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闘いの歴史

データベース

断末魔の狂乱、陸に、海に、空に・・・。

2021-08-15
Facebook 歷史時空さんより

映画「民族の祭典」 “Olympia” 開会式

2021-08-09
1936年にヒトラー政権下で開催されたベルリンオリンピックの記録映画.最初にして最高のオリンピック映画といわれる.
レニー・リフェンシュタール監督.

反ブロパガンダ

2021-08-09
『我々は何故戦うか』第1号「戦争の序曲」(1942) トレイラ―

意志の勝利

2021-08-09
意志の勝利』(いしのしょうり、ドイツ語Triumph des Willens)は、1934年にレニ・リーフェンシュタール監督によって製作された記録映画。同年に行われた国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)の第6回全国党大会の様子が記録されている。

「ラッキー・ガール」という見出しで「LIFE」誌に掲載された。

2021-08-08
Facebook 永井由紀夫さん曰く
長崎原爆投下の翌日の朝、日本軍カメラマン山端庸介氏によって撮影された写真。「ラッキー・ガール」という見出しで「LIFE」誌に掲載された。実際は創作写真だったとのこと。
『写真撮影のことはよく覚えています。写真を取らせてくれと言われて、防空壕に入りましたが、あの時は怖くて、逃げることばかり考えていました。笑ってくれと言われ、無理に笑顔を作りました。』18歳の時
熊本県球磨郡の農家に6人きょうだいの四女として生まれました。地元の学校を卒業後、熊本市の日赤病院で見習い看護士として働き、長崎にいた長姉夫婦を頼って長崎に移ってからは国鉄の女性車掌として長崎市で働いていました。
そして運命の日、1945年8月9日を迎えたのですが、実はこの日に佐賀県で同じ国鉄勤務の男性と佐賀県で結婚式を挙げる予定でした。しかし親戚の都合で式が延期となったため、長崎市大黒町の下宿で被爆してしまうのです。
結婚して4人の子供にも恵まれましたが
白血病を発病 波乱の人生を送り
離婚し子供たちとも別れ 
51歳でひっそり亡くなられたそうです

闘いの記録 (戦争と人間)

なぜ台湾人の「ぼく」の父が「三郎」なのか?

