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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

#トンガ王国 #国際緊急援助活動

2022-01-26
統合任務部隊の輸送艦「#おおすみ」は、トンガに向け航行中です。
写真は、出港前の #LCAC 収容状況、医務室での執務状況です

トンガに向け出港しました。

2022-01-25

1月24日、 #トンガ王国 #国際緊急援助 統合任務部隊の輸送艦「おおすみ」は、 #日本 と同じ #太平洋#海洋国家 という友人であるトンガに向け出港しました。
輸送艦「おおすみ」型
輸送艦「おおすみ」型|水上艦艇|装備品|海上自衛隊 〔JMSDF〕 オフィシャルサイト

稚内市宗谷岬の丘の上にある大岬旧海軍望楼

2022-01-25
Facebook Akihiko Terauchi さん曰く 

稚内市宗谷岬の丘の上にある大岬旧海軍望楼
樺太・千島交換条約締結後、ロシアが樺太の軍備を進めるのに対抗して、1902年(明治35年)に国境防備のために建設されました。
船のブリッジを思わせるデザインで、日露戦争時の監視などに利用されたそうです。

受難の日

2022-01-23
八甲田山の日
1902年(明治35年)に冬の八甲田山へ軽装で雪中行軍に出かけた兵士210名が遭難したことによる。本来は冬の重装備が必要だが、指導部の無謀な判断で遭難し199名の命が失われた。 

八甲田山 「気をつけィ! 案内人殿に対し、かしら~右ッ!」 高倉健

弘前歩兵第三十一連隊第一大隊第二中隊を宇樽部から中里まで無事案内してくれた 滝口さわ( 秋吉久美子)に対し感謝の意を表す「隊の敬礼」をするシーンです。 
この映画は新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作とするフィクション映画。
 小説も「八甲田雪中行軍遭難事件」を題材としたフィクションです。
敬礼前の台詞 
徳島大尉「案内人の生家が戸来の鹿田なので、案内をここまでとする。」
 滝口さわ「んだら兵隊さん、みんな元気で。。。」
 徳島大尉「気をつけィ! 案内人殿に対し、かしら~右ッ!」 

【DTM】映画「八甲田山」より メインテーマ | Miroslav Philharmonik 2


八甲田山 「天は・・・天は我々を見放したァァァ」 北大路欣也

真白き富士の嶺の日
1910(明治43)年、神奈川県の逗子開成中学の生徒12人が学校のボートで乗り出し、七里ヶ浜で遭難して全員が死亡しました。 この遭難は社会的事件として新聞で大々的に扱われました。この悲報に接した鎌倉女学校の教諭・三角錫子が「七里ヶ浜の哀歌」を作詞し、この歌は全国で愛唱されました。


2020 01 27 青森県・陸上自衛隊・八甲田で 雪中訓練

二人のエース

2022-01-22
Facebook 森 一理さん曰く さん

自分の地元石川県から輩出された零戦隊の若き指揮官(分隊長)だった大野竹好(たけよし)中尉。
22歳でレンドバン沖で戦死。
ラバウルの魔王こと西澤広義
戦後、太平洋戦争における日米両軍を通じたトップエースの一人として知られ、アメリカ合衆国の国防総省とスミソニアン博物館に杉田庄一と並んで肖像が飾られている。美男子であり身長は180センチ以上あった

闘いの転機(戦いの前と後)

B!

2022-01-28

M–47パットンですね  Facebook 新妻益男さん曰く

2022-01-27
Facebook 稲葉 祐一さんより

テレビ初密着! 航空自衛隊 F15パイロットの過酷な訓練とは(2021年12月28日)

