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闘いの歴史

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上皇后美智子さま、眞子さんを抱きしめる 結婚前日の別れ際

2021-11-06
© 毎日新聞 提供 上皇后美智子さま=2019年2月、代表撮影
毎日新聞 2021/11/05 19:36

秋篠宮ご夫妻の長女、小室眞子さん(30)が結婚前日の10月25日、仙洞(せんとう)仮御所(旧高輪皇族邸、東京都港区)に上皇ご夫妻を訪ねた際、上皇后美智子さまが別れ際に眞子さんを抱きしめられたと側近が5日、明らかにした。

 眞子さんは、大学時代の同級生である圭さん(30)との結婚のあいさつのために訪問し、1時間余り滞在した。側近によると、面会を終えた後、上皇ご夫妻は眞子さんを車寄せまで見送った。さらに上皇后さまは眞子さんが車に乗り込む直前、何も言わずに抱きしめたという。【井川加菜美】

上皇后さま、眞子さん抱き締める=結婚前日、別れ際に 2021/11/05 16:16
秋篠宮ご夫妻の長女小室眞子さんが結婚前日の10月25日、上皇ご夫妻にあいさつするため仙洞仮御所(東京都港区)を訪ねた際の様子を上皇ご夫妻の側近が5日、明らかにした。ご夫妻は1時間余り眞子さんと懇談した後、玄関まで見送られた。別れ際、上皇后さまは車に乗る前の眞子さんを無言でしっかりと抱き締めたという。

川嶋辰彦さん死去、81歳=紀子さま父、学習院大名誉教授

2021-11-04
© 時事通信 提供 結納に当たる「納采の儀」の当日、あいさつのため結婚前の秋篠宮妃紀子さまと皇居に向かう父の川嶋辰彦さん(左端)、母の和代さん(同2人目)ら=1990年1月、東京都豊島区
=1990年1月、東京都豊島区
2021/11/04 18:43

 秋篠宮妃紀子さまの父で、学習院大名誉教授の川嶋辰彦(かわしま・たつひこ)さんが4日午前11時55分、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。81歳だった。

 1940年生まれ。東京大経済学部卒業後、米ペンシルベニア大大学院専任講師を経て、76年から学習院大経済学部教授を務め、2011年から名誉教授。同大では自身が中心となり、タイ北西部でのボランティア活動を十数年実施した。07~08年には国土交通省の専門委員を務めた。

 川嶋さんは10月19日に搬送され入院。紀子さまや次女佳子さま、同26日に小室圭さんと結婚した長女眞子さんが、お見舞いでたびたび病院に足を運び、4日も訪問された。

 宮内庁によると、秋篠宮ご夫妻は同日午後の公務を取りやめた。ご一家は慣例に基づき喪に服す。

父の述懐

2021-11-04
Facebook掛橋泰定さん曰く

首脳外交を進めてまいります。

2021-11-03
Facebook 首相官邸さん曰く
COP26に出席するため、イギリスに向けて出発します。
気候変動対策の議論の場として重要な機会となるCOP26で、我が国が「2050年カーボンニュートラル」の実現に向けた取組を進めるのはもちろんのこと、アジア全体のゼロエミッション化に向け、我が国がリーダーシップを発揮していく、との力強い決意を世界に発信してまいります。
また、この機会を活用し、イギリスのジョンソン首相やベトナムのチン首相と会談するなど、対面での首脳外交を進めてまいります。

事の始まりは、ここでした。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-4
◎「明治」改元・東京遷都
*1868.8.27/ 京都御所において、明治天皇即位の礼が行われる。
*1868.9.8/ 「明治」と改元され、一世一元の制が定められる。
*1868.9.20/ 明治天皇が、東幸のため京都を出発する。
*1868.7.17/ 江戸を「東京」と定める。
 この後、「明治」と改元され、明治天皇の東京行幸と言う形で、事実上の「東京遷都」が行われ、順次「明治時代」としての国体が整えられてゆくことになる。この改元で、旧暦慶応4年1月1日が旧暦明治元年1月1日(新暦1868年1月25日)とされた。したがって、旧暦慶応4年は実質的に存在しないことになったが、改元の9月以前は「慶応4年」と表示する。
 ただし、「明治」に改元されても新暦に「改暦」されたわけではなく、依然として旧暦が使用された。新暦(グレゴリオ暦)への改暦は、グレゴリオ暦の「1873年1月1日」を「明治6年1月1日」とする、という形で実行された。この日は旧暦の明治5年12月3日に相当し、旧暦明治5年は、この旧暦12月3日以降は無くなったことになる。
 余談だが、新政府が突然、新暦への改暦を断行したのは、実は官吏への俸給を月給制に移行したばかりで、その給料に充てる財源が逼迫したからとされる。この明治5年は、12月の次にさらに旧暦閏月のある年であり、12月3日で翌年1月1日となると、事実上2ヵ月分が無くなったことになる。つまり明治5年は、官吏への給料を2ヵ月分、節約することができたのである。
 そう考えると、給料をもらう側から苦情が出ないのが不思議だが、彼らに2ヵ月間給料の支払いが停止されたわけではない。旧暦明治5年12月分の給料が、新暦明治6年1月分として支払われることになっただけである。
 なお、この歴史ダイジェストでは、「明治6(1873)年1月1日」より前の改暦前の年号記述では、たとえ西暦数字で表記していても、月日は旧暦に従っている。したがって新暦の月日とは一ヵ月近くずれたりしている。