2021-10-25
(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

This is the Last Photo of Yamamoto

2021-10-24

【与太郎戦記】

2021-10-19
五代目 春風亭柳昇

春風亭柳昇 与太郎戦記


五代目 春風亭柳昇【与太郎戦記】


春風亭柳昇(五代目)与太郎戦記~戦場にかける恋~【名作:永久保存版】

【近衛声明】

2021-10-15
『Get Back! 30's / 1938年(s13)-2』
【近衛声明】
○1.16 第一次近衛声明発表。日中戦争、泥沼化へ。(国民政府を相手とせず)
○11.3 第二次近衛声明。武漢陥落後の新体制「東亜新秩序の建設構想」を発表する。(東亜新秩序建設に関する声明)
○12.22 第三次近衛声明。国民政府投降派に呼びかけ、日中国交調整の基本方針として「善隣友好・共同防共・経済提携」の近衛三原則をうたう。(近衛三原則)
*1月16日 第一次近衛声明(国民政府を対手とせず)
 1938年(昭和13年)1月16日、近衛文麿首相はトラウトマン工作に基づいた和平案提示に対し、蒋介石率いる国民政府が応じないことを原因として、交渉打ち切りの声明を発表した。
 近衛は声明の中で「国民政府を対手とせず」と述べ、同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発した。これに対し国民政府側も許世英駐日大使の本国召還を決定した(1月20日に帰国)。これにより両国間の外交関係は断絶、日本政府は国民政府との話し合いを自ら放棄し、戦争終結の手がかりを失うことになった。
*11月3日 第二次近衛声明(東亜新秩序建設に関する声明)
 日本軍による広東、武漢の相次ぐ占領にもかかわらず、和平の見通しが立たなかったため、近衛は1938年(昭和13年)11月3日に再度声明を発表した。近衛は「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「国民政府を対手とせず」の発言を修正した。
 この声明の狙いは蒋介石と対立していた汪兆銘を重慶に移転していた国民政府から離反させることにあった。汪はこの後重慶を脱出し、昆明を経由してハノイに到着している。
*12月22日 第三次近衛声明(近衛三原則)
 1938年(昭和13年)11月、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭や今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。汪がこの後に重慶を脱出し、近衛は、1938年(昭和13年)12月22日に対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した。
 汪は撤兵の約束を反故にされたことに衝撃を受けたものの、この声明が日本との和平への道を開いたものと受け止め、滞在先のハノイから重慶の国民政府に向けて和平解決を要請する電報を送ったが、国民政府側はこの提案に反対し、汪から全ての職務と党籍を剥奪した。
 第三次近衛声明の2週間後、内閣総辞職し、対中交渉は平沼内閣に受け継がれた。
(以上、wikipediaより引用)
 第一次近衛内閣は、この一年の間に三度も「近衛声明」なるものを出した。上記記述では三つの近衛声明のつながりが分かりにくいが、これらをつなぐキーマンは「汪兆銘(おうちょうめい)」だと思われる。汪兆銘は辛亥革命での孫文の後継者的な立場にあったが、袁世凱や蒋介石にその地位を奪われる形になっていた。
 蒋介石国民党と毛沢東共産党とは、第二次国共合作が成立し抗日民族統一戦線を構築しつつあった。山間部でゲリラ戦に徹する共産軍にたいして、蒋介石国民党軍は日本の直面する敵であり、和平にも応じず頑強に抵抗姿勢を示したため、和平交渉を打ち切る第一次近衛声明を発表した。
 その後の日本軍による広東、武漢の相次ぐ占領にも蒋介石は和平に応じなかったため、和平グループの中心的存在となった汪兆銘を重慶国民党政府から離反させることを企図し、第二次近衛声明(東亜新秩序建設に関する声明)を出した。つまり提唱する「新秩序」に対応するなら、和平の交渉相手とするということで、その相手とは汪兆銘を指している。
 さらに続いて第三次近衛声明て、講和後の三原則方針を具体的に提示する。汪兆銘はこれを歓迎し、脱出先のハノイから「和平反共救国」を訴えたが、これに呼応する有力者は無く、重慶国民党政府は汪兆銘を永久除名しすべての地位を解除した。このすぐあと、早期停戦のツテを失った近衛は政権を投げ出す。
 近衛が与しやすしとして交渉相手に選んだ汪兆銘は、結局近衛と同じ優柔不断さで実権をもち得なかった。似た者同士が手を組もうとして失敗する例は、今でも多く存在する。交渉相手には、最も困難とされる相手を選ぶべきなのである。

セーラー服と機関銃 昭和9年5月

2021-10-11
Facebook「絆の会」さん曰く、目黒高女(現目黒高校)の女学生による射撃訓練 、この画像初めてみた。

闘いの転機(戦いの前と後)

横須賀米海軍基地に入港するクイーン・エリザベス

2021-09-04
Facebook 小林 直也さん曰く
Facebook 石津 祐介さん曰く

闘い済んで、陽が暮れて・・・。

2021-09-09
Facebook 戦艦ミズーリ記念館

1945年9月2日東京湾

2021-09-03
Facebook 戦艦ミズーリ記念館さん曰く
本日、第二次世界大戦終結76周年式典が戦艦ミズーリの艦尾ファンテイルで行われました。
平和に向けて
“この厳粛な式を転機として流血と虐殺の過去からよりよい世界、信頼と理解の上に立つ世界、人間の尊厳と、人間の最も渇望している自由、寛容、正義の完成をめざす世界が生まれてくることを私は心から希望している”
1945年9月2日東京湾
連合軍最高司令官のダグラスマッカーサー元帥のスピーチ抜粋

東京湾の戦艦ミズーリ

2021-09-04
Facebook 戦艦ミズーリ記念館さん曰く
東京湾で駆逐艦マイルズ・C・フォックスの艦上から撮影された戦艦ミズーリ。写真は駆逐艦マイルズ・C・フォックスのプランクオーナーであり写真係であったWJ (William) Crowell氏が撮影しました。写真は数十年もの間缶の中で保管されて世に出る事はありませんでした。
Photo share from Kimball Shakhrokhi, William Cromwell's grandson.