2022-01-27

紫電改

2022-01-26
 P-51は最高のレシプロ戦闘機とされる。紫電改、疾風を超える高性能機であり欧州・太平洋の両戦線で日独軍機を圧倒した。

Facebook 平原芳弘さん曰く


紫電改と疾風が局地戦で有利に戦えた理由について以下の論説文がありました。大きく分けて三つの考察ですが、それに付記して整備員の確保や部品の調達も挙げられます。
紫電改は第三四三航空隊の活躍がありましたが、生産機数からも四式戦の大戦果の記録がない事が不思議です
これを読んでみると納得する部分ありと考えるのと同時に、どこか悲しい気持ちになってしまいました
■ 戦闘距離の有利
なぜ紫電改や疾風は米戦闘機と対等に戦えたのか?
その第1は戦闘距離の有利を享受できた結果だ。
日本戦闘機には基地近隣で戦える有利があった。本土防空である。戦闘時の飛行距離も滞空時間も短い。パイロットは燃料切れの不安なしに思う存分に戦えた。あるいは燃料搭載量を減らして機体重量を軽くもできた。それにより日本戦闘機は額面以上の性能を発揮できたのだ。
対して米軍機は遠距離攻撃の不利があった。
一つは燃料事情である。特に硫黄島から出発するP-51は往復距離ギリギリだった。戦闘でも常に帰り分の燃料を気にしなければならない。当然ながら日本戦闘機への攻撃も淡白となった。執拗な空中戦はできない。日本戦闘機に手負いまで追い込んでも深追いはできないのだ。
また長距離飛行の疲労も伴った。本土防空戦では米軍機は進攻側となった。離陸から日本上空まで、日本上空から基地に帰投するまで長時間飛行をする立場となった。その点でも存分に戦えなかったのだ。
紫電改や疾風の活躍にはこの戦闘距離の有利があったのである。
■ 迎撃システムの有利
第2は防空システムの支援をうけた結果である。
本土防空戦では日本機は防空システムの支援を得られた。対して米軍機にはそれはなかった。これも紫電改や疾風が米新鋭機と対等に戦えた理由だ。
レーダ情報利用の利益は大きい。戦争後半には本土各地にはレーダが整備されている。さらにそれら情報を集約し判断する防空指揮機能も存在していた。
日本戦闘機部隊は一方的にその利益を得られた。米軍機の来襲地域や概略の状況を事前に察知できたのである。うまくすれば日本戦闘機は米軍機を待ち伏せできた。また奇襲による被害も回避できた。飛行訓練中に攻撃される。あるいは地上で撃破される。そのような最悪事態を避けられた。
また、日本戦闘機は自軍対空射撃からも利益を得られた。対空砲は米軍機に脅威を与える兵器である。その点で日本戦闘機を直接的に支援したわけではない。ただ、米軍機の足を引っ張った結果、日本戦闘機が有利に戦いやすくなったのである。
■ 救難の有利
第3は救難の有利を得た結果だ。これも日本機だけあって米軍機にない要素である。
日本パイロットは撃墜されても脱出救難を期待できた。実際に本土防空戦ではパイロットの救難活動は軍民問わず積極的に行われていた。
また不時着も選択肢となった。戦争末期は本土には多数の飛行場が設営されている。大損傷をうけてもそのいずれか、あるいは河川敷や田畑に滑り込めばどうにかなる判断も成り立った。
そのため強引な戦いができた。脱出すれば、不時着すればどうにかなるからだ。その最たる例が震天制空隊で知られるB-29への体当たりである。爆撃機に体当りして落下傘で生還する。実際にそのような戦いも全くの不可能ではなかった。
米軍機にはそれはなかった。少なくとも海上まで移動しなければ落下傘による脱出も危険であった。無事陸上に脱出しても日本捕虜となってしまうのだ。
これも戦闘に影響した。日本戦闘機は米軍機に対し積極的に戦えた。対して米軍機は慎重となった。帰還や脱出を考慮すれば小規模被弾でも引き下がらなければならない。当然だが日本機への押しは弱くなったのである。
■ 活躍は敗北の結果
紫電改や疾風が活躍できたのはこれら防御側有利があった結果である。
その効果は絶大である。それは二線級戦闘機の活動からも伺える。戦争後半の本土防空戦ではゼロ戦や隼も積極的に防空戦に参加している。そして紫電改や疾風には全く及ばないもののそれなりの戦果を挙げた。これも防御側有利の効果あってだ。
それを考慮すれば紫電改や疾風への見方も変わる。性能で米戦闘機と対等だから活躍できたのではない。防御側有利を生かしてようやく対等に戦えたのだ。
そもそも性能では一品下る戦闘機であった。額面性能や戦後の米軍試験、エンジン性能や機体設計の水準からすれば紫電改や疾風はあきらかに米新鋭機の一段格下である。
つまり「遅れてきた傑作機」「悲劇の傑作機」の理解も誤っているのだ。高性能機だから活躍できたのではない。敗北により日本本土まで押された結果、ホームグランドで戦う有利が得られたのだ。それにより活躍できたに過ぎないのである。
って!
疾風