闘いの記録 (戦争と人間)

昭和17年(1942年) [日系人強制収容所]米国ワイオミング州、 彩色でなくカラーフィルム写真

2021-11-26
Facebook 手塚健二さん曰く、お盆を迎え盆踊りの着物の女性
昭和24年(1949年) 神奈川県三崎町 [正月 晴れ着の少女たち]
アメリカ人 駐留者の撮影

「被爆者・坪井直さんのメッセージ▽家族が語った最期の言葉

2021-11-15
クローズアップ現代+
長年、核兵器廃絶を訴えてきた坪井直さんが先月、96歳で亡くなった。爆心地から1.2キロで被爆。40日間生死をさまよい、目覚めたとき口にしたのは、アメリカへの憎しみだった。しかし、5年前、オバマ大統領が広島を訪れた際には、「我々は未来に行かにゃいけん」と前向きな言葉を語りかけた。憎しみをどう乗り越え、どんな未来を見ていたのか。NHKの独自映像と、家族や薫陶を受けた若者たちへの取材から、一人の被爆者が、未来に遺そうとしたメッセージを伝える。

91歳 「オバマと会った被爆者」が伝えた思い

2016年、坪井さん91歳のとき。アメリカのオバマ大統領(当時)が、現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪問。坪井さんは被爆者代表として、その場に参列しました。

原爆を投下した国・アメリカの大統領に、被爆者代表は何を語るのか。謝罪を求めるのか否か。世界中のメディアが注目する中、坪井さんはオバマ大統領の手を取り、笑みを浮かべながら語りました。


「被爆者の坪井直と申します。被爆者としては、そのこと(原爆投下)は人類の間違ったことの一つ。それを乗り越えて、我々は未来に行かにゃいけん。オバマさんがプラハで言った、『核兵器のない世界』、私たちも行きますよ」

核兵器廃絶へ「ネバーギブアップ」

原爆によって多くの命が失われてから、76年。坪井さんは自らも度重なる病で生死の境をさまよい、アメリカへの憎しみを抱えて生きてきました。それでも、憎しみを乗り越えて理性で「核兵器廃絶」を訴え続けました。そして貧血による不整脈のため、96歳で亡くなりました。

