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闘いの歴史

データベース

Facebook 闘諍堅固

2021-09-14
とうじょうけんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。

五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

麻生太郎 2009年4月16日 英語で五輪招致

2021-11-18
安倍晋三総理大臣のプレゼンテーション IOC総会(13/09/08)

【シリーズ自民党総裁の椅子】谷垣禎一「前途に思いを馳せる」(2009年9月)

2021-11-18
【第86回自由民主党大会】谷垣禎一元総裁 スペシャルスピーチ (2019.2.10)

【Message】New Year's Greetings Yasuo Fukuda_1.1.2008

2021-11-18


【シリーズ自民党総裁の椅子】福田康夫「座り心地よくない」(2007年9月)【映像記録 news archive】


宮沢喜一総理への英語インタビュー Kiichi Miyazawa English Interview

2021-11-18

闘いの記録 (戦争と人間)

別府良孝さん 「反戦僧侶」の掘り起こしに取り組む

2021-11-09
Facebook Yoshihito Hashimotoさん曰く
別府良孝さん 「反戦僧侶」の掘り起こしに取り組む
戦争は釈尊(しゃくそん)の教えにあらず。昭和初期、こう訴え投獄された僧侶がいた。俳優植木等さんの父、植木徹誠(てつじょう)らが知られるが、そんな仏教者を「反戦僧侶」と名づけ、宗教専門紙で情報提供を呼びかけるなど、無名の僧侶の掘り起こしに取り組んでいる。
 知らぬ間に戦争はやってくる、という先人の戒めを重く受け止めている。戦争一色の時代、仏教界も積極的に国策に協力した。背景には、明治時代に入って寺院や仏像が破壊された「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の強烈な恐怖があった。第1次世界大戦後には「戦争は菩薩行(ぼさつぎょう)だ」などと戦意をあおる仏教指導者が目立って増えていった。
 「突然、戦争協力に転じたのではない。好戦、反戦に分かれるメカニズムを解明しないことにはあの時代に戻りかねません」
 名古屋市の曹洞宗寺院で住職を務める。科学者でもある。名古屋大大学院の物理学教室で学び「目の中にあるタンパク質の計算」で理学博士号をとった。後のノーベル賞受賞者も生んだ教室では、科学者運動のリーダーでもあった素粒子研究の坂田昌一教授らの薫陶が息づいていた。「平和の創造に寄与する研究者たれ」と。
 名大本体も後年、戦争目的の学問研究と教育には従わず、と謳(うた)う「平和憲章」を定めた。仏教者、科学者としてのキャリアが今日の活動に色濃く反映されている。(文・写真 藤生明)
 べっぷよしたか(73歳)

「戦争」問うBC級戦犯の遺書など保存 福岡・嘉麻市

2021-11-08

便箋(びんせん)で際立つ「戦争絶対反対」「世界永遠の平和」の大きな文字-。福岡県嘉麻市出身の旧日本海軍1等兵曹、藤中松雄さんの遺書だ。先の大戦中、沖縄県・石垣島で米軍捕虜3人が処刑された「石垣島事件」でBC級戦犯に問われ、巣鴨プリズン(東京拘置所)で最後に死刑執行された一人。終戦から76年。同市碓井平和祈念館で保存される遺書は先の大戦とは何だったかを今も問い続ける。

