3.14/ 明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓約。実質的には、維新政府による基本方針の宣言となる。
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-3
◎五箇条の御誓文
*1868.3.14/ 明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓約。実質的には、維新政府による基本方針の宣言となる。
*1868.3.15/ 新政府は、徒党・強訴・逃散・キリスト教などを禁じた「五榜の掲示」を立て、対庶民には旧幕時代の政策を継承する意図を示す。
*1868.3.28/ 新政府が神仏分離令を出し、以後、「廃仏毀釈」の運動が荒れ狂う。
*1868.閏4.27/ 新政府が「政体書」を出し、政治組織などを具体的に定める。
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
 「五箇条の御誓文」は、慶応4(1868)年3月14日、明治天皇が天地神明に誓約するという形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針であり、正式名称は「御誓文」とされる。鳥羽伏見の戦いの決着がつき、新政府の東征軍が江戸に迫るなか、京都では明治天皇の裁可を受け、「五箇条の御誓文」が公示された。西郷と勝の会談で「江戸城無血開城」が決まるのと同日であった。
 翌日、京都御所の紫宸殿に設えられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。明治天皇出御のもと、副総裁三条実美が天皇に代わって神前で「御誓文」を奉読する形で示された。
 御誓文は太政官日誌(官報の前身)をもって一般に布告された。「御誓文」は、あくまで公卿や諸侯など旧政権周辺に対して、朝廷の威光と天皇親政の国是を知らしめすのが主眼であり、太政官日誌は庶民一般の目に行き渡るのもではなかった。一方で一般国民に対しては、旧来の儒教道徳を強調した「五榜の掲示」が示され、徒党・強訴の禁止やキリスト教の厳禁など、旧幕府の政策を継承した訓示が示された。
 明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。慶応4年1月、福井藩出身参与 由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、次いで土佐藩出身参与福岡孝弟が修正したが、封建的な残滓を残し、王政復古の理念にも反するという批判もあり、そのままになっていた。
 そこで、参与で総裁局顧問木戸孝允は、天皇が、神前で公卿諸侯を率いて誓いの文言を述べ、その場で全員が署名するという形式を提案し、天皇親政を広く知らしめすとして、これが採用されることとなった。木戸は、福岡案の封建的残滓を取り払い、大幅に変更を加えることで、より普遍的な内容にした。この木戸による五箇条が、「御誓文」が明治天皇の裁可を受け、最終案とされた。
 慶応4(1868)年閏4月21日には、御誓文をより具体化した「政体書」が公布され、明治新政府の政治体制が定められた。さらに、明治8(1875)年の立憲政体の詔書では、「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言され、御誓文は立憲政治の実現に向けての出発点として位置付けられた。
 その後の「自由民権運動」でも、「御誓文は立憲政治の実現を公約したもの」とされ、議会政治実現の根拠とされた。また、敗戦後の昭和天皇の、いわゆる人間宣言においては、御誓文の全文が引用され、日本的な民主主義の萌芽として位置づける試みも見られた。