護衛艦いずもに乗艦! 知られざる海上自衛隊の世界 | ガリレオX第143回

2022-01-25
海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」=平成29年6月21日、南シナ海(自衛隊ヘリから、松本健吾撮影
2017年2月放送作品 海上自衛隊の最新鋭護衛艦いずもの訓練航海に初めてテレビカメラが入った! 
船体は全長248mもあり、海上自衛隊最大を誇る。 
全通甲板と呼ばれる飛行甲板は、5機のヘリコプターが同時に離着艦できる広さを持つ。
格納庫は大型車両を50台並べられるほどの面積を持ち、熊本地震では物資や人員の輸送で貢献した。 
普段知ることのない護衛艦の訓練航海に密着、その素顔に迫る。 
≪番組内容≫ 
〇護衛艦いずも とは 
〇巨大な艦内を徹底解剖 
〇熊本地震での活躍 
〇病院船としてのいずも 
≪主な取材先≫ 
・護衛艦いずも 
・菊池 雅之さん(軍事フォトジャーナリスト)
F35Bの発着艦試験成功、自衛隊が初の「空母」を持つ理由とは
護衛艦「いずも」に着艦する米海兵隊の「F35B」(3日)=防衛省提供
中国軍が追跡…海自最大の護衛艦「かが」南シナ海航海に同行【3分でわかるNドキュ】
F-35C First Integrated Carrier Ops Aboard USS Lincoln

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

映像の世紀(6)「独立の旗の下に アジアは苦難の道を歩んだ」

2021-08-06

第2次世界大戦で日本が敗北すると、アジアの人々は悲願だった祖国独立に立ち上がった。インドのガンジー、中国の毛沢東、ベトナムのホー・チ・ミン。しかし、彼らの前に大きな壁が立ちはだかる。権力闘争、内戦、宗教対立、旧宗主国との戦争。アジアの指導者たちの苦悩と闘争の歴史を発掘映像でつづる。アジアは、屈辱の時代をどう生き抜き、戦後独立を果たすことができたのか、幾度も挫折を繰り返した壮絶なアジア映像史である。

Facebook 日本国自衛隊

2021-07-07
日米安全保障条約調印
岸信介i日本国首相とアイゼンハワー米国大統領

①田中角栄総理(昭和49年 朝霞市) ❷三木武夫総理(昭和50年 朝霞市) 陸自駐屯地を訪れた2人の総理。

2021-07-09
Facebook Chikafumi Etouさん曰く、①田中角栄総理(昭和49年 朝霞市) ❷三木武夫総理(昭和50年 朝霞市)
◾️クジラクラウンと総理大臣 乗っているのは4代目クラウン。 歴代クラウンの中でも超個性的なデザインでした。