28歳のBC級戦犯が死刑囚に…家族に宛てた7千字の遺書https://www.nishinippon.co.jp/item/n/609843/

最期の闘いの場は、蝦夷地でした。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
"ラストサムライ"の戦の地となりました。
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-6
◎函館五稜郭の戦い
*1868.8.19/ 旧幕府海軍副総裁榎本武揚が、艦船8隻を率いて、品川より奥州に向けて脱走出帆する。
*1868.10.25/ 榎本武揚が、函館五稜郭を占領する。
*1868.12.25/ 榎本武揚が蝦夷地全域を占領し、旧幕府軍の総裁に選出される。 
 慶応4(1868)年4月、江戸城無血開城の条件に、新政府への旧幕府軍艦の引渡しが含まれていたが、海軍副総裁の榎本武揚は、軍艦の引渡しに応じず開陽など主力艦の温存に成功した。8月19日、奥羽越列藩同盟からの支援要請に応じて、榎本率いる8隻の旧幕府艦隊は、品川沖を脱走し仙台に向った。この榎本艦隊には、旧幕閣や彰義隊に旧幕府軍事顧問団のフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。
 榎本艦隊は、悪天候で2隻を失いながらも、9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、最後まで戦った会津藩や庄内藩も降伏し、東北戦争は終結してしまった。榎本艦隊は、仙台藩に貸与していた運送船を加え、桑名藩主松平定敬、備中松山藩主板倉勝静、歩兵奉行大鳥圭介、旧新選組副長土方歳三ほか、旧幕臣など東北戦の残党などを収容し、東北沿岸を北上した。
 新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というもので、約8万人の旧幕臣を養うことは不可能であり、榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ北方の防備と開拓にあたらせようと画策していた。榎本は、新政府軍に追われながら、新政府軍平潟口総督宛てに、旧幕臣の救済のため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出する。
 蝦夷地に到達した榎本艦隊は、10月21日、箱館を迂回して、北方の内浦湾鷲ノ木に約3,000名が上陸した。箱館には、旧箱館奉行に代わり新政府の箱館府が置かれていたが、東北戦争に兵員を割かれ手薄となっていた。旧幕府軍は、大鳥圭介率いる部隊と土方歳三率いる部隊の二手に分かれて箱館へ向けて進軍する。明治1(1868)年10月22日夜、無用な戦闘を避けるべく新政府への嘆願書をたずさえた先行隊が宿営中、箱館府軍の奇襲を受け、戦端が開かれた。
 明治1(1868)年10月24日、大鳥軍と土方軍は箱館府軍を撃破し、新政府軍箱館府知事は「五稜郭」の放棄を決め青森へ退却、旧幕府軍は10月25日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させ、旧幕府軍は箱館を占領することに成功した。さらに、松前藩の松前城や館城も攻略して、蝦夷地の平定を達成する。ただし、江差方面攻略の支援に来ていた主艦船開陽などが、悪天候のため座礁沈没し、支援新政府軍の上陸阻止が出来なくなるという痛手を負った。