その功績は、世界で評価されています。

長崎です。

2021-11-14
『読売新聞』、2021.11.14朝刊

◎明治六年政変/征韓論政変

2021-11-13
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1873(m6)年】-3
◎明治六年政変/征韓論政変
*1873.10.23/ 明治天皇が、岩倉具視の奏上をいれて、西郷隆盛の朝鮮派遣中止を決定する。西郷は、参議・近衛都督を辞任する。これをうけて、副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の各参議も辞表提出。(明治六年政変/征韓論政変)
 「明治六年政変」(1873年)は、征韓論に端を発した一大政変であり「征韓論政変」とも言われる。征韓論の対立に関しては「岩倉使節団」(1871年)で触れたが、単純化すれば、征韓論を推進した西郷ら「留守政府派」に対して、帰還した大久保・木戸らの「使節団派」が中止させたということになる。
 ロシア・清の潜在的脅威をふまえて、防波堤として押さえておきたい朝鮮を従属させようという「征韓論」に対して、近代化を為し遂げた欧米を視察した使節団は、その前に国力を充実させるべきだと対立した、というのが教科書的な説明になるが、これだけでは何か腑に落ちないものが残る。
 西郷隆盛は必ずしも武力による征韓論ではなく、自らが全権大使となって訪韓するという「遣韓論」であって、直接派兵派の板垣退助、江藤新平らも最終的にこれに同意し、一旦は西郷の使節派遣に決まった。しかし、帰国した大久保利通らはこれに反対し、結局は岩倉具視に諮って覆してしまった。
 派遣中止決定会議の当日、西郷は参議を辞任、同調した板垣、後藤、江藤、副島の参議も翌24日に辞表を提出し、参議半数の5人が下野した。さらに、西郷に同調する薩摩出身者らを始め、政府高官・官吏、将校・軍人など約600名が辞職帰郷する事態に発展、まさに政府・官僚を真っ二つに割る大政変となった。
 この政変で下野し帰郷した要人らに率いられて、佐賀の乱(江藤新平)、萩の乱(前原一誠)、西南戦争(西郷隆盛)など一連の「不平士族の乱」が引き起こされることになり、それらが完全鎮圧され武力による反乱不可能となると、今度は言論による「自由民権運動」(板垣退助ら)へと、政府批判の運動が継がれていった。
 大久保利通の反対論には、表に出ない要因や感情的な反発などもあっただろうが、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が多数存在するという主張には一理があった。まずは内政を充実させることが優先し、その上で、清との琉球帰属問題、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正など、明治新政府が片付けていかねばならない国際問題は山積していたのである。
一方で、留守政府を仕切った西郷隆盛は、強兵で国力を高めることが第一と考えていたことは間違いない。その過程で、徴兵制が施行されたあとの旧藩士の処遇に頭を痛めていたことと考えられる。そのような士族の一種の失業対策として、朝鮮半島へ向けるという考えもあったのであろう。
 西郷は幕末・維新の節々で重要な役割を果たしたが、いったん事が落ち着くとすぐに身を引いたりしており、一貫して内政実務を遂行したという印象が薄い。軍政には長じていても、内政実務は苦手だったのではないだろうか。薩摩藩の藩政改革に携わるうちに、幕府は駄目だと見切るに至り倒幕に踏み切ったが、必ずしも、明瞭な近代国家像を思い描いていたわけではなかったと思われる。 
 そのため内政の判断においては「情」に流されることも多く、勝海舟との江戸無血開城談義は、むしろそれが良い方向に働いた例、一方で征韓論では、下級士族への情的配慮が先行したのではなかっただろうか。かくして下野して薩摩に戻ると、不平士族に取り巻かれて、やがて西南戦争へと引き込まれることとなった。
 征韓論問題とは、はたして時の政府を二分してしまうほどの緊喫な課題であったかどうか。その裏には、使節外遊派と留守政府派との対立が基調にあり、さらに旧藩閥間の勢力争いなどもうごめいていた。留守政府では、西郷のもとで、後藤象二郎・江藤新平・大木喬任が参議に新任され、薩摩に加えて佐賀、土佐出身者の重用が目立ちだした。
 それに対して長州派は、山縣有朋や井上馨が汚職問題に絡んで要職を辞任することになり、留守政府での立場を弱めていたため、外遊から帰国した伊藤博文たちは、大久保と西郷を対立させるなどの工作を行った。なかでも司法卿江藤新平は、疑獄に絡んだ山縣や井上を厳しく追及し、辞任に追い込んだ宿敵と見なされた。
 江藤新平は、いち早く三権分立(特に司法の自立)と議会制を基本とした君主国家を構想し、郡県制(廃藩置県)により中央集権を図り、封建的身分制度を排して四民平等を称えるなど、英仏を範とする法制度を中心にした法治国家を目指した。それゆえ、情実で利権を貪る薩長藩閥高官などには、厳しい方針で対したため、敵も多くかかえた。
 行政権を掌握して、プロイセン風の強権的近代化を推進する大久保利通とも、対立するようになっていたが、その時に征韓論問題が起こった。留守政府の一員として、征韓論には賛成派となったが、これは大久保、伊藤など反対派による、江藤追い落としの格好の材料となった。このように、「征韓論政変」の裏側では、さまざまな力学が働いていたと考えられる。
 江藤新平は下野すると、板垣・後藤らが主導した「民撰議院設立建白書」に署名したあと、佐賀に帰郷する。佐賀で不平士族らに担がれて、最初の大規模不平士族の反乱と言われる「佐賀の乱」を引き起こすも、大久保利通内務卿の手配のもと、政府軍部隊によって鎮圧され、捕縛された江藤は「梟首刑(晒し首)」とされた。
 江戸時代の刑罰で、当時の規定には無い「梟首刑」は大久保の指示で、反乱の見せしめとして、即断実行された。皮肉にも、江藤が目指した司法による公平な裁判でなく、旧制度のもとで極刑に処せられたのであった。
『明治六年政変』(毛利敏彦著/中公新書/1979)
(追補)
 征韓論政変は、外交問題での対立というより、岩倉使節団外遊中に、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助ら、肥前・土佐藩勢力が増して、一方、山縣有朋が汚職で追い落とされたり、内政重視派の大蔵大輔井上馨が孤立するなどで、勢力が下降した長州藩勢力第2世代の伊藤博文らが、江藤・板垣ら肥前・土佐勢追い落としに仕掛けた内政クーデターだと思われる。
 江藤・板垣らが下野して反政府勢力となるのは織り込み済みだったが、西郷までもが政府を去るのには、さすがの大久保利通も驚いただろう。西郷は、ごたごたした新政府の内政は苦手で、維新後の自分の役割は済んだとも認識していただろうし、引き際をうかがっていたので、この機会に降りることにしたのだろうと思われる。