第3代将軍徳川家光

2021-08-18
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【17th Century Chronicle 1621-1625年】
◎第3代将軍徳川家光
*1623.7.27/ 徳川家光が京都で、朝廷より征夷大将軍を宣下される。
 徳川家光は、2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で正室のお江(江与)で、長男は夭折しており、祖父家康と同じ竹千代の幼名を与えられ、早くから世子として育てられた。しかし、父 秀忠やお江が弟の国松(徳川忠長)を溺愛したため、家光廃嫡を危惧した乳母のお福(春日局)が家康に懇願し、隠居の家康が長子相続の裁定をして家光が世継ぎと定められた。
 元和9(1623)年7月27日、秀忠とともに上洛した家光は、参内して将軍宣下を受け、第3代征夷大将軍となる。秀忠は隠居して江戸城西の丸に移るが、家康にならって、大御所として引き続き実権を握った。寛永9(1632)年1月に秀忠が死去すると、二元政治は解消され、将軍から「公方」として親政を始める。
 まずは、徳川直臣である旗本を中心に直轄軍を再編し、幕府中枢には大老・老中・若年寄・奉行・大目付と言う役職を定め、将軍をその最高権力者「公方」と位置づけたヒエラルヒーを確立した。そしてそれらの役職には親近な重臣を起用して、大老の井伊直孝・土井利勝・酒井忠勝、老中としては松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛、大目付として中根正盛などを配置した。
 また、熊本藩主加藤忠広を改易するなど、譜代や外様を問わず、有力大名の「改易と転封」を行い、重要な拠点には親藩・譜代大名を配置し、徳川家の支配を強化した幕藩体制を整えた。寛永12(1635)年の武家諸法度の改訂で、大名に「参勤交代」を義務づけ、さらには大名の妻子の江戸住みを定めるなど、大名統制を徹底した。
 海外相手には、幕府による利益独占とキリシタン排除の目的で、長崎での貿易に限定して、取引相手もオランダ人と中国人に限定していく。寛永10(1633)年から寛永18(1641)年にかけて、順次統制を強めてゆき、日本人の東南アジア方面への往来を禁止し、朱印船貿易を終焉させると、寛永14(1637)年の島原の乱の後にはポルトガルとも断交、寛永18(1641)年にオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた。
 これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。家光の代で、徳川政権の基本体制がほぼ出来上がると、つづく家綱・綱吉の治世以降、徐々に文治政治への道が開けた。
 家光は1623年から1651年にかけて30年近く将軍職に在任したが、その間には様々な問題も起こった。なかでも最も大きな事件は、寛永14(1637)年10月に勃発した「島原の乱」であった。これは苛酷な年貢による農民一揆と、厳しいキリシタン弾圧に対する宗教戦争と、二つが重なり合った大乱であり、幕府はその鎮圧に半年近くかかった。これに懲りた幕府は、鎖国を徹底することになる。
 さらに、寛永19(1642)年からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。農民統制の必要を迫られた家光は、「田畑永代売買禁止令」を発布して農民の浮浪民化を防止するとともに、「慶安の御触書」と後年俗称される農民統制のための諸令を発して、農村の安定を図った。
 家光には、正室鷹司孝子との間に子がいなかった。若いころの家光は男色を好み、女性に興を示さなかったので、乳母のお福(春日局)は世継ぎを心配し、家光の側室探しに尽力した。やがて、お福は「将軍様御局」として大奥の公務を取り仕切るようになり、老中をも上回る実質的な権力を握るようになった。
 大奥は春日局によって組織的な整備がなされるとともに、春日局が奥入りさせた側室、お万・お楽・お夏・お玉などを家光が寵愛するようになり、のちの4代将軍家綱、5代将軍綱吉が生まれた。以後、大奥は将軍の世継ぎをもうけるための重要な機能を果すようになる。ちなみに、将軍の正妻の子として生まれて、そのまま将軍に就任したのは、徳川15代の中で家光だけであった。
 第3代将軍徳川家光は、祖父家康を深く敬い、日光東照宮を大規模改修させるなどした。優れた政治手腕を発揮し、幕府権力を基礎固めした上に、諸大名に対する幕府の統制を確立させた家光は、慶安4(1651)年4月、江戸城内で死去する。享年48。
(この時期の出来事)
*1621.9.1/ シャム(タイ)国使が将軍秀忠に謁見、通商を許可される。
*1621.-.-/ 関東郡代伊奈忠治が、利根川の流路を渡良瀬川と結ぶ大改修工事を始め、利根川を東流させる。
*1621.-.-/ マニラ郊外ディラオに、3000人の日本人町が復興される。
*1622.8.5/ 幕府は長崎で、キリシタンを大量に虐殺処刑する。(元和大殉教)
*1622.10.1/ 幕府は、父正信以来の重臣で宇都宮藩主の本多正純が、突然改易される。将軍秀忠暗殺の嫌疑を掛けられたためという。
*1623.11.13/ イギリスが平戸の商館を閉鎖し、対日貿易から撤退する。
*1624.3.24/ 幕府がスペインの貿易要請を拒否、以後日本・スペイン領ルソン間の国交が断絶する。
*1624.11.13/ 薩摩藩主島津家久が率先し、諸大名の妻子を江戸住いにすることが始まる。
*1625.11.-/ 幕府の政務に携わる天台宗の僧南光坊天海が、忍ケ丘に東叡山寛永寺を建立し、徳川家の廟所とする。