東京湾への途上です。

2021-09-05
Facebook 戦艦ミズーリ記念館さん曰く

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

2020 年度全戦没者追弔法会 記念講演

2021-04-02
2020 年度全戦没者追弔法会

・趣旨 日常に潜む戦争 ―不安と恐怖の中で―

 私たちの宗門は、かつて侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに多くの人々を戦 場へと送り出しました。戦争で命奪われたすべての人々、遺族のみならず、アジア諸国、 とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。戦争の 歴史が明らかにされる中で、私たちは被害者であると同時に、加害者としての歴史も問わ れてきたのです。だからこそ、なぜ戦争が起きるのか、社会はなぜ戦争に向かったのかと いうことを、全戦没者の悲しみの歴史に学び、戦争をくり返してきた人間の過ちを見つめ、 未来に伝えていくことを大切にしています。 この法会において、私たちは、戦争で命奪われたすべての人々の願いに耳を澄まし、日 常に潜む戦争の影を見つめ、戦争の無残さ、それを生み出す人間の深い闇を、心に刻みた いと思います。そのことにより、「国 こく 豊 ぶ ⺠安 みんあん 兵戈 ひょうが 無用 む よ う (国豊 ゆた かに⺠安 やす し。兵戈 ひょうが 用 もち いるこ となし。)」(『仏説無量寿経』)という、仏の大悲によって真実の豊かさと安らぎが与えら れるところに、兵士も武器も必要がないという教えが、具体的な現実の課題をとおして知 らされます。 いま世界は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に震撼しています。国内においても 感染終息の目途が立たず、命を守るために感染を防ぐ努力は大切です。しかしながら、看 過してはならないのは、感染することにより世間から冷たい眼を向けられるのではないか と恐れる私たちの心や世間の風潮です。その恐れやメディアの報道などによって、私たち の心は追いつめられ、増大した不安から大衆の動向に身をゆだねることで、かりそめの安 心を得ているのではないでしょうか。 国家による戦争と、ウイルスという公衆衛生の問題は、本来、質が異なります。しかし、 不安の高まりからくる過剰な同調圧力は、戦時下と似通ったものを感じずにはいられませ ん。私たちは、不安から逃れるために、その場の空気や力関係に従うことで自分の身を守 ろうとします。そのような意識が、家族のため、みんなのため、やがては国のためにと、 「自発的に」命令に従い、「正義」の名のもとに凄惨な戦争へと向かっていったのです。 私たちは、厳しい状況の中で、⼾惑い揺れ動く心や、追いつめられて呻 うめ きをあげる一人 ひとりの小さな悲しみこそ大切にしていきたいと思います。それにより、「一切 いっさい 恐懼 く く 爲作 い さ 大安 だいあん (一切の恐懼 く く に、ために大安 だいあん を作 な さん。)」(『仏説無量寿経』)という仏の願いに応え てまいります。 このたびの法会が、非戦・平和への歩みを共につなぐ場となることを心より願います。
講師:真城 義麿氏(真宗大谷学園専務理事・元大谷高校校⻑)

政局について

NHK 選挙WEB

2021-10-19

安倍政権に反省促す所感、なぜ出した…政界引退する大島衆院議長が語る民主主義の根幹

2021-10-20
 8年9カ月続いた「安倍・菅政権」。国会の議論の前提となる資料の隠蔽や改ざんが相次ぎ、異論に耳を傾けない姿勢も相まって、少数意見を尊重しながら熟議する民主主義の根幹が揺らいだ。憲法で国権の最高機関と定められた国会の責任者は、議会や政治のありようをどう見ていたのか。次の衆院選に立候補せず、政界を引退する衆院の大島理森議長(75)に聞いた。

安倍政権に反省促す所感、なぜ出した…政界引退する大島衆院議長が語る民主主義の根幹:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

おおしま・ただもり 1946年、青森県八戸市生まれ。毎日新聞社員、青森県議を経て、1983年衆院選に自民党から立候補して初当選。12期目。青森2区。文相や農相、自民党幹事長などを歴任。2015年4月から衆院議長を務め、通算在職日数は歴代最長の2335日(13日時点)。

総選挙が公示されました。

2021-10-20
『読売新聞』2021/10/20朝刊です。

安倍、麻生を裏切り総理を操る甘利明・幹事長という「狡猾の人」

2021-10-18
© NEWSポストセブン 提供 容赦ない(時事通信フォト)
2021/10/18 07:05

岸田内閣の「影の総理」と呼ばれ始めているのが、甘利明・自民党幹事長だ。これまでキングメーカーの安倍晋三・元首相と麻生太郎・副総裁に忠実に付き従う「3Aトリオの末席」と見られていたが、総裁選と新政権の人事で一気に権力の中枢に駆け上がった。

 にわかに権勢を得た甘利氏の政界での軌跡を辿ると、仕えた“主家”から離れては敵対関係になってきたことが分かる。

 最初に世話になったのは河野家だった。甘利氏の父・正氏は河野一郎・元副総理の子分で、神奈川県議から代議士になり、河野家2代目の洋平氏が自民党を離党して新自由クラブを旗揚げすると行動を共にした。父の地盤を継いだ甘利氏も初当選は新自由クラブだった。甘利氏の先輩議員だった山口敏夫・元労相が振り返る。