「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)
織田信長と摂津国石山本願寺に拠る本願寺第 11世顕如との間で元亀1 (1570) 年から天正8 (80) 年までの 11年間にわたって続けられた合戦。室町時代中期以降,浄土真宗 (一向宗) 教団の伸張は著しく,一向一揆は,領主,守護大名などに対する戦いを広範囲に展開した。本願寺第 10世証如は,第8世蓮如の建立した石山道場を同宗の本寺とし,寺域を広げ,防備を固め,門前に新興商工業者を集め,やがて同寺は一大領主勢力に発展した。浅井,朝倉両氏を討って全国統一を目指す織田信長は元亀1年,本願寺打倒に立上がり,本願寺はその興廃をかけて全国門徒を対信長戦に駆りたてた。以来,天正8年3月,顕如が信長と和して本願寺を信長に渡し,同年4月,紀伊雑賀 (さいが) に退くまで合戦は続けられた。この間,信長は一向宗門徒を近江,長島,雑賀に討ち,浅井,朝倉両氏を滅ぼし,武田氏を長篠に討ち,さらに伊勢に北畠氏を滅ぼし,一方,中国征伐の軍を起すなど,本願寺を孤立させていった。石山本願寺の降伏は,信長の畿内および周辺に対する政権の確立を意味する(百科事典マイペディア「石山合戦」)。

闘いの転機(戦いの前と後)

北朝鮮、新型巡航ミサイルの発射「成功」 朝鮮中央通信

2021-09-14
北朝鮮が11日、12日に実施した新型長距離巡航ミサイルの発射実験(朝鮮通信)
2021年9月13日 7:04 (2021年9月13日 12:40更新)

【ソウル=恩地洋介】北朝鮮の朝鮮中央通信は13日、兵器の開発機関である「国防科学院」が11、12両日に新型長距離巡航ミサイルの発射実験に成功したと伝えた。ミサイルは上空に設定した「楕円および8の字形の軌道」に沿って2時間6分20秒間にわたり1500キロメートル飛行し、目標に命中したとしている。

北朝鮮のミサイル発射が確認されたのは約6カ月ぶり。今年3月21日に巡航ミサイル、25日に短距離弾道ミサイルをそれぞれ発射した。

「遂に一線越え?」韓国最高裁、三菱重工業の国内商標権・特許権の差し押さえを確定=韓国報道

2021-09-14
韓国最高裁、三菱重工業の国内商標権・特許権の差し押さえを確定(画像提供:wowkorea)
2021/09/13 20:07配信 Copyrights(C) Edaily wowkorea.jp 99最終更新:2021/09/13 21:46
「遂に一線越え?」韓国最高裁、三菱重工業の国内商標権・特許権の差し押さえを確定=韓国報道(WoW!Korea) - Yahoo!ニュース

韓国最高裁は日本統治時代の元徴用工・元朝鮮女子勤労挺身隊員らに対する賠償命令を履行していない日本の三菱重工業の差し押さえ命令の再抗告を棄却した。

最高裁第1部は10日、三菱重工業が元徴用工・元朝鮮女子勤労挺身隊員ヤン・グムドク氏などを相手に出していた韓国内の特許権および商標権の差し押さえ命令に対する再抗告を棄却したと、13日に明らかにした。

2018年に元徴用工とその遺族らは三菱重工業を相手に損害賠償を請求して勝訴が確定した。裁判所は被害者1人当たり1億~1億5000万ウォン(約940~1400万円)を支給するよう命令したが、三菱重工業はこれを履行しなかった。

しかし、元徴用工と遺族らはテジョン(大田)地裁を通じて三菱重工業が所有する韓国内商標権2種類と特許6件の差し押さえを申請し、裁判所がこれを認めた。三菱重工業はこれに反発して再び抗告したが、最高裁が最終棄却した。

この判決に対して日本側は遂に「実害発生」や「一線越え」と受け止めるのか注目される。

アーチャーフィッシュ:72,000トンの空母信濃を沈める

2021-09-13
東京湾での海上試験中に進行中の信濃

アーチャーフィッシュ(SS-311)はトキストイド魚にちなんで名付けられたバラオ級潜水艦でした。射手魚は、獲物をスタンするために水の高圧流れを撃つ熟練した捕食者です。第二次世界大戦中、その名前は太平洋の脅威でしたが、潜水艦は1944年に日本の空母信濃に何をしたかで最も注目に値します。