◎キリスト教と鎖国政策

2021-08-19
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【17th Century Chronicle 1631-1635年】
◎キリスト教と鎖国政策
*1631.6.20/ 幕府は海外渡航の貿易船に朱印状のほか、老中による奉書の公布が必要であると定める。(奉書船貿易)
*1631.閏10.20/ 京都所司代板倉重宗が、キリシタン・浪人の隠匿、新寺建立を禁止する。
*1633.2.28/ 奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止。(第1次鎖国令)
*1634.5.11/ 幕府はイエズス会宣教師セバスチャン・ビエラらを処刑する。
*1634.5.28/ 幕府は長崎に、外国船の来航・奉書船以外の渡航を禁止する高札を立てる。(第2次鎖国令)
*1634.-.-/ 各地で踏絵がさかんに行われる。
*1635.5.20/ 外国船の入港・貿易を長崎一港に限定し、日本人の海外渡航・帰国を全面禁止する。(第3次鎖国令)
*1635.-.-/ 全国で、キリシタンでないことを証明する「寺請制度」が広がる。
 キリスト教禁教と鎖国政策は、切り離しては語れない。織田信長は京都などの仏教勢力に対抗するため、積極的にキリスト教を取り込んだ。信長の跡を継いだ豊臣秀吉も、当初は信長同様にキリスト教容認の立場を取っていた。しかし、長崎がキリシタン大名大村純忠からイエズス会に寄進され、長崎がキリスト教布教の拠点となるなどして、西国のキリシタン大名が貿易の利益を独占するのを危惧した秀吉は、天正15(1587)年、長崎を直轄領にするとともに「バテレン追放令」を出して宣教師を国外追放とした。
 秀吉は貿易を独占するため朱印船貿易を始めたが、宗教統制と経済とを分離する政策を採ったため、キリシタン取り締まりは、それほど厳しくなかった。ところが慶長元(1596)年、京都のフランシスコ会の教徒たちを捕らえて長崎で処刑するという「二十六聖人殉教事件」が起こる(1596年の禁教令)。これは、同年にスペイン船が土佐に漂着し、その乗組員がスペイン王国の征服意図を誇大に吹聴した「サン・フェリペ号事件」が原因といわれるが、ポルトガルのイエズス会と、後発のスペインのフランシスコ会の布教競争も背景にあったとされる。
 関ヶ原で勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、朱印船貿易を活発に行い、貿易の利益を得ようとした。旧教国ポルトガル・スペインとの南蛮貿易を盛んに行い、カトリック宣教師によるキリスト教布教についても黙認した。しかし後発の新教国であったオランダやイギリスが平戸に商館を開くと、先行したポルトガル・スペインと抗争し、これらカトリック国が布教を通じて日本征服を企んでいると、幕府に吹き込んだ。
 大坂の陣を控えていた家康は、キリスト教勢力が豊臣方に付くことを恐れたこともあって、キリスト教禁教に傾いた。やがて肥前のキリシタン大名有馬晴信とポルトガル・スペイン船の抗争で、マードレ・デ・デウス号爆沈事件が起こされ、その事後処理で仲介役のキリシタン岡本大八の収賄事件が発覚した。
 キリスト教布教とは直接関係ない事件だったが、これをきっかけに慶長17(1612)年、家康は「慶長の禁教令」を発布する。この禁教令では、京都や長崎など全国の教会を破壊するとともに、高山右近や内藤如安など有力なキリシタン武将をマニラなど国外に追放した。その背景には、中国産の上質生糸(白糸)を輸入する際に、それに関わるポルトガル・スペイン船やキリシタン大名有馬晴信らの勢力を排除し、幕府が直接に貿易を統制するという狙いがあった。
 当時の重要な輸入品である白糸(中国産の生糸)は、ポルトガル商人により独占的価格で持ち込まれており、幕府は、京都・堺・長崎の有力商人に糸割符仲間を作らせて価格統制をする「糸割符制度」を導入して対抗していた。このような幕府の貿易統制策は禁教と結びついて進められ、宣教師を先兵に進出する旧教国ポルトガル・スペインの「南蛮人」に対して、キリスト教布教にこだわらない新教国オランダ・イギリスの「紅毛人」にシフトしていく流れができてきたのである。