 12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、蝦夷地開拓を求める嘆願書を新政府に送るが、右大臣岩倉具視に却下され、来たる新政府軍の攻勢に備えることになった。
 旧幕府軍による箱館占拠の通報が東京に届くと、11月19日旧幕府軍追討令が出されたが、冬季作戦は無理として、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始するとし、新政府軍は青森周辺に冬営した。一方、海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄をアメリカから購入し、甲鉄を旗艦とした新政府軍艦隊は、翌 明治2(1869)年3月9日品川沖を青森に向けて出帆した。
 新政府軍艦隊が東北の宮古湾に入るとの情報を受けると、榎本軍は甲鉄を奪取する作戦を実行するも、暴風雨等で難航し、貴重な3艦船を失い敗退する。宮古湾海戦に勝利した新政府艦隊は、青森に到着すると、4月初には渡海準備が完了した。そして、青森を出発した新政府軍は、明治2(1869)年4月9日早朝、江差北方の乙部に上陸した。
 江差を奪還した新政府軍は、4月半ばには陸軍参謀黒田清隆率いる2,800名など増援軍が到着、松前口・木古内口・二股口・安野呂口の四方面から箱館へ向けて進軍を開始する。物量で圧倒する新政府軍に対して、旧幕府軍は各方面とも後退を余儀なくされ、唯一、土方歳三の指揮する二股口の戦いでは、激闘の末、新政府軍を退却させるが、背後から挟撃される危険が生じたため、土方軍も五稜郭への撤退を余儀なくされた。
 明治2(1869)年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、海陸両面から箱館に迫まった。箱館湾海戦では、箱館湾に侵入した新政府軍艦に、榎本軍は残された軍船により抵抗するも、砲弾を打ち尽くすなどして、意図的に座礁させて浮き砲台とするしかなかった。同日、五稜郭北方の急造堡塁の四稜郭方面の戦闘でも、敗退し五稜郭に退却する。
 一方、同日未明、陸軍参謀黒田清隆率いる新政府軍が箱館山の裏側に上陸し、函館湾拠点の弁天台場の背後を襲った。結果的に、弁天台場の旧幕府部隊は、五稜郭本隊と分断され孤立する。新政府部隊は箱館市街をほぼ制圧し一本木関門付近にまで進出、旧幕府部隊は五稜郭まで退いた。このとき、土方歳三は孤立した弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死した。
 翌5月12日、唯一残された五稜郭本隊に対して新政府軍が降伏勧告をするも、榎本総裁はいったん拒否する。この時、榎本が所有していた貴重な「海律全書」を、新政府軍参謀黒田清隆に託し、黒田は返礼として酒樽・鮪を五稜郭に送り届ける。榎本はこの厚意を拝受し、旧幕府軍首脳側が合議の上、降伏・五稜郭開城を決定した。
 5月18日、五稜郭は開城し、榎本ら幹部とともに郭内将兵も投降、ここに箱館戦争は終結した。降伏した旧幕府軍の将兵は弘前藩ほかに預けられたが、ほとんどが翌年に釈放。榎本武揚はじめ幹部7名は、東京で投獄された(明治5年釈放)。
 新政府軍黒田清隆と旧幕府軍榎本武揚が、五稜郭開城にあたって意を通じ合ったことが、この緩和な処置に寄与したと想像される。その後、榎本は、新政府重鎮となった黒田に助命されたうえ明治政府に出仕し、北海道開拓使として北海道の開拓に尽力するなど、新政府の官吏として有能な仕事を為した。