アーチャーフィッシュの物語は、彼女のキールがポーツマス海軍工廠で1943年1月22日に敷設されたときに始まりました。建設後、彼女は5月28日に打ち上げられ、洗礼を受けました。アーチャーフィッシュの打ち上げは、当時エレノア・ルーズベルト夫人の個人的な秘書だったマルビナ・C・トンプソン氏によって後援されました。

ジョージ・W・カール中尉は、1943年9月4日にポーツマスで就役した後、ボートの最初の指揮官となった。


アトゥとキスカのあまり知られていない戦い

2021-09-13
第二次世界大戦中に失われた唯一の米国の土壌を取り返す

942年にアラスカ近郊の寒さで荒涼とした北極で、日本軍は静かに侵略し、北米の土壌と考えられているアリューシャン諸島の2つを引き継ぎました。まず、6月6日、彼らはキスカ島の海軍気象台で9人のアメリカ人囚人を連れて行き、翌日、アトゥ島で45人のネイティブアリューツとオハイオ州からアメリカ人カップルを捕らえました。


考古学者によると、これらの2つの島は非常に遠く、不毛なので、Attuは、より最近のロシアの毛皮のトレーダーによる発見の前に、数百年で最大5000人の住民しか持っていませんでした。彼らが到着したときでさえ、1人の立ち往生したロシア人は、他の船が到着する前に7年待ち、彼は去ることができました。

第二次世界大戦が起こるたびに、島々はまばらに住んでいましたが、太平洋で日本人に対する恐怖の高まりは、悲しいことにアメリカの領土当局にネイティブのアリュートの住民をアラスカの強制収容所に移すよう促しました。880人のうち、75人が2年間の抑留中に感染症のためにキャンプで死亡した。悲しいことに、被害を受けたのは避難者だけではありませんでした。アメリカ合衆国は、島からすべての民間人を避難させなかった - 43ネイティブアリューツとアメリカのカップルはまだアトゥにいた。

途中:6分間の怒り

2021-09-14
ミッドウェイ海戦中の米海軍空母USSヨークタウン(CV-5)に搭乗したシーン、1942年6月4日に3つの日本の爆弾に襲われた直後

それは1942年6月4日の午前10時過ぎ、ミッドウェイ上空であり、航空グループの司令官C.ウェイドマクラスキージュニアは彼の手に厳しい決断を下しました。彼の急降下爆撃機のグループは、近くにあることが知られている日本の大規模な空母グループを探していましたが、すでに燃料が不足していましたが、敵がどこにいるかはまだわかりませんでした。

その後、太平洋の雲が一瞬離れ、マクルスキーは敵の駆逐艦が高速で走り去った後流を発見しました。それは嵐であり、マクルスキーはそれが日本艦隊に戻ると推定した。彼の危険な燃料状況にもかかわらず、彼は追いかけることに決めました。それは太平洋戦争全体の中で最も重要な決定だったのかもしれません。

4月18日の東京でのドーリットル空襲以来、真珠湾のアメリカの諜報機関ハイポは、日本人が彼らの防御境界をさらに東、北にアリューシャン列島、そして南にある地点に押しやることによってドゥーリトル攻撃に対応するつもりであるという明確な感覚を持っていた太平洋中部のどこか。その中点(傍受された日本の通信ではAFと呼ばれる)は、ハワイの西約1300マイルにある小さな環礁であるミッドウェイであると考えられていましたが、誰も確信していませんでした。

戦いの数ヶ月前のミッドウェー環礁。東の島(飛行場がある)が前景にあり、より大きな砂の島が西の背景にあります。

その後、5月下旬、太平洋艦隊司令官のチェスターニミッツ提督が巧妙な策略を行い、ミッドウェーのアメリカ軍基地が蒸発ユニットが故障したことを示すメッセージを送信しました。その後まもなく、新たに傍受された日本の通信は、AFの水分蒸発ユニットが壊れたと述べた。ビンゴ。

日本の計画は、ミッドウェーを脅かし、アメリカ艦隊に対応を強要し、接近した艦隊を待ち伏せして、アメリカ海軍を太平洋戦争から完全に追い出すことでした。同時攻撃は、アラスカ準州の一部であるアリューシャン列島のアッタ島とキスカ島に対して開始され、これはアメリカ領土への足がかりを得るためでした。それは野心的な計画でした。

真宗大谷派の取り組みについて

京都駅と東本願寺の間にあった丸物百貨店のビルのようです(現在の京都ヨドバシの場所)。

2021-07-05
昭和20~30年代にかけて発展し、東京をはじめ全国に進出していましたが、業績不振に陥り昭和50年代に「丸物」の名前は消滅しています
左に見えるのは、再び丸物百貨店。百貨店前の空き地は、空襲に備えて取り壊されたものだそう。
【動画】「Kyoto, General Views WWII Damage, 05/26/1946 - 05/28/1946」

京都の原爆投下計画の候補地(場所)は梅小路だった『NHKスペシャル』 - 京都のお墨付き!