 元和2(1616)年に家康が死去すると、徳川秀忠は、キリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国政策を急速に進めてゆく。同年に貿易港を平戸と長崎に限定し(二港制限令)、元和6(1620)年には「平山常陳事件」が起こり、英蘭がポルトガルの交易を妨害し「元和の大殉教」に繋がる。
 元和6(1620)年、平山常陳が船長をつとめる朱印船が、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された。この朱印船には、スペイン人宣教師2名が商人として乗船していたことが発覚し、この年7月、長崎で平山常陳および2名の宣教師が火あぶり、船員12名が斬首とされた。
 これが江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、翌月には長崎で、それまでに逮捕されていた宣教師や信徒など教会関係者55名が一斉に処刑された。これが「元和の大殉教」と呼ばれ、以後、諸大名もこれにならって、各地でキリシタンに対する迫害を強化徹底した。
 翌 元和9(1623)年、幕府はポルトガル人の日本在住禁止、朱印船のマニラ渡航の禁止などを次々に公布し、江戸幕府の対外政策の方向性を決定付けていくことになる。同年、イギリスがオランダとの競争に敗れて平戸商館を閉鎖、さらに1624(元和10)年にはスペイン船の来航を禁止、寛永8(1631)年には、朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要とする「奉書船制度」を開始した。
 寛永9(1632)年、大御所徳川秀忠の没後も、引き継いだ3代将軍家光は、さらに鎖国政策を徹底していく。寛永10(1633)年、奉書船以外の渡航を禁じ、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた(第1次鎖国令)。寛永11(1634)年、第1次鎖国令の再通達と長崎に出島の建設を開始(第2次鎖国令)。寛永12(1635)年、中国・オランダなど外国船の入港を長崎一港に限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた(第3次鎖国令)。寛永13(1636)年、貿易に関係のないポルトガル人とその妻子をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す(第4次鎖国令)。
 そして寛永14(1637)年から寛永15(1638)年にかけて、「島原の乱」が勃発する。この乱の鎮圧に幕府は半年を費やし、オランダから武器弾薬の援助を受けるなどして、やっと幕府開闢以来の叛乱を収めた。キリシタンにすっかり懲りた幕府は、寛永16(1639)年、ポルトガル船の入港を禁止(第5次鎖国令)し、新教国オランダのみが西洋の交易国となる。これをもって「鎖国の完成」とされるが、さらに2年後の1641(寛永18)年、平戸からオランダ商館が移設され、オランダ人も出島に隔離された。
(この時期の出来事)
*1631.5.-/ 将軍家光の弟徳川忠長(国松)が甲斐に幽閉される。
*1631.9.21/ 関所の通過規制を強化し、通行手形のない不審者・女性は厳重に差し止められた。
*1632.1.24/ 大御所徳川秀忠(54)没。
*1632.12.17/ 水野守信・柳生宗矩ら4名が「総目付」に任命され、幕政に関わる大名や諸役人の不正を監視する。(「大目付」の初め)
*1633.3.15/ 幕府が筑前黒田藩の騒動を裁断し、家老栗山大膳を南部藩預けとする。
*1633.3.23/ 将軍家光が松平信綱など「六人衆」を起用し、幕政の刷新・若返りを断行する。(「若年寄」の初め)
*1633.12.6/ 乱行により、高崎に幽閉されていた徳川忠長(28)が自刃する。
*1634.7.1/ 将軍家光が上洛し、朝廷との関係修復をはかる。
*1634.8.4/ 譜代大名妻子の江戸居住を命じる。
*1634.11.7/ 荒木又右衛門の助太刀で、伊賀越えの仇討が成就される。
*1635.3.11/ 係争中の対馬藩国書偽造事件(柳川一件)に、将軍家光が処断を下す。
*1635.6.21/ 武家諸法度の改正により、諸大名に「参勤交代」が義務付けられる。
*1635.11.9/ 寺社と遠国の訴訟を管轄する「寺社奉行」が設置される。
*1635.11.10/ 幕府は、老中・若年寄・寺社奉行・町奉行・勘定頭などの職務権限を定める。