"錦の御旗"は、掲げられましたけれど・・・。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
*1868.3.14/ 明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓約。実質的には、維新政府による基本方針の宣言となる。
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-3
◎五箇条の御誓文
*1868.3.14/ 明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓約。実質的には、維新政府による基本方針の宣言となる。
*1868.3.15/ 新政府は、徒党・強訴・逃散・キリスト教などを禁じた「五榜の掲示」を立て、対庶民には旧幕時代の政策を継承する意図を示す。
*1868.3.28/ 新政府が神仏分離令を出し、以後、「廃仏毀釈」の運動が荒れ狂う。
*1868.閏4.27/ 新政府が「政体書」を出し、政治組織などを具体的に定める。
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
 「五箇条の御誓文」は、慶応4(1868)年3月14日、明治天皇が天地神明に誓約するという形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針であり、正式名称は「御誓文」とされる。鳥羽伏見の戦いの決着がつき、新政府の東征軍が江戸に迫るなか、京都では明治天皇の裁可を受け、「五箇条の御誓文」が公示された。西郷と勝の会談で「江戸城無血開城」が決まるのと同日であった。
 翌日、京都御所の紫宸殿に設えられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。明治天皇出御のもと、副総裁三条実美が天皇に代わって神前で「御誓文」を奉読する形で示された。
 御誓文は太政官日誌(官報の前身)をもって一般に布告された。「御誓文」は、あくまで公卿や諸侯など旧政権周辺に対して、朝廷の威光と天皇親政の国是を知らしめすのが主眼であり、太政官日誌は庶民一般の目に行き渡るのもではなかった。一方で一般国民に対しては、旧来の儒教道徳を強調した「五榜の掲示」が示され、徒党・強訴の禁止やキリスト教の厳禁など、旧幕府の政策を継承した訓示が示された。
 明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。慶応4年1月、福井藩出身参与 由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、次いで土佐藩出身参与福岡孝弟が修正したが、封建的な残滓を残し、王政復古の理念にも反するという批判もあり、そのままになっていた。
 そこで、参与で総裁局顧問木戸孝允は、天皇が、神前で公卿諸侯を率いて誓いの文言を述べ、その場で全員が署名するという形式を提案し、天皇親政を広く知らしめすとして、これが採用されることとなった。木戸は、福岡案の封建的残滓を取り払い、大幅に変更を加えることで、より普遍的な内容にした。この木戸による五箇条が、「御誓文」が明治天皇の裁可を受け、最終案とされた。
 慶応4(1868)年閏4月21日には、御誓文をより具体化した「政体書」が公布され、明治新政府の政治体制が定められた。さらに、明治8(1875)年の立憲政体の詔書では、「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言され、御誓文は立憲政治の実現に向けての出発点として位置付けられた。
 その後の「自由民権運動」でも、「御誓文は立憲政治の実現を公約したもの」とされ、議会政治実現の根拠とされた。また、敗戦後の昭和天皇の、いわゆる人間宣言においては、御誓文の全文が引用され、日本的な民主主義の萌芽として位置づける試みも見られた。