2021-07-06

戦時中の遺構です。

2021-07-07
東本願寺新京別院旧跡
https://datyz.blog.ss-blog.jp/2014-06-25


https://www.recordchina.co.jp/b87806-s0-c30-d0046.html
2014年5月7日、満州国時代に吉林省長春市に建てられた旧・東本願寺新京別院が土地開発業者の違法建築によって破壊されたことが分かった。中国新聞社が伝えた。
旧満州です。
2021-07-07
長春第一の繁華街・重慶路。喧噪をよそに、路地に入って少し北に行くと、いかにも日本風の入母屋造の大屋根が目に入ってくる。旧・東本願寺新京別院の本堂だ。
この建物は、長春が「満洲国」の首都・新京と呼ばれていた1937年、真宗大谷派の満洲における布教拠点として竣工したが、満洲国滅亡・中華人民建国後は学校施設として使用されてきた。1985年に長春市の重要文化財に指定され、長春市第二実験中学の図書館・閲覧室として使われていたが、数年前に学校は移転し、建物の周囲で再開発が始まっている。

東本願寺(真宗大谷派)の中国大陸布教は1870年代に遡るが、その歩みは日清戦争後、日本国家の大陸への軍事的侵略に追随する形で進められた。日露戦争の結果、遼寧省南端の関東州(旅順・大連を含む)の租借権と長春・大連間の鉄道(後の南満洲鉄道=満鉄)権益をロシアから譲り受けると、日本仏教諸宗派は日本の勢力範囲に次々と拠点を置いて布教活動を行った。真宗大谷派も1919年、長春の満鉄附属地(日本が行政・軍事・警察・外交・司法権を行使)に布教拠点を設立している。
1931年9月18日、日本の関東軍の謀略で満洲事変が勃発すると、真宗大谷派(東本願寺)本山は早くもその翌日から軍への慰問行動を開始し、宗務総長は翌月、「国家の大方針を体認」し「国論の統一」に努めるよう諭達を発した。関東軍の武力によって満洲国が建国された1932年、日本政府の満洲移民政策に呼応する形で真宗大谷派は拓事講習所を開設し、開拓移民を精神面で支えることを目指した。

こうした日本仏教の大陸布教は、独善的な日本仏教優位論に立って進められることも少なくなかった。例えば真宗大谷派のある布教使は、中国の仏教は「非常に低級」で「迷信が多く行はれてゐる」のに対して「日本に於ける仏教は、斯かる迷信を一掃した所の近代的人間生活に適応した高級な仏教」だと自画自賛している(「教育と宗教との提携(一)」『真宗』340号、1930年2月)。また日中戦争勃発後、大谷大学日曜学校研究会では、満洲事変に関する次のような教案素材が用いられることがあった。「あの満洲の大平野には、忠勇義烈なる陛下の赤子十万人が我が日本の生命線の礎となり、人柱となつて永久に埋れ居ます。…満洲大平野には、到る処に日の丸の旗が立てられ、土民達は情け深い日本軍のもとへ続々と集まつて来ました。…さうして事変が起つてから半年も経たぬ内に、新しく満洲国といふ国が誕生しました。…私たちは今すぐ銃を取つて戦場に立つことは出来ませんが、一心に勉強をし、銃後の護りは私達の手でしつかり握り合ひ、国家に対し御奉公申し上げる事を固く誓ひませう」(『真宗』457号、1939年9月)。
「貿易は国旗の後に付き従う」(trade follows the flag)というのが帝国主義の合言葉だとすれば、十五年戦争中の日本仏教の大陸布教はまさに、「仏法は国旗の後に付き従う」を実践したものだったと言えるだろう。日の丸に従属しながら満洲国全土に広まったように見えた日本仏教が、日本敗戦と満洲国崩壊後、あっという間に東北大平原から駆逐されたのも、必然の成り行きだった。東本願寺新京別院の旧跡は、かつて日本仏教が犯した罪業を今に伝えている。