お上は東京へお下りになったのですが・・・。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-5
◎戊辰戦争・新政府東征軍と旧幕軍の戦い
*1868.2.23/ 旧幕臣が彰義隊を組織し、上野を占拠する。
*1868.3.3/ 赤報隊の相良総三らが、偽官軍として捕らえられ、長野の下諏訪で斬罪とされる。
*1868.5.3/ 東北・北陸 奥羽25藩の同盟についで、長岡・会津など8藩も加盟、「奥羽越列藩同盟」が成立する。
*1868.5.15/ 上野の彰義隊が、政府軍の攻撃で敗走する。(上野戦争)
*1868.8.23/ 会津若松城が新政府軍に包囲され、9月22日、会津藩は開城降伏する。(会津戦争)
<上野戦争>
 鳥羽・伏見の戦いに決着がつき、幕府追討の詔勅が発せられると、西日本の多くの諸藩は命に服し、大きな混乱は起きなかった。新政府は、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍する。
 進軍する東征軍と旧幕府残党の最初の戦闘は、東山道軍(中山道)の進軍先の、甲州甲府や武州熊谷で発生した。近藤勇の率いる旧新撰組は甲陽鎮撫隊を組織して戦ったが、甲府盆地で板垣退助ら率いる東山道鎮撫先鋒部隊(土佐藩主力)に敗れ、近藤は捕縛され処刑される(甲州勝沼の戦い)。また、東山道軍の本隊は、武州熊谷梁田宿(現足利市)で旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲攻撃をしかけ、幕府軍の敗北に終わった(梁田戦争)。
 東海道軍は、御三家筆頭の尾張藩が、いちはやく勤皇に転換したこともあって、小田原以西の全ての藩が恭順を誓い、大きな衝突もなく駿府にまで東進した。そして江戸城開城が決まるとこれに不満な抗戦派の幕臣らは、江戸の治安組織の「彰義隊」のもとに結集し上野にたて籠ったが、慶応4(1868)年5月1日、西郷に代わって司令官に任じられた長州藩士大村益次郎(村田蔵六)によって、一日で壊滅させられる(上野戦争)。
<奥羽越列藩同盟>
 京都守護職だった会津藩主松平容保・京都所司代の桑名藩主松平定敬は、ともに京都の治安を担当し、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行った。また鳥羽・伏見の戦いでは、両藩は旧幕府軍の主力として新政府軍と戦ったため、新政府の反感は強く、戦いの敗北とともに朝敵と認定されていた。また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。
 慶応4(1868)年3月22日、新政府への敵対姿勢を続ける会津藩及び庄内藩を討伐する目的で、奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。しかし、追討軍を庄内藩が反撃し天童城を攻め落としたり、関東でも旧幕府軍が宇都宮城を占拠するなど、新政府への対抗気運が漂い出した。
 慶応4(1868)年閏4月4日、仙台藩主導で奥羽14藩は会議を開き、会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出するが、新政府はこれを却下した。当初は、新政府の会庄追討に従っていた奥羽14藩は征討軍を解散し、逆に新政府軍と戦闘状態に入った。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたため、天皇へ直接建白を行う方針に変更され、奥羽列藩盟約書を調印し、会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書が作成された。
 さらに、北越6藩が加わり、計31藩によって「奥羽越列藩同盟」が成立した。当初は嘆願を求める盟約であったものが、途中から軍事同盟に転嫁されたため、必ずしも加盟諸藩の統一された戦略があったわけではない。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力することになった。
 新政府軍と奥羽越列藩同盟との戦いは、仙台藩が盟主的存在であったが、戦闘は奥州・北越の各地で並行的に行われたので、関ケ原の戦いのように双方が全軍で対峙するような場面はなかった。輪王寺宮公現法親王をかついで仙台に奥州政府を樹立する動きもあったとされるが、それは形にならなかった。ただ、京都新政府・江戸幕府のいずれでもない第三の勢力として、東北諸藩の利害共同体的な性格の同盟であったと思われる。
 庄内戦争・秋田戦争・白河戦線・北越戦争・平潟戦線など、各地で激戦が行われたが、新政府軍に敗れた同盟軍や旧幕軍の敗残兵が、未陥落の地に集まるなどして、次々と戦闘地は移っていった。そして最も激戦となったのが、松平容保の会津での戦いであった。奥羽越列藩が次々と陥落し奥羽越同盟が崩壊する中、最後まで若松城に籠城して戦った会津藩も、ついに1868(明1)年9月22日、落城し、その2日後に庄内藩も降伏した。

闘いの転機(戦いの前と後)

【新作披露】#鉛筆画「菊水2605 -戦艦 大和 & 零式艦上戦闘機52型甲-」

2021-11-26
Facebook 菅野 泰紀 Art Studio 楓-fu- Pencil Nautical Artworkさん曰く
連合国軍の沖縄進攻に対し、帝国海軍が行った菊水作戦を主題とした作品です。夕闇迫る海を、夕日に向かってまっすぐ進む大和と爆装した零戦。当時の日本海軍を代表する戦艦と戦闘機、夕日は全て菊水作戦の象徴です。

ティーガー2の内部はこんな風になっているのですね!