お上は東京へお下りになったのですが・・・。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-5
◎戊辰戦争・新政府東征軍と旧幕軍の戦い
*1868.2.23/ 旧幕臣が彰義隊を組織し、上野を占拠する。
*1868.3.3/ 赤報隊の相良総三らが、偽官軍として捕らえられ、長野の下諏訪で斬罪とされる。
*1868.5.3/ 東北・北陸 奥羽25藩の同盟についで、長岡・会津など8藩も加盟、「奥羽越列藩同盟」が成立する。
*1868.5.15/ 上野の彰義隊が、政府軍の攻撃で敗走する。(上野戦争)
*1868.8.23/ 会津若松城が新政府軍に包囲され、9月22日、会津藩は開城降伏する。(会津戦争)
<上野戦争>
 鳥羽・伏見の戦いに決着がつき、幕府追討の詔勅が発せられると、西日本の多くの諸藩は命に服し、大きな混乱は起きなかった。新政府は、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍する。
 進軍する東征軍と旧幕府残党の最初の戦闘は、東山道軍(中山道)の進軍先の、甲州甲府や武州熊谷で発生した。近藤勇の率いる旧新撰組は甲陽鎮撫隊を組織して戦ったが、甲府盆地で板垣退助ら率いる東山道鎮撫先鋒部隊(土佐藩主力)に敗れ、近藤は捕縛され処刑される(甲州勝沼の戦い)。また、東山道軍の本隊は、武州熊谷梁田宿(現足利市)で旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲攻撃をしかけ、幕府軍の敗北に終わった(梁田戦争)。
 東海道軍は、御三家筆頭の尾張藩が、いちはやく勤皇に転換したこともあって、小田原以西の全ての藩が恭順を誓い、大きな衝突もなく駿府にまで東進した。そして江戸城開城が決まるとこれに不満な抗戦派の幕臣らは、江戸の治安組織の「彰義隊」のもとに結集し上野にたて籠ったが、慶応4(1868)年5月1日、西郷に代わって司令官に任じられた長州藩士大村益次郎(村田蔵六)によって、一日で壊滅させられる(上野戦争)。
<奥羽越列藩同盟>
 京都守護職だった会津藩主松平容保・京都所司代の桑名藩主松平定敬は、ともに京都の治安を担当し、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行った。また鳥羽・伏見の戦いでは、両藩は旧幕府軍の主力として新政府軍と戦ったため、新政府の反感は強く、戦いの敗北とともに朝敵と認定されていた。また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。
 慶応4(1868)年3月22日、新政府への敵対姿勢を続ける会津藩及び庄内藩を討伐する目的で、奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。しかし、追討軍を庄内藩が反撃し天童城を攻め落としたり、関東でも旧幕府軍が宇都宮城を占拠するなど、新政府への対抗気運が漂い出した。
 慶応4(1868)年閏4月4日、仙台藩主導で奥羽14藩は会議を開き、会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出するが、新政府はこれを却下した。当初は、新政府の会庄追討に従っていた奥羽14藩は征討軍を解散し、逆に新政府軍と戦闘状態に入った。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたため、天皇へ直接建白を行う方針に変更され、奥羽列藩盟約書を調印し、会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書が作成された。
 さらに、北越6藩が加わり、計31藩によって「奥羽越列藩同盟」が成立した。当初は嘆願を求める盟約であったものが、途中から軍事同盟に転嫁されたため、必ずしも加盟諸藩の統一された戦略があったわけではない。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力することになった。
 新政府軍と奥羽越列藩同盟との戦いは、仙台藩が盟主的存在であったが、戦闘は奥州・北越の各地で並行的に行われたので、関ケ原の戦いのように双方が全軍で対峙するような場面はなかった。輪王寺宮公現法親王をかついで仙台に奥州政府を樹立する動きもあったとされるが、それは形にならなかった。ただ、京都新政府・江戸幕府のいずれでもない第三の勢力として、東北諸藩の利害共同体的な性格の同盟であったと思われる。
 庄内戦争・秋田戦争・白河戦線・北越戦争・平潟戦線など、各地で激戦が行われたが、新政府軍に敗れた同盟軍や旧幕軍の敗残兵が、未陥落の地に集まるなどして、次々と戦闘地は移っていった。そして最も激戦となったのが、松平容保の会津での戦いであった。奥羽越列藩が次々と陥落し奥羽越同盟が崩壊する中、最後まで若松城に籠城して戦った会津藩も、ついに1868(明1)年9月22日、落城し、その2日後に庄内藩も降伏した。