闘いすんで 陽が暮れて・・・

2022-01-24
YS―11の鬼太郎スペシャル
C―1の鬼太郎スペシャル
T―400の鬼太郎スペシャル

『沢村 忠』

2022-01-07
Facebook 高村雪子・Syoko さん曰く

月曜日 やっつけたわね

2021-12-10
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

昭和の東西「オー・モーレツ」

2022-01-22
Facebook 浅見俊彦さん曰く、小川ローザ & マリリンモンロー

日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
朝鮮戦線を慰問、日本での新婚旅行を中座して・・・。

マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程 

 

1954年(昭和29) 2月1日 午後5時35分 羽田着 

夫のジョー・ディマジオ サンディエゴ・パドレス監督の

フランク・オドウル氏らとともにオープンカーをつらねて帝国ホテルへ。

              

2月2日 記者会見

   ディマジオの為の記者会見だったが、質問はすべてマリリン

へのものだった。

 

2月8日 午後7時30分 板付着 

那珂川河畔の国際ホテル(現在の城山ホテル跡)へ

                     ホテルを500人あまりのファンが取り巻く。

マリリンは2階の窓辺に現れ、カーネーション の花びらを

ファンにばらまいて、投げキッスをふりまいた。

滞在中は、1人で、西戸崎へ米軍キャンプの慰問、

ドライブなどを楽しむ。

ディマジオ、オドウル監督らは、香椎球場で日本プロ野球選手の

技術指導を行う。

夕食はお忍びで、ホテルの通りをはさんだ向かいのレストラン

ロイヤル(旧花の木)で食事を楽しむが、店をファンに埋め尽くされる一幕も。

            

2月11日 午前9時10分 岩国市の米軍基地へ

                    ディマジオ・マリリン一行は、自動車で宮島の一茶苑に向かったが、

ファンが殺到しMPが出動する騒ぎだった。

            

2月14日 岩国から大阪へ

            

2月16日から19日まで

     マリリンは、朝鮮の国連軍慰問(10ヵ所以上の駐屯地を訪問)し、カゼを引く

     ディマジオは、大阪・奈良などを訪問し、野球指導を行う。

            

2月25日 午後2時7分 羽田からサンフランシスコへ帰国

ロイヤルのこの器は、今(2021年)でも、この形で、テーブルにサービスされています。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