1934年には大谷光暢法主夫妻が満洲と華北を巡回し、満洲国皇帝溥儀に謁見、また満洲各地の布教所を視察して軍を慰問した。さらに同法主らは日中戦争勃発後の1938年1月から二か月にわたり、満洲各地および華北・華中における軍隊慰問のため、第二回の大陸巡教を行い、帰国後は日本全国で報告会が開催された。こうした大谷派の大陸巡教については、法主の妻(裏方)の大谷智子(裕仁〔昭和天皇〕の妻良子〔香淳皇后〕の妹)がその著作『光華抄』(実業之日本社、1940年)において、この「皇軍慰問の旅」の内容を詳しく述べ、「軍国の母を想ふ」「銃後婦人の覚悟」「戦歿勇士の遺族に」「長期建設の心構へ」などの小見出しで文を綴っている。
日本仏教の大陸布教は、1915年の「対華二十一か条の要求」の第五号において、中国での「日本人の布教権」を日本政府が要求したように、日本の軍事的大陸侵略と密接な関係がある。二十一か条要求の「布教権」は日本側が取り下げたので、中国における日本仏教の布教はしばらくの間、日本の植民地である関東州や満鉄附属地の居留日本人を主な対象としていた。が、満洲事変および満洲国成立後は、満洲国内の中国人への布教が積極的に試みられ、大谷派の満洲拓事講習所でも布教を目的とする中国語の学習が行われるようになった。
さらに日中戦争勃発後の1938年8月、文部省宗教局長は「支那布教に関する基本方針」の通牒を発し、「布教師をして住民の宣撫に当らしめ対支文化工作に寄与せしむること」が目的とされたことで、日本仏教の大陸布教は日本軍の特務機関の下請としての宣伝工作という意義を担うことになった。真宗大谷派は同年9月、東本願寺経営の「北京覚生女子中学校」を設立、また日本の傀儡となった汪兆銘〔精衛〕政権下の南京には「南京本願寺」や「金陵女子技芸学院」を設けるなど、日本軍特務機関との協力で戦時下の宣撫活動を積極的に担っていった。
なお敗戦後50年目の1995年、真宗大谷派の宗議会・参議会議員一同は、過去に宗門が犯した過ちを懺悔し、次の「不戦決議」を採択した。

私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、佛法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。

この懺悔の思念を旨として、私たちは、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに 「不戦の誓い」を表明するものであります。

さらに私たちは、かつて安穏なる世を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされ、宗門からさえ見捨てられた人々に対し、心からなる許しを乞うとともに、今日世界各地において不戦平和への願いに促されて、その実現に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。

私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。 右、決議いたします。

          1995年6月13日
          真宗大谷派 宗議会議員一同
          1995年6月15日
          真宗大谷派 参議会議員一同

また真宗大谷派東本願寺は、昨年開催された「第13回非戦・平和展」の際、宗務総長の署名で次のように述べている。

私たちの宗門は、明治期以降、宗祖親鸞聖人の仰せになきことを仰せとして語り、戦争に協力してきました。侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに、多くの青年たちを戦場へと送り出しました。そして遺族のみならず、アジア諸国、とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。さらに、非戦を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされた僧侶たちを見捨ててきました。

これらに対する懺悔の思念を旨として、宗門は1995年に「賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまない」(「不戦決議」)という誓いを表明しました。
http://www.higashihonganji.or.jp/release_move/others/pdf/2013_peace_show.pdf

過去に犯した行為に対する真宗大谷派のこうした真摯な反省には、敬意を表したい。最近の安倍政権が目指す軍事大国化への傾向、例えば秘密保護法制定や集団的自衛権の行使容認への動きに対して、真宗大谷派が批判的見解を公式に表明しているのも、過去に日本帝国の戦争に協力した教団の歴史に対する反省に立つものといえる。

集団的自衛権の行使容認に反対する決議(真宗大谷派宗議会、2014年6月10日)
内閣総理大臣への「「特定秘密保護法案」の廃案に関する要望書」提出について(真宗大谷派宗務総長、2013年11月27日)

ところで中華人民共和国成立後、長らく学校施設として使われてきた旧東本願寺新京別院の建物は、長春市の重要文化財に指定されている。近年学校は移転し、付近では再開発が始まっているが、開発業者が無断でこの建物の一部を破壊していることが今年5月、新聞報道で伝えられた。近くに住む劉さんは次のように語る。「この建物は日本人が長春に建てたものですが、これは文化財です。一時期の歴史を代表するものです。なぜやすやすと壊してしまったのか」。長春市当局は開発業者に命じて工事を停止させ、現在調査中だという。