闘いの転機(戦いの前と後)

【佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争】

2021-10-21
Facebook まつたけ しんやさん曰く
【佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争】1968年1月にアメリカ海軍の原子力空母エンタープライズの米軍佐世保基地への入港に対して革新政党・団体・住民を中心とした反対運動、暴動が起こり、エンプラ騒動といわれた。自分は子供だったのでピンとこなかったが、昭和の人々は闘っていたのですね…。

◎「日米修好通商条約」

2021-10-20
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1856-1860年】
【19th Century Chronicle 1856-1860年】-2
◎「日米修好通商条約」
*1856.8.5/ アメリカ駐日総領事「タウンゼント・ハリス」が、下田玉泉寺を仮領事館とし、アメリカ領事館旗を掲げる。
*1857.5.26/ 米国総領事ハリスが幕府と、9ヵ条の日米約定(下田協約)を締結する。
*1857.10.21/ 米総領事ハリスが、将軍家定に謁見し、アメリカ大統領ピアースの親書を提出する。
*1858.3.20/ 老中堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため入洛するも、朝廷に条約の勅許を拒否される。
*1858.6.19/ 幕府が勅許なしに、「日米修好通商条約」および貿易章程に調印する。
*1859.5.28/ 幕府が、神奈川・長崎・箱館の開港と、露・仏・英・蘭・米との自由貿易を許可する。
 日米和親条約により日本初の総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、安政3(1856)年8月5日、下田に仮領事館を設けアメリカ領事館旗を掲げた。ハリスは翌年の10月に、やっと江戸城に登城がかない、将軍家定に謁見して米大統領ピアースの親書を手渡した。通商条約の締結を指令されて来たハリスは、強硬に自由通商を主張し、幕府内にも止むを得ないという雰囲気が醸成されると、老中首座であった堀田正睦は条約の交渉を開始させた。
 アメリカ側の要望に押しまくられながら、やっと条約の合意が得られるようになると、堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るべく自ら上洛したが、朝廷の公家らの強硬な反対などで勅許を得られないまま江戸にもどる。堀田が上洛中に、南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、以後、井伊が幕府を主導する。
 井伊大老は、勅許を得てからの条約を締結すべきとの考えだったが、交渉担当との指示の行き違いから、直弼の意向に反して勅許を得ないまま条約締結に至ってしまった。そのすぐ後に堀田正睦は罷免され、直接の条約交渉役らも左遷された。しかし勅許無き条約締結は大きな政争を引き起こし、同時期に井伊直弼が慶福に決めた将軍継嗣問題も絡まり、直弼の処置に反対する声が幕府内外に渦巻いた。
 この抗争鎮定のため、井伊は反対派の幕臣や志士・朝廷の公家衆を大量に処罰し「安政の大獄」が始まった。そして、朝廷を利用して幕府の改革をもとめる水戸斉昭など諸侯を謹慎蟄居などで排除した。これらの武断政治は大きな批判を呼び、政局は不穏となった。そして安政7(1860)年3月3日、水戸藩への処置に憤懣をもつ脱藩浪士たちにより、井伊直弼は桜田門外で襲われ暗殺される(桜田門外の変)。
 この同時期、日米修好通商条約批准書の交換のため、正使新見正興を代表とする「万延元年遣米使節」が、ポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛のため、木村喜毅を副使とする「咸臨丸」も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船しており、木村の従者として福澤諭吉も同行渡米している。
 批准された「日米修好通商条約」では、自由貿易・領事裁判権・低い関税率などが取り決められていた。自由貿易の約束に伴い、のちの横浜・神戸など、重要な貿易拠点となる多くの港が開港され、そこに「居留地」が設けられた。そして、後にまで影響を与える不平等条項とされる「領事裁判権(治外法権)」や「低関税率(関税自主権という概念が日本側になかったため、低い関税率だけが決められた)」などが約定された。
 なかでも、深刻な影響を呼び起こしたものに「金銀等価交換」があった。もともと貿易商であったハリスは、領事就任当初から、銀貨基準の等価交換を主張して押し通した(下田協約)。当時の金と銀の交換比率は、世界的には1:15だったが、日本では1:5であったため、銀を持ち込み金と交換することで大きな利益が得られた。その結果として、急激な金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった(幕末の通貨問題)。
 さらに、不平等条約に必ず盛り込まれるのが「片務的最恵国待遇」であった。これはすでに日米和親条約に盛り込まれていたが、事後に他国がより有利な条約等を結んだ時には、それと同等の条件を提供することを義務付けたもので、為替変動や関税率など変動要因の大きい経済分野では重要な条項となる。外交に不慣れな当時の幕府には、はたしてそこまでの認識があったかどうかあやしい。
(この時期の出来事)
*1856.9.-/ 長州藩は、蟄居中の吉田松陰に、萩の松下村塾の主宰することを許可する。
*1857.10.16/ 福井藩主松平慶永(春嶽)らが、一橋慶喜を次期将軍に推奨し(一橋派)、紀州藩主徳川慶福を押す井伊直弼ら(南紀派)との対立構図が明かとなる。
*1858.10.26/ 徳川家茂(慶福)が征夷大将軍となり、第14代徳川将軍に就任する。
*1858.11.16/ 西郷隆盛と僧月照が入水、西郷は救助され、のち奄美大島に潜伏させられる。
*1858.12.5/ 長州藩は、藩老中襲撃を企てたとして、吉田松陰を投獄する。
*1860.1.19/ 幕府軍艦奉行木村喜毀・軍艦操練所頭取勝海舟ら90余名が、咸臨丸でアメリカに向けて浦賀を出帆する。
*1860.8.18/ 孝明天皇が、皇女和宮の降嫁勅許を幕府に内達する。
*1860.12.5/ アメリカ通弁官ヒュ−スケンが、薩摩藩士に惨殺される。