2020 年度全戦没者追弔法会 記念講演

2021-04-02
2020 年度全戦没者追弔法会

・趣旨 日常に潜む戦争 ―不安と恐怖の中で―

 私たちの宗門は、かつて侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに多くの人々を戦 場へと送り出しました。戦争で命奪われたすべての人々、遺族のみならず、アジア諸国、 とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。戦争の 歴史が明らかにされる中で、私たちは被害者であると同時に、加害者としての歴史も問わ れてきたのです。だからこそ、なぜ戦争が起きるのか、社会はなぜ戦争に向かったのかと いうことを、全戦没者の悲しみの歴史に学び、戦争をくり返してきた人間の過ちを見つめ、 未来に伝えていくことを大切にしています。 この法会において、私たちは、戦争で命奪われたすべての人々の願いに耳を澄まし、日 常に潜む戦争の影を見つめ、戦争の無残さ、それを生み出す人間の深い闇を、心に刻みた いと思います。そのことにより、「国 こく 豊 ぶ ⺠安 みんあん 兵戈 ひょうが 無用 む よ う (国豊 ゆた かに⺠安 やす し。兵戈 ひょうが 用 もち いるこ となし。)」(『仏説無量寿経』)という、仏の大悲によって真実の豊かさと安らぎが与えら れるところに、兵士も武器も必要がないという教えが、具体的な現実の課題をとおして知 らされます。 いま世界は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に震撼しています。国内においても 感染終息の目途が立たず、命を守るために感染を防ぐ努力は大切です。しかしながら、看 過してはならないのは、感染することにより世間から冷たい眼を向けられるのではないか と恐れる私たちの心や世間の風潮です。その恐れやメディアの報道などによって、私たち の心は追いつめられ、増大した不安から大衆の動向に身をゆだねることで、かりそめの安 心を得ているのではないでしょうか。 国家による戦争と、ウイルスという公衆衛生の問題は、本来、質が異なります。しかし、 不安の高まりからくる過剰な同調圧力は、戦時下と似通ったものを感じずにはいられませ ん。私たちは、不安から逃れるために、その場の空気や力関係に従うことで自分の身を守 ろうとします。そのような意識が、家族のため、みんなのため、やがては国のためにと、 「自発的に」命令に従い、「正義」の名のもとに凄惨な戦争へと向かっていったのです。 私たちは、厳しい状況の中で、⼾惑い揺れ動く心や、追いつめられて呻 うめ きをあげる一人 ひとりの小さな悲しみこそ大切にしていきたいと思います。それにより、「一切 いっさい 恐懼 く く 爲作 い さ 大安 だいあん (一切の恐懼 く く に、ために大安 だいあん を作 な さん。)」(『仏説無量寿経』)という仏の願いに応え てまいります。 このたびの法会が、非戦・平和への歩みを共につなぐ場となることを心より願います。
全戦没者追弔法会   表 白
全戦没者追弔法会  

表  白 
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに 三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じ ます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如
講師:真城 義麿氏(真宗大谷学園専務理事・元大谷高校校⻑)

2021年全戦没者追弔法会記念講演をご視聴いただけます


2021年4月2日に勤まりました「全戦没者追弔法会」の記念講演を公開しています。

解放運動推進本部ホームページ内の「学ぶ(動画)」からご視聴いただけます。

 

●2021年全戦没者追弔法会 記念講演

●講題 「日常に潜む戦争」

●講師 真城 義麿氏(四国教区東予組善照寺住職)



【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

政局について

高市候補

2021-09-18

野田候補

2021-09-18

候補者共同記者会見

2021-09-17
Facebook 自由民主党さん曰く
候補者共同記者会見
9月17日、自民党総裁選の候補者共同記者会見をライブ配信いたします。ぜひご覧ください


【ノーカット】自民党総裁選 候補者共同記者会見

    菅義偉首相の退陣表明に伴う自民党総裁選が17日告示された。
   岸田文雄前政調会長、河野太郎行政改革担当相、高市早苗前総務相、野田聖子幹事長代行の4氏が
   立候補し、同日午後、そろって記者会見した。

自民党総裁選候補者の共同記者会見を前に、撮影に応じる

2021-09-17
(左から)河野太郎規制改革担当相、岸田文雄前政調会長、高市早苗前総務相、野田聖子幹事長代行
=17日午後、東京・永田町の同党本部

所見発表演説会

2021-09-17
Facebook 自由民主党さん曰く
所見発表演説会
9月17日、自民党総裁選の所見発表演説会をライブ配信いたします。各候補者の所見をぜひお聴きください。
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