戦時中の遺構です。

2021-07-07
東本願寺大連別院です。
今は、図書館として利用されているとか・・・。

政局について

総括いたします。

2021-11-08
Facebook 伊吹文明さん曰く
総選挙が終り、自公政権継続の民意が定まりました。
後継者である勝目やすし君が京都一区で無事当選し、肩の荷がおりました。
彼に伝えたことは、「当選者一人の小選挙区選出議員は、自分に投票頂いた有権者だけでなく、他に投票した有権者の主権も代表していることを忘れないように」ということです。
従って異なる意見にも耳を傾ける姿勢、しかし最後は自分の価値観、自民党公認という筋を通す姿勢が大切になります。
勝目君が謙虚に研鑽を積み、多くの人に支持され、人間として、政治家として大成してくれることを願っています。
 私も自民党所属代議士の立場を離れ、今後は一国民・ひとりの有権者として意見を述べたいと思います。
とはいえ、私の政治理念や価値観が変るものでもなく、政策や政局、社会事象への評価は従来と大きく違わないので、異なる立場、価値観でのご意見もご遠慮なくお寄せ下さい。
 さて総選挙の総括です。
自民党は選挙前の予測をくつがえし、議席数は減ったものの単独過半数を大きく上回り、自公合計の議席数は絶対過半数(衆議院の各委員会の委員長を自公で独占しても、なお各委員会の過半数を制する)を超えました。
一方立憲民主党は、選挙前の議席数大幅増の予測に反し、選挙前議席を10以上減らしました。
自民・立憲とも選挙前議席を減らした分、維新は大阪を中心に小選挙区を制し、他都府県でも比例票を大幅に伸ばし、選挙前から30議席増の第三党に躍り出ました。
 この背景を自民、立憲両党は検証し、党勢を立てなおさないと、来年の参議院選挙は両党にとって厳しいものとなるでしょう。
議席大幅減の予測をくつがえした自民党に勝利感は希薄です。
勝った小選挙区の多くで前回の得票率を下回り、甘利幹事長、石原元幹事長、現元大臣等が小選挙区で苦杯を嘗める等手放しで喜べる状況ではありません。
これまでのコロナ対策を私は評価していますが、その良さの説明がうまくなく、国民の不満やいらだちを抑えられなかった印象です。
森友案件や政治とカネについても、国民への誠実な説明姿勢が問われたようです。
聞く力」に加え、「説明する力」、「実行する力」が期待されます。
 立憲民主党は、共産党に選挙協力に引き込まれたのが失敗だったと思います。安全保障や経済成長戦略、天皇制等、共産党綱領や主張は非現実的と国民は見ています。
選挙の票の数合せを狙ったのが逆に、自公政権には不満でも、理念の違う共産党と選挙協力する立憲民主党にも投票したくないとの民意を生み、政権批判の受皿として維新の伸張を許したと思います。
日本政治の為、立憲民主党が健全なリベラル政党としての成長することを願っています。

茂木新幹事長のあだ名は「モテキング」、政官とも恐れる王様起用3つの理由

2021-11-06
© ダイヤモンド・オンライン 提供 自民党幹事長への就任の記者会見をする茂木敏充氏(11月4日) Photo:JIJI
小倉健一 2021/11/06 06:00

自民党幹事長に茂木敏充前外相が就いた。
トランプ前大統領に「タフネゴシエーター」と言わせしめた高い実務能力を持つ一方で、「とにかく怒りっぽい」と毀誉褒貶が激しい。
永田町・霞が関では期待と不安が交錯するが、岸田文雄首相の茂木氏起用には、三つの深謀遠慮が透けて見える。(イトモス研究所所長 小倉健一)

攻めてるつもりでしたが・・・。

2021-11-01
『読売新聞』の朝刊、2021.11.1です。

NHK 選挙WEB

2021-10-19

甘利幹事長が小選挙区敗北で辞任へ

2021-11-01
自民党本部の開票センターで、当確者の名前にバラを付ける総裁の岸田首相(右)と小選挙区で敗北した甘利幹事長(中央)。甘利氏は幹事長を辞任する意向を党幹部に伝えた
31日午後9時56分、東京・永田町
11/1(月) 0:05配信 「安倍」「小石河連合」の”逆襲”が始まる

岸田文雄首相(自民党総裁)は11月1日未明、政権の要である甘利明幹事長が小選挙区敗北により辞意を固めたことを受け、今後の政権運営への懸念を強めた。甘利氏の後任が焦点となるが、政権への打撃は必至だ。自民、公明両党は1日に党首会談を開き、連立政権の継続を確認。新型コロナウイルス対応や、格差是正を含む経済対策の裏付けとなる2021年度補正予算案の編成に取り組む。立憲民主党など野党は来年夏の参院選をにらみ、甘利氏敗北は「政治とカネ」問題が主要因とみて、追及を強める。

 首相は党本部で、甘利氏の進退を巡り「本人の話を聞いた上で、私が判断する」と語った。

闘いすんで 陽が暮れて・・・

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

勝新太郎さんと田宮二郎さんというより、「悪名」の二人・・・。

2021-11-22
Facebook 石山 裕子さん曰く、勝さんお若いです。田宮さんカッコいいです。

ジョニーという生き方

2021-11-25
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

日曜日も 終わりそうね

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。
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