◎黒船来航と開国

2021-10-18
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1851-1855年】-2
◎黒船来航と開国
*1853.6.3/ 米艦隊司令官ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航する。
*1853.6.9/ 浦賀奉行が久里浜でペリーと会見、アメリカの国書を受け取る。
*1854.1.16/ ペリーが軍艦7隻を率いて浦賀に再来、さらに江戸湾内に停泊する。
*1854.3.3/ 幕府が、日米和親条約(神奈川条約)に調印する。
 嘉永6(1853)年6月、米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが率いる艦船4隻が、江戸湾浦賀に接岸した。ペリーは浦賀奉行に、開国を促す米大統領フィルモアの親書を手渡した。幕府側は、将軍が病気であることを理由に、返答に1年の猶予を要求し、ペリーは、1年後に返事を聞くために再来航するとした。
 米国はこの7年前の1846年にも、ビッドルが浦賀に来航して通商を求めた。この時に穏便な交渉方針で臨んで拒否された経験から、ペリーの艦隊は武力で威圧する方針を定めてやって来た。それまでの帆船とは異なり、もうと煙を上げて進む外輪蒸気船の「黒船」は、それだけで威嚇効果は十分だった。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲と称して、江戸湾内で数十発の空砲を発射すると、江戸庶民は腰を抜かした。
 ペリーはその後も数日間、威嚇するように江戸湾に入り込んだうえで、退去した。そのわずか10日後に将軍家慶が死去、第13代将軍家定が就任するも、虚弱ゆえに国政を担える状況ではなく、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。この前年、オランダ商館長から、アメリカが日本の開国を求めて艦隊を派遣するという予告を受けていたが、幕府は黙殺していた。
 ペリーが1年後に再来するとなってから、幕府は大慌てで対策にのり出した。江戸湾警備の増強として、品川沖に11箇所の砲撃用の台場造営を命じた。また、大船建造の禁も解除し、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を浦賀造船所で起工した。さらに、オランダへの艦船発注を発注し、アメリカから帰国した漂流民ジョン万次郎を登用し、アメリカの事情等を説明させた。
 いかにも泥縄式の対策を講じている幕府をあざ笑うかのように、1年の猶予だったはずが、わずか半年後の嘉永7(1854)年1月に、ペリーは6隻の艦船を率いて再来した。続いて3艦も到着、江戸湾に計9隻の艦隊が集結し、江戸は大きく動揺した。虚を突かれた幕府は、このさい開国も止む無しと考え、全12ヵ条に及ぶ「日米和親条約」(神奈川条約)を締結する。ここに200年に及ぶ鎖国は解かれた。
 ひき続き、英・露・蘭とも和親条約を結ぶことになる。オランダとは長い付き合いにも関わらず、紳士的な話し合いで対応したため、武力に訴えてきた米英などより最後にまわされてしまい、強く出る者だけに腰砕けになる幕府の弱腰が明かになると、幕府の権威は地に落ちた。これ以降、「幕末」の風が吹き荒れることになる。
 安政5(1858)年6月には、日米和親条約に基づいて赴任したタウンゼント・ハリス総領事により、「日米修好通商条約」が締結される。この不平等条約は、以後の他の列強との条約の基本となり、日本政府は明治期の終わりまで対応に腐心することになる。ただしアメリカでは、1861年からの南北戦争で内乱状態となり、以降の日本への影響力を失い、主として英仏が幕末の日本の動向に介在することになる。

中国、有人宇宙船を発射 独自ステーション連結

2021-10-16
© KYODONEWS 有人宇宙船「神舟13号」を搭載し、打ち上げられる「長征2号F遥13」=16日未明、中国・酒泉衛星発射センター(共同)
共同通信社 2021/10/16 09:24

【酒泉共同】中国は16日午前0時23分(日本時間同午前1時23分)、有人宇宙船「神舟13号」を打ち上げ、約6時間半後に中国が独自に建設中の宇宙ステーションにドッキングした。
宇宙飛行士3人が中核部分の「天和」に乗り移って半年間滞在し、来年の完成に向け作業する。
習近平指導部が目指す「宇宙強国」の実現に向け、着実な前進となった。

 中国北西部の酒泉衛星発射センターから、ロケット「長征2号F遥13」に載せて発射。
赤い炎を噴き、ごう音とともに夜空に向かって上昇した。
新華社電によると、16日午前6時56分にドッキングに成功した。

ルイス・B・プラー級遠征洋上基地「ミゲル・キース(Miguel Keith)」

2021-10-15
Facebook 中山 正寿 さん曰く、今度は岩国に寄港中のようです。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