2021-11-28
Facebook 「絆の会」さん曰く、初めて見ました。

砂漠の狐ロンメルが愛用した機動司令部

2021-11-24
Facebook 田幡 雅人さん曰く
砂漠の狐ロンメルが愛用した機動司令部
AEC 装甲指揮車  ドイツ軍愛称マムート (マンモス)
この車両は、イギリスのAEC社が製作し装甲指揮車両でドーチェスター(高級ホテルの名称)の愛称が付いている
1941年4月のアフリカ戦線、夜間道に迷った英軍装甲指揮車数台が不運にも独軍偵察部隊に遭遇
3台の状態が良好な装甲指揮車が独軍の手に落ちた
ロンメル将軍はそのうちの2台に「マックス」「モーリッツ」の愛称を付け、自らの移動司令部として使用した
他の1両は「第5軽師団」の司令部車両として運用
因みにこの時英軍から捕獲したゴーグル(対毒ガス用アイシールド)をロンメルがいたく気に入り、ロンメル将軍のトレードマークとなった
AEC 装甲指揮車  ドイツ軍愛称マムート (マンモス)

先の大戦の皇軍、この領域は駄目でしたが・・・。

2021-11-14
Facebook 稲葉 祐一さん曰く

EC-1。いつ見ても操縦席からどうやって下方を目視しているのか不思議な飛行機です。

2021-11-14
Facebook 航空自衛隊フォトさん曰く

真宗大谷派の取り組みについて

京都駅と東本願寺の間にあった丸物百貨店のビルのようです(現在の京都ヨドバシの場所)。

2021-07-05
昭和20~30年代にかけて発展し、東京をはじめ全国に進出していましたが、業績不振に陥り昭和50年代に「丸物」の名前は消滅しています
左に見えるのは、再び丸物百貨店。百貨店前の空き地は、空襲に備えて取り壊されたものだそう。
【動画】「Kyoto, General Views WWII Damage, 05/26/1946 - 05/28/1946」

京都の原爆投下計画の候補地(場所)は梅小路だった『NHKスペシャル』 - 京都のお墨付き!

2021-07-06

戦時中の遺構です。

2021-07-07
東本願寺新京別院旧跡
https://datyz.blog.ss-blog.jp/2014-06-25


https://www.recordchina.co.jp/b87806-s0-c30-d0046.html
2014年5月7日、満州国時代に吉林省長春市に建てられた旧・東本願寺新京別院が土地開発業者の違法建築によって破壊されたことが分かった。中国新聞社が伝えた。
旧満州です。
2021-07-07
長春第一の繁華街・重慶路。喧噪をよそに、路地に入って少し北に行くと、いかにも日本風の入母屋造の大屋根が目に入ってくる。旧・東本願寺新京別院の本堂だ。
この建物は、長春が「満洲国」の首都・新京と呼ばれていた1937年、真宗大谷派の満洲における布教拠点として竣工したが、満洲国滅亡・中華人民建国後は学校施設として使用されてきた。1985年に長春市の重要文化財に指定され、長春市第二実験中学の図書館・閲覧室として使われていたが、数年前に学校は移転し、建物の周囲で再開発が始まっている。

東本願寺(真宗大谷派)の中国大陸布教は1870年代に遡るが、その歩みは日清戦争後、日本国家の大陸への軍事的侵略に追随する形で進められた。日露戦争の結果、遼寧省南端の関東州(旅順・大連を含む)の租借権と長春・大連間の鉄道(後の南満洲鉄道=満鉄)権益をロシアから譲り受けると、日本仏教諸宗派は日本の勢力範囲に次々と拠点を置いて布教活動を行った。真宗大谷派も1919年、長春の満鉄附属地(日本が行政・軍事・警察・外交・司法権を行使)に布教拠点を設立している。
1931年9月18日、日本の関東軍の謀略で満洲事変が勃発すると、真宗大谷派(東本願寺)本山は早くもその翌日から軍への慰問行動を開始し、宗務総長は翌月、「国家の大方針を体認」し「国論の統一」に努めるよう諭達を発した。関東軍の武力によって満洲国が建国された1932年、日本政府の満洲移民政策に呼応する形で真宗大谷派は拓事講習所を開設し、開拓移民を精神面で支えることを目指した。