「甘利君は勉強家で新人議員時代から官僚を集めて熱心に政策づくりをしていた。ただ、河野洋平はリベラル派の理想主義者だったが、甘利君の父は保守派だったし、若い頃から父の秘書をしてきた甘利君は政治理念より政策に重きを置くタイプで、洋平の政治姿勢に共鳴していたわけではなかった。だから新自由クラブが解党して自民党に復党するとき、洋平は宏池会(現岸田派)に入ったが、私は甘利君を誘って中曽根派に合流した。そのとき政治路線を違えることになった」

 だが、今回の総裁選で甘利氏は政治路線を違えたはずのリベラル派の岸田氏につき、世話になった河野家の3代目の太郎氏の敵に回った。

「河野太郎は新自由クラブ解党のときに洋平について行かなかった甘利君に思うところがあるのかもしれないし、当選回数が上の甘利君にすれば、河野太郎はまだまだ信用が足りないと考えたのではないか」(同前)

 その後、甘利氏は中曽根派から分かれた山崎派に所属し、「政策通」として頭角を現わしていくが、派内で人望があるとは言えなかった。同派議員の元秘書が語る。

「関西の山崎派議員のパーティーで挨拶に立った甘利さんが『私はね、関東より先には行かないんです。遠くのパーティーには参加しないんですよ』としゃべり出した。その自分がわざわざ来たと言いたかったのかもしれないが、高飛車な言い方を関西人は有り難がらない。会場はシーンとして気まずい空気が流れたが、気分を悪くしたのか、甘利さんは挨拶の最後に『本当に来ないんだよ、私は』と捨て台詞を吐き、出席した同僚議員や秘書たちも唖然としていた」

 それでも山崎派ではナンバー2の会長代行に就任し、派閥を継げると考えていた。だが、会長の山崎拓氏は甘利氏ではなく、途中から派閥に入会した石原伸晃・幹事長(当時)に派閥を継がせ、後継者争いに敗れた甘利氏は2011年に側近議員を連れて派閥を割った。このとき旗揚げしたのが甘利グループ「さいこう日本」だ。

 その石原氏が翌2012年の総裁選に最有力候補として出馬すると、甘利氏は再登板を目指す安倍氏の選挙責任者となって石原追い落としに動く。今回の総裁選で河野阻止に動いたのと同じやり方だ。

 総裁選は安倍氏が逆転勝利し、甘利氏は安倍政権で経済再生相を連続4期務めるなど重用され、安倍氏、麻生氏と並んで「3A」と呼ばれるようになった。もっとも、党内には「3Aという呼び方を一番吹聴していたのは甘利本人。総理、副総理と同格であるかのように印象づける自己宣伝が巧みだった」(閣僚経験者)との冷ややかな見方もある。

転んでもただでは起きない

 出世を重ねて絶頂にあった甘利氏だが、2014年のUR都市機構をめぐる口利き疑惑で転落する。

「秘書のせいにはしたくない」という“涙の会見”で大臣を辞任すると、「睡眠障害」を理由に半年近く国会を欠席、姿をくらませた。

 追い打ちを掛けたのが、甘利氏をかばっていた当時の安倍首相が、後任の経済再生相に甘利氏が追い落とした石原氏を起用したことだ。甘利氏が失脚し、代わって石原氏を復権させたのである。

「石原さんに勝ったつもりだった甘利さんにすれば、この人事は屈辱だったはずです。権力者の非情さを思い知らされたのではないか」

 甘利氏に近い議員からは同情する声が上がった。

 しかし、転んでもただでは起きなかった。復権を目指す甘利氏は、今度は甘利グループの子分4人を連れて派閥拡大をはかる麻生派に入会する。「安倍側近」から「麻生側近」へと主を代えた。

 それを機に、麻生氏の後押しで党行革推進本部長、選対委員長、党税調会長と再び出世の階段に戻ることができた。

 そしていま、岸田政権で幹事長として権力を握るやいなや、安倍氏の力を削ぐことで過去の“屈辱”を晴らし、恩人で盟友でもあった麻生氏の棚上げをはかって麻生派の跡目に手をかけるところまできた。

 甘利明という政治家には、裏切り、寝返り何でもありの権力闘争の修羅場をくぐり抜けたしたたかさ、狡猾さをいかんなく見せつけられる。

※週刊ポスト2021年10月29日号

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