2020 年度全戦没者追弔法会 記念講演

2021-04-02
2020 年度全戦没者追弔法会

・趣旨 日常に潜む戦争 ―不安と恐怖の中で―

 私たちの宗門は、かつて侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに多くの人々を戦 場へと送り出しました。戦争で命奪われたすべての人々、遺族のみならず、アジア諸国、 とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。戦争の 歴史が明らかにされる中で、私たちは被害者であると同時に、加害者としての歴史も問わ れてきたのです。だからこそ、なぜ戦争が起きるのか、社会はなぜ戦争に向かったのかと いうことを、全戦没者の悲しみの歴史に学び、戦争をくり返してきた人間の過ちを見つめ、 未来に伝えていくことを大切にしています。 この法会において、私たちは、戦争で命奪われたすべての人々の願いに耳を澄まし、日 常に潜む戦争の影を見つめ、戦争の無残さ、それを生み出す人間の深い闇を、心に刻みた いと思います。そのことにより、「国 こく 豊 ぶ ⺠安 みんあん 兵戈 ひょうが 無用 む よ う (国豊 ゆた かに⺠安 やす し。兵戈 ひょうが 用 もち いるこ となし。)」(『仏説無量寿経』)という、仏の大悲によって真実の豊かさと安らぎが与えら れるところに、兵士も武器も必要がないという教えが、具体的な現実の課題をとおして知 らされます。 いま世界は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に震撼しています。国内においても 感染終息の目途が立たず、命を守るために感染を防ぐ努力は大切です。しかしながら、看 過してはならないのは、感染することにより世間から冷たい眼を向けられるのではないか と恐れる私たちの心や世間の風潮です。その恐れやメディアの報道などによって、私たち の心は追いつめられ、増大した不安から大衆の動向に身をゆだねることで、かりそめの安 心を得ているのではないでしょうか。 国家による戦争と、ウイルスという公衆衛生の問題は、本来、質が異なります。しかし、 不安の高まりからくる過剰な同調圧力は、戦時下と似通ったものを感じずにはいられませ ん。私たちは、不安から逃れるために、その場の空気や力関係に従うことで自分の身を守 ろうとします。そのような意識が、家族のため、みんなのため、やがては国のためにと、 「自発的に」命令に従い、「正義」の名のもとに凄惨な戦争へと向かっていったのです。 私たちは、厳しい状況の中で、⼾惑い揺れ動く心や、追いつめられて呻 うめ きをあげる一人 ひとりの小さな悲しみこそ大切にしていきたいと思います。それにより、「一切 いっさい 恐懼 く く 爲作 い さ 大安 だいあん (一切の恐懼 く く に、ために大安 だいあん を作 な さん。)」(『仏説無量寿経』)という仏の願いに応え てまいります。 このたびの法会が、非戦・平和への歩みを共につなぐ場となることを心より願います。
講師:真城 義麿氏(真宗大谷学園専務理事・元大谷高校校⻑)

政局について

日米豪印首脳会合、訪米の様子を動画にまとめました。

2021-09-27
Facebook 首相官邸さん曰く、ご覧ください。
菅政権1年間の軌跡 令和2年9月16日~

菅政権1年間の軌跡をまとめました。
最後の一日まで国民のために働く内閣として全力を尽くします。

老兵の願い・・・。

2021-09-27
読売新聞(2021.09.27)朝刊さん曰く

【自民党総裁選】国民の声に応える政策討論会④

2021-09-27
Facebook 自由民主党さん曰く、 4日目のテーマは「憲法改正、少子化・人口減少対策、地方創生、スポーツ文化振興、 教育・人への投資」です。

国民の皆さまから寄せられた質問に自民党総裁選候補者が直接お応えする政策討論会を、オンラインで4日間連続で開催します。
4日目のテーマは「憲法改正、少子化・人口減少対策、地方創生、スポーツ文化振興、 教育・人への投資」です。ぜひご覧ください。

【総裁選CafeSta】河野太郎候補特番

2021-09-27
Facebook自由民主党さん曰く、#02 河野太郎の素顔に迫る

【総裁選CafeSta】野田聖子候補特番#02 こどもまんなか政治(2021.9.25)

2021-09-25
Facebook 自由民主党さん曰く、#02 こどもまんなか政治(2021.9.25)
【総裁選CafeSta】野田聖子候補特番#02 こどもまんなか政治(2021.9.25)
自民党総裁選が9月17日告示、9月29日開票で実施されます。
選挙期間中は、候補者もしくは応援団がカフェスタを使い独自の番組を放送します。ぜひご覧ください!
※各候補に割り当てられた総放送時間は90分です。
【番組詳細】
タイトル:こどもまんなか政治                             
内  容:社会全体でこどもの誕生や成長を支え、虐待や貧困などに対する持続可能で誰一人取り残すことがない育成環境の整備の必要性について
出  者:野田聖子 候補、三原じゅん子 参議院議員
■野田聖子候補の情報はこちら

闘いすんで 陽が暮れて・・・

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

勝新太郎さんと田宮二郎さんというより、「悪名」の二人・・・。

2021-11-22
Facebook 石山 裕子さん曰く、勝さんお若いです。田宮さんカッコいいです。

ジョニーという生き方

2021-11-25
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

日曜日も 終わりそうね

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。
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