こうした日本仏教の大陸布教は、独善的な日本仏教優位論に立って進められることも少なくなかった。例えば真宗大谷派のある布教使は、中国の仏教は「非常に低級」で「迷信が多く行はれてゐる」のに対して「日本に於ける仏教は、斯かる迷信を一掃した所の近代的人間生活に適応した高級な仏教」だと自画自賛している(「教育と宗教との提携(一)」『真宗』340号、1930年2月)。また日中戦争勃発後、大谷大学日曜学校研究会では、満洲事変に関する次のような教案素材が用いられることがあった。「あの満洲の大平野には、忠勇義烈なる陛下の赤子十万人が我が日本の生命線の礎となり、人柱となつて永久に埋れ居ます。…満洲大平野には、到る処に日の丸の旗が立てられ、土民達は情け深い日本軍のもとへ続々と集まつて来ました。…さうして事変が起つてから半年も経たぬ内に、新しく満洲国といふ国が誕生しました。…私たちは今すぐ銃を取つて戦場に立つことは出来ませんが、一心に勉強をし、銃後の護りは私達の手でしつかり握り合ひ、国家に対し御奉公申し上げる事を固く誓ひませう」(『真宗』457号、1939年9月)。
「貿易は国旗の後に付き従う」(trade follows the flag)というのが帝国主義の合言葉だとすれば、十五年戦争中の日本仏教の大陸布教はまさに、「仏法は国旗の後に付き従う」を実践したものだったと言えるだろう。日の丸に従属しながら満洲国全土に広まったように見えた日本仏教が、日本敗戦と満洲国崩壊後、あっという間に東北大平原から駆逐されたのも、必然の成り行きだった。東本願寺新京別院の旧跡は、かつて日本仏教が犯した罪業を今に伝えている。

1934年には大谷光暢法主夫妻が満洲と華北を巡回し、満洲国皇帝溥儀に謁見、また満洲各地の布教所を視察して軍を慰問した。さらに同法主らは日中戦争勃発後の1938年1月から二か月にわたり、満洲各地および華北・華中における軍隊慰問のため、第二回の大陸巡教を行い、帰国後は日本全国で報告会が開催された。こうした大谷派の大陸巡教については、法主の妻(裏方)の大谷智子(裕仁〔昭和天皇〕の妻良子〔香淳皇后〕の妹)がその著作『光華抄』(実業之日本社、1940年)において、この「皇軍慰問の旅」の内容を詳しく述べ、「軍国の母を想ふ」「銃後婦人の覚悟」「戦歿勇士の遺族に」「長期建設の心構へ」などの小見出しで文を綴っている。
日本仏教の大陸布教は、1915年の「対華二十一か条の要求」の第五号において、中国での「日本人の布教権」を日本政府が要求したように、日本の軍事的大陸侵略と密接な関係がある。二十一か条要求の「布教権」は日本側が取り下げたので、中国における日本仏教の布教はしばらくの間、日本の植民地である関東州や満鉄附属地の居留日本人を主な対象としていた。が、満洲事変および満洲国成立後は、満洲国内の中国人への布教が積極的に試みられ、大谷派の満洲拓事講習所でも布教を目的とする中国語の学習が行われるようになった。
さらに日中戦争勃発後の1938年8月、文部省宗教局長は「支那布教に関する基本方針」の通牒を発し、「布教師をして住民の宣撫に当らしめ対支文化工作に寄与せしむること」が目的とされたことで、日本仏教の大陸布教は日本軍の特務機関の下請としての宣伝工作という意義を担うことになった。真宗大谷派は同年9月、東本願寺経営の「北京覚生女子中学校」を設立、また日本の傀儡となった汪兆銘〔精衛〕政権下の南京には「南京本願寺」や「金陵女子技芸学院」を設けるなど、日本軍特務機関との協力で戦時下の宣撫活動を積極的に担っていった。
なお敗戦後50年目の1995年、真宗大谷派の宗議会・参議会議員一同は、過去に宗門が犯した過ちを懺悔し、次の「不戦決議」を採択した。

私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、佛法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。

この懺悔の思念を旨として、私たちは、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに 「不戦の誓い」を表明するものであります。

さらに私たちは、かつて安穏なる世を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされ、宗門からさえ見捨てられた人々に対し、心からなる許しを乞うとともに、今日世界各地において不戦平和への願いに促されて、その実現に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。

私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。 右、決議いたします。

          1995年6月13日
          真宗大谷派 宗議会議員一同
          1995年6月15日
          真宗大谷派 参議会議員一同

また真宗大谷派東本願寺は、昨年開催された「第13回非戦・平和展」の際、宗務総長の署名で次のように述べている。

私たちの宗門は、明治期以降、宗祖親鸞聖人の仰せになきことを仰せとして語り、戦争に協力してきました。侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに、多くの青年たちを戦場へと送り出しました。そして遺族のみならず、アジア諸国、とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。さらに、非戦を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされた僧侶たちを見捨ててきました。

これらに対する懺悔の思念を旨として、宗門は1995年に「賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまない」(「不戦決議」)という誓いを表明しました。
http://www.higashihonganji.or.jp/release_move/others/pdf/2013_peace_show.pdf

過去に犯した行為に対する真宗大谷派のこうした真摯な反省には、敬意を表したい。最近の安倍政権が目指す軍事大国化への傾向、例えば秘密保護法制定や集団的自衛権の行使容認への動きに対して、真宗大谷派が批判的見解を公式に表明しているのも、過去に日本帝国の戦争に協力した教団の歴史に対する反省に立つものといえる。

集団的自衛権の行使容認に反対する決議(真宗大谷派宗議会、2014年6月10日)
内閣総理大臣への「「特定秘密保護法案」の廃案に関する要望書」提出について(真宗大谷派宗務総長、2013年11月27日)

ところで中華人民共和国成立後、長らく学校施設として使われてきた旧東本願寺新京別院の建物は、長春市の重要文化財に指定されている。近年学校は移転し、付近では再開発が始まっているが、開発業者が無断でこの建物の一部を破壊していることが今年5月、新聞報道で伝えられた。近くに住む劉さんは次のように語る。「この建物は日本人が長春に建てたものですが、これは文化財です。一時期の歴史を代表するものです。なぜやすやすと壊してしまったのか」。長春市当局は開発業者に命じて工事を停止させ、現在調査中だという。

戦時中の遺構です。

2021-07-07
東本願寺大連別院です。
今は、図書館として利用されているとか・・・。

政局について

日米豪印首脳会合、訪米の様子を動画にまとめました。

2021-09-27
Facebook 首相官邸さん曰く、ご覧ください。
菅政権1年間の軌跡 令和2年9月16日~

菅政権1年間の軌跡をまとめました。
最後の一日まで国民のために働く内閣として全力を尽くします。

老兵の願い・・・。

2021-09-27
読売新聞(2021.09.27)朝刊さん曰く

【自民党総裁選】国民の声に応える政策討論会④

2021-09-27
Facebook 自由民主党さん曰く、 4日目のテーマは「憲法改正、少子化・人口減少対策、地方創生、スポーツ文化振興、 教育・人への投資」です。

国民の皆さまから寄せられた質問に自民党総裁選候補者が直接お応えする政策討論会を、オンラインで4日間連続で開催します。
4日目のテーマは「憲法改正、少子化・人口減少対策、地方創生、スポーツ文化振興、 教育・人への投資」です。ぜひご覧ください。

【総裁選CafeSta】河野太郎候補特番

2021-09-27
Facebook自由民主党さん曰く、#02 河野太郎の素顔に迫る

【総裁選CafeSta】野田聖子候補特番#02 こどもまんなか政治(2021.9.25)

2021-09-25
Facebook 自由民主党さん曰く、#02 こどもまんなか政治(2021.9.25)
【総裁選CafeSta】野田聖子候補特番#02 こどもまんなか政治(2021.9.25)
自民党総裁選が9月17日告示、9月29日開票で実施されます。
選挙期間中は、候補者もしくは応援団がカフェスタを使い独自の番組を放送します。ぜひご覧ください!
※各候補に割り当てられた総放送時間は90分です。
【番組詳細】
タイトル:こどもまんなか政治                             
内  容:社会全体でこどもの誕生や成長を支え、虐待や貧困などに対する持続可能で誰一人取り残すことがない育成環境の整備の必要性について
出  者:野田聖子 候補、三原じゅん子 参議院議員
■野田聖子候補の情報はこちら

闘いすんで 陽が暮れて・・・

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

勝新太郎さんと田宮二郎さんというより、「悪名」の二人・・・。

2021-11-22
Facebook 石山 裕子さん曰く、勝さんお若いです。田宮さんカッコいいです。

ジョニーという生き方

2021-11-25
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

日曜日も 終わりそうね

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。
TOPへ戻る